日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧洋館御休所(新宿御苑内)

 

広い新宿御苑の中央部に広がるイギリス風庭園の北側に、ひっそりと建つ地味な平屋建ての建物が今回の主役「新宿御苑旧洋館御休所」です。

 

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この建物は、皇室の休憩所として御苑の敷地内に建設され、後に一種のクラブハウスのような役割を担うようになった建物です。

 

一見、質素な建物で見過ごしてしまう方も多いかもしれませんが、建物の端正なデザインと、上品で雅な姿は、さすが皇族ゆかりの名建築物と言えるでしょう。


そもそも、この建物が建っている「御苑」とは一体どういう所なのでしょうか?


「御所」と何が違うのか、はっきりさせておくと、わかりやすいかもしれません。

 

「御所」というのは塀内の旧皇居のことを指します。


その外側、つまりそれ以外の公園部分を、「御苑」と呼んで区別しているのです。


また、「御所」の所轄は宮内庁、「御苑」の所轄は環境省、「迎賓館」の所轄は内閣府と管理も分かれています。


そして、面白いことに「御苑」は現在、「国民公園」という扱いになっています。

 

「国民公園」とは環境省が管理する公園の一つで、皇居外苑・新宿御苑・京都御苑の3箇所のみです。


昭和22年より広く国民に開放され、利用されています。

 

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皇居外苑

 

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新宿御苑

 

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京都御苑

 

もともと新宿御苑の敷地は、江戸時代の信濃高遠藩内藤家の江戸屋敷の一部があった場所です。


1590(天正18)年に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際に、譜代の家臣であった内藤清成に授けました。

 

徳川家康から、「馬で一息に回れる土地を与える」といわれ、清成の乗った駿馬は南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、ついに白馬は力尽きて死にましたが、家康は約束通りの土地を清成に与え、広大な拝領地を得たと言う逸話があります。

 

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多武峰内藤神社:内藤家所縁の神社:馬を祀る駿馬塚があります

 

上記の広大な土地を授かった内藤家ですが、本当のところは、江戸から西にのびる街道と、鎌倉街道が交差する要所であったことから、この一帯の警護や軍事的な目的もあり、家康が信頼できる家臣に与えたとされています。

 

そして、6代目(7代目との説があります)当主が1691(元禄4)年に、3万3千石の信州高遠城主となりました。

 

しかし、一見、城主というと聞こえは良いですが、その後の藩の歩む道をみれは大変苦労したようです。

 

まず、高遠への移動に際して幕府の行なった検地では、実高が3万9000石であるとされ、
そのうち6000石が幕府領とされました。


そのため財政が苦しく、新田開発に尽力しこの新田開発で実高をかなり上げましたが、その反面で様々な要職を歴任させられたことから、出費が増大し、藩財政を苦しめたと言われています。


1699(元禄12)年には、江戸四谷付近に甲州街道の宿場として「内藤新宿」が開設されます。

 

宿場予定地一帯には内藤家の江戸中屋敷などがあり、清成は開設に先立ち幕府にかなりの部分の土地を返上させられています。


ちなみに、「内藤新宿」の名はこの地にあった「内藤宿」に由来しています。


内藤新宿とは江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもありました。

 

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内藤新宿:『江戸名所図会 3巻』より「四谷内藤新駅」 

長谷川雪旦(はせがわせったん)画 天保5~7年(1834~1836)刊

 

そんな苦難もありましたが、それでもなお1872(明治5)年には、まだ10万坪以上が残されていました。


新宿御苑は、この内藤家の9万5千坪あまり(内藤家の上納された土地)と、当時すでに私有地化していた内藤家の屋敷の土地の隣接地(買収した土地)を合わせた17万8千坪(58.3ha)の土地に誕生するのです。

 

そして、同年、我が国の近代農業振興を目的とする「内藤新宿試験場」が設置さました。

 

目的は、欧米の技術や品種を含めた果実・野菜の栽培・養蚕・牧畜の研究等を幅広く行うためです。

 

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試験場時代の明治8年に建 てられた温室

 

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東京内藤新宿舊停車場際 日本種苗株式会社

 

その後は、これら研究を他に移し、1879年(明治12年)に宮内省(現在の宮内庁)管轄となり「新宿植物御苑」として新たな出発をします。

 

明治25年には温室、36年には日本庭園、39年までにフランス式庭園が造られるなど、御苑としての整備が進みます。

 

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明治20年代の新宿植物御苑の温室

 

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1907(明治40)年温室の外観

 

そんな歴史の中、「旧洋館御休所」は明治29年に竣工しました。

 

本来は、皇室が温室の果実などを観覧されるときに使用される休憩所としての役目でした。


その後は、新宿御苑の環境が整うにつれて、テニスやゴルフなどの野外レリクエーションの場としての変化に伴い、この休憩所も次第にクラブハウスとしての役割を担うようになっていきます。


1922(大正11)年にゴルフ界の重鎮だった大谷光明さんの設計による4ホールがあり、その後、9ホールに拡幅され、皇室専用のゴルフコース(1736ヤード、パー32)が完成していました。

 

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新宿御苑:中央芝生 現在

 

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新宿御苑内:昭和35年

 

「旧洋館御休所」設計は宮内省匠寮によるもので、複数人が設計にあたっています。


担当者の一人は片山東熊です。


片山東熊は、工部大学校造家学科(現在の東京大学建築学科)の一期生で、ジョサイヤ・コンドルに師事しました。


工部大学校造家学科については、以前「旧東京音楽学校奏楽堂」にてほんの少しですが触れています。

 

旧東京音楽学校奏楽堂 - 日本のすばらしい建築物

 

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片山東熊

 

片山東熊は、宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わっている人物です。


職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設や公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行っています。

 

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仁風閣(鳥取県):1907(明治40)年

 

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東京国立博物館 表慶館:1908(明治41)年

 

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旧東宮御所(赤坂離宮):1909(明治42)年

 

建築家としての片山をより面白くしているのは、片山自身の経歴だと言えます。

 

片山は、1854(嘉永6)年1月長州藩萩の生まれです。


12歳で高杉晋作の奇兵隊に加わり、戊辰戦争では、山縣有朋の下で戦っています。

 

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 高杉晋作

 

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奇兵隊

 

片山の兄の湯浅則和は、「兵部省の山城屋事件」で長州閥の山縣有朋をかばい辞職していたために、山縣は片山を生涯引き立てたと言われています。

 

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山縣有朋

 

●山城屋事件

 

山城屋事件とは、1872(明治5)年、陸軍省の御用商人山城屋和助が、陸軍省から無担保で借り受けた公金を返済できず自殺した事件とされています。

 

その際に、無担保で多額の公金を貸し付けた責任の所在について、山縣有朋が追及されることになるのです。

 

山城屋和助とは後の名前で、本名は、野村三千三です。


政府要人と同じ長州藩出身でした。

 

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山城屋和助

 

幼少時に両親と死別し、親戚により萩の寺「龍昌院」に預けられ、僧侶となり修行に励みます。


その後、還俗し、高杉の奇兵隊に入隊、片山東熊同様に山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦しました。


戊辰戦争では小隊長として活躍し、密偵としても行動していたとも言われ、その間に山縣の知遇を得たと言われています。

 

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戊辰戦争:上野戦争の絵 山城屋は上越戦争に参加したと言われています。

 

明治維新後に、山城屋和助と名前をかえ山縣有朋の縁故で兵部省御用商人となり、横浜に店を構えるまでになります。


もちろん商人の才覚も少なからずあったでしょうが、山縣の絶大なコネにより、兵部省の武器弾薬などの軍需品の納入を一手に引き受けて莫大な利益を得て豪商として名を馳せます。

 

そして親交のある山縣を介して陸軍省から公金15万ドルを借り、生糸市場に手を出します。


その額は総額65万円、当時の国家予算の1%という途方もない金額でした。

 

長州系軍人官吏らは貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金(賄賂)を受けたとされています。


もちろん山縣も、受け取ったていたと言われていますが、本当のところは謎に包まれています。

 

山城屋は一時は500人以上の店員を使うほど隆盛し多額の富を得ましたが、普仏戦争による生糸価格暴落で投機は失敗し、多額の損失を出します。

 

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普仏戦争:1870年勃発 フランスとプロイセン王国の間で行われた戦争

ピエール=ジョルジュ・ジャンニオ画

 

案の定、予定期日までに公金を返済できず、なんとか一人で取り返そうとします。

 

陸軍省から更に公金を借り出して、フランス商人と直接商売をしようとフランスに渡るのです。


追加で公金を貸した陸軍省も問題ですが、自分で何とかもう一回当てようとした山城屋にも驚きます。


しかし、その後パリに渡った山城屋に、本当か嘘か、こんな噂が流れます。


「一流ホテルに宿泊し、劇場で遊んで、女優と交遊したり、競馬に入れ込み、さらには金髪の富豪令嬢と婚約した」というものです。


もちろん、この有様は当然に本国に報告されることになり、ついには、非長州系の政府要人の知るところとなります。

 

山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を一切絶ちます。


山縣から至急の返済を求められましたが、この時点で和助の借金額は64万8000円にも達し、もちろん返済は不可能でした。


窮地に立たされた山城屋は、覚悟を決め手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山縣への面会を申し入れますが拒絶されます。


面会を諦めた山城屋は陸軍省内部の一室で割腹自殺しました。


結局、彼が、すべてを背負って自殺した事で、この事件の真相は闇に葬られる事となりました。

 

これが、事件の概要です。


しかし、この事件には政治的背景が見え隠れします。

 

そのころ、山縣は近衛都督として近衛兵を統括する立場でした。


しかし、近衛兵内部の薩摩系軍人にとっては、長州人である山縣が指揮官として上に立つことに不服とする空気が強かったのです。


また、徴兵令を推進する山縣とこれに反発する桐野を代表する薩摩系を中心とした保守的な軍人の対立があったために、この事件は薩摩系軍人にとって格好のスキャンダルとなりました。

 

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桐野利秋


山縣はこれを受けて、近衛都督の地位を降り、西郷隆盛に譲るとともに、1873(明治6)年には陸軍大輔も辞任します。


(しかし、西郷隆盛が失脚したのちに、再度、近衛都督に戻って、出世コースに戻ることになりますが・・・)

 

山縣はさらに江藤新平らにより責任の追及をされますが、助かったのには、山城屋が問題となるような手紙や、帳簿と長州系軍人の借金証文類等をすべて焼き捨てたのちに自害していることです。

 

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江藤新平:最初の司法卿になり、法律や新しい裁判の仕組みを作りました


山城屋がそれだけ山縣を慕っていたためなのか、そうせざるを得なかったのか、今では知る由もありません。


すべての責任を背負わされて、日本に連れ戻されたとも考えられ、疑い始めればきりがありません。


ただ、はっきりしているのは、若干37歳で世を去ることになった山城屋は、まさに波乱万丈の人生だったと言えるでしょう。

 

この事件の際、片山東熊の兄、湯浅造家学陸軍中佐は事件に関係していたとされ、裁判で武官免職・位記剥奪の判決を受けて引責辞職しています。

 

しかし、この事件により、片山は、山縣の強い後ろ盾を得て、同世代の建築家の中では抜群に有利な背景を持つことになるのです。


就職の際も担当教授であるコンドルに頼らずとも、宮内省への道が開かれたのは容易に想像がつきます。


そんな片山に宮内省から与えられた仕事の一つが「旧洋館御休所」の設計です。


片山の設計の特徴は、代表作の東宮御所(迎賓館赤坂離宮)のように、フランスのルネッサンスやバロック様式を用いて、贅沢で華美なものが多くあります。


それでは、旧洋館御休所はどうでしょうか。


それは、気品にあふれた清楚な少女のように繊細な建物でした。

 

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正面

 

構造は木造平屋建て、屋根は切妻造りでストレート葺きです。


南に面した玄関には車寄せがあります。


外観ですが、壁は漆喰で塗られ、化粧飾りの柱型や横に張られた桟が印象的です。


これは、19世紀にアメリカで流行した住宅建築様式のスティック・スタイル(木骨様式)を基調としたものです。


スティック・スタイルとは、連続した間柱として柱を外観から見せる技法のことです。

 

スティック・スタイルの特徴としては、窓台下の部分にX型の柱がデザインのように見える部分や外壁の上部に縦板を張り巡らせている部分など、随所に見られます。

 

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 ちなみに、参考として、旧三笠ホテルも、日本建築において代表的なスティック・スタイルとなっています。

 

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旧三笠ホテル

 

また、軒先が真っ白なレースのように装飾されていて美しく、切妻破風の部分には、植物文様が透かし彫りにされています。

 

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植物文様と軒先のレース


外観の漆喰で全体的には白、屋根の縁と雨戸井がブルーグリーンの色彩により、清潔感のある端正な印象です。


1909(明治42)年・1922(大正11)年・1924(大正13)年に増築されていますが、違和感なくつながっています。

 

残念ながら、室内は撮影不可となっていますが、少しだけ触れてみたいと思います。


室内ですが、御居間、次之間、御食堂には暖炉が備えられ、窓には前飾りのあるボリュームのあるドレープカーテンが吊るされ格調高いデザインです。


天井は、木天井に格縁をまわし、中央には華奢なアイアンワークのシャンデリアが飾られています。


外観は、簡素ながら、細かいところで手の込んだ木造建築ですが、意外に内装はゴテゴテしておらず繊細な意匠です。


次に、建物の外周をぐるりと見ていくことにしましょう。

 

玄関は、丸い街灯が1つ付いた、シンプルな作りで、先に述べた通り車寄せがあります。

 

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玄関と車寄せ

 

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外灯がシンプルながら、光を灯すとたいへん美しい姿です

 

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 下から見上げると菊の模様になっています

 

建物の東部分ですが、大きく半円に膨らんだベイウィンドウが見えます。


このベイウィンドウを含めたこちら側は、内廊下となっています。

 

建設当初は中庭と居間をめぐるこの部分が吹き放しで、ベランダのようになっていたのを、1922(大正11)年に改装を行い、ガラス戸を建て込みました。

 

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東廊下部分

 

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東廊下側のベイウィンドウ

 

建物の北側半分は内廊下同様に1922(大正11)年に増築された部分で、浴室や更衣室などが整備され、クラブハウスとしての活用やゆっくりと休憩できる場所として対応出来る形となりました。


浴室には、バスタブや照明等、当時のまま残されています。


また、併設されているトイレは当時としては珍しい水洗式だったそうです。

 

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北側の増設部分

 

残りの北側半分から、西側にかけては、1909(明治42)年に増築された部分で調理室、臣下控室、仕入詰所が出来き、御食堂も広くなりました。


正面南側の御食堂も広くり、そのおかげで晩餐会も開かれたと言います。

 

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建物西側・御食堂付近


1924(大正13)年には、今まで設けられていなかった、妃殿下と婦人用の浴室、お手洗い、化粧室が増設されます。


皇后をはじめとする皇室の女性達も、御苑の動植物園や運動場を利用されはじめたことが伺えます。


新宿御苑の建物の多くは、1945(昭和20)年の3度の空襲によってことごとく焼失してしまいます。


残ったのはこの旧洋館御休所と旧御涼亭(台湾閣)の2棟だけです。

 

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東京大空襲:焦土と化した東京。

本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもので、右側にある川は隅田川です

 

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旧御涼亭

 

「旧洋館御休所」は明治時代に建てられた木造の洋館で、現存するものが少なくとても貴重な建築物と言えます。


室内の撮影不可で詳しくご紹介出来なかった部分を、ぜひ皆様の目でお楽しみ下さい。


スティック・スタイルの木造の骨組みの美しさをもっと近くに感じることが出来きます。

 

新宿御苑の楽しみ方の一つとして、ぜひ参考にして頂けたらと思います。