日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

東京駅丸ノ内本屋

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東京駅。


誰もが知っている日本の中心地です。


駅という場所は、古くから都市の顔としての役割も持ちます。


たとえバスセンターや空港ができたとしても、その地位は未だ揺るぎなく、最近では都市の中核施設として注目されています。


そして、今回紹介する「東京駅丸ノ内本屋」は、誰もが知っている、おそらく日本で最も有名な駅舎です。


しかし、日々の喧騒に追われて多くの人々の行き交いに惑わされ、この駅を「建築物」として見る方はまだまだ少ないと思います。


今回は、そんな建築物としての東京駅やその歴史について触れていきます。

 

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<東京駅 外観>


東京駅丸ノ内本屋は、行幸通りを介して皇居と正対する首都の象徴です。


このことは各国の大使が着任して信任状奉呈式に臨む際に、その馬車列の出発点になっていることにも象徴されます。

 

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<皇居>

 

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<行幸通り>

 

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<信任状奉呈式>


ちなみに東京駅の復元工事中は、明治生命館から出発するようになっていました。

 

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<明治生命館>


また、東京駅で最も有名な出来事と言えば、原敬首相暗殺事件です。

 

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<原敬>


原敬は1856(安政3)年2月9日、盛岡藩盛岡城外の岩手郡本宮村(現在の盛岡市本宮)で、盛岡藩士原直治の次男として生まれました。


後に「平民宰相」とも呼ばれた原ですが、原家は祖父・直記が家老職にあったほどの上級武士の家柄でしたので、もともとは平民などでは断じてなかったようです。


しかし、原は20歳のときに分家して戸主となり、平民籍に編入されました。


徴兵制度の戸主は兵役義務から免除される規定を受けることができるため、分籍したのが理由だそうです。


また彼は家柄についての誇りが強く、いつの場合も自らを卑しくするような言動をとらない姿勢を貫きました。


大人になってからは、新聞社(郵便報知新聞社)→外務省→新聞社(大阪毎日新聞社)という変わった職歴を持っています。


ちなみに、大阪毎日新聞社では、入社わずか1年で社長に就任しています。


その後、伊藤博文が立憲政友会を組織したのをきっかけに入党し、幹事長となりました。

 

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<伊藤博文>


1917(大正6)年に第一次世界大戦が終わったころには、原はすでに内閣総理大臣に就任しており、パリ講和条約が開かれたのも彼の時代でした。


そして原は政友会の政治的支配力を強化するため、官僚派の拠点であった貴族院の分断工作を進め、同院の最大会派である「研究会」を与党化させています。


このほか、高級官僚の自由任用制の拡大や、官僚派の拠点であった郡制の廃止、植民地官制の改正による武官総督制の廃止などを実施し、反政党勢力の基盤を切り崩しにかかりました。


しかし、一方で原は、反政党勢力の頂点に立つ元老山縣との正面衝突は注意深く避け、彼らへの根回しも忘れてはいませんでした。


原と山縣の不仲はかなり有名です。

 

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<山縣有朋>


このように、原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家でした。


また、もとは新聞社の一社員であった原がここまで昇り詰めることができた背景にはやはり、「外国の情報」が当時最強の武器だったことがわかります。


原は最初の新聞社に入社した当時から、フランス語新聞の翻訳の仕事をしていたようです。


帝国議会の施政方針演説などにおける首相の一人称として、それまでの「本官」や「本大臣」に変わり「私」を最初に使用したのは原でした。


それ以後、現在に至るまで途絶えることなく引き継がれていることがわかります。


とても優秀で日本を引っ張っていた原でしたが、1921(大正10)年11月4日、関西での政友会大会に出席するため側近の肥田琢司らと東京駅に到着直後、国鉄大塚駅転轍手であった中岡艮一により殺害されました。


享年66歳でした。

 

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<中岡艮一>


丸ノ内南口には、小さい円形のマークが1つだけ床に記してあります。


その場所が原が襲撃された場所で、今でもわかるようになっています。

 

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<原敬襲撃場所>


また、東京駅で襲撃された首相は実は原だけではなく、もう1人います。


第27代総理大臣の濱口雄幸です。

 

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<濱口雄幸>


濱口は、1930(昭和5)年11月14日に、東京駅第4ホーム(現在の9番線・10番線ホーム)で愛国社社員の佐郷屋留雄に銃撃されました。


原と違い、一旦は一命を取り留めましたが、この銃撃が遠因となる形で遭難の翌年に死亡しています。


濱口の襲撃場所を示すプレートは9番線、10番線にはありません。


なぜか、ホームの直下にあたる新幹線中央乗り換え口付近のコンコースに設置してあります。


こちらは大き目のひし形のプレートです。

 

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<濱口雄幸襲撃場所>


さて、首相が2人も襲撃された東京駅ですが、竣工は1914(大正3)年です。


しかし、東京駅に関する案が出たのは、それよりも15年も前のことでした。


建物の設計は辰野金吾です。

 

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<辰野金吾>


東京駅の特徴の一つは、それまでの都市のターミナルに見られるような行き止まりの構成でホームの突き当りに駅舎を置くのではなく、ホームと並行して駅舎が置かれていることです。

 

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<長いホーム>


南北方向に335メートルにも及ぶ長大な建築となっており、地上3階建ての南北2か所に八角平面の大ドームを、中央部には大屋根を架けています。


外観は辰野が得意とした折衷様式(辰野式)で、煉瓦積みの壁面の一部に花崗岩や偽石を組み合わせて、長大な立面を間延びすることなくまとめています。

 

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<東京駅 外観中央>

 

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<東京駅 外観端>

 

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<東京駅 外観中央から端へ>


構造は鉄骨を組み合わせた煉瓦造で、床板には鉄筋コンクリートを使用しています。


煉瓦積み外壁を花崗岩で引き締めた、まさに辰野金吾の集大成と呼べる建築物となっています。

 

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<駅構内にある当時の煉瓦>


建築当初は中央部を皇室用出入口として、南ドーム下を乗車口、北ドームを降車口としていました。


この使い分けは1948(昭和23)年まで続けられたそうです。


昔は1階に待合室や食堂があり、駅長室や事務室も1階にありました。


2階、3階は南側をホテル、北側を鉄道関係のさまざまな事務室に使っていました。


ご存じの方も多いとは思いますが、実は東京駅の今の姿は建築当初のものではありません。


関東大震災では倒壊することなくその堅牢さを証明した東京駅でしたが、1945(昭和20)年5月25日、東京空襲によって甚大な被害を受けます。

 

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<戦前の東京駅>

 

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<東京空襲後の東京駅>


この空襲によって、屋根はほぼ完全に失われ、内部もかなり焼失してしまいました。


その後、復旧工事によってドーム屋根部分を除く3階部分だけが撤去され、南北のドームも角形のマンサード屋根に変更されました。


しかし、火災の熱で湾曲した鉄骨など、当時の傷跡が建物の随所に残っていました。

 

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<東京駅 復元工事前>


東京駅は完成時から利用客数の増加に合わせ、ひたすら拡張を繰り返し続けてきました。


ただし、ホームの増設はもともと八重洲側にあった操車場用地を利用して進められたため、丸ノ内本屋にはあまり影響しませんでした。


ちなみに、最初は八重洲側に出入口はなく、その後も小規模な駅舎が建てられていただけでした。


しかし、1954(昭和29)年には、最近まで使われていた駅舎が建てられ、百貨店が入るなど、駅の中心が八重洲側に移動するようになりました。


年月が流れ、駅舎がかなり老朽化してきたため、取り壊すか保存するかという問題に直面しました。


1988(昭和63)年に、現在の場所で保存を行うことが決定し、復原工事が行われることになりました。


その工事が始まったのが2007(平成19)年で、工事完了は2012(平成24)年のことでした。

 

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<東京駅 復原工事中>


この工事によって、戦災後の復興によって失われた3階のドーム部分が復原されています。


また、日々大勢の人々が往来する駅舎として十分な安全性を確保するため、免震化工事も施されています。

 

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<東京駅 復原工事後>


東京駅は、襲撃事件など血なまぐさいことも起き、一度はほぼ全焼してしまいました。


けれど、昔からずっと変わらず、人々の生活になくてはならない存在であり続けています。


話題性に尽きない建物であることも、東京駅が東京の、日本のシンボルであり、出入口と言われるゆえんかもしれません。

 

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<東京駅 丸ノ内南ドーム改札口>


次に東京駅に行った際は、少し歩くペースを落としていろいろな場所を見てみると、東京のシンボルの新しい発見があるかもしれませんね。


交通としてだけ利用するのでは、もったいない感じすらしてしまう駅舎なので、時間があれば歩きまわってみてください。

 

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<東京駅 外観夜>

 


最後に、1つだけ、あまり知られていない東京駅の怖い豆知識を解説しておきましょう。


東京駅には「7号室のお客さん」という隠語があります。


実は、東京駅には霊安室が2つあり、1つは第2自由通路付近、もう1つは地下2階にあります。


東京駅は利用人数が多いので、その分、自殺や事故、病気で亡くなる方も出てきます。


地上のドアには「7」が記されていることから、遺体を霊安室に運ぶ際は他の駅利用者に配慮し、「7号室のお客さん」を隠語として使っています。


という豆知識です。


第2自由通路にはご注意を。

 

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