日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

築地本願寺

 

こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。 

 

東京の築地と言えば、世界最大の規模を誇る、東京都中央卸売市場が有名ですね。


最近では、外国人観光客にたいへんな人気で、市場周辺には新鮮で美味しい食事が楽しめることでも知られています。

 

その築地市場のすぐ近くにあるのが、築地本願寺です。

 

f:id:sumai01:20150611173951j:plain

 

築地本願寺の正式名称は、「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」と言い、400年近い歴史を持ちます。


神社と違い、寺院はご自宅の宗派が異なると、なかなか足を運ばない方もいらっしゃるのではないでしょうか。


しかし、いやいやどうして建築物としてだけ見ても、とても素晴らしく興味深いものです。


仏教というのは、もともとはインドの釈迦を開祖とする宗教です。

 

そのため、寺院は古くからある神社建築と同様に、日本建築ではありますが、独特な装飾や宗派によって異なる建築方式をとっています。

 

そう前置きしていても、この「築地本願寺」の姿形は群を抜いて変わっています。


まるでインドやイスラムの建造物が、そのまま築地に移築されたかのような風貌です。


そして、建物の各所にある動物たちの装飾や独特のモチーフが一層の異文化を感じさせます。

 

f:id:sumai01:20150611174251j:plain

スフィンクスのような獅子

 

f:id:sumai01:20150611174135j:plain

2階の外観柱:随所にみられる西洋的な柱

 

もともと、最初から築地にお寺があったのではありません。


1617(元和3)年、西本願寺の別院として浅草横山町に建設されました。


そのため、「江戸浅草御堂」と呼ばれていました。

 

f:id:sumai01:20150611184405j:plain

浅草御堂之図:広重江戸風景版画


しかし、1657(明歴3)年、「振袖火事」により焼失してしまいます。


この火事はなんと2日にかけて、当時の江戸の大半を焼失したという大火災でした。


火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものです。


諸説ありますが、3万から10万人と記録されていて、江戸城天守はこれ以後、再建されませんでした。

 

f:id:sumai01:20150611174517j:plain

振袖火事:戸火事図巻(田代幸春画、1814年)

 

<振袖火事>

お江戸の裕福な質屋の娘が、本妙寺にお墓参りに行った際、小姓らしき美少年に一目ぼれしてしまうのが大惨事の始まりでした。


この娘はその日から、恋の病からか、食事も喉を通らなくなり寝込んでしまいます。


あまりに不憫に思った両親が、娘に、小姓が来ていた柄と同じ「荒磯と菊柄」の振袖を作ってやりますが、それを抱きしめながら死んでしまいました。


両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやりますが、その振袖を寺男が質屋に売ってしまいます。(当時はよくある話で、通例であったようです)

 

その振袖は、その後何人かの娘の手に渡りますが、どの娘も若くして命をなくしてしまいます。

 

さすがに、本妙寺もこれは何か因縁があると感じ、焼いて供養することにしましたが、護摩の火にかけたとたんに、振袖が風で舞い上がりたちまち江戸が紅蓮の炎に包まれてしまいました。


という話から「振袖火事」とう名が来ています。


もちろんそれは伝説ですが、放火によるものという説が有力と言われています。


幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したというものです。


また、老中の屋敷が火元で、幕府の威信が失墜してしまうということで幕府の要請により本妙寺が火元として罪をかぶったという説もあります。

 

f:id:sumai01:20150611174658j:plain

火元とされる本妙寺の供養塔:文京区西片2丁目、1910(明治43)年に豊島区巣鴨に移転

 

この大火災により、本願寺は移転を強いられます。


その理由は、この江戸の大半を焼失した機に、今後の被害対策として、江戸市中の大都市計画を実施したのです。


この区画整理により、大きな寺は、何かの避難場所にもなることから、都市中心より分散した地区へと移転命令が下されました。


その場所が当時、海だったことから、寺院の再建にはたいへんな労力がかかることになります。


「なぜ、海だった場所を指定したのか?」ですが、幕府の単なる意地悪ではなかったようです。


幕府は火災を機に、たいへん大がかりな土木工事に取り組んでいました。


当時が海と言っても移築先は、隅田川の運んだ蓄積物によって、干潟のような状態だったと考えられます。


そして、大火によって出た廃材が埋め立てには利用できたのではないでしょうか。


僧侶や檀家さんの協力により、海の埋め立てがいち早く出来るといった政府の思惑があったと推測出来ます。


また、この時代の幕府の力は強大になっており、古くからの寺院の力は及ばなくなっていました。


そういった意味でも、大火災の放火は幕府によるものではないのか?と陰口をたたかれたのもわかる気がします。

 

f:id:sumai01:20150611175046j:plain

築地へ移転後の江戸の地図:安政5年の地図 赤く色がついているところが築地本願寺

 

その後1923(大正12)年、関東大震災により、また焼失してしまいます。


そして、1934(昭和9)年に、現在の本堂へと再建されたのです。

 

f:id:sumai01:20150611175139j:plain

再建中の築地本願寺:1933(昭和8)年・日本電報通信社撮影

 

その時に設計にあたったのが、帝国(東京)大学工学部教授であった伊藤忠太でした。

 

f:id:sumai01:20150611175234j:plain

伊東忠太

 

伊東忠太は1867(慶応3)年11月医師伊東祐順の二男として生まれ、米沢藩(山形県米沢市)の出身です。


少年時代に家族と共に上京し、東京の佐倉で過ごしました。


伊東は、子どもの頃から絵を得意とし、画家としての才能があったようですが、父親から猛反対を受け、美術に少しでも関係がありそうな建築家への道を歩むことになったようです。


帝国大学工科大学(現、東京大学工学部)を卒業し同大学院に進みます。


そして、大学院のころに書いた学位論文が有名な「法隆寺建築論」です。

 

これは、日本建築士における最初の論文となります。


また「造家学」を「建築学」と改名・提案したのは彼によるものです。

 

f:id:sumai01:20150611175338j:plain

法隆寺建築論:元になる論文は1893(明治26)年11月の 『建築雑誌』に掲載されました。

 

それは、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを日本で始めて学問的に示したものです。


伊東は、法隆寺の柱の形が、ギリシャの古典建築の「エンタシス」の曲線と似ていることから、ギリシャ神殿より、千年をかけて中国・インド・イスラムを媒介し、継承されたという、ギリシャ起源論の仮説を唱えました。

  

f:id:sumai01:20150611185151j:plain

法隆寺

 

f:id:sumai01:20150611175550j:plain

パルテノン神殿

 

f:id:sumai01:20150611175715j:plain

法隆寺:柱部分

 

f:id:sumai01:20150611175733j:plain

パルテノン神殿:柱部分

 

この極端な発想は、多くの批判を生みますが、建築家の辰野金吾は伊東の論を絶賛したと言います。

 

伊東は、この仮説を立証するべく研究を重ね、その足跡を調べに36歳という若さで1902(明治35)年から3年をかけて中国・インド・ペルシャ・トルコを旅しました。


しかし、ギリシア神殿と法隆寺とを結ぶ決定的証拠はほとんど見つからなかったと言いますが、数多くの歴史的なヒンドゥー寺院や仏教建築に直接触れたことで大きな刺激を受けて帰国します。

 

経歴を見ると、伊東はたいへん個性的で異文化的を好んだように思われがちですが、決してそうではありません。

 

伊東は神社建築を多く設計していますが、それはとても真面目で古風なスタイルだと言えます。

 

伊東は、「神社は人間の住宅ではなくして神霊の在ます宮居であり、その神霊の生活は劫久に不変である」と述べています。


つまり、「神社は神様の住まいなので、木造でなくてはならない」という考え方です。


これは日本の古来からある考え方で、伊東の代表的な建築物の神社にはそれが忠実に守られているのです。(神田神社のみ、関東大震災の復興の際、不燃耐震化の必要性から鉄骨鉄筋コンクリート造りになっています。)

 

その後、1943(昭和18)年、建築界から初の文化勲章を授章する栄誉が与えられました。

 

f:id:sumai01:20150611180306j:plain

平安神宮:1895(明治23)年

 

f:id:sumai01:20150611180322j:plain

明治神宮:1920(大正9)年

 

f:id:sumai01:20150611180340j:plain

靖国神社 神門:1933(昭和8)年

 

伊東が築地本願寺の設計を依頼されたきっかけは、浄土真宗本願寺派第22世法主・大谷光瑞門に出会ったことです。

 

彼も伊東と同時期にインド・アジアへ渡っていました。

 

f:id:sumai01:20150611180442j:plain

第22代法主 大谷光瑞

 

大谷は教団活動の一環として、1902(明治35年)8月にインドにて釈迦に縁の深い遺跡や足跡を調査発掘のため訪れ活動していました。

 

父・光尊が死去し、法主を継職するため帰国しましたが、探検・調査活動は1904年((明治37)年まで続けられました。

 

2人の出会いは、旅の途中に、伊東が大谷率いる探検家のメンバーと知り合ったのが始まりです。


それをきっかけに、大谷と出会うことになります。

 

f:id:sumai01:20150611180605j:plain

大谷探検隊:中国の内モンゴルの砂漠を進む

 

2人が意気投合したのは言うまでもありません。


伊東が帰国した翌年には、さっそく西本願寺を訪ねています。


同じ景色を見て、共通した価値観があったからこそ、大谷は伊東の考察に共感し設計を依頼したのでしょう。


そして、最高の理解者の期待に応えるべく、伊東の感性があますとこなく発揮された建物になりました。

 

f:id:sumai01:20150611180657j:plain

外観

 

築地本願寺の本堂外観は、1934(昭和9)年に建立された古代インド・イスラム仏教様式の寺院です。


日本では中国式の伝統的な寺院が一般的ですが、仏教の発祥の地であるインドやイスラムを意識したものにしたいという思いが大谷や伊東にはあったのでしょう。

 

外観は花崗岩が用いられた石造りで、耐震性に優れた鉄骨鉄筋コンクリート造りとなっていて重厚感があります。

 

左右対称の建物で開口87m、奥行56m、高さ33mです。

 

中央には円形の大きな屋根がのせられた伽藍となっていて、その屋根は青緑色の銅板葺きで遠くから見ても目を引きます。

 

f:id:sumai01:20150611185120j:plain

屋根


その屋根には「菩提樹」の葉の形の装飾があり、中央には蓮の花がデザインされていて遠くから見ても美しいものです。

 

f:id:sumai01:20150611181026j:plain

屋根:蓮の花の装飾

 

建物正面は玄関まで続く大階段があり、建物の左右対称に伸びた翼の端には、鐘楼・小塔が置かれています。

 

鐘楼は、毎年大晦日には除夜の鐘が鳴らされているそうです。

 

広い中央階段の左右には、スフィンクスを思わせる背中に翼がある獅子が鎮座していますが、これは「カルラ」というインドの想像上の動物で、狛犬と同じ役割をはたしています。

 

f:id:sumai01:20150611181157j:plain

中央階段の裾に左右2対の羽のついた獅子が鎮座する


本堂へ続く階段を上ると、そこにも柱を背負った阿吽の獅子がいます。

 

f:id:sumai01:20150611181306j:plain

階段背負った獅子

 

また、大階段の下はトンネルになっていて、横切ることができます。

 

入口には、緑色の大きな扉があり、その上部にはモチーフが彫り込まれ手が込んでいます。

 

f:id:sumai01:20150611181457j:plain

 

緑の扉から中に入ると、さらに黒い扉があり、その上部には美しいステンドグラスが設置されています。


内側から見ると、大変色鮮やかです。

 

f:id:sumai01:20150611181543j:plain

内部より見たステンドグラス

 

黒い扉に一歩入ると下り階段があり、踊り場のようになっていますが、その手摺には数々の動物がお待ちかねです。

 

f:id:sumai01:20150611181742j:plain

階段の踊り場

 

f:id:sumai01:20150611181806j:plain

牛:牛は太古から神聖視されています。

 

また階段の動物たちは、仏教説話の「三畜評樹」を表現したもので、階段の上から下へ説法の中での順番通り配置されています。


「三畜評樹」とは、「物事は全体を見渡すことが重要」との仏教の教えからきています。

 

<三畜評樹>
鳥とサルとゾウが、お互いに誰が一番年長かを議論することになり、とある一本の木をいつ頃から知っているかによって判断しようということになりました。


結果は、鳥が木の苗が植えられる前の様子を知っていたことが分かり、最年長だと認められたのです。


一番小さく弱い鳥ですが、一番高いところから全体を見渡すことができる。


つまり、物事は広く全体を見て、正確な視点を持つことが一番大切なのだという教えにつながっているのです。

 

f:id:sumai01:20150611182104j:plain

孔雀(トリ)

 

f:id:sumai01:20150611182132j:plain

サル

 

f:id:sumai01:20150611182212j:plain

ゾウ


奥の本堂ですが、外観の異国的なイメージとは異なり、伝統的な浄土真宗寺院様式の本堂となっています。


柱が少なく広々とした印象で、その正面には金色の大祭壇が設置されています。


天井は高く開放的で、折上格天井にはシャンデリアが釣り下がっています。


また靴を履いたまま上がることができ、教会のように、椅子が設置されゆっくりお参りが出来るように配慮されています。

 

f:id:sumai01:20150611182339j:plain

本堂:御本尊「阿弥陀如来」が祀られていて、聖徳太子の作と伝えられています。


本堂は、近年修復されたため、内陣は金色に輝いています。

 

本堂には、シャンデリアがあり、香炉を模した形とされ、大きいシャンデリアが9個、少し小さいシャンデリアが回廊に11個あります。

 

f:id:sumai01:20150611182413j:plain

本堂内:シャンデリア(大)

 

本堂の太い柱の4本にはスチームストーブの吹き出し口があり、参拝者に配慮した最新技術でした。


現在は使われていませんが、四神の装飾が施されています。

 

f:id:sumai01:20150611182536j:plain

本堂内:柱下

 

この本堂で一番驚かされるのは、何といってもパイプオルガンでしょう。


本堂の3つの扉からなる出入口上部に巨大なパイプオルガンが設置されています。

 

このパイプオルガンは、昭和45年に、ドイツで製作されたもので、2000本のパイプを持ちます。


信者団体の寄贈により、設置されることとなりましたが、その意図は「仏教音楽の現代化と普及」を目指したものでした。


そもそも、仏教と音楽は深い関係があります。


古くは正倉院に、雅楽や舞楽に用いられた楽器が保存されているそうです。


その時代から現代までに、僧侶がお経に節をつけて唱えたものが、琵琶の語りになり、能、浄瑠璃など、日本の文化となっていきました。


もちろん、西洋のオルガンが使われだしたのは明治以降の話です。


しかし、築地本願寺を支え続けている人々の仏教音楽を育む土壌・思いによって設置が実現されたのはたいへん意味があると言えるでしょう。


そして、この広い本堂に響くパイプオルガンの独特な音色が、参拝した人々を魅了しているのは言うまでもありません。

 

f:id:sumai01:20150611182722j:plain

本堂入口側:パイプオルガン

 

石造りの外観、数々の動物(空想動物)のオブジェ、金色の祭壇、お香の匂い、そしてパイプオルガン。

 

アジア・東洋・西洋・日本。

 

なんとも不思議な調和です。


それにしても、この建物にすべて似合っているのだから、なんとも面白いものです。

 

また伊東は妖怪趣味があり、動物や妖怪を好んでいました。


事務室前の階段の手すりに、「グロテスク」と設計図で名付けられているものもあります。

 

f:id:sumai01:20150611182919j:plain

グロテスク(化け物)

 

一昔前には、「ゲゲゲの鬼太郎」、現代では「妖怪ウォッチ」という、子供たちに妖怪ブームがたびたび訪れているようです。


築地本願寺には、ご紹介した以外にもいろんな場所に動物や妖怪たちが潜んでいます。

 

どの装飾も手が込んでいて可愛らしくユーモアがあるものばかりです。

 

完成当時に想いを馳せると、近隣の人々や、檀家の本願寺を支え続けている人々には、この寺院がどのように見えたのでしょうか?

 

たいへん驚いたに違いありません。


しかしながら、今も大切に守られ美しい姿を留めているのは、築地本願寺を愛する気持ちが受け継がれているからでしょう。


近年では、お寺や神社が過疎化や跡継ぎ不足から置き去りにされたり存続の危機になっているところもあるのです。


ぜひ宗教にとらわれず、日頃の感謝とお礼を胸に、寺院の中を探索してみてはいかがでしょうか。