こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。
突然ですが、ワインはお好きですか?
中でも最近、赤ワインはポリフェノールを含み、抗酸化作用があるため健康に良いことで知られ、美容にも効果があると女性に大人気です。
日本のワインは、そのエレガントな味により近年世界で高く評価されています。
そんな、日本のワインが根付くきっかけとなった、「発祥の地」と「日本のワイン王」をご存じでしょうか。
ワインに惚れ込み、輸入ワインを販売するだけに留まらず、自ら醸造・瓶詰めをするところまで突き詰めた神谷伝兵衛。
今回ご紹介するのは、そのワイン王・神谷が晩年に愛した海辺の別荘「旧神谷伝兵衛稲毛別荘」です。
神谷伝兵衛は、1856(安政3)年、三河国(現在の愛知県)の生まれです。¥
神谷伝兵衛
豪農の生まれでしたが、父の兵助は多趣味で家業を顧みることがなかったため、家が没落し、大変苦労しています。
幼くして働きに出なくてはならず、8歳の頃には、酒樽造りの弟子として働いたことがきっかけで、酒を商いとすることに興味を持ったと言います。
その後、姉の嫁ぎ先で商業の見習をしますが、その地は尾張国知多地方で酒造りの産地として知られ、酒造家が裕福な生活をしている姿を目のあたりにし、幼心に酒造家の夢を膨らませていました。
そして、11歳という若さで商いを独り立ちしますが、16歳の時に失敗して全財産を失います。
そんな時、兄の勧めで、1873(明治6)年4月に横浜外国人居留地にあった「フレッレ商会」という酒類醸造場で働らき始めました。
この経験は、神谷にとって素晴らしいものとなりました。
そこで、様々な洋酒の製造法を習得していったのです。
しかし、突然不幸が襲い、原因不明の病にかかります。
日に日に体が弱り、医者からは見放されるほどの状態でした。
しかし、見舞いの品の輸入ワインを飲んでいくうちに、徐々に回復していったのです。
そのことがきっかけとなり「いつか日本人のために自分でワインをつくりたい」と思うようになりました。
神谷は、いち早くワインが滋養強壮効果があり、体に良いことを体験していたのです。
そして、国産ワインを製造することが生涯の目標となりました。
1874(明治7)年に父・兵助が亡くなり、家督を相続し、幼名の「松太郎」から伝兵衛と改名しています。
19歳で横浜のフレッレ商会を退職し、東京の酒屋で寝る間を惜しんで働いた元手により、24歳という若さで独立します。
1880(明治13)年には、東京浅草で酒の量り売りを始めました。
店の名は、「みかはや銘酒店」現在の「神谷バー」です。
みかはや銘酒店
それは、酒の量り売りという形は、東京では初めての試みで、元祖と言われています。
神谷バー
しかし、この当時の本格ワインは日本人の口に合わなかったようです。
日本人は、特に甘くやわらかい味を好み、外国人が美味しいと思うワインの味覚とは少々異なるためです。
日本人の好む「まろやかでやわらかな味わい。」「渋みが少なくフレッシュで甘くやさしい味わい。」は外国では褒め言葉にならず、「ガツンとしっかりとした味わい。」「酸味や渋みがしっかりとして深みがある味わい。」を好むと言います。
実は、海外ではボンジョレ・ヌーボーは、あまり人気ではありません。
しかし、日本人があんなに好むには、日本人にとって、季節限定感、フレッシュさ、甘さがマッチしているためと言われています。
ドイツ産などはワインは甘めと思われている方もいらしゃいますが、実は日本に輸出するために、あえて日本用に甘めのワインを作っています。
ドイツの地元で好まれるワインとは全く異なる味です。
ボンジョレ・ヌーボー:その年に造られた新酒のワインのこと。
今では、いくらでも日本人の好みのあったワインが入ってきますが、当時の日本にはワインを大衆に定着させるのも一苦労の時代です。
ましてや、その中でも日本人の味覚にあったものを探すこと自体が大変な作業だったでしょう。
そこで、神谷は、輸入ワインにハチミツ・漢方薬を加えて甘みの強いワインに改良しました。
それが、蜂印香竄葡萄酒の誕生です。
蜂印香竄葡萄酒
読売新聞 1919年6月6日 朝刊第1面 「酒は百薬の長」といわれていますが、この広告では「弱い身体も健康になる」とうたっています。
特に蜂印香竄葡萄酒のポスターは、女性がワインを片手に登場するもので、とても美しく魅力的で目を惹きつけました。
それらは、神谷の親友である近藤利兵衛のマーケティング力によるものだったと言います。
ポスターには、商標である蜂が描かれています。
「鳥柄の和服を着てグラスを掲げる女性」1915~18年頃作者 不詳
「葡萄の下の和服の女性」1900年代 作者 今関 甫召
「ワイングラスを持ち蜂を見上げる女性」1927年 作者 多田 北烏
「蜂印香竄葡萄酒」は、かねてから漢字が読みにくいとの意見が消費者から寄せられていたため、1927年に商品名を通称として広く使用されていた「蜂ブドー酒」に正式に改めた。
神谷の親友であった 近藤利兵衛は1859(安政6)年の江戸生まれです。
幼名は「岩吉」と言い、幼いころから、日本橋砂糖商・百足屋に奉公していました。
その実直さをかわれ、明治22年に義兄に当たる東京日本橋の洋酒問屋の初代・近藤利兵衛の養子となります。
1892(明治25)年に家督を相続し、2代目・利兵衛を名乗りました。
先代が発売元であった、「神谷伝兵衛醸造のワイン」に将来性を感じ、広告や販売を一手に担当し、蜂印香竄葡萄酒の販売に力を入れて業績を伸ばしていきました。
明治26年「蜂印香竄葡萄酒」を囲む近藤利兵衛(左)、神谷(右)
この出会いにより、1900(明治33)年頃には全国で人気の商品となったのです。
また、1893(明治26)年には、またハイカラなお酒を誕生させ、話題となります。
それが、「電気ブラン」です。
電気ブランとは面白い名前ですが、決して電気が関係しているわけではなく、カクテルの名前です。
ついに神谷はオリジナルカクテルも生み出しました。
電気ブラン
電気ブランの「ブラン」とはカクテルのベースになっているブランデーから来ています。
ブランデー・ジン・ワインキュラソー・薬草などがブレンドされています。
電気というのは、明治の頃にはたいへん珍しく新しいものでした。
時代の最先端のイメージで「目新しいものを、『電気〇〇〇』と呼び、舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていたようです。
ただ、電気ブランはアルコール度数が40度とたいへん高いお酒でしたので、それもあって電気のようにシビレルものでもあったと言えるでしょう。
神谷バーでは現在もデンキブラン(アルコール30度)として受け継がれています。
大正時代には、浅草に来たら必ず一杯飲んで帰る庶民の最高の楽しみとなりました。
そして下町の社交場として現代まで愛されることとなるのです。
神谷バー
作家の太宰治は『人間失格』の中で「酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、・・・」と書いています。
太宰治
これで神谷の事業家としては業績を伸ばし大成功で終わり・・・というわけではありません。
かねてからの本来の夢を彼は忘れていませんでした。
「みかはや銘酒店」を開業して12年。
ついに葡萄の栽培から醸造・瓶詰めまで一貫して作る本格的なワイン醸造所の建設にと取り掛かります。
神谷が目指すのは、フランス種の葡萄栽培です。
北海道や新潟でも、ワイン用の葡萄栽培がはじめられていましたが、それはアメリカ種でした。
神谷はあくまでもフランス種にこだわっていたのです。
彼は子どもには恵まれませんでしたが、養女をとり、その婿養子をフランスのボルドー地区へ送り、葡萄栽培のノウハウを習得させます。
そして、1898年(明治31)年に茨城県稲敷郡岡田村の原野を開拓し、苗木6,000本を移植。
ついには「神谷葡萄園」と名づけられた葡萄園が見事成功しました。
1903(明治36)年9月に醸造場の神谷シャトー ( 牛久シャトー、現・シャトーカミヤ ) を竣工させます。
そして、そこは、「日本のワイン発祥の地」の一つとなり、神谷は「日本のワイン王」と呼ばれるまでになったのです。
シャトーカミヤとブドウ畑
シャトーカミヤ
シャトーの完成から約20年後の1922(大正11)年に神谷は66年間の華々しい生涯を閉じました。
明治後期から大正にかけて、洋酒のこのような発展が、大正ロマン(浪漫)に大きく影響したと言えるのではないかと思います。
そんな神谷が晩年、別荘として建てたのが「旧神谷伝兵衛稲毛別荘」です。
この別荘が竣工したのは1918(大正7)年です。
残念ながら神谷が過ごせたのは、亡くなるまでの僅か4年という短い月日でした。
千葉市稲毛区の別荘が建っているこの辺りは、大正時代には遠浅の海を眺めることができ、富士山が見える風光明媚な場所で、東京からの避暑地として賑わっていました。
しかし、昭和36年に始まった埋め立てで、海岸線は国道となり、遠浅の海が数キロ先へと遠のいてしまいました。
グーグルマップより:現在の位置(千葉市民ギャラリー・いなげ内)
現在は、ゲストハウスであった洋館しか残っていませんが、竣工当初は左手に和館が併設されていました。
主な日常生活は和館で、客人をおもてなしするのが洋館といった具合だったようです。
設計者ははっきりわかっていません。
石段を登り正門をくぐると、緑が溢れた景色が広がります。
外観:正面
この建物は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの2階建てです。
耐火・耐震に優れた鉄筋コンクリートの建物が重要視されだしたのは、関東大震災の後の話なので、すでにそれを取り入れたのには、やはり先見の明があったと言えるでしょう。
後の、関東大震災では被害を受けなかったことは、建物が、現在に残る一つの理由とも言えます。
まず建物の外観で目を引くのは、なんといっても1階正面の5連アーチからなるテラスです。
ロマネスクを基調としていますが、ゴテゴテしておらずスッキリとしています。
このアーチは建物のすぐ先に海が広がっていたと容易に想像ができ、当時をしのばせる優雅な空間と言えます。
床は市松模様のタイルがアクセントになっています。
1階:テラス
この建物の玄関は、このテラスを通った奥です。
実は建設当初は、建物裏側が丘に面しており、入口を海側にしか設けられなかったのです。
外観全体は白く、玄関や窓の桟などに木が用いられています。
時折、顔を見せる木材が冷たい印象になりがちな洋館を温かく見せてくれます。
室内ですが、玄関ホールに足を踏み入れると、まず正面に階段があります。
玄関
玄関のシャンデリアの天井の取り付け部分には葡萄の装飾が施されています。
玄関:シャンデリア
玄関:シャンデリアの天井付根部分には葡萄の装飾となっています。
右手は大きな洋室となっています。
1階洋室:椅子やテーブルなど、当時のものが残っています。
部屋を囲むように窓が多くあり、たくさんの光が溢れています。
こちらは客間として使われ、床は寄木細工のようになっていて大変手が込んでいます。
マントルピースはアールヌーボー調で、緑色のタイルと円柱の装飾が施されています。
マントルピース
なんとなく違和感があるのは、円柱の上部が太く、下部が細いところでしょうか。
階段は赤い絨毯が引かれた、廻り階段となっています。
階段
焦げ茶の手摺に赤い絨毯のコントラストと、緩やかな曲線が美しく印象的です。
2階の踊り場には、シャンデリアが吊るされ、1階の洋室のイメージを壊さないよう目線に配慮されたものだと思われます。
階段:シャンデリア
2階に上がると、途端に純和風の部屋が現れます。
2階:主室
外観や、1階のイメージをもって上がると、驚かされることでしょう。
2階は数寄屋風のつくりで、12畳の主室と8畳の和室があります。
床の間を持ち、違い棚や付け書院を合わせた本格的なものです。
和室の天井は囲炉裏で燻された煤竹を組んだ折上格天井となっています。
天井全体を竹格子で組み、葡萄棚に見立てているところが面白く、見所と言えるでしょう。
12畳の主室の床柱には、葡萄の古木が用いられ、ワイン王の顔をのぞかせてくれます。
2階:主室の柱 古い葡萄の木
また1枚の板からくり抜かれた木瓜窓の曲線は素晴らしく、贅沢な品だと言えます。
木瓜窓
欄間にも葡萄の透かし彫りがあり、葡萄へのこだわりが感じられます。
2階:欄間
2階:欄間 細かい透かし彫りで手が込んでいます。
2階の縁側も畳張りでとても広く、海側に面したところには窓をたくさん設けています。
窓は、ガラスと障子との2重構造になっていて、納戸へ障子を収納することができ、和室から雄大な海を一望できる意匠です。
縁側の東南の端はアルコープとなっています。
アルコープとは、部屋や廊下などの壁面の一部を後退させてつくったくぼみ状の部分を差し、主要な機能を外れた「遊びの空間」のことです。
縁側奥:アルコープ部分
半円形に突き出していて、出窓とサンルームのような空間で、2階では唯一の洋風の空間と言えます。
天井は竹が網の目状に組まれ、こちらも葡萄棚に見立てた竹格子となっています。
外観:アルコープを外から見た様子
建物の随所に、葡萄の装飾がみられますが、よほど神谷葡萄園の成功を喜んでいたのでしょう。
またワイン王が客人をもてなすには、こういった意匠が喜ばれたのかもしれません。
神谷は、天性の商才と先見の明に優れ、新しい商品開発を生み出したアイデアマンであったことがうかがえます。
そして、彼が生み出した新しいハイカラなお酒の数々は、ハイカラな大正ロマン(浪漫)と新しい文化・文学のつながりにも深く貢献したのは容易に想像がつきます。
当時のポスター:電気ブラン
また多くの政治家や軍人とも親交があり、多くの偉人たちがシャトーカミヤを訪れています。
現在、シャトーカミヤは東日本大震災の影響により、国指定重要文化財の「事務室」(現本館)と「醗酵室」(現神谷伝兵衛記念館)は休業していますが、その他の施設では、レストランやバーベキューが楽しめ、ワインはもちろんのこと、牛久シャトービールという地ビールを味わうことが出来ます。
シャトーカミヤと合わせて、是非ワイン王の別荘にも足をお運び下さい。
歴史を感じると、日本製のワインがもっと美味しく感られるはずですよ。