<綿業会館 談話室>
大阪府大阪市の中心地に、茶色いタイル貼りの雰囲気のある建物があります。
綿業を営む人たちによって昭和初期に建てられた「綿業会館」です。
<綿業会館>
世界では、紀元前2000年ごろ(4000年前)からインドで綿の栽培がすでに始まっていました。
そんな綿栽培が日本で本格的に始まったのは、戦国時代でした。
丈夫で保湿性に優れた綿は、武士の袴をはじめ、農民の着物などにも多く利用されるようになり、人々の生活に「衣料革命」をもたらしました。
1697(元禄10)年の『農業全書』には、「是即天下の雲材と云いつべし」と記され、綿は米と並ぶ重要な商品となっていきました。
<農業全書>
そして明治維新後、近代化に成功した日本の紡績業は、目覚ましい発展を遂げました。
その先駆者となったのが、「日本資本主義の父」ともいわれる渋沢栄一によって1882(明治15)年に創業された大阪紡績でした。
<渋沢栄一>
大阪紡績はその後、1914(大正3)年に三重紡績と合併して東洋紡績(現在の東洋紡)となり、事業を拡大。
大阪は、日本の紡績業の中心地となりました。
<大阪紡績>
そんな綿繁栄の歴史を物語る建物が、紡績業に関わる人々の社交場として1931(昭和6)年に竣工した綿業会館です。
<綿業会館 当時の外観>
綿業会館は、1928(昭和3)年に設立された「日本綿業倶楽部」の施設です。
東洋紡績の専務取締役・岡常夫の遺族から贈られた100万円と、関係業界からの寄付50万円、合わせて150万円(現在の75億円に相当)を基に建設されました。
<岡常夫像>
1932(昭和7)年1月に開館し、近代の日本を代表する施設として、国際会議の場としても数多く利用されました。
同年3月には 第2代リットン伯爵リットン卿を団長とする国際連盟日華紛争調査委員会(リットン調査団)が来館して大阪経済界の代表と対談するなど、戦前の日本外交の舞台にもなりました。
<リットン調査団>
1945(昭和20)年3月の大阪大空襲では、船場オフィス街は壊滅的な被害を受けました。
しかし綿業会館は、各部屋の窓にワイヤー入り耐火ガラスを使用していたために、窓ガラス1枚とカーテン1枚に被害を受けただけで、ほとんど無傷でした。
それほど耐久性や強度に優れた建物だったということです。
<大阪大空襲>
1945(昭和20)年7月5日、大阪師管区司令部が建物を徴用したため、倶楽部は休館せざるを得なくなりました。
日本の敗戦後には占領軍に全館接収され、1952(昭和27)年に返還されるまで使用されました。
返還により再び倶楽部となり、1962(昭和37)年には東隣に新館が増築されています。
綿業会館の設計者は、日本興業銀行本店など多くのオフィスビルを手掛けた渡辺節です。
<渡辺節>
渡辺節は、1884(明治17)年11月3日、東京府麹町区(現東京都千代田区)で生まれました。
11月3日は明治天皇の誕生日であり、今でいう「天皇誕生日」にあたる「天長節」に生まれたことから「節」と名づけられました。
旧制二高を経て、東京帝国大学建築学科を卒業し、鉄道院に入ります。
鉄道院では、2代目京都駅(後に焼失)などを設計しました。
1916(大正5)年に独立して大阪に設計事務所を開設し、1920(大正9)年~1921(大正10)年には欧米を視察しました。
日本勧業銀行、日本興業銀行、大阪ビルヂングなど、合理的なアメリカ流のオフィスビルを得意としていました。
<大阪ビルヂング>
様式を使いこなす渡辺の手腕はよく知られ、またその設計が合理性を踏まえていたことに特徴がありました。
渡辺は、過去の様式を折衷することで自らの世界を創り出し、施主の要望に応える現実的な建築家であったといえます。
この時代に民間企業が建築家に求めた合理性とは経済上であり、建物のデザインに関してはあくまでも保守的だったともいえます。
渡辺のこうした建築姿勢に、その下で学んだ村野藤吾は影響を受けたとされています。
<村野藤吾>
しかし渡辺はその後、戦時下の建築統制によりオフィスビルを設計する機会もなくなります。
第二次世界大戦末期は福井県へ疎開し、戦後は大阪府建築士会会長などを務めました。
没後には、日本建築士会名誉会長に遇され、若手建築家のための渡辺節賞が設立されました。
ちなみに、音楽評論家・東大名誉教授の渡辺護は渡辺節の甥だそうです。
さて、綿業会館の建物の話に戻りましょう。
綿業会館は、鉄筋コンクリート造で、地上7階地下1階の建物です。
外観は、細部にイギリスルネサンス調の装飾をさりげなく施しています。
<外観>
<正面>
それ以外の装飾は限定的で、オフィスビルを手掛けてきた渡辺らしい簡素な外観となっていますが、館内に足を踏み入れるとその様相は一変します。
玄関ホールは、イタリアルネサンス調でまとめられた吹き抜けの大空間で、格調高い雰囲気が、訪れる人を包み込んでくれます。
アーチの形状や風景全体に比例の美が感じられます。
<玄関ホール>
会員食堂とホールの間のガラスは腐食模様入りで、視線を適度にさえぎりながら、同時に優雅さを演出しています。
<食堂のガラス>
部屋ごとに異なったスタイルが取り入れられているのも特徴的です。
1階にある食堂は、当時アメリカで流行していたミューラル・デコレーションと呼ばれる様式の装飾天井が使われています。
<食堂>
<食堂天井>
草花や小鳥をあしらった天井の装飾が目を引く3階の特別室は、イギリスのクイーン・アン様式です。
<特別室>
最も豪華なのが、イギリスのジャコビアン様式で統一された3階の談話室です。
この部屋は二層分の天井高を持っており、壁一面に施された「タイル・タペストリー」が非常に豪華です。
これに使われているタイルは五種類だけで、並べ方や釉薬の微妙な変化によって万華鏡のような効果を出しています。
<談話室>
<談話室のタペストリー>
3階の会議室は横長の部屋で、フランスのアンピール様式が用いられて装飾を抑えたデザインが特徴的です。
通称「鏡の間」とも呼ばれていて、特別室とつながる扉につけられた鏡が、より一層空間の広がりを強調します。
床の大理石にはアンモナイトの化石があります。
<会議室>
また、1階のエレベーターの扉は金色で装飾が付けられており、周囲のトラバーチン(緻密で縞状構造を持つ大理石)の材質との対比で一層鮮やかに見えます。
<エレベーター扉>
このように、この建物では各部屋ごと、またホール内の装飾ごとなど、様々な異なるスタイルが取り入れられています。
しかし、実は部屋ごとに異なるスタイルが取り入れられたのは、「趣味嗜好が異なる会員からの非難を最小限にとどめるため」という設計者の苦肉の策であり、また渡辺節の合理性のもとに創り出された建物といえます。
より多くの人に楽しんでもらおうとしたことが、多彩な装飾で満たされた綿業会館を生み出したということです。
上述した通り、綿業会館の総建築費は150万円です。
そのうちの100万円は、東洋紡績の専務であった岡常夫が日本の紡績業の発展のためにと残した遺産でした。
岡は、強い信念と先見の明を持つ経営者でした。
1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦の影響で、綿製品の価格が暴落、東洋紡績の業績は急速に悪化しました。
<第一次世界大戦>
慌ててリストラを進めようとする経営陣の中にあって、岡はひとりで反旗を翻し、「今は賃金を引き下げる時ではなく、寧ろ増加して一人でも多くの職工を集め、明日の好況のための準備をすべき」と主張しました。
岡の読みは的中し、第一次世界大戦による不況はすぐに収まり、リストラをせずに力を蓄えていた東洋紡績は一気に生産を拡大させ、日本の紡績綿業売上の三分の一を占める巨大企業へと成長しました。
綿業会館の竣工から2年後の1933(昭和8)年、日本はイギリスを抜いて世界最大の綿布の輸出国となり、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるまでに成長を遂げました。
しかし、アジア各国への支配を強める日本に対して、各地で日本の綿製品の排斥運動が起こりました。
アメリカとの貿易摩擦も激化し、紡績業は窮地に追い込まれていきました。
日本の満州支配の調査で来日したリットン調査団がこの建物を訪問したのも、なにかの因縁だったのかもしれません。
その後日本は第二次世界大戦へと突入しました。
1945(昭和20)年の大阪空襲において、綿業会館一帯も激しい炎に包まれましたが、この建物は鋼鉄ワイヤー入り耐火ガラスなどの耐火構造のおかげでほとんど無傷でした。
綿業会館は終戦とともにアメリカ軍に一度は接収されましたが、1952(昭和27)年には、再び社交倶楽部として蘇りました。
また、それに先立つ1951(昭和26)年には、日本は綿布輸出において、再び世界一位の座を奪還しました。
このように、この建物には、激動の時代の日本経済を大きく支えた紡績業の栄光と挫折、復興という歴史が詰まっています。
2003(平成15)年には国の重要文化財に、2007(平成19)年には近代化産業遺産に指定されました。
建物の見学は、毎月第4土曜日(12月のみ第2土曜日)に、午前と午後の二部制で開催されています。
完全予約制なので、事前に電話での申し込みが必要となります。
大阪に訪れる予定があるなら、一度足を運んでみてはいかがでしょうか。