こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。
前橋市には、日本にある米国最古のアメリカン・ボードの宣教師館があります。
それは「旧アメリカン・ボード宣教師館」です。
アメリカン・ボードを聞きなれない方もいらっしゃるかもしれません。
まずは、米国最古のアメリカン・ボードについて、ご紹介したいと思います。
アメリカン・ボードとは超教派的な外国伝道組織です。
簡単に言うと、海外にキリスト教を伝道するために集まった宣教師団体の一つで、その最も古いのがアメリカン・ボードにあたります。
先には超教派(宗派を超えた集団)と述べましたが、多くは会衆派というキリスト教の一つプロテスタント系の組織だったため、プロテスタントの布教と考えてもいいでしょう。
このアメリカン・ボードという言葉自体は聞き覚えがなくても、『八重の桜』と言えば覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
NHK大河ドラマ『八重の桜』のことです。
『八重の桜』
新島八重
主人公の女性は新島八重(旧姓・山本)で、同志社創立者の新島襄の妻に視点をおいたお話しでした。
ここでの注目は、夫の新島襄と同志社大学です。
新島襄は、藩の命令で江戸で蘭学を学び、21歳のときに軍艦操練所に通うかたわら、欧米文明や英語・自由・キリスト教などに憧れ、ついに、1864(元治1)年函館からアメリカの貿易船に忍び込み国禁を犯して密航してしまいます。
上海で、運よくアメリカ行きの船に乗り換えますが、その船のオーナーが、ボストンの富豪、A・ハーディーだったことが、彼の最大の幸運でした。
船では、「ジョー」とあだ名が付けられるくらい、船長たちと仲良くなります。
新島襄
一年後、ようやくボストンに到着しますが、留学を希望していたことを、ハーディーに率直に伝えました。
船長の推薦も功を奏して、ハーディー夫妻の養子となり、家族同然に受け入れられたのです。
このハーディーですが、会衆派教会(プロテスタント系)の熱心な信者で、ボストン周辺にある、高校、大学、神学校の3つの学校の理事を務めていました。
その縁もあり、新島はボストンで洗礼を受け、その3つの学校で本格的にキリスト教を学び、牧師の資格をとって、ついにはアメリカン・ボードの一員として宣教師の役目を担うことになったのです。
日本人初の宣教師がここに誕生します。
アルフィーアス・ハーディー(1815-1887)
そもそもアメリカン・ボードは1810(文化7)年にイギリスのボストンに本拠を構え、主に会衆派系ミッションとして創設されました。
そして、当時の理事長がなんと新島の養父ハーディーだったのです。
新島は、宣教師であり、理事長の「息子」として、横浜に戻り、以後の生活費もボストン(ハーディー家)負担という恵まれた環境にいました。
そして、そのボストンからの資金と京都での協力者であった山本覚馬(のちに襄と結婚した八重の兄)によって同志社英学校(後の同志社大学)が創設されたのです。
山本覚馬:幕末の会津藩士で明治の政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導しました。不幸にも眼病を患い、ほとんど失明同然の状態になります。
山本覚馬は、新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物として知られています。
横浜にやってきた新島が京都を拠点としたのには理由がありました。
関東周辺ではすでにカトリックが勢力を伸ばしていたために、まだ未開の地であった西日本に拠点をおきたかったようです。
そのため、関西に多くのアメリカンボードの記録が残っています。
キリスト教と日本という大きな目で歴史を見ると、1549(天文18)年、カトリック教派イエズス会のザビエルによって伝えられ、南蛮貿易とともに宣教師の活動が拡がりました。
17世紀初頭までに西日本中心に拡がったのですが、豊臣秀吉により宣教を禁止し、弾圧されています。
フランシスコ・ザビエル(シャビエル)
踏み絵
そんな時代から一変したのは、明治維新が起きてからです。
江戸時代が終わり、欧米列強と不平等条約を結ばされ、諸外国と対等になろうと必死であった明治政府は、あらゆる文化を取り入れ改革を進めました。
その中に、宗教の一つであるキリスト教も布教の許可がおりたのです。
新約聖書:明治に訳された日本初の聖書で、1872年(明治5)9月に横浜居留地39番のヘボン邸で宣教師会議が開かれ、各派共同での翻訳を決定し、翻訳委員社中を結成しました。
翻訳を成し遂げた聖書は1876(明治9)年より順次分冊刊行して、完訳は1880(明治13)年です。
まずアメリカン・ボードは、日本にミッション系の学校を設立していきました。
学校教育を行いながら、そこを宣教の拠点(ステーション:支社)としていたのです。
その中の一つが、群馬県前橋市の前橋英学校(現:共愛学園)にあたります。
1888年(明治21)年にキリスト教信者の寄付によって、前橋英和女学校が誕生します。
その際、語学教育のために、招かれたのが、アメリカ人女性宣教師でした。
それから、3年後の1891(明治24)年に「旧アメリカン・ボード宣教師館」が彼女たち宣教師の住居として建設されたのです。
もちろん、彼女たちの宿舎としての役目以外に、前橋市を中心に群馬県一円の宣教拠点とした役割も担っていました。
同年11月頃には、東西2館が完成し、さらにメイド用住宅2棟、物置なども併設され、敷地内には6棟の洋風建築が建ち並んでいましたが、昭和20年の空襲により諸施設を消失し、奇跡的に東館のみが焼失を免れています。
前橋英和女学校の焼失前の学園の様子
東館には独身のアメリカ人の女性宣教師が7代にわったって住み、1931(昭和6)年まで献身的に教育とキリスト教の精神に力を尽くしたそうです。
最後の宣教師が定年を向かえ帰国し、宣教師館は閉館されました。
その後、学校は移転にともない、この建物も移築されています。
今回ご紹介する東館は1978(昭和53)年に群馬県から重要文化財に指定されており、宣教師館として全国的にも貴重な建物です。
設計者に関する資料は残っていませんが、アメリカン・ボードの宣教師D. C. グリーンではないかと考えられています。
ダニエル・クロスビー・グリーン:同志社大学の彰栄館・礼拝堂・有終館を設計。牧師であり建築家でした。
同志社大学・彰栄館
同志社大学・礼拝堂
施工者は屋根裏の柱に彼の署名が残っていることから、地元の棟梁・斎藤善太郎と判明しています。
彼は、前橋市内の主要な洋風建築のほとんどを手がけた名棟梁だったそうです。
しかし、残念ながら、この宣教師館が現存している唯一の作品となってしまいました。
それでは建物外観をご紹介します。
建物ですが、木造2階建て切妻屋根の桟瓦葺きです。
東西約12.2m、南北約17.0mで、外壁は下見板張りとなっています。
基礎は煉瓦が5段積みされています。
瓦葺や窓が一部引き戸という和風な部分もありますが、全体的には当時の洋風建築の特徴がよく表れています。
外観:手前がL字部分で、右手に玄関があります。
鎧戸をつけた上げ下げ窓や煉瓦積みの大きな2つの煙突が印象的です。
東西の1階と2階にはそれぞれサンルームとバルコニーが設けられています。
1階平面はL字型でサンルームの隣に玄関があります。
玄関には3段ほど階段があり、左右も壁があるため少し奥まったところにあるような感覚です。
1階サンルーム、2階バルコニー 左:玄関
1階には、居間、応接間、事務室、食堂等があり、サンルームが東西に2か所あります。
食堂は大正時代に復元されたもので、作り付けのサイドボードからは、厨房へとつながる出し入れ口がついています。
2階は、居間、東寝室、西寝室、予備室、バルコニーが東西に2か所あり、この他に、地下室と屋根裏部屋があります。
階段には、当時電気が通じていなかったために、燭台が設置されています。
階段
蝋燭の明かりの中、日本という異国で、神を敬い祈りをささげていた女性宣教師たちに強さと揺るがない信念を感じます。
現在は、各部屋が展示室となっており、歴史を楽しみながら学ぶことができます。
全体的に、とても簡素はありますが、無駄がない魅力ある建物です。
4月下旬から5月上旬にかけて群馬県下各地に咲き誇る木香バラ(モッコウバラ)は3代目宣教師のミス・グリスウォルドがアメリカから持ち込んだと言われています。
この洋館から、西洋の薫りと日本が求める新しい近代が前橋市にもたらされたといっても過言ではないでしょう。
モッコウバラ
新島襄が熱心にキリスト教の宣教活動を行っていたのは、欧米文明をつくり支えているものが、キリスト教信仰であると確信していたためです。
明治の日本で教育することこそが日本を近代化へ導くと信じていました。
バラ香る頃に、思い出して前橋市に足をお運び頂けると幸いです。