日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

尚古集成館(旧集成館機械工場と旧鹿児島紡績所技師館)

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旧集成館機械工場

 

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旧鹿児島紡績所技師館


鹿児島の市街地を海岸沿いに北に進むと、薩摩藩主島津家の別邸「仙厳園(せんがんえん)」が姿を現します。


雄大な桜島と錦江湾(きんこうわん)の広がりのもとにある美しい別邸は、歴代の藩主がひとときを過ごした場所であり、薩摩藩近代化の舞台でもありました。

 

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仙厳園


地図で鹿児島から東南アジアにかけての地域を見ると、奄美や沖縄の島々が架け橋のように海上に連なっています。


こうした地理条件を意識すると、16世紀の大航海時代に鹿児島でポルトガル船漂着やキリスト教伝来が起こったのもうなずけます。

 

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鹿児島周辺地図


鎖国体制下においても、薩摩藩は架け橋を通じて海外の情報や物資を入手し、独自の文化を築いていきました。


しかし、19世紀に入ると、英仏の列強が架け橋の向こうからじりじりと近づくようになってきます。


薩摩は開国を求める外圧の矢面に立たされることになります。


これに対応して薩摩藩が取り組んだのが、外国艦船の近海来航に備えた海岸防備です。


大型砲設置や軍艦製造、ガラス・陶器製造の技術取得に着手しました。


日本で最も早く、これらの事業に取り組んだのが薩摩藩といわれています。


そして、この事業を飛躍させたのが島津斉彬という人物です。

 

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島津斉彬


斉彬は1851(嘉永4)年に藩主になると、仙厳園の隣接地を切り開いて、工場建設を指揮しました。


これらの工場群は「集成館」と名付けられました。


最盛期には1200人の職工が働いていたそうです。


そしてこの多岐にわたる事業は「集成館事業」と呼ばれ、薩摩藩の近代工業を推進しました。


今回はそんな「集成館」の中でも、重要な施設の2つ「旧集成館機械工場」と「旧鹿児島紡績所技師館」についてです。


まず、ご存知の方も多いと思いますが、島津斉彬(しまづなりあきら)は、江戸時代後期から幕末の大名で、薩摩藩の第11代藩主です。


また、島津氏第28代当主でもあります。


薩摩藩よる富国強兵や殖産興業に着手し、国政改革にも貢献した幕末の名君で、西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた人物です。

 

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西郷隆盛


今和泉島津家出身で斉彬の養女・篤姫は、江戸幕府第13代将軍・ 徳川家定の正室となった方です。


数年前に宮崎あおいさんによって演じられた大河ドラマで一躍有名になりました。

 

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天璋院篤姫

 

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大河ドラマ「篤姫」より


そんな島津斉彬が富国強兵・殖産興業を目指した工場群が「集成館」です。


斉彬の藩主在任期間はわずか7年でしたが、世子時代の蓄積と多くの技術者の努力もあり、日本の近代化を先駆ける事業を展開することとなります。


しかし斉彬の死後、集成館事業は縮小、一時停止し、薩英戦争の際にはイギリス海軍の砲撃で灰燼に帰すことになります。


これが1863(文久3)年のことです。


その後、斉彬の跡を継ぎ第12代藩主となった島津忠義が、斉彬の弟である実父久光とともに集成館を復活させます。


機械工場を造り、紡績・軍需の最先端を走り、この藩の技術力・軍事力を背景に、薩摩藩は幕末・明治をリードしていきました。

 

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島津忠義


斉彬の事業が幕府や他藩の近代化事業と異なる点は、業種の幅広さにあります。


紡績・大砲製造から硝子・ガス灯・薩摩焼、さらには養蚕・教育改革まで、斉彬は事業の拡大を進めました。


これほどまでに業種を増やせたのは、斉彬が「人の和」を第一としていたからです。


藩の軍事力の強化のみならず、人々の暮らしの豊かさを求めた改革が、薩摩藩の近代化と集成館事業だったのです。


それではまず、「旧鹿児島紡績所技師館」から解説していきましょう。


紡績業の工場は、最盛期には200人が働く日本初の洋式紡績工場となりました。


そんな工場で働く人たちをリードするイギリス人技師たちの宿舎として建てられたのが、旧鹿児島紡績所技師館です。


この建物は1867(慶応3)年に完成しています。


つまり、この建物は明治でもなく、江戸時代に建てられたものということです。

 

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旧鹿児島紡績所技師館 外観


木造二階建てで、上から見ると正方形の建物で、頂上に宝珠を載せた桟瓦葺きの屋根を持ち、中央部分は八角形を半分にしたポーチがつきます。

 

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旧鹿児島紡績所技師館 屋根


全体を特徴づけるのが、建物をぐるりと囲むベランダです。


大阪の泉布館など、明治初期の西洋建築の典型であるベランダ・コロニアル様式が、ここでも見られます。

 

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泉布館


内装は極めてシンプルで、玄関を入ると建物を貫く廊下があり、その両側に2つずつ部屋があります。

 

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旧鹿児島紡績所技師館 廊下


どの部屋も過度の装飾がない、実用本位の造りとなっています。


便所などは別棟にあり、2階も同じ構成であることから、寝室と居間だけという限定的な使い方をされていたことがわかります。

 

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旧鹿児島紡績所技師館 居間


建築当初はマントルピースがあり、屋根にも大きな煙突が備わっていたそうです。


南国鹿児島とはいえ、寒さに敏感だったイギリス人たちに配慮したものと考えられます。


建設を担ったのは、建物の類似性から、泉布館と同じウォートルスとする見方と、鹿児島紡績所の技師シリングフォードとする見方があり、今もなお詳しいことはわからないようです。


ただし、二人は薩摩藩に雇われていた仕事仲間で、建設当時のウォートルスが奄美大島に滞在中だったことを考えると、シリングフォードがその指示を受けて作業を進めたのではないかという考え方が最も有力です。

 

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ウォートルス


その後、1877(明治10)年の西南戦争では仮病院として使用され、1884(明治17)年には鶴丸城跡内に移築されて第七高等学校造士館などに使用されましたが、新校舎設立により役目を終えました。


さらに時は流れ、歴史的価値が見直され、1932(昭和7)年に鹿児島市の所有となり、1936(昭和11)年に、再び元の場所へと戻されました。


次に、「旧集成館機械工場」についてです。


こちらは旧鹿児島紡績所技師館よりもさらに早く、1865(慶応元)年に建設されました。


1863(文久3)年に、薩英戦争で元々の集成館事業の工場群が焼失してしまったことから、今回の工場は不燃化を目的に強固な石造壁で造られました。

 

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旧集成館機械工場 外観


これが現在の尚古集成館と呼ばれる建物です。


旧集成館機械工場は、奥行き13m、長さ77mの細長い建物で、厚み60cmの石壁で囲まれています。


機械を配置する大空間を得るため、小屋組みには三角形を基本とするトラスト構造を採用しています。


その底辺にあたるのが、壁上部にかけ渡した陸梁です。


陸梁は壁が外に開くのを防ぎます。


垂直方向の荷重はかからないので、細い部材でも担えますが、ここでは屋根を支える傾斜の2倍以上の太さがあります。


このあたりに、洋風技術に対する未成熟さが見られるものの、全体としては薩摩の石工技術を柔軟に適応させ、いち早く近代化を図った洋風工場であるといえます。

 

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旧集成館機械工場 内観1

 

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旧集成館機械工場 内観2

 

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旧集成館機械工場 内観3


1915(大正4)年の閉鎖後、博物館機能が付加され、集成館事業の精神を尊び模範とする「尚古」を冠して「尚古集成館」と名付けられました。


その後、1920(大正9)年には、玄関車寄せの増設や、瓦の葺き替え、内部の漆喰塗りなどが行われています。


国家の近代化のために西洋文化を積極的に導入しようとする明治政府が行った政策理念を、維新前に先取りしていたのが薩摩藩でした。


技術書を取り寄せて翻訳、試行錯誤の末に自らのものにするという気の遠くなる作業は、数々の「日本初」を鹿児島の地に誕生させることになりました。


日本で最初に銀板写真の撮影に成功したのは1857(安政3)年、被写体は島津斉彬です。


薩摩藩の城であった鶴丸城本丸では、日本初の電信実験に成功し、隣接する島津家別邸の仙厳園では、日本初のガス灯が灯りました。


日本初の洋式軍艦「昇平丸」が建造されたのもこの地であり、そこに掲げられていた旗こそ、後に日本国旗となる「日の丸」だったのです。

 

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昇平丸


そして、鹿児島紡績所に始まった近代的な紡績業は、明治の日本を支える基幹産業へと発展しました。


近代日本の土台作りにいち早く着手していたのがこの薩摩藩であり、それをリードしていたのが島津斉彬と忠義でした。


日本の南西端にあり、東南アジアとも近かった土地において、混沌とした幕末を駆け抜けたこの二人がいなければ、日本の近代化はもっと遅れていたでしょう。


1922(大正11)年には、この先人たちの意志を継ぎ、島津興業が設立されました。


現在では、関連企業なども含めると超大企業に成長しています。


2015年、旧集成館機械工場及び旧鹿児島紡績所技師館は、長崎の軍艦島などと共に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として、UNESCOの世界遺産に登録されました。


鹿児島に訪れる際は、ぜひ一度、幕末に多くの「日本初」を誕生させた人々の造り上げた場所を見てみるのもいいかもしれません。