大正期の建築は、特に意匠の上において、明治期までの様相と異なる新しい風が感じられる建築が多いです。
そのうちの1つが山口県政資料館(山口県 旧県庁舎および旧県会議事堂)です。
旧県庁舎
旧県会議事堂
隣り合わせに並び立つ旧県庁舎と旧県会議事堂が竣工したのは、1916(大正5)年のことでした。
建物は後期ルネッサンス様式を基調とし、細部意匠に日本及び東洋の手法を取り入れた独創的なデザインが見られ、大正時代を代表する洋風建築です。
構造はレンガ構造で、外部はモルタルで上塗りされています。
総工費は397,048円でした。
この2つの建物は、1984(昭和59)年に国の重要文化財に指定されました。
設計は、当時国会議事堂の建設準備を進めていた大蔵省臨時建築部で妻木頼黄(つまき よりなか)の教えを受けた、武田五一と大熊喜邦(おおくま よしくに)が行いました。
妻木頼黄
妻木頼黄は、青山幸道の子であり妻木氏を継いだ幕臣旗本の妻木源三郎頼功の長男として、1859(安政6)年に江戸で生まれました。
幼名は久之丞でした。
父の頼功は、1862(文久2)年に長崎表立合御用として赴任しましたが、その直後に現地で没した為、久之丞は3歳で12代当主となりました。
1876年(明治9)年、妻木は家屋敷を売却し渡米しましたが、日本で学ぶよう諭され帰国します。
そして1878(明治11)年、工部大学校造家学科(のちの東大建築学科)に入学し、ジョサイア・コンドルに学びます。
妻木は辰野金吾の後輩に当たります。
ジョサイア・コンドル
辰野金吾
1882(明治15)年、工部大学校造家学科を中途退学した妻木は、またもアメリカに留学します。
そしてこの時は、コーネル大学で学士号を取得しています。
帰国後は東京府に勤務し、1886(明治19)年、議院(国会議事堂)建設のための組織である(内閣)臨時建築局に勤めました。
そして官庁集中計画の一環で、議院の研究のため渡辺譲や河合浩蔵、職人らとともにドイツに留学しました。
しかし、議院建築は木造の仮建築で建てられることになり、本建築の建設は見送られてしまいました。
その後妻木は、大蔵省で港湾、税関、煙草・塩専売などの施設建設に当たっていました。
1894(明治27)年の日清戦争の際、大本営の置かれた広島に臨時議院(広島臨時仮議事堂)を建設することが決まると、短期日で完成させ、この功績で叙勲を受けています。
また、奈良の東大寺大仏殿修復にも関わったり、1901(明治34)年に欧米を視察、同年工学博士号を取得したりと、とてもアクティブに動き回るタイプの建築家であったようです。
日露戦争後、桂内閣のもとで再び議院建築の機運が盛り上がりましたが、辰野金吾らは公開コンペ開催を要求し、議院の設計を進めていた妻木らを批判しました。
桂内閣
桂内閣が大正政変のため倒れた後、議院建築の計画も延期となり、妻木は官職を辞任しました。
そして病気がちになり、1916(大正5)年、ちょうど山口県政資料館が竣工した年に亡くなりました。
彼の残した作品としては、旧丸三麦酒醸造工場(現・半田赤レンガ建物)や旧日本勧業銀行本店(現・千葉トヨペット)などがあります。
半田赤レンガ建物
千葉トヨペット
そんな妻木の教えを受け山口県政資料館を設計したのが、大蔵省臨時建築部で妻木の下僚であった武田五一と大熊喜邦です。
武田五一は、備後福山藩(現・広島県福山市)出身です。
「関西建築界の父」とも言われる日本の建築家でもあります。
武田五一
以前「1928ビル(旧大阪毎日新聞京都支局)」について書きましたが、その建物を作ったのが武田五一です。
1928ビル
彼はヨーロッパ留学で影響を受けたアール・ヌーボー、セセッションなど、新しいデザインを日本に紹介した建築家とも言われています。
そして建築以外にも、工芸や図案・テキスタイルデザインなども手掛けています。
自身の作品のみならず、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科や京都帝国大学(現・京都大学)に工学部建築学科を創立し、向井寛三郎など多くの後進の育成にも力を入れていました。
京都工芸繊維大学
また、神戸高等工業学校(現・神戸大学工学部)の設立にも関与しています。
フランク・ロイド・ライトとも親交があり、国会議事堂建設をはじめ多くのプロジェクトに関与している、日本の建築史では外せない重要な人物となっています。
フランク・ロイド・ライト
もう一人の設計者である大熊喜邦は、元旗本の父を持ち、東京府麹町に生まれました。
大熊喜邦
第一高等学校を経て、1903(明治36)年、東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)建築学科を卒業しました。
卒業後は大学院に籍を置き、横河民輔の横河工務所に入所し、帝国劇場などの設計に関与しています。
1907(明治40)年、大蔵省臨時建築部技師に就任し、各国の議事堂建築の調査や、議事堂建設予定地の敷地調査にあたりました。
一貫して官庁営繕に従事していましたが、最大のものが1920(大正9)年に着工した国会議事堂です。
国会議事堂
大熊は大蔵省営繕管財局工務部長に就任し、営繕組織を率いて建設を進めましたが、国会議事堂が完成した1937(昭和12)年に辞任しています。
また、歴史にも造詣が深く、本陣・宿駅の研究をまとめています。
1919(大正8)年に工学博士号取得、1943(昭和18)年に交通経済史の研究により経済学博士号を取得しました。
なお、息子は建築家の大熊喜英(1905(昭和38)年ー1984(昭和59)年)です。
さて、山口県政資料館の建物の話に戻りますが、この2つの建物にあてがわれた様式は、官公庁舎に多用されたルネサンス様式でした。
左右対称であることや、煉瓦造の躯体にモルタルを塗り、横目地を入れて水平線を強調する点などに、その特徴が見て取れます。
旧県庁舎
旧県会議事堂
また、武田自身が作品集の中でこの様式を「イギリス復興式に日本式細部を用いた公館」と表現しています。
武田の言う「日本式細部」は、旧県庁舎の正面車寄の独立石柱の柱頭に最も顕著に表れています。
社寺建築の斗栱(ときょう、軒の荷重を支える組み物、肘木)を彷彿とさせる柱頭飾りには、その中央に凹凸の少ない平明なロゼット(花の形をあしらった円形の装飾文様)が配されています。
武田は法隆寺の修復などに関わったりと、洋式建築だけでなく、和式建築にもかなり精通していたと言われています。
そのため、このような柔軟な発想ができたのだろうと推測できます。
旧県庁舎 正面車寄
この建物はルネサンスの様式に加え、セセッションの様式も併せ持ちます。
京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の図案科主任を務めた経歴を持つ武田は、デザインに長けたその才能を、この旧庁舎と旧県会議事堂でも遺憾なく発揮しています。
古典様式をベースに置くことで県政の場としての威厳を保ちつつ、グリルや天井の格縁にのぞく幾何学模様は時代の機微をしっかりと映し出しています。
このポイントはいかにも大正期といった感じですが、それをルネサンスとセセッションの組み合わせで破綻なく表現したところに、武田の非凡さがうかがえます。
旧県会議事堂 ホール
もともと、垂直方向を強調するゴシック様式の建築に対して、水平的な拡がりを重視するルネサンス洋式の建築は穏やかな雰囲気を醸し出します。
平明なデザインを落とし込むには最適な様式だったとも言えます。
ゴシックの尖塔に見るような人を寄せ付けないほどの威圧感の中では、セセッションの良さは埋没してしまいかねません。
このように、様式の選択ひとつをとってみても、緻密な分析の上に成り立っている素晴らしい建築であると言えます。
旧県会議事堂は屋根中央を一段高くし、その上に塔屋を乗せています。
全体はルネサンス様式を基本にしていますが、各所にセセッション様式の意匠がちりばめられています。
旧県会議事堂 正面
旧県会議事堂 会議室
旧県会議事堂の議場は、公衆傍聴席のギャラリーが囲む二階吹き抜けが開放的な雰囲気です。
開放的ながらも、議長席や演壇は荘厳な雰囲気も醸し出しています。
旧県会議事堂 演壇から見る景色
室内の天井装飾は部屋ごとに異なり、階段の親柱、床下換気口のグリルなど、ここでしか見られない独創的な細部意匠も面白いです。
旧県庁舎のほうは、山形屋根の中央部の左右に両翼をのばした形になっています。
横目地の入った壁や正面玄関の独立柱などに、セセッションの影響が見られます。
二階ホールは白を基調にして、明るい開放的な雰囲気もありますが、どこか威厳に満ちた雰囲気も持っています。
知事室は中央が円形の折上天井で、セセッション風にアレンジされた木製格縁を巡らせています。
旧県庁舎 二階ホール
旧県庁舎 知事室
どちらの建物も細部までこだわり抜いて設計されており、威厳を持ちながらも、軽やかな大正期の建物として、今もなおその存在感を放っています。
見学は無料で行えるので、近くに行った際には立ち寄ってみてはいかがでしょうか。