20世紀初頭、建物は機能性を重視したデザインが増加していく中で、自然に調和した家造り(有機的建築)を志した建築家がいました。
それが、20世紀最大の建築家と呼ばれたフランク・ロイド・ライトです。
そして彼は日本に滞在した際、多くの日本の建築家に大きなインパクトを与え「ライト派」を生み出していきました。
その一人が、建築家・遠藤新です。
前回は、阪神間モダニズムと『旧乾家住宅』をご紹介しましたが、その際にも触れた近藤新が設計した『旧甲子園ホテル(武庫川女子大学甲子園会館』をご紹介します。
甲子園ホテルは1930(昭和5)年、阪神間モダニズムの真っ只中で建設されました。
鉄道会社が阪神間の交通インフラの整備にやっきになり、阪神・阪急電鉄の両者が沿線開発を競うように進めていた時代です。
その場所に快適で豊かな便利さだけでなく、「楽しみ」を与える魅力ある地にするため、娯楽施設が次々と開発されていきます。
その一つが1924(大正13)年に創立された甲子園球場です。
この年は、甲子の年であったために、甲子園大運動場と名付けられ、その後に周辺一帯の地名が甲子園と呼ばれるようになりました。
当時の甲子園大運動場
それから2年後に、甲子園ホテルが建設されたと言うわけです。
この建物は、「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と並び称された建物で、どちらもライトの存在が大きくかかわっている建物です。
フランク・ロイド・ライトは「近代建築の三大巨匠」と呼ばれています。
建築家・近藤新に触れるには、ライトをご紹介せざるを得ません。
近藤はそれほどまでに、ライトの影響を受けたライト派の天才なのです。
フランク・ロイド・ライト
フランク・ロイド・ライトは、アメリカ合衆国の中西部の最北に位置するウィスコンシン州で、牧師の父ウィリアムと学校教師であった母アンナの子として生まれました。
アンナは教育熱心で、ライトが幼いころから様々な知育遊具を用いてライトの感性を広げ、将来建築家に育てようと頑張っていたようです。
この時の幼児教育は決して無駄ではなく、ライトにとって三角・四角・円は彼の建築に大きな影響を与える基礎となります。
1885(明治18)年ウィスコンシン大学マディソン校の土木科へ進学しますが、建築家を夢見て1887(明治20)年に大学を中退し、シカゴへ移り住みます。
そして、叔父の紹介で建築家のジョセフ・ライマン・シルスビーの事務所で働き始めますが1年ほどで辞め、アドラー=サリヴァン事務所へ移ることになります。
そこで、ライトは才能を見込まれ、ルイス・サリヴァンという生涯の師と出会うのです。
ルイス・サリヴァン
サリヴァンを愛する師匠として6年間にわたりその事務所で指導を受けながら、様々な住宅の設計を任されました。
しかし、ライトは贅沢品を好んだり華やかな生活を好むことと、子だくさんであったため、同事務所での設計業務とは別にアルバイトで住宅設計をしていたことが、サリヴァンの知ることとなり、師匠の下を去らなければならなくなります。
そして、1893(明治26)年、アドラー=サリヴァン事務所から独立しました。
独立して最初の仕事はウィンズロー邸です。
ウィンズロー邸:1893(明治26)年竣工
水平を強調した、シンプルながら優雅な設計で、シンメトリーなデザインとなっています。
単純な形ではありますが、とてもバランスのとれた端正な姿で100年以上前に完成した建物にもかかわらず古びた印象にならず、現代でも好まれる姿はさすがと言えるでしょう。
後に、続くライトの代表作のハートレー邸やロビー邸にも見られるプレイリースタイル(草原様式)が、ライトの建築様式の代名詞となりました。
ハートレー邸:1902(明治35)年竣工
プレイリースタイル(草原様式)とは、自然環境と一体かし、地を這うような低い安定したデザイン(有機的建築)。
そして、深い庇を持ち、屋根のラインを低く水平に協調し、柱や壁の位置関係を従来の概念(四角の箱というイメージ)を忘れ自由に配置することで、開放的な空間を構築したものです。
部屋同士を完全に区切らず、一つの空間として考えて、緩やかに配置しているところなど、今の住宅にも十分応用されている手法をライトは生み出しています。
これは、ヨーロッパの建築様式を模倣していた当時のアメリカにおいて、広いアメリカ郊外に適した新しいデザインは、まさにアメリカを代表とする建築様式として高い評価を受けることになります。
ロビー邸:1906(明治39)年
そして、この素晴らしい評価により、1904(明治37)年のとある出来事が起こるまで、ライトの黄金時代を迎えることになるのです。
とある出来事とは何だと思われますか?
それは、まるでオペラの戯曲のような運命がライトを待ち受けていたのです。
そのきっかけは1904(明治37)年に設計を担当したチェニー邸にありました。
施主の妻であったママー・チェニーとライトは運命的な恋に落ちるのです。
しかし、ライトには苦楽を共にしてきた妻・キャサリンと二人の間に生まれた6人の子どもがいました。
この不倫は、一大スキャンダルへと発展し、ライトの名声は地に落ちてしまいます。
キャサリンとの結婚は1889(明治22)年と言いますから、アドラー=サリヴァン事務所で働き始めたばかりの頃でしょう。
ライトはキャサリンに離婚を切り出しますが、もちろん妻は応じませんでした。
6人も子どもがいるのですから、妻が納得できるはずはありません。
すでにチェニー夫人と恋仲となっていたライトは、ついに1909(明治42)年42歳の時に事務所を閉じ、家庭や当時の地位を捨て、ヨーロッパへと駆け落ちしていまうのです。
ママー・チェニー
ヨーロッパへ滞在中は、全く建築家として設計の仕事はしていなかったようですが、自身の作品集への編集や監修に関わっていたようです。
この作品集は後に、彼の国際的な評価を位置づけるものとなった本ですから、決して無駄な休みでは無かったでしょう。
そして、2年後の1911(明治44)年にアメリカに帰ってきました。
まだ愛の逃避行から2年しか経っていないのですから、帰国した当時は、不倫のスキャンダルにより名声は地に落ちて、設計依頼は激減していました。
そして、再度、妻へ離婚をもう出ますが、やはり応じてもらえません。
仕方なく、ライトの母親であるアンナから譲り受けたウィスコンシン州スプリング・グリーンに、愛人と愛人の連れ子の2人の子どもと住むために、『タリアセン』の設計を始めました。
この『タリアセン』ですが、建物の単なる名前ではなく、ライトの理想とする仕組みといえるものです。
『タリアセン』は単に愛人と住む家というのでも、設計事務所というものでもなく、設計工房であり、弟子たちと共に共同生活を送るための、建築群を指します。
共同生活を営みながら、建築教育を行い、『タリアセン』を増築していったというのです。(後に「タリアセン・ウェスト」がアリゾナ州にも出来ることになります)
その頃から、少しずつ仕事が増え始め、徐々に平穏な幸せが手に入り始めたのもつかの間、ついに最大の悲劇が訪れます。
1914(大正3)年8月15日、タリアセンで使用人として雇っていた黒人の下男・ジュリアン・カールトンが精神に異常をきたし、ダイニングルームのドアに施錠をした上、ガソリンを撒いて火を放ったのです。
さらに、逃げようと慌てる人々に、斧を振り回し7人を惨殺しました。
被害者は、チェニーと2人の子ども(チェニーの連れ子)、ライトの弟子たち(建築監督・設計士・造園家)などで、他かの数人は、一命を取り留めました。
そのとき、ライトはというと、シカゴで現場に出ており、幸い難を逃れましたが、寝耳に水で、精神的ショックは相当なもので、再び激しいスキャンダルに巻き込まれます。
逮捕されたカールトンは、犯行動機を語りませんでしたが、事件の2カ月前に雇い入れられていたことはわかっています。
そして、7週間後に獄中で餓死したというのですから、自ら食事をとらなかったとすれば、死を覚悟しての犯行であったと言えます。
この事件は、今でも謎に包まれたままです。
「ライト仮面の生涯」学芸出版社 著:ブレンダル・ギル 翻訳:塚口真佐子
そして、ライトがスキャンダルや事件に見舞われ、建築家としてどん底を味わっていた時に、運命的な依頼が飛び込んできます。
それが、なんと『日本の帝国ホテル新館』の設計でした。
これは、ライトがアメリカ市場最も偉大な建築家となる、大きなきっかけを生み出した、まさに天才のすべてが垣間見える作品と言えるほど、気合いの入ったものになりました。
実はライトと日本の関わりにとって大切な要素が「浮世絵」です。
1893(明治26)年のシカゴ万博で日本館として「鳳凰殿」が建てられました。
すべての材料を日本から持ち込み、日本人の職人によって建てられたものです。
サリヴァン事務所も万博の交通館を設計していたこともあり、ライトは鳳凰堂に心奪われ、工事の段階から、完成後も足しげく鳳凰殿を訪れていたといいます。
「鳳凰殿」は、宇治の平等院鳳凰堂を模しており、その際に浮世絵に出会ったのです。
シカゴ万博 鳳凰殿
それからは浮世絵を大量に集め始め、鑑定が出来るまでになったと言うのですから、その熱中ぶりに驚きです。
当時はヨーロッパで火がついていた日本ブームの延長でしたが、アメリカに早々に浮世絵を持ち込んだのはライトと言われています。
それから幾度かの生活に困窮することがあった際には、大切にしていたコレクションの一部を売りに出して、生計の糧にしていたというエピソードまで残っています。
なぜ、帝国ホテル新館をライトに依頼することになったのか?ですが、ライトを呼び寄せたのは、当時のホテル支配人・林愛作でした。
林 愛作
もともと、ライトと林は、古美術商として働いていた時に浮世絵を通じて親交がありました。
浮世絵収集家として名が知られていたライトと林が知り合ったのは当たり前だったのかもしれません。
古美術商と言っても、山中商会という日本の美術商社です。
明治以降、ニューヨーク・ボストン・シカゴ・ロンドンなどに支店があり、日本美術品を輸出していました。
ニューヨークの山中商会に勤務している際に、後藤新平と出会い、帝国ホテルの支配人に後藤により抜擢されたと言われています。
ライトとは、アメリカで出会ってからの縁でした。
山中商会:高麗橋一丁目にあった山中商会本社
後藤新平
元々は医師でした。台湾総督府民政長官も務め、満州鉄道初代総裁や日本は大臣を歴任しています。
ボーイスカウト日本連盟初代総長や、東京放送局(現・日本放送協会)初代総裁や拓殖大学第3代学長など、日本を代表する官僚・政治家として明治から昭和初期にかけて幅広い分野で活躍したことで有名です。
その林が帝国ホテルの支配人になったことで支配人の裁量を利用して、身心共に弱っていたライトを励まし、闘志に火をつけるチャンスを与えたかったのかもしれません。
そして、帝国ホテル設計のライトの片腕として遠藤を引き合わせたのも林でした。
遠藤が東京帝国大学を卒業してわずか2年半後のことだったというのですから、遠藤が心酔していくのも容易に想像がつきます。
それだけ、ライトの滞在は日本のみならず世界にインパクトを与えたものだったのです。
ライト派という言葉まで誕生し、多くの建築の作風に影響を与えました。
その正統派として受け継いだライト派の日本人が遠藤新というわけです。
帝国ホテル
上空からみた帝国ホテル:移築前
ライトは帝国ホテルの建設に使用する石材から調度品に使う材木の選定に至るまで徹底にこだわり、世界で初めて全館にスチーム暖房を採用した上、耐震防火に配慮した設計という、とても最先端で力の入ったものでした。
当時の日本には「スクラッチタイル」や「テラコッタ」などの技術や施設がなかったため、450万個の煉瓦を作るために、わざわざ「帝国ホテル煉瓦製作所」を設立したほどです。
しかし、そのおかげで1923(大正12)年の、新館(通称・ライト館)の落成式の準備中に関東大震災に見舞われ、周辺の多くの建物が倒壊した中、ほとんど無傷だったことからライトの耐震技術(中を鉄筋コンクリートにしたこと)と、職人の一つ一つの丁寧な煉瓦制作によるものとして高い評価を得たのは言うまでもありません。
帝国ホテル移築後現在
ちなみに、もともと、土管工場を営んでいた伊奈初之烝と長三郎親子が、帝国ホテル煉瓦製作所の技術顧問を務めていましたが、帝国ホテル竣工後に、役目を終えた従業員や設備等を譲り受けて1924(大正13)年に「伊奈製陶株式会社」を創業しました。
これが、後の株式会社INAXで、現在の株式会社LIXILと言うわけです。
INAX世界のタイル博物館・資料館に展示されている当時の帝国ホテルの柱
この帝国ホテルですが、実はライトは完成まで携われませんでした。
こだわりが強すぎて、大幅な予算オーバーを引き起こし、当初予算150万円が6倍の900万に膨れ上がり、ついにはライトを呼び寄せた林が引責辞任することになったのです。
ライトは帰国を余儀なくされます。
この帰国の前に、ライトが日本で残した建物を以前ご紹介しています。
それが自由学園明日館です。
自由学園明日館
自由学園の創立者、羽仁吉一ともと子夫妻の教育理念に賛同し、ほとんど無償で設計を行いました。(その後は、遠藤新が建設を引き継いでいます)
ぜひ、ご覧頂けたらと思います。
自由学園明日館(ジャーナリストが作った理想の女学校) - 日本のすばらしい建築物
また、帝国ホテルには、最初に幻の設計図を描いたという建築家・下田菊太郎とライトのエピソードがあります。
下田菊太郎が設計した旧香港上海銀行長崎支店のブログにて触れてありますので、ぜひ足をお運び下さい。
ライトは、帰国後、カウフマン邸(落水荘)と、ジョンソンワックス社という、2つの代表作を発表し、70歳代で再び建築界の表舞台に返り咲きます。
世界一有名な住宅と呼ばれる「落水荘」で、一躍時の人となり、日本建築と浮世絵に影響を受けた独自も作風が世界の人々の心をわしづかみにしたのです。
カウフマン邸:1936(昭和11)年竣工
浮世絵:葛飾北斎 諸国瀧廻り 木曽海道小野ノ瀑布 のイメージを元に設計したと言う説があります。
ライトは自然との融合をめざした設計をし続け、1959(昭和34)年、91歳で亡くなる直前まで続けられました。
プライベートでは、キャサリンと離婚することができ、1924(大正13)年ミリアム・ノエルと結婚、翌年には別居し、さらに人妻と不倫関係になったり、その妻と1927(昭和2)年離婚すると、翌年にはオルギヴァンナと最後の結婚をします。
まさに、波乱万丈です。
また、タリアセンに建築学校を設立し、現在もフランク・ロイド・ライト財団によって運営され、多くの素晴らしい建築家を育て続けています。
日本からライトが去ったその後ですが・・・
帝国ホテル新館を引き継いで、1923(大正12)年に完成へと導いたのが、ライトの愛弟子・遠藤新でした。
今回ご紹介する『甲子園ホテル』にも、帝国ホテル新館の建設をめぐって登場してきた、主要人物が関わっています。
それが林愛作・ライト・遠藤新の3人です。
『甲子園ホテル』はまさに「西の帝国ホテル」と呼ばれており、設計はライトに多く影響を受けた近藤が行い、施工は大林組によるものでした。
近藤新は、1889(明治22)年に福島県宇多郡(現・相馬郡新地町)に生まれました。
相馬中学校、第二高等学校を経て1914(大正3)年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業しています。
遠藤新
東京帝国大学教授・伊東忠太の勧めにより読売新聞に1915(大正4)年1月「東京停車場と感想」という論評を投稿し掲載されています。
東京駅の設計を手掛け方のは、建築界の大御所である辰野金吾です。
その内容は、駅という都市機能にとって大切なものであるにも関わらず、丸の内の銀座の往来を断ち切り、皇室容出入口を中央に設け、乗車口と降車口を別にするなど効率が悪いもであることなど、都市計画としての問題点などを酷評しています。
ただこのエピソードには人間関係の面白さが垣間見えます。
そもそも伊東忠太(帝国(東京)大学工学部教授)の、直接の大学の指導者である恩師が辰野です。
辰野は伊東を高く評価してはいますが、伊東は辰野の授業をつまらなく感じていて授業の様子を「受講日記」として漫画風に描いて面白がっていました。
しかし、辰野は伊東が40歳の時に発表した木造は石造に進化するという「建築進化論」哲学的な思想を発表し、多くの批判を生み異端と評されますが、金吾は伊東が発表した論文のこれらを絶賛したと言います。
異端と言われた伊東と、真面目でジョサイヤ・コンドルの後継者として直接建築教育を受けた第一世代の辰野は、面白おかしくも素晴らしい師弟関係であり、互いに才能を認めあった上で評価批判をきちんと伝えあえる仲であったのではないでしょうか。
そのため、伊東の生徒である近藤が指摘した恩師(辰野)の東京駅の問題点を読売新聞に投稿させたのは単なる批評ではない、伊東から辰野への思いも込められていると言えます。
辰野金吾
伊東忠太
以前ブログにて、伊東忠太と築地本願寺を取り上げています。
伊東の論文の一つ「法隆寺建築論」にも少し触れていますので、ぜひお立ち寄り下さい。
辰野は若い遠藤から批評をうけ、それが新聞に掲載されているのですから、それに反発したり、辰野がすでに作り上げてきた業界からの圧力で、遠藤を潰すことも出来たに違いありませんがそんなことはありませんでした。
そればかりか、伊東が審査員長を務めた明治神宮宝物殿の競技設計に遠藤が応募し、3等1席に入選しさ際に、辰野が「遠藤さんを何故一等にしなかったのか?」と伊東に申し出をしているほど、遠藤の若き才能を認め高く評価していたことが伺えます。
ちなみに、この競技設計で1位・2位をとったのは、宮内省内匠寮の技手たちです。
これは偶然ではないと言われています。
匠寮はこれまでに多くの重要な和風建築を手がけており、その実績が含まれての評価であったためです。
1位は、当時の金額で3,000円と大変な金額でした。遠藤は3棟なので500円を得ています。
明治神宮宝物殿
遠藤は、平等で無差別的な人物であり、正しい事やありのままの自然を基本と考え、親しみのある人柄であったと言います。
この人柄をもってして、建築家としてのセンスがあり、素晴らしい天才たちに愛されているのですから、おのずと遠藤の才能は開花していくこととなります。
恩師に恵まれた遠藤ですが、実は娘さんの話によると、大学を卒業した後にライトの事務所へ行く決心をしていたようです。
そのため、ライトが帝国ホテル新館を設計することで来日したことに対し、ライトから日本に来てくれたのでとても喜んだという話があります。
実際に、1917(大正6)年には渡米し、タリアセンでライトの右腕としてホテルの図面の仕事に従事し、当時の著名な建築家の事務所を訪問するなど様々な経験をして帰国しています。
写真左から、ジョン・ロイド・ライト(ライトの長男)、遠藤新、フランク・ロイド・ライト、林愛作(帝国ホテル総支配人)
遠藤はライトに心酔しており、服装や立ち振る舞いに至るまで、ライトに近づけようしてしていたようです。
そして、ライトの分身が設計したような作品を生み出していきます。
その代表的な作品が、今回ご紹介する『旧甲子園ホテル(現・武庫川女子大学甲子園会館』です。
ライトの作品より、ライト的とも言われいることも「西の帝国ホテル」と言われる由縁でしょう。
遠藤によって生み出された造形モチーフは幾何学的で美しいく、それは内部にもおよびます。
それでは建物を見ていきましょう。
1930(昭和5)年に甲子園ホテルとして、関西屈指のリゾートホテルとして武庫川沿いに開業しました。
遠藤により、ライトの意匠が繁栄した建物は、日本には数少ないライト式建築の一つです。
西洋ホテルと日本の宿屋のサービスを合体させたもので、林愛作の理想を形にするべく、林が近藤に設計を依頼したものです。
武庫川から分かれた枝川を埋め立てた土地を阪神電鉄が買い、その場所に建設されました。
当時は、甲子園球場のあたりも緑がたくさんあり、自然豊かな場所でしたが、阪神電鉄により大博覧会や宅地販売により現代の姿へと変貌していったのです。
ホテル自体は、皇室や官僚をはじめ、迎賓館としての役目を果たしていたため海外の要人が宿泊していました。
西の最高級ホテルとして運営されていましたが、太平洋戦争の激化により、1944(昭和19)年に国に接収され海軍病院となったためホテルとして営業したのは、わずか14年ほどの期間でした。
終戦後、アメリカ進駐軍の高級将校用宿舎として利用され、1957(昭和32)年大蔵省の管理下に置かれました。
その後、1965(昭和40)年に武庫川学院の所有になり、現在は大規模改修に伴い、学校の一部として利用されています。
外観:正面
甲子園ホテル中央棟と左右のウイング棟を持った建物で、左右それぞれにホールと客室を持ちます。
また南側には広い池泉式庭園を持つ、四季を楽しめる作りです。
建物はシンメトリーで、独特な塔がとにかく印象的です。
垂直に立っている2本の塔は、暖炉の為のもので、階段のような水平の庇がデザインされています。
外壁ですが、ほぼ全体が石のボーダータイルとテラコッタに覆われています。
よく旧帝国ホテルと比較されますが、外壁に用いられた石は旧帝国ホテルと同じ大谷石ではなく、関西の石が使われており、大谷石より耐久性があるため今も姿を綺麗に留めているのです。
外壁:オリジナルデザインのタイルとボーダータイル
建物は左右に翼を広げた形で、その左右には屋根が4ずつかかっています。中央棟の部分には屋根はなく、低く水平を強調した意匠で、なんともライトの意匠を受け継いだ遠藤らしいものです。
屋根の部分は京都産の織部色の瓦葺となっており、頂点には棟飾りが見られます。昔はここに電気がついていたそうです。
和風というより洋式建築に和を散りばめた、モダンでオリエンタルでエキゾチックな印象を与えます。
展示資料の模型より
棟飾り
外壁ですが、レリーフやテラコッタを貼った部分は鱗のように見えます。
キャンティレバーの庇が随所にみられ、なんとも不思議な建物とそれに似合う空間を作り出しています。
また、雨水の排水のことをしっかりと考えられており、メンテナンスもなくに行えるよう計算されています。
<キャンティレバーとは>
片持ち梁と言われるもので、梁の一方の端が固定されて、他の端は固定されていない構造物のことです。
例えるなら、水泳プールにある飛び込み板が代表的な形だと言われています。
庇と思い浮かべると、建物から小さな屋根の一部が少し出ている印象を持ちますが、甲子園ホテルのキャンティレバーの庇は、水平の長方形の岩板が、建物と水平に突き出ている意匠です。
それにより、幾何学的で未来的なイメージを私たちに与えてくれます。
南側外観:キャンティレバーの庇や屋根のない姿は異国のようです。
南側外観:よくアルマジロとも表現されています。花崗岩のレリーフで折り重なる滴のようです。
南側外観:レリーフや彫刻、タイルがふんだんに使用されています。
室内ですが、間接照明や石をふんだんと取り入れた重厚感のある意匠となっています。
特にご紹介したいお部屋を一部ご案内します。
まずは、西ウイング棟にあるバンケットホールです。
このホールで圧巻なのは、ホール壁面上部の彫刻です。
天井回りにビッシリと張り巡らされたモチーフは水滴をイメージしており、それが何重にも重なり厚みを持たせることで生まれた立体感は圧倒的な迫力があります。
また、幾何学的な組み合わせや独特の世界観が日本人の発想とは驚きです。
そして、天井は、和紙を張った格子の高低で市松模様が表現されており、平坦ではなく凹凸により複雑かつ立体的な圧を感じさせてくれます。
正面の壁も、テラコッタを巧みに向きを変えて張っており、職人の技術と、和でもなく洋でもない世界を生み出しています。
バンケットホール
バンケットホールに釣り下がるモチーフ
バンケット:天井
レセプションルームにある暖炉も必見です。
水滴をイメージしたモチーフがとても繊細な美術品としての価値も高い暖炉です。
実際に火が入ったら、どれほど美しい姿だったでしょうか。
暖炉:シンプルですが、石を滑らかな彫刻により美術品のような暖炉です。
東ウイング棟にあるホールの壁面装飾も美しいものです。
建物の随所にみられるシェル型照明と、壁面上部に描かれた大胆で独特なラインが面白い空間を演出しています。
東ホール:貝殻場のガラスのシェードが丸くふっくらとしたシャンデリアを演出しています。
武庫川女子大学HPより
シェル照明アップ
また、山本五十六がトランプ遊びをした部屋が残されていたり、ホールでは山田耕筰がオーケストラを指揮したというエピソードがあったりと、歴史に思いを馳せることができます。
山田耕筰
山田耕筰が卒業した『旧東京音楽学校奏楽堂』を以前ご紹介しています。
ぜひご覧ください。
ところで、実際にこの建物を訪れると階段や曲がり道が多いことに気付くことでしょう。
それは、あえて段差や迷路を作り、そのたびに違う景色を見せるようにあえて工夫されているためです。
西洋にはない考え方ですが、日本人が日本に住んでいて感じる山や谷のような自然を足で歩くことで楽しむように、自分の足で館内を散策しないと味わえない発見や景色をワクワクしたり、少しドキドキしながら進むようにホテル内に具体化しているのです。
また、ホテルの象徴として随所に「打出の小槌」がデザインされています。
それを探しながら散策するのはとても楽しいものです。
意外なところに、隠されており、多く発見することができます。
甲子園ホテルは、ライトの幾何学紋様を豊富に取り入れ何ともエキゾチックで雄大な建物です。
さらに、日本人としての近藤のセンスが光り、日本独自の「打出の小槌」や「市松格子」を取り入れた多彩で個性的な建築物は歴史的価値が高い一品と言えるでしょう。
現在は、耐震工事も終わり、学校の一部として使用されています。
見学には事前予約が必要ですが、一瞬、どこの国にいるのか迷いそうな、独特の世界観をどうぞその目で体感してみて頂けたらと思います。