日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

雑司が谷旧宣教師館(旧マッケーレブ邸)

こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。

今回のすばらしい建築物は、「旧マッケーレブ邸」です。

 

東京池袋の副都心に近い、雑司ヶ谷霊園

 f:id:sumai01:20140904173234j:plain

雑司ヶ谷霊園は明治7年に共同墓地として創設され、約11万㎡の園内には夏目漱石竹久夢二泉鏡花東郷青児といった多くの著名人が眠ります。

f:id:sumai01:20140904173348j:plain

夏目漱石の墓地

 

このあたりは大正から昭和にかけて発展した住宅地で、大規模な区画整理もされず、道路が複雑にくねっています。

f:id:sumai01:20140904173828j:plain

 

そんな静かな住宅地に、まるで一昔前にタイムスリップしたかのように突然洋館が現れます。

f:id:sumai01:20140904174206j:plain

その洋館が、雑司が谷旧宣教師館(旧マッケーレブ邸)です。

f:id:sumai01:20140904170554j:plain

この建物は、アメリカ人の宣教師マッケーレブが自らの居宅として明治40年に建てられました。


第2次大戦により米国へ帰国を余儀なくされる昭和16年までの35年間にわたって居住したものです。


マッケーレブは日本の開国にともない来日した多数の宣教師のうちの一人です。

f:id:sumai01:20140904170726j:plain

彼は各地に自らの住宅である宣教師館を建て、そこを人々に開放し、語学や西洋料理を教えるといった啓蒙活動を通じて布教活動を行いました。

マッケレーブはテネシー州ナッシュビル郊外の広大な敷地で綿花栽培を生業とする両親の六男として1861年に生まれた。

生後6ヵ月の時に父親を南北戦争で失い、一家の生活は厳しくなり、家業の手伝いなどで満足な教育は受けられず、21歳までは農閑期などに開かれるボランティーヤ・スクールで読み書きを教わる程度でした。

27歳の時に、ケンタッキー州のカレッジ・オブ・ザ・バイブルに入学し、ここで世界宣教の刺激を受けます。

f:id:sumai01:20140904172248j:plain

カレッジ・オブ・ザ・バイブル

ここで先輩の宣教師アズビルと出会い、彼の勧めによって日本伝道を決意します。

 マッケーレブが開いた雑司ヶ谷学院では、学生たちが彼と共同生活を行いました。

学生は、日中それぞれが通う大学で学び、朝と夜にマッケーレブを教師として聖書と英語を学びました。


マッケーレブは青年にキリスト教的な人格を備え優れた指導者を育成することを目的としていましたが、学生のなかには飲酒や喫煙など不正行為をはたらくものが続出してしまいました。


また人が良かったため、自薦他薦の人を雇っては金品を持ち逃げされたり、裁縫学校を建てるために銀行借り入れをしようとしている人のために雑司が谷学院を抵当に入れて、結果的には借金を肩代わりせざるを得なくなりました。


裁縫学校の件などで大きな痛手を受けた直後に関東大震災で学院の建物が被災したこともあって、マッケーレブは建物を復旧することなく学院を閉鎖してしまいます。
さまざまな困難に遭いながらも、彼は学院の運営に併行し、教会堂を建て、幼稚園を開設するなど、積極的な布教に務めました。
しかし、太平洋戦争開戦直前の1か月前に、アメリカ大使館からの在日米国人に対する帰国の勧告を受けて、帰国します。

 

現在、こちらの建物は、豊島区の有形文化財として一般の方々に広く公開されています。

f:id:sumai01:20140904174515j:plain

建物の構造は木造2階建てです。
設計者、施工者とも不明ですが、外国人建築家の関与が考えられます。
施工は日本人大工で藤崎という姓のみ伝わっています。


外壁は特徴のあるアメリカのシングル様式と呼ばれるスタイルで、きわめてシンプルながらも、さまざまな意匠が凝らされています。上げ下げの窓の上部を尖塔型に尖らせた特異な桟の割付け、背面側2階のベランダ(サンルーム)いっぱいに広がる開口が印象的です。

f:id:sumai01:20140904170818j:plain

f:id:sumai01:20140904170914j:plain

上げ下げ窓のベイウィンドウ

 

f:id:sumai01:20140904181410j:plain

 

もう一つのポイントが、玄関ポーチやベイウィンドウ上の切妻を受けるほう杖や、破風の軒先などに見られる独特の繰形で、これはアメリカで発展した大工ゴシック(カーペンダーゴシック)と呼ばれています。

f:id:sumai01:20140904171009j:plain

玄関ポーチのほう杖


大工ゴシック(カーペンターゴシック)とはヨーロッパのゴシックを真似たものです。

本物のゴシックは装飾とも大変に重厚かつ華やかなものですが、その要素を借りて大工にも扱える材料や技術を用いて簡単な意匠として建物に忍ばせています。そこに大工ゴシックのなんともいえない味わいがあります。

 

玄関からホールに入ると、左手に主階段があり、右手には応接兼居間、食堂、さらに右奥に突出して教会事務室があります。

f:id:sumai01:20140904171339j:plain

1階食堂

 

f:id:sumai01:20140904172140j:plain

1階廊下


2階は、1階と同様の間取りで、各室は寝室などに使用されたと思われます。

f:id:sumai01:20140904180057j:plain

2階:寝室 (開戦前にアメリカに渡ったもので100年以上前のもの)


どの部屋にも暖炉があり、建物の中央に集中させています。
これは建物の中心に煙突が通してあり、煙突を一つとするための工夫で機能的にできています。

f:id:sumai01:20140904175421j:plain

 

各室とも板張りの床に漆喰塗りの壁で、天井は格天井。

f:id:sumai01:20140904174819j:plain

1階:格天井と階段

 

2階の天井は格子に割竹がふんだんに使われ、外国人の竹への興味がうかがえます。

f:id:sumai01:20140904171543j:plain

 2階:格子に割り竹天井

 

装飾的な見どころは暖炉で、とくに1階応接兼居間のそれは、上部にブロークンペディメント風の飾りと鏡を備え、暖炉の両脇には植物をモチーフとしたアール・ヌーヴォー風の魅力的な柄のタイルを貼っています。

f:id:sumai01:20140904171620g:plain

f:id:sumai01:20140904180720j:plain

雑司が谷旧宣教館は、簡素な下見板張りの木造住宅ですが、都内でも戦禍を逃れた数少ない場所のため、戦災に生き残った明治期の希少な木造洋風建築です。
異国で布教に励むアメリカ人宣教師の暮らしぶりがわかる貴重な建物となっています。