日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

起雲閣


1889(明治22)年1月1日、日本初の公衆電話が、東京と熱海の間に開設されました。

 

f:id:sumai01:20190823124507j:plain
熱海


都内の官公庁などに設けられていただけの電話が熱海に設置された理由は、普及促進が目的でした。


当時、まだ高額だった電話を使用できるのは富裕層のみでした。


そこで、政財界の大物が別荘を構える日本有数の別荘地「熱海」に公衆電話を設け、その利便性を体験してもらおうという試みだったのです。


この狙いは的中し、電話口で熱海芸者に三味線を弾かせ、東京で聴くといった「お遊び」で通話をする人まで出たそうです。


そんな日本を代表する別荘地「熱海」には、「三大別荘」と呼ばれる別荘があります。


そのうちの一つが、今回紹介する「起雲閣」です。

 

f:id:sumai01:20190823124448j:plain
起雲閣


大正時代半ばには70棟を超えた別荘の中でも、三菱財閥の岩崎別荘、住友財閥の別荘、そしてこの起雲閣は別格の扱いであったそうです。


起雲閣は、神戸で船会社を開業し海運王と呼ばれた内田信也が、1919(大正8)年に建てた「湘雲荘」を、1925(大正14)年に、東武鉄道の礎を築いた根津嘉一郎が別荘として購入したものです。

 

f:id:sumai01:20190823124533j:plain
内田信也


内田 信也は、1880(明治13)年12月6日、旧常陸麻生藩士の家に生まれました。


正則中学、麻布中学校を経て、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業しています。


1905(明治38)年に三井物産へ入社し、社船「愛宕山丸」の事務長などを務めるなど洋上勤務も経験し、傭船主任にまで昇進しました。


1914(大正3)年に同社を退社し、退職金と兄からの借金を元手に、神戸で内田汽船を開業しました。


第一次世界大戦の影響で造船需要が急激に高まっていたため、短期間で株式配当60割という軍需景気で億万長者となります。


そして、山下汽船の山下亀三郎、勝田汽船の勝田銀次郎とともに、三大船成金の一人として実業界にその名を轟かせました。


1919(大正8)年には、後述する「起雲閣」の母体となる「湘雲荘」を建設します。


政界とのつながりもこの頃に出来たもので、このルートから不況の予兆をつかんだ内田は、1920(大正9)年に事業の大部分を売り抜けることで財産を現金化、戦後不況における没落を免れました。


そして、1924(大正13)年、政友会公認で第15回総選挙で当選し、代議士となりました。


岡田啓介海軍大臣のもとで海軍政務次官となり、岡田と親交を結びます。


犬養内閣では、三土忠造逓信大臣の逓信政務次官として船舶改善助成施設の成立に活躍し、岡田内閣では鉄道大臣も務めました。


しかし鈴木喜三郎政友会総裁の反対を押し切って入閣したため、高橋是清・床次竹二郎・山崎達之輔とともに政友会から除名されました。


のちに、政友会から除名された議員や彼らに従って離党した議員らとともに、昭和会を結成しています。


二・二六事件の直後には、内大臣府秘書官長木戸幸一に、株価が下がってしまうから早く新しい内閣を作ってほしいと頼み、木戸はこの非常時に株とは商人は言うことが違うと驚いたそうです。


この時期に、岡田の他に近衛文麿や宇垣一成らとも深いつながりを持つようになりました。


また、1925(大正14)年には「湘雲荘」を根津嘉一郎に売却しています。

 

f:id:sumai01:20190823124602j:plain
二・二六事件


昭和会の解散後、内田は、昭和会に所属していた他の議員と国民同盟に所属する議員らとともに、院内会派の第一議員倶楽部に所属しました。


1939(昭和14)年に政友会が分裂すると、旧昭和会所属議員のうち政友会出身者の大半は、中島知久平が総裁となった親軍的な政友会革新同盟(革新派、中島派とも)に合流しました。


しかし内田はこれには同調せず、同じく政友会から昭和会結成に参加した守屋栄夫とともに、第一議員倶楽部に残留しました。


その後宮城県の官選知事を務めたのち、1944(昭和19)年2月19日に、東條内閣の農商務大臣として入閣しました。


その後、貴族院勅選議員に勅任されました。


東條内閣の閣僚ではありましたが、戦中はむしろ近衛文麿グループの一員として、吉田茂ら早期終戦派と会合を行いました。


早期終戦のため、宇垣一成の首相担ぎ出しも試みましたが、宇垣は近衛に不信感を持っていたために失敗します。


戦後は公職追放にあいましたが、追放解除後の1952(昭和27)年に再び衆議院議員となり、第5次吉田内閣では農林大臣をつとめ、明治海運取締役会長等を歴任し海運界に重きをなしました。


そして1971(昭和46)年1月7日に、90歳で死去しています。


旧制水戸高等学校開校のために、100万円を寄付したことでも知られる人物です。


次に、湘雲荘を買い取り、起雲閣を造り上げた根津嘉一郎についてです。

 

f:id:sumai01:20190823124619j:plain
根津嘉一郎


根津嘉一郎は、1860年8月1日(万延元年6月15日)、甲斐国山梨郡正徳寺村(現山梨県山梨市)に生まれました。


根津家は雑穀商や質屋業も営む豪商で、「油屋」の屋号を有していました。


『根津翁伝』によれば、1877(明治10)年に山梨郡役所の書記として働いていましたが、民権運動にも携わっていたそうです。

 

f:id:sumai01:20190823124814j:plain
根津翁伝


長兄の死により家督を相続し、1889(明治22)年に村会議員となった後、東京へ進出しました。


若尾逸平や雨宮敬次郎と知り合い、甲州財閥を形成しました。


1891(明治24)年には、渡辺信、小田切謙明、佐竹作太郎ら名望家とともに鉄道期成同盟会を結成し、中央線の敷設運動を行いました。


第一徴兵保険会社や帝国火災保険、富国徴兵保険など保険会社の資金を運用し、東京電燈の買収などに関っています。


1905(明治38)年には東武鉄道の社長に就任し、経営再建に取り組みました。

 

f:id:sumai01:20190823124705j:plain
東武鉄道本社


根津はその他にも経営に行き詰まった企業を多く買収し、再建を図ったことから、「火中の栗を拾う男」「ボロ買い一郎」との異名や揶揄を与えられることもありました。


資本関係を持った鉄道会社は24社に及び、多くの会社において名誉社長などに就任しました。


その中の数社には、同じ甲州出身の早川徳次を送り込み、経営を任せて再建しています。


早川徳次は、日本に初めて地下鉄の考えを導入し東京地下鉄を造り上げた功績から、日本の地下鉄の父と呼ばれています。

 

f:id:sumai01:20190823124836j:plain
早川徳次


これらの功績から、根津はいつしか「鉄道王」と呼ばれるようになりました。


1904(明治37)年以降、衆議院議員を連続4期務めた他、1926(大正15)年12月より勅選貴族院議員となりました。


「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもと、教育事業も手がけ、1922(大正11)年に旧制武蔵高等学校(現在の武蔵大学、武蔵高等学校・中学校)を創立しました。

 

f:id:sumai01:20190823124851j:plain
武蔵大学


また、山梨県下の全小学校へ、200台にのぼるピアノやミシンを寄付しています。


その後、1940(昭和15)年に満79歳で死去しました。


このような経歴を持つ2人の「大正~昭和時代の経済を動かし続けた人間」が、建設し、増築し、熱海の三大別荘の一つになったのが、『起雲閣です。


根津が死去した後は、1947(昭和22)年に、金沢でホテル業を営んでいた桜井兵五郎が買い取り、「起雲閣」という旅館を開業しました。

 

f:id:sumai01:20190823124905j:plain
桜井兵五郎


2000(平成12)年には熱海市所有となり、文化施設となって一般公開されています。


内田の時代には概ね和風の施設でしたが、根津の所有になってからは、独特な折衷意匠による別邸の建設や庭園の整備が行われました。


その結果、なだらかな傾斜を活かした回遊式日本庭園を取り囲むように建物が配置され、それぞれの建物が回廊で連結されることになりました。

 

f:id:sumai01:20190823124922j:plain
庭園


根津は内田が建てた日本家屋も使っていましたが、前述した通り、新たに2棟の別邸を建設しました。


1棟は、1929(昭和4)年竣工で、中世イギリスのテューダー様式の落ち着いたデザインでまとめられた洋館です。


応接間「金剛」の暖炉周りの化粧梁には、螺鈿細工によるトランプのマークが施され、中国風の飾り窓と相まって異国情緒が漂います。

 

f:id:sumai01:20190823124956j:plain
金剛


邸内には、ローマ風浴室が併設されています。


アール・デコ調のステンドグラスから光が降り注ぐまばゆい空間は、神秘的で開放的です。


床に敷かれているのは木の温かみを利用したウッドタイルで、そこに温泉が流れることで床暖房効果が得られます。

 

f:id:sumai01:20190823125020j:plain
浴室


根津自身も設計に関与していることから、芸術的なセンスが色濃く反映された仕上がりとなっています。


もう1棟は、清水組の大友弘の設計で、1932(昭和7)年に建てられました。


こちらは、2つの部屋とサンルームから構成されています。


「玉姫」と呼ばれるダイニングルームは、一見するとイギリスの邸宅風です。


しかし、「喜」という文字や獅子頭などをあしらった中国風の装飾、折り上げ格天井、蟇股(かえるまた)などからは、日本の建築様式もうかがうことができます。


蟇股とは、和様建築で梁や頭貫 (かしらぬき) 上にあって、上の荷重を支える材のことで、 蛙股とも書きます。

 

f:id:sumai01:20190828110217j:plain
玉姫


また、隣接する応接間「玉渓」は、テューダー様式を採用し、大きく開かれた出窓から豊かな光が差し込んできます。

 

f:id:sumai01:20190823125614j:plain
玉渓


この部屋の暖炉は、インド・ガンダーラ風の仏像彫刻や中国風の意匠が施され、西洋と東洋が渾然一体となった不思議なデザインとなっています。


サンルームは、天井全体がガラスで覆われ、アール・デコ調の花柄のステンドグラスと、色鮮やかな床のタイルが華やかさを添えています。

 

f:id:sumai01:20190823125630j:plain
サンルーム


異なる様式が混在する建物内部とは対照的に、外観は洋の部分が最小限に抑えられています。

 

f:id:sumai01:20190823124937j:plain
洋館外観


前所有者が建てた日本家屋と連なっても、少しの違和感も生じさせない、絶妙なバランスとなっています。

 

f:id:sumai01:20190823125649j:plain
庭園より望む


東部鉄道の礎を築き、日清製粉や東京電力など、200を超える企業の創業や経営に携わった根津ですが、その素顔は全く偉ぶることのない人柄だったといいます。


敷地内の日本庭園に据えられた巨大な岩は、根津が熱海梅園で見つけたもので、重さは20トン以上だそうです。

 

f:id:sumai01:20190823125739j:plain
熱海梅園


ソリに載せて2か月かけて運搬したそうですが、根津も自ら加わり、祭の山車でも引くように、庭師と力を合わせて運んだそうです。


根津の死後、旅館となってからは、太宰治ら有名作家の逗留や対談の場、将棋・囲碁の対局の場として利用されました。


起雲閣は、大正から昭和前期、さらには戦後と、長きにわたって、日本の財政界人、文豪たちに愛された建物といえるでしょう。


現在は熱海市所有の観光施設となり、一般公開されて催し物なども行われているようです。


熱海へ訪れた際には、歴史的にも、そして文化的にも価値のある起雲閣に、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。