こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。
熱海駅から坂道を8分ほど上ったところに、タウトが設計した日本に現存する唯一の地下室があります。
ブルーノ・タウト
ブルーノ・タウトはドイツ人の建築家です。
知っている人には「タウトの設計建築が日本にあるなんて!」と心がシビれ、彼を全く知らない人には、全然ピンとこないのではないでしょうか。
これからご紹介する建物の地下室は、タウトが日本で受けた日本建築美と伝統文化、そして色彩と空間において、飛びぬけて素晴らしい独自の感性により表現されたものです。
今回は、訪問者に熱い刺激と面白いインスピレイション与える「旧日向別邸」をご紹介します。
地下室の社交場の一部・タウトの設計した椅子
この建物は、日向利兵衛の別邸として建てられました。
日向は1874(明治7)年、大阪の実業家「唐木屋」の一人息子として生まれています。
15歳で香港に渡り、現地の日本人商会に勤めていましたが、日本領事に説得され、帰国しました。
大学卒業後に家督を継ぎ、得意の語学と幅広い人脈を生かして、貿易関係で活躍しています。
日向利兵衛
美術、建築に造詣が深かったそうですが、それは家業が日向に大きな影響を与えていたと言えます。
家業はアジア貿易商で、社名の「唐木屋」の唐木とは中国、タイ、東南アジア等から輸入される高級木材の総称です。
紫檀、黒檀、鉄刀木、花梨など熱帯産の希少価値が高い高級銘木を扱い、実用家具だけでなく高級家具、茶室や数奇屋造りの飾り棚や置家具など、きわめて工芸製の高い製品を製造販売していました。
唐木材はは、釘やネジは使えず各種組手で組み立てられ、仕上げは磨きに磨かれた表面に漆を拭き込んだ「拭き漆仕上げ」になります。
大阪唐木指物:大阪府ホームページより
高度な技術もさることながら、美しさや芸術センスが必要であったのは言うまでもありません。
外国語に精通し、物の善し悪しにも目が届いた日向は、貿易商人として活躍し、広い人脈と信頼から貿易界のフィクサー的役割を果たしたと言います。
また、保険会社の経営などにも関わりましたが、別邸完成の3年後、1939(昭和14)年、65歳で逝去します。
そんな日向が、ブルーノ・タウトに別邸の地下室の設計を依頼したのが、1935(昭和10)年でした。
旧日向別邸を設計したブルーノ・タウトは、1880(明治13)年5月にドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルクに生まれました。
地元の建築学校を卒業後、ドイツの設計事務所で勤務した後に、1909(明治42)年ベルリンで建築設計事務所を開業します。
そして、下記のような建築が高く評価され、世界に名前が知れ渡ることになるのです。
鉄のモニュメント:1910(明治43)年
グラスハウス:1914(大正3)年
タウトは「表現主義」の建築家と呼ばれました。
「表現主義」とは、、20世紀初頭にヨーロッパで見られた建築様式です。抽象的な幾何学建築とは対照的に、主観的・有機的なデザインを基調としました。
ガラスやコンクリートといった素材のもつイメージや性質を生かした造形が特徴で、ベルリンを中心としたドイツ語圏で見られたドイツ表現主義、およびオランダのアムステルダムを中心としたアムステルダム派があります。
また、タウトは集合住宅の設計を手掛けたことでも有名です。
19世紀後半から人口集中、スラムの発生など都市問題が発生し、また、第一次世界大戦の敗戦国であったドイツでの労働者の生活環境は劣悪なものでした。
タウトは、主任建築家として労働者の健康を考慮した集合住宅に注力し、1924(大正13)年から1931(昭和6)年の8年間で12000軒の住宅を設計しました。
イギリスの「田園都市構想」に刺激を受け、建物配置、採光や通風等の工夫を行い、自然と共生し、自律した職住近接型の緑豊かな都市機能を備えました。
ジードルンク(住宅団地)1924(大正13)年:ベルリンの馬蹄形ジードルング
タウトは数年ソ連にて活動しますが、結局ドイツに戻ってきます。
しかし残念ながら、その時のドイツは、ナチスが政権を掌握していたのです。
親ソ連派という烙印を押されたタウトは、職と地位を奪われ、ドイツに戻ってわずか二週間後には母国を追われることとなります。
悲しいことに、祖国ドイツに家族を残したまま、日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933(昭和8)年5月、日本を訪れ、そのまま亡命することとなりました。
日本に来日した翌日に、「桂離宮」へ案内されましたが、その「桂離宮」を世界に広めた最初の建築家となりました。
桂離宮
当時のタウトの日記には、「泣きたくなるほど美しい」と賞賛しています。
来日後は、さまざまな日本の建築家や文化人の協力を得ながら、群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表します。
そして、それらを東京銀座の「ミラテス」にて販売を行っていました。
日本では建築の仕事に携わることは、旧日向別邸のインテリア以外はなかったと言われていますが、日本建築に強い関心をもち、それを研究・評価を行いました。
日本の建築美を分析したくさんの著述と、講演を行ったことで有名です。
タウトは単なる日本賛美だけでなく、辛口で厳しい批判と問題提起をしていることにこそ、たいへん価値があり、彼自身が高い評価を得ている一つだと言えます。
『ニッポン』:初版1934(昭和9)年
『日本美の再発見』:初版1939(昭和14)年
日本建築は、数寄屋造りの中にこそモダニズム建築に通じる近代性があることを評価し、日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えました。
タウトは、旧日向別邸の地下室が完成した後、1936(昭和11)年にトルコのイスタンブル芸術アカデミーからの招請により、教授としてイスタンブルに移住しました。
トルコでは日本では出来なかった分、積極的に建物の設計に取り組んでいたと言います。
日本という東洋の文化と、それまでのドイツでの経験が、より新しい創作意欲を掻き立てていたかもしれません。
しかし残念なことに、移住から2年後の1938(昭和13)年に長年患っていた気管支喘息のため死去しました。
享年58歳でした。
日向との出会いですが、先に述べた、銀座の「ミラテス」(タウトがデザインした作品を売る店)にて、電気行灯のデザインを気に入り購入したことがきっかけと言われています。
日向は、海外に広い知識があったと言われていますので、すでにタウトのことは知っていたかもしれません。
ガラスの積み木:復刻盤
群馬の竹皮編
鉄の行灯
そもそもは、1933(昭和8)年に日向が熱海に温泉付きの別宅の敷地を購入したところから始まります。
当初建物の設計を渡辺仁に依頼し、翌年の1934(昭和9)年には完成したようですが、何かしら不満をもっていたようで、別宅の地下室の内装設計をタウトに依頼します。
それが、日本における唯一のタウト設計の建造物となりました。
そして、1934(昭和9)年から1936(昭和11)年にかけてタウトが設計をし改装という運びとなります。
その際、日向はタクトのために、すぐ近くの民家を借り入れ便宜を図っていたようです。
日向の設計要望は、社交室を造る、現代風の洋間、純和風の間が欲しいなどがありました。
日向はそれまでの多くの経験と貿易商としての目が肥えていたため、素材には大変こだわったようです。
そのため、タウトとは一部で見解が異なり、困っていたという話もあります。
地上:木造2階建て部分
木造2階建て部分の設計をした渡辺仁とは、1887(明治20)年2月生まれ、父は渡辺渡(後に東京帝国大学工科大学校長)の長男です。
東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、鉄道院(鉄道国有化に伴い1908(明治41)年に設置された鉄道行政の中央官庁)に務めました。
そして、逓信省(郵便や通信を管轄する中央官庁)に入省し、その3年後の1920年(大正9年)4月に独立し、渡辺仁建築工務所を開設しました。
渡辺仁
渡辺仁は近代日本の建築家の中でも、歴史主義様式といった古風なものから、初期モダニズムのものまで、多岐にわたる幅広い建築スタイルを持っていました。
代表的な建物は、東京銀座の和光(旧服部時計店)、日本劇場、原邦造邸(原美術館)など、また岡山や広島の百貨店の設計も手掛けています。
服部時計店(和光):1932(昭和7)年竣工
日本劇場:1933(昭和8)年竣工
原邦造邸:1938(昭和13)年竣工
こういった経緯により、旧日向別邸は、地上は渡辺仁、地下改装はタウトという2人の建築家が携わった建物となりました。
立地は海に向かう傾斜面となっていて、別宅を建てる際、渡辺仁の手により、土留のかわりに鉄筋コンクリート造りの人工地盤を造成しています。
そして、そこに地下室を設け、その屋上を庭園として利用する形となっています。
つまり、一見、木造2階建てのこじんまりとした民家に芝生の庭園があるようですが、実はその庭園の下にはタウト設計の大変貴重な部屋が隠れているというわけです。
庭側からの外観
1階室内から
傾斜から見た地下室
それでは、地下を見ていきましょう。
階段を降りると、すぐに小さな広間があります。
広間というより、階段から降りた踊場と言った感じです。
アーチ型の竹格子により、採光と風通しが考えられています。
階段下の開口部
そして、さらに右向きに弧を描くように取り付けられた3段の低い階段があり、特徴的なのは竹の手摺です。
竹が曲げられて組み合わされており、とても丁寧な仕事をうかがわせます。
階段
この階段を降りたところが、社交室です。
この部屋に入ると摩訶不思議な気分になるのは、やはり天井から吊り下げられた電球のせいでしょう。
天井に渡した煤竹には、竹を編んだ鎖の先に多数の裸電球が吊り下げられています。
タウトの作品にも皮編のインテリアが設計されているので、とても気に入っていた素材なのでしょう。
社交室の天井:寄木天井と吊り下げられた電球
部屋の奥を眺めると、電球が波打って見え、不思議な空間に迷い込んだようです。
実は、これはタウトが京都の夜祭をイメージして作ったもので、前衛的というより、外国人から見た日本の異文化に対する感覚が、なんとも面白く、可愛らしいものに感じます。
社交室
床は寄木床、天井も寄木張りとなっていて、とても手の込んだ作りとなっています。(部屋の中心にある電灯は、建設当初はありませんでした。)
当時は、ダンスホールとしての役割のほか、玉突き(ビリヤード)や卓球を楽しんでいたようです。
階段の左側には、アルコープが作られています。
アルコープとは、部屋や廊下などの壁面の一部を後退させてつくったくぼみ状の部分を差し、主要な機能を外れた「遊びの空間」のことです。
アルコープ
社交室から続く隣は、客室(洋間)となっています。
こちらには、先ほどあった電球の飾りはなく、客間の壁は目を見張るえんじ色(赤)に塗りあげられています。
これは、高崎絹を染色して和紙で裏打ちし、貼り付けています。
群馬県高崎では絹の生産が盛んで、この壁に使われている色の原料は、コチニール色素(メキシコの虫から抽出される色)を原料にしたものです。
タウトは「色彩の建築家」とも呼ばれ、独特の感性で用いられる色彩豊かな空間がこの地下室全体からもうかがえます。
カルミンとも呼ばれる赤色の色素のことで、サボテンにつくコチニール(日本ではエンジムシ)という昆虫の雌の体を乾燥したものから抽出して調製します。
コチニール
虫と聞くと抵抗はありますが、実は無害な着色料として安全な添加物です。
加工品として食品の着色に用いられているので、皆さん一度は口にしたことがあるかと思います。
この客室は、上段と下段に分かれているのが特徴です。
この最上段「上段の間」にタウトの椅子を用いて、海を眺める意匠となっています。
また、上段の間の照明はスッキリと天井に埋め込まれ、奥の壁面には真っ白な四角い横長のスペースがあり、こちらには絵画を飾っていたようです。
客室
階段は5段あり、その幅も高さもマチマチとなっています。
この段の部分はベンチのように使用する目的があり、複数人が同時に腰かけ、急傾斜の崖を利用したこの部屋ならではの、海の景色を一望できるようになっているのです。
そのため、幅や高さが一定ではないのは、ベンチとして腰かけやすいように計算されたものです。
その分、最上段には、少し上りにくくなっています。
外の風景
一番奥の部屋は和室の居間となっています。
こちらは畳敷きで、客室同様に上段と下段とに分かれていて、壁を隔てて客室と和室の階段が揃うように設計されています。
客室から和室へは、1段上がるようになっているため、こちらの段数は4段となっています。
客室と和室の階段
和室の広さは12畳となっていて、階段は客室とは違い赤色に塗られ、階段を囲む柱と天井も同様の赤色となっています。
畳の明るい黄土色と、階段・天井などの赤色が、日本の神社などを思い起こさせ、日本の伝統美に多大なる影響を受けたということがイメージできるでしょう。
また、タウトは日本の数寄屋造りにとても高い評価をしているため、それを意識した空間とも言えます。
各部屋には、タウト自身でベートーヴェン(社交室)・モーツァルト(客室)・バッハ(和室)と名前を付けています。
各部屋の作りが、たいへんモダンでありながら日本の伝統的な印象をもつため、ヨーロッパのクラシック音楽家の名前を用いたことに面白味を感じます。
タウトの頭の中では、どんな音楽を流しながら設計をしていたのでしょうか。
まさに建築家の枠では収まらない、芸術家であったと感じられる一面です。
タウトは新しい素材を駆使し、先駆的な発想で高い芸術性を持っていたと言います。
そんな彼にとって、日本には彼を刺激する「美」がありました。
「建物や空間の釣合い」「余地とのバランス」「日本独特の趣」など、日本人の心の奥にしみこんでいるであろう感覚を、ドイツ人であったタウトが直観で感じ取っていることに驚きを隠せません。
タウトが2年ほど滞在した、高崎市の少林山達磨寺の境内に洗心亭には、タウト直筆の石碑が立っています。
洗心亭
石碑
「我 日本の文化を愛する」
3年半という短い滞在生活において濃縮された美が、旧日向別邸にはあります。
どうぞ、熱海を訪れた際は、温泉と一緒に足をお運び下さい。
新しい刺激と感性をくすぐられる感覚を楽しんで頂ければと思います。