日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧乾家住宅(旧乾新兵衛邸)阪神間モダニズム邸宅の傑作

明治維新後、日本の産業の近代化が進み、人々の暮らしは大きく変化して行きました。

 

特に当時の大阪は、東京をはるかにしのぐ経済の町として独自に発展していました。


江戸時代から、伝統的な上方文化(京都・大阪を中心とした文化)を大切にしながら、商いの町として、ますます産業を発展させ、当時から西日本最大の都市として経済活動の拠点となっています。

 

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大阪造幣局:1871(明治4)年に開業

 

また、隣接する神戸は、江戸時代からいち早く開港した神戸港を有し、神戸外国人居留地を持つことから、西洋との貿易を中心とした独自の文化が発展していきます。


当時は東洋における最も整備された美しい居留地とされ、合理的な都市計画に基づいて開発された地でした。

 

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明治初期の神戸外国居留地

 

このような特徴のある二つの都市の狭間に、新しいライフスタイルが築きあげられた地域があるとしたら、興味が沸いてきませんか?

 

それが、『阪神間モダニズム文化』です。

 

伝統と革新、日本と西洋が生み出す文化の発展は、探求心をくすぐり、日本の近代化の縮図のような気さえしてくるのです。

 

今回は、阪神間モダニズム邸宅の傑作と言われる、『旧乾家住宅(旧乾新兵衛邸)』をご紹介します。

 

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ここで指す「阪神間」とは、神戸市北部の六甲山や、西宮市、芦屋市、そして神戸市東部までを含めた地域のことです。

 

残念ながら大都市では、開発が進んだ代わりに、繊維工業や産業都市に人々は集まり、公害も目立つようになってきます。

 

大阪でも、発展の代償として人口の急増加や大気汚染、水質汚染、騒音といった深刻な公害が発生しはじめていました。


同時、大阪を動かしていた財閥や富裕層にとっては、商売には適しているが、住むには不自由を感じていたことでしょう。


そこで、自然豊かで西洋文化にあふれた隣接する神戸方面の地域は、理想の地としてうってつけだったのです。

 

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明治29年ごろの大阪市


だからといって、すぐに阪神が栄えたわけではありません。


なぜなら、「大阪」や「神戸」といった都市(点)は生活環境が整っていますが、それぞれを繋ぐ「阪神間」には何も無く不便と言わざるを得なかったのです。

 

そこで、都市開発に重要な役割を果たすことになるのが、交通網の整備です。

 

アメリカ合衆国発祥とする「インターアーバン(都市間電気鉄道)」の都市と都市を結ぶ電気鉄道に習い、路線の建設が次々と着工されていきました。

 

このインターアーバンとして、日本で最も古い会社が実は「阪神電気鉄道株式会社」通称「阪神電鉄」なのです。

 

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阪神電気鉄道株 社紋

 

まず、1874(明治7)年、官営鉄道(現・JR)が大阪駅ー神戸駅間(現・JR神戸線)を開通させます。


官営鉄道も営業用鉄道の開業を始めたばかり、1872(明治5)年に品川駅ー横浜駅(現・桜木町駅)で仮営業を始め、同年に新橋駅(現・廃止)-横浜駅を正式開業した、次の鉄道事業が、この大阪駅ー神戸駅間でした。


これにより、二つの都市が70分で結ばれたといいます。

 

これに続いて、阪神鉄道により、1905(明治38)年、大阪(出入橋)ー神戸(三宮)(現・阪神本線)が開通しました。


実は、阪神電鉄にとって初めての営業開始が、この鉄道になるのです。

 

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阪神電鉄1号車(旧I型)

 

それに続き、箕面有馬電気軌道(後の、阪神急行電気鉄道)が1910(明治43)年、梅田駅ー宝塚、石橋ー箕面の運行を開始しました。

 

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箕面有馬電気軌道:開業時の梅田駅1910(明治43)年3月10日

 

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初期の箕面有馬電気軌道


大正時代には阪神急行電気鉄道は、紆余曲折ありながらも、神戸線を運行させ、山手沿いの人口過疎地域を直線的に結ぶ、阪神間としては最も山よりを運行するようになります。

 

これは、高速運転を優先させたもので、開業時は各駅停車でありながらも、梅田駅ー神戸駅間を50分と阪神鉄道より、12分も早く運転を行いました。

 

この地域にこれだけの鉄道会社が進出し、主要な駅を結ぶ交通インフラが整備されたことで、人々の住環境への注目は一気に熱を帯びました。

 

そして、それに応えるように、阪神・阪急電鉄の両者が競うように沿線開発を進め、未開拓な地は、富裕層にとって快適な郊外の住宅地として、こぞって個性溢れる豪邸が建てられはじめます。

 

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旧ハンター住宅:1889(明治22)年竣工

 

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旧山邑家住宅:1924(大正13)年竣工 フランク・ロイド・ライト設計


まずは、美しい澄んだ水と緑を求めて、六甲山に別荘地が建てられ始め、次第に芦屋のような高級住宅地が形成されはじめたのです。


富豪が集まれば、さらに自分達の生活が豊かで快適になるように、さらなるインフラ整備や富の象徴である余暇を楽しむ施設が充実していきます。


球場・遊園地・美術館、ホテルなどから、地域住民のための病院や跡継ぎやリーダーを育てるための学校建設など、伝統を重んじながらも「西洋文化を取り入れた新しい生活を楽しむ」新しい独自のライフスタイルを取り入れ、育むようになります。


この、小さな地域、阪神間で、当時日本の最先端のライフスタイルと流行を持って発展し、生み出され、育てられた、芸術・文化・建築・生活のすべてが『阪神間モダニズム文化』と呼ばれるのです。

 

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関西学院上ケ原キャンパス:ウイリアム・メレル・ヴォーリズ設計より設計された複数の施設

 

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神戸学院大学岡田山キャンパス:ウイリアム・メレル・ヴォーリズ設計より設計された複数の施設

 

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村上華岳:日本画家

 

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郵便切手:村山華岳が1920(大正9)年に発表した『裸婦図』は近代美術シリーズの切手に採用されたこともあります。(1998年発行)

 

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小磯良平:洋画家 『自画像』1926年

 

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谷崎純一郎:文学者

 

細雪:谷崎の代表作 阪神間モダニズム時代の阪神間の生活文化を描いた作品とも知られています。

 

その象徴として、六甲山に日本で最初のゴルフ場ができ、兵庫県芦で日本初のファッション誌が創刊され、衣料品バイヤーがこぞって流行を見に来ると言われました。

 

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神戸ゴルフ倶楽部:1901(明治34)年 イギリス人貿易商アーサー・ヘスケス・グルームによって六甲山上に作られた日本最古のゴルフ場。
日本人妻の名義で12万6000坪の荒地を借り、手作業で4ホールのゴルフ場を作りました。2年後には9ホールが完成し「神戸ゴルフ倶楽部」が誕生しました。


『阪神間モダニズム』と呼ばれる期間は、そんなに長くはありません。


1900年前後から1940年頃(明治末期から昭和15年頃)のごく短い期間です。


しかし、私鉄の壮絶な開発争いと、人々の西洋への憧れ、富豪を多く生み出せた経済発展によって一気に花開きました。


最初の20年は大阪で成功した一握りの資産家や財閥の人々が形成し、残り20年は次世代の各界のリーダー予備軍がモダニズムをけん引していきます。


大阪に集まった知的生産(ホワイトカラー)を仕事とする、新しい働き手も、新しい住居の場所、新しいライフスタイルとして阪神間に飛び付きました。


高台の住宅地から「山と海が一望できる」という眺望の良さと交通の便利さは、一つのブラントとして確立し、大ブームを引き起こします。


先に住んでいた資産家たちが、有能で若い家族たちが住むための借家を建てたり、鉄道会社が彼らのために住宅地開発を行い借家や新興住宅地として次なる進化を始めたのです。


鉄道会社は娯楽施設やリゾート開発など、住宅地以外にも魅力ある施設を建設し、暮らしに「楽しさ」を見出し、人々の心を捉えていきます。

 

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甲子園球場:1924(大正13)年開場当時 当初の名称は「甲子園大運動場」でしたが、後に「甲子園球場」となりました。日本で最初の大規模多目的野球場です。

 

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甲子園ホテル

 

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甲子園ホテル

1930(昭和5)年にホテルとして開業しますが、太平洋戦争の激化により14年で閉鎖し、1965(昭和40)年より武庫川女子大学の学舎として利用されています。フランク・ロイド・ライトの愛弟子・遠藤新の設計。

 

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宝塚大劇場:1924(大正13)年開業 座席数3,500席


資産家の新しいライフスタイルに憧れる若者たちにとって、この生活は目標であり、仕事への活力が生まれます。


そして、核家族が生まれ、自然に地域がひとつの共同代として形作られ、現代に通じる庶民の生活の礎を築きだしたのです。


庶民といっても、やはり次世代を担う若手です。


もちろん成功し、新築でその地に自邸を持つことが何よりの願いであったに違いありません。


そして、昭和に入っても、実業家にとって憧れの地には変わりありませんでした。

 

現在でも関西圏では住みたい街として、兵庫県西宮市や芦屋市などが憧れの邸宅地として人気があり、特に芦屋は高額納税者が多い街として有名です。

 

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1936(昭和11)年、六甲山の麓の海に囲まれた自然豊かな閑静な高級住宅街に、後に阪神間モダニズムの象徴と言われる邸宅が建ちます。


それが、今回ご紹介する東灘区住吉山手にある「旧乾家住宅(旧乾新兵衛邸)」です。

 

乾家は代々酒造業を営んできた明治期に活躍した日本の実業家です。


乾家の当主は代々・新兵衛を襲名していますが、この地に旧乾家住宅を建てた施主は、4代目新兵衛こと乾新治です。


1888(明治12)年に乾家の長男として生まれ、乾財閥の後継者として裕福な環境で育っています。

 

乾家で一番有名なのは、新治の父・三代目新兵衛(鹿蔵)でしょう。


鹿蔵はもともと、乾財閥の前身であった神戸の乾商店(酒造業)に12歳で奉公した人物です。


1862(文久2)年、摂津国八部群北野村(現・神戸市生田区)に生まれ、小商人であった前田甚兵衛の三男として生まれました。


一時は乾商店を出て、米や金貸し業など奉公先を転々としたようですが、10年後にはまた乾商店に戻ってきました。


乾商店の主人夫婦には子供がおらず、夫婦養子をとっていましたが、跡取りにと考えていた養子の息子(夫)のほうが急死してしまったために、養女としていた未亡人のヨソの婿の後釜にと、当時なりふりかまわず一生懸命に働いていた鹿蔵に白羽の矢が立ちました。


その後、義父の新兵衛が病死したため、鹿蔵が三代目新兵衛を襲名します。

 

実は、もともと普段から世間づきあいが悪く、ケチとして有名な人物だったために、先代の死により多額の財産と事業を一手に引き継いだ三代目を妬みやっかむものも多かったといいます。


しかしながら、その商才には目を見張るものがありました。


日露戦争がきっかけで神戸では、新しい海運業が花開く時でした。


神戸港へ出入りする外国船舶や貨物が一気に増大したのです。


その情勢を見逃さず、これを商機ととらえ醸造業から海運業へと転換を図ったのです。


実は、このような船舶の増加は、神戸に限らず横浜や大阪でも見られましたが、大きく異なるのは、神戸港ではこの時期に名だたる土着海運企業が出現し、発達したことです。


単に、船舶が出入りする港ではなく、船主である海運企業が神戸港を主として定着し、より推進し大きくなっていったことに意味があります。


まさにこの時期に、川崎造船所が飛躍し、三井造船舶部が門司から神戸へ事務所を移し、さらに三菱神戸造船所が出来ています。

 

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創業まもない神戸三菱造船所:1905(明治38)年、8月8日創業

 

川崎造船所と三菱神戸造船所ですが、造船業界が受注に苦しんだ際に、特にダメージを受けていた川崎造船を三菱が合併統合する話しも出たようです。

 

しかし、当時の三菱三代目社長・岩崎久彌がガンとして受け付けなかったと言います。


以前、旧岩崎久弥邸をブログで取り上げています。


ぜひ足をお運び下さい。

 

三菱第三代社長、久彌の豪邸「旧岩崎久彌邸」 - 日本のすばらしい建築物

 

その後、岩崎の見通しの通り造船業界は回復し盛り上がりを見せ、やがて造船ブームが起こり、両社はその後、技術を競い合いながら工場規模を一層を膨らましていくことになるのです。

 

この大規模な造船会社が続々と神戸港に根付いていた時期に、三代目新兵衛(当時42歳)は船舶業に進出していきます。


ケチな男が、新しい事業のために最初に購入した船は、船齢22年というボロボロの舶来中古船でした。


しかし、これが兵庫県出身の社外船主として初めて名乗りをあげた船でした。


その後に購入した船も、どれもがイギリスの中古船で、その支払いはすべて現金、そしてどの保有船にも保険をかけなかったというのですから、その徹底ぶりには驚かされます。


しかし、これほどの堅実で合理主義な海運経営があるでしょうか。


こうして、1908(明治41)年、乾合名会社を設立し、外航海運業を開始し神戸海運五人男と称されるまでになります。

 

<神戸海運五人男たち>

 

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山下亀三郎:「三大船成金」の一人

 

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内田信也:「三大船成金」の一人

 

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勝田銀次郎:「三大船成金」の一人


さらに、1925(大正14)年には「関東土地株式会社」を創立し、土地の売買、賃貸借及び金銭の貸付業務も開始ししています。


現在、この倉庫業は今でも残り、乾汽船の外航海運事業・不動産事業と並び、倉庫事業としてイヌイ倉庫が残っています。

 

この三代目新兵衛が築き上げた乾財閥を引き継いだのが、四代目新兵衛(新治)と言うわけです。

 

新治は裕福なお坊ちゃんとして幼少から育ち、苦労してきた父親とは真逆の青年として育ちました。

 

4代目として行ったことは、乾合名会社を改組し、1933年に乾汽船株式会社を設立していることでしょう。

 

彼は新しい流行をいち早く取り入れ、ハイカラ、モダンと称され、多趣味で近代的教養人であり、社交性に富む人物でした。

 

特に、趣味の中でも、ゴルフを愛し、仕事以外の人脈も豊富で、その一人に建築家の渡辺節がいたことは、運命的であったと言えるでしょう。

 

建築家・渡辺節は、1884(明治17)年、東京麹町平河町で生まれ、その日が明治天皇の誕生日(明治節)であったことから「節」と名付けられました。


父は相馬藩士で後に陸軍少佐となる渡辺祺十郎です。


渡辺は、父親の勤務の都合で、青森県弘前で小中学校を過ごし、1904(明治37)年には仙台の第二高等学校を卒業後、東京帝国大学工科大学建築学科に進みました。


卒業後は、韓国政府度支部建築所技師として韓国に一時住んでおり、釜山や仁川の税関庁舎を手掛けています。

 

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渡辺節

 

なぜ、渡辺が韓国を選んだのかについては、建築家・妻木頼黄の計らいによるものだったのではないかと言われています。


妻木は韓国度支部の工事顧問を委託されていた経験もあり、渡辺を気に入っていた上に、部下の面倒見が良かった性分を考えればその可能性は大いにあるでしょう。


ちなみに、渡辺が結婚した時の媒酌人も妻木でした。

 

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妻木頼黄

明治建築界の巨匠として知られ、大蔵省などで数多くの官庁建築を手掛けています。また、明治時代の官庁営繕組織を確立した人物です。

 

渡辺は、1912(明治45)年、日本にもどり鉄道院西部鉄道管理局に入ります。


そこでは、大阪駅の改修工事に携わっていましたが、明治天皇の崩御により大正天皇の御大典を京都で行うことに合わせて、京都駅の新築という名誉ある大仕事が若き28歳の渡辺にまわってきたのです。


当時の鉄道院は人材不足により適任者がいなかったことも、大抜擢された理由でした。


当時、東京駅が辰野金吾の設計で建築されており、1914(大正3)年12月に完成したばかりでした。

 

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東京駅:辰野金吾・設計

 

渡辺の設計は、鉄道員内部で多くの反対を受け、工期が遅れることとなります。


東京駅の辰野の設計では、通例の通り、駅舎の中央に皇室専用の出入口を設け、一般客その左右から入場するように設計していました。

 

しかし、渡辺の京都駅は中心を烏丸通の正面に置き、一般向けの乗降客の出入り口を中心にし、皇室用部屋を西側に、そしてその間に高い塔を設けるというものだったのです。


何度も検討会議が行われましたが、渡辺は主張を貫き通し、ついに実現に漕ぎつきました。

 

当時の大手新聞で絶賛される程の出来栄えでしたが、宮内省での評価は低く、ここは自分の居場所ではないと独立を決意させることへとつながりました。

 

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2代目京都駅

 

この京都駅は2代目でしたが、残念なことに焼失してしまします。

 

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2代目京都駅火災:1950(昭和25)年11月18日 出火原因は前日午後9時に更衣室でアイロンがけを終えた女性従業員が電源を切らずに帰宅し放置され続け、火災が発見されたのが翌朝4時40分頃、屋内消火栓で初期消火を試みるも、ホースが届かず全焼しました。(京都市消防局HPより)

 

そのため3代目の設計を担当したのが佐野正一でしたが、挨拶に来た佐野に渡辺は、
「君、京都駅をやったら三年後に(国鉄を)やめることになるぞ」
「おれがそうだった。京都駅が出来たら全部済んだような気になるぞ」
と言ったエピソードが残っています。

 

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3代目京都駅


1916(大正5)年についに独立を果たし、大阪に設計事務所を開設しました。


丁度その頃の大阪は第一次世界大戦後の復興時期で、経済の黄金期と言える時期でした。


そのため、起業するには絶好のタイミングです。


1920(大正9年)~1921(大正10年)には欧米を視察し、合理的なアメリカ流のオフィスビルを得意として設計を進めていくようになります。


渡辺は、本来の様式建築に和を巧みに融合させ独特の世界観を持ち、繊細で華麗な設計者として名声が高い建築家と言われています。

 

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神戸海洋気象台:1920(大正9)年竣工

 

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旧大阪商船神戸支店:1922(大正11)年竣工

 

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大阪ビルディング本店:1925(大正14)年竣工 現存しません。

 

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綿業会館:1931(昭和6)年

 

また、事務所スタッフとして村野藤吾とう優秀な人物がいたことも大きかったようです。


村野は後に独立、渡辺から当時のモダニズム建築の多くを吸収し、90歳を超えてもなお創作意欲は衰えず多くの作品を残し続け、1984(昭和59)年の亡くなる前日まで仕事をにしていたそうです。

 

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村野藤吾

 

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宇部市渡辺翁記念会館:1937(昭和12)年竣工 2005(平成17)年に国の重要文化財に認定されています。

 

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世界平和記念聖堂:2006(平成18)年に国の重要文化財に指定されています。

 

渡辺は、戦時下には福井県へ疎開を余儀なくしますが、1946(昭和21)年、大阪で再度事務所を開き復帰します。


そして、大阪府建築士会の初代会長として、関西の建設界の発展に尽力しました。

 

晩年は住吉の自邸で秋になると菊花展を開いていたと言いますが、1967(昭和42)年、82歳でこの世を去りました。

 

渡辺が乾の自邸を設計する流れになったのは、渡辺節と新治は年も近く、また住まいも近かったこともあり、親交が深かったためです。


乾は、設計・建築を渡辺に依頼することになるのですが、渡辺が個人の住宅を設計するのは珍しく、ほとんど現存していないためとても貴重な住宅建築物と言えます。

 

乾家は4代目新兵衛(新治)の後を継いだ5代目新兵衛(豊彦)が死去した後、この邸宅は相続税として国に物納されてしまいます。


そのため貴重な邸宅の先行きが不安視されていましたが、神戸市が約15億円で買い取ると言う話が出ます。


乾家の歴史的建造物をこれからどのように活用していくべきか、提案されていた最中、1995(平成7)年に発生した阪神・淡路大震災に見舞われるのです。


この震災で、和館が全壊してしまいます。


そのため、震災による財政の悪化で購入協議は中断するのですが、地道な保存運動が続けられ、2009(平成21)年に主屋・ガレージ・土蔵・塀が神戸市指定文化財に指定され、神戸市の所有となり、不定期ですが一般公開されるようになりました。

 

それでは、旧乾家住宅(旧乾新兵衛邸)を見ていきましょう。

 

1936(昭和11)年、敷地面積1,200坪、延床260坪に大邸宅が建設されました。


洋館は鉄筋コンクリート造2階建て(一部木造)で、L字型となっていて、外壁は装飾されたような複雑な石組となっています。

 

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外観:正面

 

外観は、左右非対称で、1階、2階ともに円柱の大きな柱が使われており、それがアクセントとなっています。

 

特に、建物正面の車寄せから玄関までのアプローチはとても見事な意匠で評価が高く、多く人々を魅了しています。


大きな柱や円柱が車寄せを支えていますが、その内側のアーチ状の天井には竹が編まれたようにみえるようにタイルが交互にびっしりと貼り付けられている手の込んだ美しさです。

 

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車寄せ

 

また、アーチ状の天井の一部には、採光のために、直径10cmほどの丸い穴が複数相手おり、一つのアートのようです。

 

外壁は貴重な黄竜山石が使用され、その様子はエキゾチックな雰囲気を漂わせています。

 

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車寄せ:天井の採光

 

南側には洋風庭園に向かってテラスがあり、大きな煙突と中央の張り出しが印象的です。


南側も左右非対称であり、右・左・中央と全く異なる表情を見せてくれる外観は、このサイズの大きさの豪邸には珍しく感じます。


南側向かって、左の1階は吹き抜けとなっているため、バルコニーのある部分の部屋は3階のサンルームとなっています。


外観からみると、一見して3階には見えません。

 

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外観:南側

 

それでは、室内を見ていきましょう。

 

邸内には合計約20もの部屋がありますが、そのうちぜひご覧頂きたい部屋をご紹介します。

 

まず玄関で目を引くのは、繊細な模様のアイアンワークが施された玄関扉です。


より、エキゾチックな雰囲気にいざないます。


こういったアイアンワークは室内の至るところに取り入れられており、どこも繊細で立体的です。

 

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玄関扉

 

玄関ホールでは、とても重厚な階段が目に入ります。


大きく焦げ茶色の光沢ある彫刻は重厚感があり、親柱ばかりでなく手摺部分にも丁寧に細部に至るまで彫刻が施されています。

 

まさに、豪邸にふさわしい、優美さと豪華さが感じられるホールです。

 

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1階:玄関(階段)ホール

 

1階ではゲストルームも必ず見て頂きたい場所の一つです。


イギリスのジャコビアン様式のスタイルが取り入れられていると言われており、ステンドグラスと大きな吹き抜けの空間、繊細でゴージャスな白いシャンデリア、天井までつながるほどの大きなマントルピース(暖炉)、繊細な手摺を持つ室内階段など何もかもが印象的で素晴らしい美しさを持ちます。


天井はシンプルで真っ白で、美しい装飾が周りをぐるりと囲んでおり、それがより引き立つ意匠となっています。


壁は濃い茶色に塗装された高い腰板壁をもち、空気全体が重厚で落ち着きをもった趣きです。

 

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1階:ゲストルーム

 

暖炉に掲げられた絵は、当主と親交があった、画家・小磯良平のものです。

 

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1階:ゲストルームのマントルピース(暖炉)

繊細な彫刻が施され、大変重厚感がある暖炉。小磯氏の絵が飾られています。

 

食堂は、部屋が南側の園庭に張り出した形になっており、全体から考えると小さめな印象です。


天井は漆喰でレリーフが施され、面白い形のガラスのシャンデリアが特徴的。


食堂には植物の模様が施された壁紙で壁全体が覆われています。

 

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1階:食堂

 

1階には和室もあり、夫人室として使われていました。


和室と洋室との間には、それぞれ扉が洋間用の2枚の引き戸と和室用に4枚の襖に見えるように工夫されています。


洋室に、突然和室が現れる違和感をなくすためにも、次の間を設けており、広縁(幅の広い縁側)につながっています。


とても心遣いのある丁寧でしっかりした設計です。

 

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1階:和室

 

2階は主人がプライベートで使っていたため、寝室、浴室、夫人の衣裳部屋があります。


食堂の上部が主人寝室のためあまり広くはありませんが、3面に窓があり明るい光が差し込みます。

 

寝室には壁に作り付けの金庫があります。

 

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2階:主人室

 

2階の夫人衣裳部屋は、洋館であっても夫人の御召し物が着物であったためか、和室となっており、壁一面が作り付けの箪笥となっています。

 

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2階:夫人衣裳部屋

 

3階サンルームは3方に大きな窓があり、神戸の海が一望できる、素晴らしく眺めの良い部屋です。


床は寄木になっており、大変手の込んだ仕事が施されています。

 

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3階:サンルーム

 

どの部屋にも、細部にわたる装飾が施され、手の込んだ徹底した室内で、建設に惜しげもなく費やされた費用や時間を考えると、渡辺の情熱がつまった素晴らしい邸宅と言えます。

 

残念ながら、施主である新治は完成した5年後には、狭心症の発作によりこの世を去ってしまいました。

 

 

 

実は、このような阪神間モダニズムを象徴とする建築の多くが、現在、危機的状況にあるのをご存じでしょうか?

 

それは、老朽化により耐震性に問題が生じており、旧乾家住宅のように阪神・淡路大震災で和館が全壊してしまったようなことが起こりうる状況にあるということなのです。

 

この理由により、西宮回生病院が解体、六甲山ホテル旧館が閉鎖、宝塚ホテル本館が取り壊し決定となり、歴史的に大変貴重な建築物が続々と姿を消そうとしています。

 

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西宮回生病院:映画「火垂るの墓」にそのままの姿で登場する病院ですが、阪神大震災にて一部改修され、その後2015(平成27)年7月解体。

 

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西宮回生病院:阪神大震災前の病院玄関


こうした背景の一つには、年々厳しくなる耐震基準にあり、近年、災害が頻発しているために国内での安全意識の高まりにあります。

 

仕方ないことですが、明治時代の建物は、老朽化が進み、当時の安全基準こそ守って建てられていますが、現在の基準に合わせろというのも無理な話です。

 

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六甲山ホテル旧館:山岳リゾートホテルのパイオニアとして、用いられた建築技法は他県の山岳ホテルに多く手本とされています。2015(平成27)年12月閉鎖。

 

実際、このような歴史的建造物の耐震工事を行うには、数億円から10億円以上かかると言われており、価値を認めつつも、膨大な維持費を考えると安易に取り壊しを選んでしまうのは、やむを得ないことでしょう。

 

国が定める耐震化と、老朽化したとはいえ歴史的価値が高い建物を保存していくことのバランスをどうやってとっていくのかが、早急に日本人に求められているのだと思います。