こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。
横浜の元町公園の向かい側、山手本通り沿いに山手234番館は建っています。
この建物は関東大震災後に建てられた、外国人向け復興住宅です。
山手に残る洋館の多くは、関東大震災後の昭和戦前期に建てられました。
この山手234番館をご紹介する前に、横浜の歴史について少し触れてきたいと思います。
そのほうが、より深く楽しめ興味をそそられることでしょう。
横浜山手は、洋館をはじめ、教会や外国人墓地などが集まる異国情緒あふれる地区です。
山手が異国の香り漂う街となったのには、歴史的な背景があります。
横浜港は1858(安政5)年、徳川幕府が欧米各国との間で通商条約を締結し、1859(安政6)年に国際港として開港しました。
開港当時の横浜港
開港後の横浜は急速な勢いで貿易港としての機能を高め、貿易額は1860(万延元)年から明治期に入るまで、国内貿易額の約7~8割を占めていました。
横浜に開設された開港場には、一攫千金を狙う商人や、幕府の誘致によって出店をした江戸の商人による店舗が立ち並びました。
また、外国商人では、すでに中国との貿易で利益をあげていたジャーディン・マセソン商会をはじめ、多くの外国商社が開店し、開港場の市街地化が進行しました。
ジャーディン・マセソン商会:清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている会社で知られていますが、その会社が横浜にも進出していました。
このように、外国人居留地は都市としての機能を持ちはじめ発展していきますが、866(慶応2)年に大火事が発生し、壊滅的な被害を受けることとなります。
それが、慶応の大火です。
日本人町の約3分の1が焼失し、外国人居留置にも被害が及ぶ大惨事でした。
慶応の大火
皮肉にも、この大火による復興がきっかけで、現在の山手地区が新たに外国人居留地に編入されることになります。
その後、旧居留地(山下居留地)は商工業地区として、山手居留地は住宅地区として特色ある街並みを形成していきました。
その当時は中国人が最も多く、居留地人口の約70%を占め、欧米列強ではイギリスの勢力が強く、イギリス人の人口が占めていました。
外国商館が建ち並ぶオフィス街としての山下居留置とは対照的に、教会や学校、劇場など、外国人のコミュニティをささえるさまざまな施設が整備されていきました。
ブラントン実測の横浜居留地地図1870年
こうした目覚ましい復興の中、新しい文化が根付き始めた折りに、未曾有の大地震が起こります。
大正12(1923)年9月1日11時58分、関東大震災です。
東京での大火災による被害があまりに大きかったために、東京の地震だと思っている人が多いことと思いますが、震源域は相模湾を中心に広がり、神奈川県から千葉県南部を中心に震度7や6強の揺れが発生しました。
神奈川県での揺れが強かったことは、横浜市と東京市の住家全潰棟数を見ても明らかです。
当時の横浜市は人口約42万人で東京市の約220万人に比べ1/5の規模の都市でした。
それにもかかわらず、横浜市の住家全潰棟数は約1万6千棟と東京市の1万2千棟をはるかにしのぐものだったのです。
そして、やはり横浜でも大火災がおきます。
関東大震災・横浜
震災後の元町通り
この大火災の原因は、当時普及が急ピッチだった水道管からの消火活動が出来ると過信した結果で、地震で水道管が断裂し、さらに折からの強風(風速10~15m)によって、随所で発生した火事に消火活動が追いつかなかったことが原因のようです。
1973(明治6)年にオープンした日本最大の豪華ホテルであった横浜グランドホテルもこの震災で姿を消しました。
1890年頃のグランドホテル:左側がオープン当初の建物、右は1890年に建てられた新館
1880年にここを訪れた「日本、その建築、美術、美術工芸品」の著者クリストファー・ドレッサーはその著書の中で、パリのグランドホテルにいるようだ、と感想を述べています。
また「グランドホテル」は堅牢な石造りの大建造物かと思っていたが実は壁の表面に薄い石版を貼った木造建築で、その石版に小さな穴を開け吊るしていたと驚いたということです。
1889年には新館の増築を図り客室360を数える大ホテルとなっていきました。
増築後裏手1900年ごろ
グランドホテルはその後、東京の帝国ホテルとならんで日本有数のホテルとなりましたが、
地震による崩壊と火災により見るも無残な姿となりました。
震災後
現在、山手に残る多くの洋館は、この震災復興期に建てられたものです。
それは、昭和の洋館として特徴づけられます。
ちなみに震災以前に建設された建物で現存している横浜の近代建築は、旧横浜正金銀行本店本館と旧開港記念横浜会館のみになります。
旧横浜正金銀行本店本館
旧開港記念横浜会館
また、現在の山手には、多くの洋館が移築されていて、以前から残る昭和の洋館に、これらの明治・大正の洋館が加わることで、山手と言えば洋館というイメージが定着しました。
山手資料館(旧中澤兼吉邸)1909(明治42)年竣工 1977(昭和52)年移築
外交官の家(旧内田定槌邸)1910(明治43)年竣工 1997(平成9)年移築
関東大震災後の山手の街並みは1日にしてがれきの山と化しました。
震災前に7650人だった横浜在留の外国人の人口は、震災翌年の秋には2156人にまで激減していました。
そこで復興に向けた課題の一つが、横浜の貿易を支えてきた外国人たちに再び横浜へ戻ってきてもらうことでした。
横浜市の震災復興事業では、外国人を招致するためのホテル(現在のホテル・ニューグランド)が建設されたほか、山手と根岸には外国人向けの市営住宅が建設され、その一部は現在も個人住宅として使用されています。
その復興住宅の一つが、山手234番館なのです。
昭和初期に建てられた木造2階建ての外国人向けの復興集合住宅です。
市営ではなく民間事業者による賃貸住宅で、長く外国人住宅として使用され平成元年に横浜市が所得し、改修工事を経て、平成11年から現在の形で公開されています。
設計者は横浜に事務所を構えていた朝香吉蔵です。
住宅設計を中心に、横浜の震災復興を支えた建築家の一人といえます。
明治22年に山形で生まれた朝香吉蔵は、横浜の浅野造船所や横浜船渠株式会社建築部などを経て、大正12年に事務所を開設しています。
現在のところ、この234番館と隣接する「えの木てい」以外に、所在がはっきりする設計作品は知られていません。
えの木てい 1927(昭和2)年竣工 震災復興賃貸住宅 現在はケーキが楽しめるカフェです。
まずは、正面の外観。
正面の玄関ポーチ
中央の玄関ポーチを挟んで、1階前面が列柱の並ぶベランダになっており、その上に2階バルコニーが設けられてます。
しかし、これは改修工事の際に手が加えられたもので、改修工事前には、1階のベランダにも2階のバルコニーにも引き違いのガラス窓がはめ込まれ、サンルームのような室内空間となっていました。
建物内には同一形式の住宅が4戸収められ、中央の玄関ポーチをはさんで、左右対称に二つの住まいが上下に重なっていました。
建物の裏側を見るとその様子がわかりやすいと思います。
裏側
上げ下げ窓と鎧戸が外観のアクセントになっています。
共有部といえば、玄関ポーチのみといったところです。
入口は、1階中央部分の4つの扉で、格戸は完全に分離し、2階への階段は2つありました。
現在は見学しやすいように、勾配のゆるい折り返し階段となっています。
階段
間取りを見ると、居間兼食堂が通りに面して配置されていて、その奥に台所と浴室、そして3つの個室が続いています。
居間兼食堂の天井に見える大きなアーチが優美な曲線を描いています。
このアーチ形の袖壁によって、居間と食堂を分割する役目を果たしています。
居間兼食堂
居間の奥には天井近くまでの高さの大きな食堂棚が備えられていて、食器類の他に、改修工事の際に取り外された照明器具やドアノブなどの建築部材が展示されていました。
食堂棚
その他の3戸の各部屋は、ギャラリーやレクチャールームなどの貸しスペースとしてに市民に活用されています。
個室1
個室2
浴室に面した建物中央には小さな光庭が設けられ、採光と換気の機能を果たしています。
小さな空間ですが、やさしい光が差し込んできます。
光庭
1階には、模型や、改修前と改修後の図面もあり、内部まで細かくつくり込まれた模型は一見の価値があります。
模型の一部(外観)
各住戸はアパートらしく合理的でコンパクトにまとめられ、モダンな生活様式が伺えます。
上げ下げ窓や鎧戸、煙突なども簡素にまとめられ、外国人招致に務めた震災復興期の状況を反映した洋館であるといえるでしょう。
また当時の外国人住宅のあり方を教えてくれる貴重な住宅です。