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日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

山本有三記念館(旧山本有三邸)

こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。

今回のすばらしい建築物は、「旧山本有三邸」です。

 

昭和の文豪で大変有名なひとりが、山本有三です。
劇作家であり、小説家であり、そして政治家。
1965年には文化勲章を受章しています。

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文化勲章:旧山本有三記念館の資料にて

 

そんな、文豪の自邸とは大変興味深いものです。
山本有三の生涯と、昭和の文豪が愛した三鷹の自邸をご紹介します。

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本名は「山本 勇造」です。(1887-1974)

 

1887年7月27日に呉服商の子として現在の栃木市に生まれます。


有三の父親は明治維新後、裁判所書記などを勤め、その後呉服屋の修業を積み独立します。

しかし失敗。

かつぎ商人となって苦労の末、「品のいいものを少し」の商法を貫き、財産家や富商などの固定客を掴み、栃木町で外商を主にした呉服業を営みました。

 

福沢諭吉を崇拝し「思想の深遠なること哲学者のごとく、意思の堅実なること武士のごとく、加ふるに土百姓の身体をもつてして社会の大人たるべし」を家訓にしていたといいます。

 

この父親の不遇と貧乏から身を起こし、不屈の意思と強健な身体と努力とで出世していくその精神は、有三の代表小説『路傍の石』にも取り上げられています。

 

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 朝日新聞連載(1937年1月1日〜6月18日) 岩波書店、1941年、のち新潮文庫

 

山本は当時珍しかった幼稚園に女中の送り迎えで通い、跡取りとして裕福に育っています。

 

母親が大の芝居好きであったことから、幼いころから芝居には親しんで育ちますが、これが後に有三が劇作家となることにも影響したことでしょう。

 

有三は高等小学校を卒業すると、父親に商人に学問は無用と東京浅草駒形町の呉服屋「伊勢福」に丁稚奉公に出されました。

 

中学進学を夢見ていた有三はもちろん商人に向かず、逃げ帰っています。

 

しかし、その後、母親の説得で再度上京することになります。

 

学問に励んでいましたが、決して順調ではなく、また父が急逝により故郷に戻ることになりましたが、やはり向学への思いが捨てきれず、苦学の末に一高文科に入学しました。

 

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旧制第一高等学校 正面              旧制第一高等学校内部図

 

そこで同級生だった近衛文麿とは生涯の親交を暖めます。

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近衛文麿総理大臣(第34・38・39代) 『首相官邸ホームページより』

 

また、ドイツ語で落第したために、芥川龍之介菊池寛久米正雄らと同級生となります。

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左:菊池寛 右:芥川龍之介

 

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芥川龍之介:30歳前後

  

実はこの落第が、有三の運命を左右したと言っていいでしょう。

 

山本有三と言えば、劇作家や小説家、そして政治家として有名です。


処女戯曲『穴』を執筆するのは、第一高等学校文科生だった明治43年(23歳)のときで、その年、落第が決定した有三は8月、足尾銅山鉱毒事件を自ら取材し、坑道で働く労働者を描写しました。

 

社会派の戯曲の始まりといえます。

 

有三の戯曲は社会の不合理を批判し人間の尊厳を訴えたものでした。

 

そして、この落第の屈辱は負けず嫌いの有三の向学心に火をつけ、なんと2年修了で東京帝国大学逸文学選科に合格することになります。

 

 東京帝国大学独文学科在学中に文芸雑誌「新思潮(しんしちょう)」の創刊に参加し、同大学卒業後の1920年に戯曲「生命の冠」でデビュー。

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上記写真は新思潮創刊号(第1次)

 

その後、第一高等学校 (旧制)時代の同級生であった菊池寛芥川龍之介などと「文芸家協会」を結成し、内務省の検閲批判や著作権の確立に尽力します。

 

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大正5年、第4次「新思潮」同人:左から久米正雄、松岡譲、芥川龍之介、成瀬正一

 

戦後は参議院議員となり,国語問題にもかかわりました。

  

山本有三の代表作品としては、戯曲「米百俵」や詩「心に太陽を持て」、小説「路傍の石」などが有名です。

 

米百俵 1943(昭和18)

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『一年の計は麦を植えることにあり
 十年の計は樹を植えることにあり
 百年の計は人を植えることにあり』
米百俵の有名なフレーズ)

 

小泉元首相の所信演説で「米百俵」を引用したことで、山本有三の戯曲「米百俵」が再び全国的に知れ渡りました。

絶版されていましたが、このことで復刻されました。

 

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山本有三 著 
新潮社 1935(昭和10)

自由が制限された時代にありながら先駆的な児童教養叢書でした。

 

『心に太陽を持て』


心に太陽を持て。
あらしが ふこうと、
ふぶきが こようと、
天には黒くも、
地には争いが絶えなかろうと、
いつも、心に太陽を持て。

くちびるに歌を持て、
軽く、ほがらかに。
自分のつとめ、
自分のくらしに、
よしや苦労が絶えなかろうと、
いつも、くちびるに歌を持て。

苦しんでいる人、
なやんでいる人には、
こう、はげましてやろう。
「勇気を失うな。
くちびるに歌を持て。
心に太陽を持て。

 


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人間はな。人生という砥石で、ごしごしこすれなくちゃ、

光るようにはならないんだ。 『路傍の石』より

 

学校ってものは、からだとからだのぶつかり合うところだ。

先生の魂と生徒の魂が触れ合う道場だ。それではじめて、

生徒は何ものかを体得するのだ。

一生忘れないものを身に付けるのだ。

そうでない学校なんか、学校じゃない。

人間のはきだめだ。 『路傍の石』より

 

 

父親の何事にも屈せず、やり遂げていく精神は山本にも受け継がれていたと言えます。こうして文豪、山本有三は日本の国語教育に多大な貢献をした国民的作家として名を残すこととなりました。

 

さて、文豪の愛した街、三鷹ですが、自然が溢れ歴史と最先端の技術にも触れられる魅力的な場所です。


山本有三記念館(旧山本有三邸)は、三鷹駅から玉川沿いを12分ほど歩いた住宅地の一角にあります。

 

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山本有三邸:正門

 

昭和11年49歳のときから10年間、家族と暮らした住宅が保存、活用されています。


家族が増えて家が手狭になったこと、また吉祥寺駅周辺の市街地化が進んできたこともあり、よりよい住環境と執筆環境を探していた山本は、昭和10年の夏、売りに出ていた三鷹の家を訪れました。

 

そしてこの瀟洒な洋館を一目で気に入り、約1200坪の土地とあわせてこの家を購入しました。

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テラス側

 

この家はもともと清田龍之助の住宅として建てられました。

 

清田龍之助(1880-1943)は、8年間のアメリカ留学で身につけた語学力を活かし、日本電報通信社(現電通)外信部長、東京高等商業学校(現一橋大学)教授、貿易商、翻訳家など多才な活躍をした人物です。


1918(大正7)年に三鷹の土地を購入した清田は、1926(大正15)年12月に建物を登記して間もなくここに住所を移しました。


清田はしばらくこの家で暮らしましたが、事業の失敗もあってか、自宅は昭和6年6月に競売にかけられ、抵当流れとなっていたところを山本の目にとまることとなりました。

 

建物の構造は1階の一部が鉄筋コンクリート造り、2階より上を木造とした混構造です。


2階建てで屋根裏付き、地下にはボイラー室があります。


外観からは、複雑な形の屋根と、背面と両側面の3ヶ所にそびえる煙突が特徴的で、バランスよく配置されたまっすぐ伸びる煙突が、建物の外観を一つにまとめあげています。

 

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正面

 

まず正面の煙突下部のデザインがまず目を引きます。


大谷石を不規則に積み上げたような形です。


大谷石は、栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材です。

 

柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁や土蔵などの建材として使用されてきました。


大谷石はほかにも、土台まわりや、庭に面したテラスの階段にも効果的に用いられています。


大谷石の装飾的な使用は、帝国ホテルの設計で有名なアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトの影響を受けたものと見られ、建物に大正らしいモダンな雰囲気を添えています。

 

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煙突下部

 

中に入ると、主な部屋は手作り感のある金具や太い木材を用いたイギリスの民家風の仕上げです。

 

1階のテラス横の長女居室はロマネスク様式の教会風で、アーチ窓から差すやわらかな光が充満しています。

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長女居室

 

また、3ヶ所に設けられた暖炉は童話に出てきそうな空想的なデザインになっています。

 

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応接室:暖炉

 

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食堂:暖炉

 

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玄関ホール:暖炉

 

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玄関ホール:家族と過ごす山本有三 

 

2階の中央にある和室は、山本が書斎に改造したものです。


もともとは洋室でした。

 

上質な茶室に通じる数奇屋風の和室は山本の趣味らしく、もしかすると、山本が自ら図案を描いたのかもしれません。


2階の窓全体は和室洋室のいずれにも違和感のないように格子調のデザインになっています。

 

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和室

 

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和室:特徴的な格子調窓

 

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外観から見える和室の窓

 

全体的にはヨーロッパの落ち着いた邸宅を思わせる堅実な雰囲気にまとめ上げたデザインは、この家を手がけた建築家の力量を十分に示すものですが、これだけの建物でありながら、不思議なことに、建物を建てた清田龍之介自身も、建物を設計した人物は不明だということです。

 

こういう器用な住宅を設計できるのは、建築学を学びそれなりの実力をもつ日本人建築家ではないのかと想像はつくのですが、誰の作品なのか、今のところわかっていません。

 

こうしたことから、山本有三記念館はきわめて不思議かつ不可解な建物なのです。

 

戦後は国立国語研究室や都立教育研究所の分室、有三青少年文庫と、さまざまな使われ方をしながらも、住宅としての魅力は失われずに、今日まで大切に受け継がれています。


現在は山本有三の生涯と作品を紹介する施設として公開され、ゆかりの品や作品の展覧会や朗読会などが行われています。

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 愛用品:旧山本有三記念館の資料にて