日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

渋沢栄一がこよなく愛した、晩香廬(ばんこうろ)

こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。

 今回のすばらしい建築物は、「渋沢栄一がこよなく愛した、晩香廬」です。

 

JR玉子駅の西にある飛鳥山公園は桜の名所として著名です。

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この地に桜を植樹として行楽地としたのは八代将軍徳川吉宗の時代にさかのぼり、明治6年には上野、浅草などとともに日本初の公演に指定され、現在に至ります。


一方、この南寄りの地はかつて曖依村荘と呼ばれた渋沢栄一(1840―1931)の邸宅がありました。

 

渋沢栄一は埼玉県深谷市の生まれで、渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農でした。

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渋沢栄一

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

明治2年には、日本における先駆的な株式会社といわれる「商法会所」を設立しました。

 

その他、第一国立銀行(後の第一銀行、現みずほ銀行)や東京株式取引所を創め、日本を代表する600数十社の会社設立や経営に携わる一方、一橋大学・日本女子大学・東京女学館の創設にも寄与、道徳経済合一説を熱心に語るなど、日本の近代経済社会の基礎を築いた人です。

 

ちなみにSTAP細胞で話題となった理化学研究所の創設者でもあります。

 

曖依村荘と呼ばれた旧渋沢邸は、現在の飛鳥山公園に隣接する8470坪程の敷地に1878(明治11)年に接待用の別荘として建設され、1901(明治34)年から栄一がなくなるまでの30年間は本邸として使用されました。

 

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曖依村荘(本邸)

 

第2次世界大戦の空襲により大部分の建物を消失しましたが、「晩香盧」「青淵文庫」は消失を免れ、現存しています。(いずれも国指定重要文化財)


曖依村荘と言う名前は、中国の詩人陶淵明の詩の一説によると伝えられており、曖昧でゆっくり落ち着いた空間と言う意味合いだそうです。


晩香蘆は、渋沢の喜寿を祝して清水組(現清水建設)四代目当主、清水満之助が謹呈した建物です。

栄一はこの建物をこよなく愛し、国内外の政治家や財界人、文化人などを招き、91歳で亡くなるまで民間外交の舞台として使っていました。

 

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この贈呈には、清水満之助の祖父、二代目喜助の時代から渋沢に目をかけられ、近代的な建設会社に育ててもらったことへの恩返しという意味合いがあったのでしょう。

 

設計者である田辺淳吉(1879―1926)は東京帝国大学建築学科を卒業後、清水組に入社し、晩香蘆設計時は清水組五代目技師長でした。

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田辺淳吉


晩香蘆の竣工は、大正6年で木造平屋建て、屋根は赤色の桟瓦葺き。

 

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西欧の山小屋を思わせる、すっきりとした建物です。

 

なお晩香蘆の名前の由来は渋沢自作の漢詩「菊花晩節香」にちなんだものとされます。

 

外観は、土壁仕上げで、四隅には黒紫色のれんがタイルを貼り。

 

土壁は錆壁という、わざと鉄の粉を混ぜて錆を浮かせる左官技術。

 

敷石は鉄平石を氷裂文様に敷いています。こうした小さな建物に対して材料、意匠を吟味し、ディテールに凝って入念に施工がなされるさまは、日本の伝統建築である茶室をつくる感覚に近いです。

 

実際、この建物は当時から「新しい意味の茶室建築」と評されるなど、まさに西洋風茶室といった風情です。


格子戸をくぐり内部に入ると、木型を見せた土間(合の間)に出ます。右手が主室であり、渋沢栄一が愛したという談話室。

 

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この場所にはインドの詩人タゴールなど国内外の要人が訪れました。


談話室は、三方に開口があり、室内は明るいです。

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壁の腰は萩の茎を真鍮釘で留め、上部を青貝混じりの砂壁とした茶室風の仕上げ。

 付柱や天井廻縁、建具枠には丁寧に丁斧はつりされた栗材が使われています。

 

天井は穏やかに傾斜する船底天井で、縁取りには鳩やリス、葡萄などが石膏細工で施されています。

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また中央2ヶ所には、鶴がかたどられた笠の枠に淡貝を膠で張ったという照明が吊るされています。

 

最も目を引くのが、談話室の暖炉で、黒紫色の落ち着いた色調のタイルが栗材の深みのある色合いと見事に調和し、暖炉上中央には喜寿を記念した「壽」の文字がタイル積みで施されています。

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このほか、いずれもよく吟味された調度品や工芸品にも注目したいです。

 

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創建当初の大テーブル              テーブル用の火鉢

 

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 農夫の描かれた暖炉の火伏            談話室入口ドアの鍛造の蝶番

 

最後に田辺淳吉について少々触れると、晩香廬竣工から3年後に清水組を退社。

翌1921年(大正10年)に東京帝国大学の恩師、中村達太郎と事務所を構えます。

 

ところが1923年(大正12年)に関東大震災が起き、清水組が手掛けた多くの建物が被災。田辺はその復旧のために心身を酷使し、過労がもとで1926年(大正15年)47歳という若さで帰らぬ人となってしまいます。

 

彼は日本でいち早く鉄筋コンクリート建築を手がけた人物であり、彼の作品である誠之堂、晩香廬、青淵文庫が、煉瓦造、木造、鉄筋コンクリート造と異なる構造でありながら、そろって国指定重要文化財とされていること、書や美術工芸に通じ、鋭い審美眼があったことから見ても、長命であれば豊かな才能を発揮して、さまざまな名建築を世に残したと思われます。

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渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って第一銀行の行員たちの出資により建築

 

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渋沢栄一(号・青淵)の80才と子爵昇進祝いに建てられたという青淵文庫