日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧上毛モスリン事務所

こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。

 

衣服の生地で「モスリン」を聞いたことはあるでしょうか?


ご年配のご婦人は、「まぁ、懐かしい」と感じられることでしょう。


「モスリン」とは、戦前に、日本で大量に生産され、子どもの着物や長襦袢などに使われ、たいへん流行したウール生地です。

 

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モスリンの長襦袢生地


そもそもモスリンとは単糸で平織りされた布地を指します。


欧米では産業革命後に綿モスリンが一大ブームとなり、欧米で流行らなかったウールモスリンが日本では絶大の人気を誇りました。

 

今回ご紹介するのは、明治期の織物業盛期に建てられた「上毛モスリン株式会社新工場の本館事務所」です。

 

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日本は歴史上、ポルトガルやオランダなどの貿易国から様々な服飾生地を輸入していました。


もちろん羊毛の生地も入っていたのですが、特に明治時代に入り貿易が活発になると、日本人の洋装化もすすんだこともあり、フランスから柔らかい薄手の毛織物が多く輸入されるようになりました。

 

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明治の洋服姿:於鹿鳴館貴婦人慈善会之図 (早稲田大学図書館所蔵)

 

毛織物のモスリンはとにかくあたたかい素材として好まれます。


着物として一番高級で肌触りが良いのは絹、庶民の普段着は綿で作られていましたが、やはり冬は寒いものです。


ウール(毛)のモスリンはあたたかく、着物の裏地を付けなくても冬に着用することができ、普段着の生地として好まれました。


軍服では、(夏服・夏衣)などに用いられたりもしています。

 

染料の入りがよく発色が美しいことと、友禅の染め師が染めに参加し友禅をほどこしたり、絹製品より安価だったことなども、日本で愛され大量に生産された理由でもあります。

 

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絹の友禅

友禅とは、江戸中期に存在した「宮崎友禅」という人物から来ています。

もともと友禅は扇絵師でしたが、扇以外に小袖などの着物に施した模様がたいへんな人気となり、染物の図案として大ブレイクしました。

そのため、友禅の染色方法や図案等が新しい画期的な技術だったため、これらの技術を用いた友禅独特の特徴をもったものを友禅染めと言い、専門で染めるものを友禅染め師と呼びます。

 

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牡丹柄モスリン四つ身:モスリン(羊毛に友禅染の技法を施すことにより美しい)


特に、子どもの着物や半纏、ちゃんちゃんこの柄として、かわいい動物柄や乗り物柄などの絵柄が考案され子どもたちや母親に愛されました。

 

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子供柄モスリン

 

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子供柄モスリン


もちろん男性の着物・羽織・長襦袢にも用いられました。

 

冬はたいへん温かく重宝したそうです。

 

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男性用モスリン長襦袢


日本において、モスリンの製造が盛んになったのは、政府主導で国内の羊毛工業も始まり、1896(明治29)年に羊毛輸入関税が撤廃されたことがきっかけでした。


1894(明治27)年、日清戦争がはじまった2年後のことです。

 

群馬の館林は、昔から、織物業の基幹産業だったために、織物業の会社が多く集まった場所です。

 

最近では、夏にしばしば摂氏40度近い猛暑に見舞われることで、全国的にも有名になりました。

 

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群馬県館林市位置図:作図/小学館クリエイティブ

 

荒井藤七と鈴木平三郎はモスリンの可能性に早くから着目し、全国に先駆けて製織技術を成功させます。


そして、2人は、荒井清三郎と共に1895(明治28)年にモスリン製織会社の毛布織合資会社を創立しました。


その後、1902(明治35)年4月1日地元資本で近代的モスリン会社「上毛モスリン株式会社」を創立します。


これが、大工場になるスタートでした。

 

東京・関西の資本も加わり上毛モスリン株式会社は驚異的な発展を遂げています。


1907(明治40)年には大阪株式市場に上場を果たしました。


これは、東京・大阪の投資家の格好の投機対象であったことも理由の一つ言えるでしょう。


上毛モスリン株式会社は1909(明治42)年に館林城二の丸跡地(現在の市役所付近)に新工場建設移転すると、全国有数の大モスリン会社へと発展します。

 

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上毛モスリン株式会社 二の丸跡地

 

この新工場を建築した際に建てられた事務所が今回ご紹介する「旧上毛モスリン事務所」になります。


最盛期の大正中頃には、従業員約2,000人の大工場でした。


また、1917(大正6)年には、群馬県下で最初のストライキも起きています。

 

その後、破綻し、日本興業銀行と日本毛織の共同出資により、上毛モスリンが共立モスリン㈱館林工場となりました。


モスリンの生産自体は、第一次世界大戦による不況の影響で業績悪化しましたが、その後回復しています。


毛織物の国内自給だけでなく、輸出も行われるようになり、綿紡績会社も毛織物業に進出しました。

 

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日本毛織会社

 

しかし、太平洋戦争に突入すると、原材料の毛の輸入が出来なくなり、モスリン製造は大幅に縮小せざるを得なくなります。


終戦後戦後は生産量を戻しかけますが、合成繊維の登場でモスリンの需要は減り、今日ではほとんど流通しておらず目にする機会は少なくなっています。


モスリンの大きな欠点は原材料が毛であったために、虫に喰われやすいことでした。


合成繊維は石油を原料とした化学繊維のことで、安価で大量生産できる上に、虫にも食べられないために普及したのが原因でした。

 

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ポリエステル生地の着物

現在はポリエステル(合成繊維)に専用のインクジェットプリンタで印刷ができ、より絹に似た彩色が出来るようになっています。


上毛モスリンは、共同モスリンとなり、太平洋戦争で中島飛行場に貸与られ、敗戦後、GHQの倉庫になりと姿を変えていきます。


1978(昭和53)年には、工場の一部が市庁舎建設地となり、その際に上毛モスリン事務所が市の所有となりました。


現在は群馬県の重要文化財に指定されています。

 

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外観:正面

 

旧上毛モスリン事務所は、木造2階建ての瓦葺の擬洋風建築です。


こちらの建物の設計者は残念ながらわかっていません。


おそらく日本の職人が洋風建築をまねて建築したもので、棟梁の美的センスが繁栄された和洋折衷の建物と言えます。

 

先に述べた通り、建設当時は近代日本の産業の中心を担っていた基幹産業であったこともあり、たくさんの工場に囲まれた中でも、明治の流行をふんだんに取り入れた建物でした。


もちろん客人をもてなすこともあったでしょうし、商談を行うにも使われていた事務所ということもあり、たいへん力が入ったものです。

 

まず建物正面の外観ですが、左右対称のシンメトリーとなっています。


一見洋風でありながらも、面白いことに尺貫法が用いられ、入り母屋造りとなっています。

 

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尺貫法早見表

尺貫法とは、長さに尺(しゃく)、質量に貫(かん)を用いた、日本独自のものです。

メートル法の普及により、計量法により1959(昭和34)年から廃止されていますが、まだまだ日本の建築においては重要な単位と言えるでしょう。

「坪」もそれにあたり、土地や建物の大きさや範囲を示す場合にはこちらを用いるのが普通です。

1尺は30.3cm、1坪は3.3㎡で昔は畳2畳分と言われていました。(現在では部屋のサイズにより畳のサイズも変わっているため、昔の畳2畳分になります)

ちなみに日本の伝統的な着物は尺貫法(鯨尺)を用い、鯨尺だと1尺は37.9cmと異なります。

 

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入り母屋造り

入り母屋造りとは、入り母屋屋根を持つ建物のことです。

上部は、切妻屋根のように傾斜になっていて、下方は寄棟屋根のように四方へと流れる形となっています。

日本において、はもっとも格式が高い形式の屋根です。


屋根の骨組みは、トラス構造となっているとのことです。


地震や風に強く、開放的な空間を生み出すことが出来ます。

 

旧旭東幼稚園園舎の屋根もトラス式となっていました。

 

旧旭東幼稚園園舎(八角形の遊技場) - 日本のすばらしい建築物

 

外観は下見板張りでクリーム色に彩色されていますが、たくさんある窓の桟は明るい茶色(オールドピンク色)となっています。


玄関の屋根と数か所の小庇(こひさし)には、銅板の屋根が用いられ、緑色が印象的です。


屋根は瓦葺で鬼瓦がありますが、玄関ポーチの車寄せの部分は洋風で曲線が柔らかい装飾が施されており対照的となっています。

 

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玄関ポーチの装飾

 

建物の正面と両側にはたくさんの縦長の窓が規則的に上下均等に設けられています。


どの窓も上げ下げ窓を採用しており、2階の窓枠は1階よりシンプルなつくりです。

 

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外観側面

 

建物後ろは、飛び出た形で煉瓦造りの部屋があります。


これは、当時の金庫と書庫だったようで貴重品が収納されていました。


煉瓦造りとなっているのは、盗難・耐火目的であったようです。


板張りの建物とくっついた形で存在する姿には驚かされます。

 

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建物裏側:金庫煉瓦部分


玄関は基礎があるため、3段ほど階段をあがります。


廊下の壁は漆喰に腰板となっています。

 

入るとすぐ左手に階段、その奥が旧事務室です。

 

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玄関:廊下


1階で特徴的なのは、事務室を左右に隔てている廊下と中央にある4本の柱です。


柱はケヤキで、丸みをおびたエンタシスとなっており、大変面白い意匠です。

 

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1階:中央エンタシス部分

エンタシスとは、円柱に施されたふくらみのことです。

 

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展示室:エンタシス

 

以前、『築地本願寺』で取り上げた、伊東忠太が「法隆寺建築論」なる論文に、ギリシャ神殿と法隆寺の柱(エンタシス)との共通点から、ギリシャ起源説を唱え、ついには中国・インド・ペルシャ・トルコを旅しました。


そこで、偶然にも築地本願寺の第22代法主と運命的な出会いをします。


ぜひ、お立ち寄りになってみて下さい。

 

築地本願寺 - 日本のすばらしい建築物


1階は、現在展示室となっており、当時の煉瓦や瓦・その時代に使われていた馬車等が展示されています。

 

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展示室:馬車(正田貞一郎氏使用馬車)

 

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展示室:上毛瓦

 

2階への階段ですが、赤い絨毯といかにも洋館の階段という感じで可愛らしいく思えます。


手摺と階段は焦げ茶色で、漆喰の壁に、廊下同様に腰板があり、踊場から2階にかけて窓枠の延長のように焦げ茶色のボーダーが装飾されています。


階段自体は、ささら桁と踏み板のシンプルな構成で、折れ曲がりがあり、その下は電話室となっています。


電話室には上げ下げ小窓がついており、商売の電話など、窓を開けて事務所に要件を伝えていたかもしれません。

 

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階段


2階はシンプルで広い空間の部屋と応接室があります。


たくさんの窓があり日差しで明るい部屋です。


ここは、展示品は特にありませんが、コンサート等のイベントが開催されているそうです。

 

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2階

 

天井には可愛らしい大正時代のシャンデリアが飾られています。


その天井取り付け部分は、八角形の星型に装飾され、木で表現されており立体感があります。

 

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2階:シャンデリア

 

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応接室

 

「富岡製糸場と絹産業遺産群」が2014年に世界遺産として登録されましたが、群馬県は絹織物の他に、毛織物においても素晴らし文化を持っています。

 

残念なことに、時代の流れでモスリン(毛織物)は私たちの生活から離れつつあります。


最近では日本文化である「きもの」の世界にも絹の代わりとして、合成繊維(ポリエステル)が増え、女性の最高礼服の振袖ですら珍しくなくなってきました。


日本らしい肌触りや風合いを現代にも受け継いで行きたいものです。