日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

泉布観(旧大阪造幣寮応接所) ~ 五代友厚の足跡~

大阪の桜の名所と知られている大阪造幣局。

 

そこに、1年に3日ほどしか公開日がない貴重な建物があることをご存じでしょうか?

 

それは、大阪に現存する最古の建物で、造幣局の応接所として、造幣局の道を一本隔てた場所に建てられました。


白い漆喰塗りの壁が大変美しく気品ある明治初期の洋風建築「泉布観(せんぷかん)」です。

  

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「泉布観」という名前の由来ですが、建設当初は名前はありませんでしたが、完成翌年に明治天皇が大阪に行幸された際に自ら命名されたものです。

 

「泉布」は貨幣の古い呼び名で、「観」は館を意味しています。


桜宮公会堂敷地内にあり、明治天皇はこの建物に3度訪れ、また皇族や外国の要人を数多く迎えています。

 

この美しい建物の設計は、幕末から明治初期まで日本に滞在した、トーマス・ウォートルスの手によるものです。


ウォートルスは、アイルランドの中心部にある小さな町で、1842年に生まれていますが、当時アイルランドはイギリス領だったため、資料や書籍に英国人と紹介されている場合があります。

 

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地図データ2015Google

 

祖父・父ともに医師で、10人兄弟の長男として生まれています。(姉が5人いるため、生まれた順は6番目です)


どこで建築設計の勉強をしたのか、謎多き人物として知られています。


具体的な経緯は不明ですが、20代という若さで英国王立の香港造幣局建設に関わり、1864年頃に香港から鹿児島に来日しています。


叔父の知り合いであったグラバーから誘いを受けたのが来日のきっかけのようで、幕末に長崎のグラバー商会で働いていました。


グラバーとは、かの有名なグラバー邸に住んでいたあの人物です。

 

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トーマス・ブレーク・グラバー

 


スコットランド出身の武器商人として幕末の日本で活躍しました。


グラバーが開港まもない長崎に移り、立ち上げた貿易会社が「グラバー商会」で当初は生糸や茶の輸出を中心に扱っていましたが、後に政治的混乱に着目して討幕派の藩、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売したことから、「死の商人」とも呼ばれています。


そして、彼の自邸(グラバー邸)は長崎の有名な観光地となっており、修学旅行などで訪れたことがある人が多いのではないでしょうか。

 

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グラバー邸

 

ウォートルスは、来日当初から、グラバーと薩摩藩のつながりのおかげで、同藩の人脈がある多くの仕事を手掛けています。

 

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長崎小菅巻上ドッグ


薩摩国の西洋工場建設などにたずさわっていましたが、グラバーの推薦により今回ご紹介する大阪造幣寮と、その応接所(現在の泉布観)の建設を任されることになりました。


そして、この仕事を成功させたウォートルスは、『お雇い外国人』として上京することになるのです。


ウォートルスは様々な建築物を残していますが、特に有名なのは、銀座煉瓦街の建設です。


銀座煉瓦街は、1872(明治5)年の大火をきっかけに、都市の不燃化と、ヨーロッパの近代的な美観を目指して造られました。


一番の特徴は、この煉瓦街に煉瓦を供給するためにわざわざ日本発のホフマン窯3基を建設し、煉瓦会社を設立していることです。

 

しかし、残念なことに後の関東大震災で壊滅してしまいます。

 

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銀座煉瓦街:1877(明治10)年

 

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煉瓦街絵:二代歌川国輝「東京銀座要路煉瓦石造真図」1873(明治6)年


ウォートルスは、単なる建物1棟を設計するよりも、都市建設に大変力を発揮できる人でした。


土地の管理、土木工事、設計、資材の調達に至るまでに目を配る、総合監督の役割を担っていたのです。


謎多い人物と言われている背景には、先に述べたとおり、これらの技術をどこで学んだのかということがはっきりしていないことが理由です。


はっきりとした記録はありませんが、他の兄弟と同じくドイツの大学で鉱山工学を学んでいるのではないかと言われています。


鉱山技師は、測量、セメント製造、煉瓦形成、水路、鉄道建設、発電技術等、さまざまな技術が必要です。


それら技術と、香港や日本といった新しい土地で成功を収めようとする強い精神力、その土地や気候ならではの新しい技術を幅広く学んでいった努力によるものではないでしょうか。

 

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お雇外国人:これは明治政府が滋賀京都間に鉄道を作る際に、測量のためにお雇い外国人を引き連れて出張する旨を通達したもの。

 

しかし、お雇外国人としての悲しい現実もありました。

 

そもそも『お雇い外国人』とは、幕末から明治にかけて日本の近代化の過程において、ヨーロッパやアメリカの先進技術や学問、制度を急速に移入するために雇用された外国人のことを言います。


明治10年代の初めまでは、技術者、学術教師が多く、それが明治20年代以降になると、技術者の数が少なくなり、学術教師、専門家が多くなっています。


国籍を見ると、政府雇い外国人の大部分は、日本との国際的関係上、重要な地位を占めていたイギリス、フランス、アメリカ、ドイツなどで、文部省と工部省が最も多く雇い入れ、明治政府が近代的な学問と技術の移入に熱心であったかが想像がつきます。


お雇い外国人の中には大変高額の給料を支給されたものも多く、当時の大臣三条実美や岩倉具視の月給を超えるものも複数いました。


しかしながら、日本政府はあくまで助言者や脇役としての権力以上を持たせることはしませんでした。


そこに様々なひずみが生まれたようですが、日本を愛し、日本人女性と結婚して日本に永住した外国人も多かったようです。


ウォートルスは残念ながら、大蔵省から工部省へ移った後、1875(明治8)年に工部省から解雇されています。


その理由は、政府がお雇い外国人として建築の専門家を相次いで来日させ、徐々にヨーロッパから本格的な建築技術を取り入れようとしたことがきっかけでした。

 

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ジョサイア・コンドル:日本建築史で有名なジョサイヤ・コンドルもお雇い外国人として来日しています。

 

ウォートルスは自分でも建築家と言わず、自らを測量士や監督とし、正規の建築教育を受けたことはありませんでした。


そのため、ウォートルスの建築は、専門家の目から見ると、粗野な意匠と映り、日本から引きあげざるを得なかったのです。


1877(明治10)年に日本を離れて上海に渡り、その後ニュージーランドで鉱山開発に従事し、そしてアメリカへ渡った後にコロラド銀山の発見で成功を収めたとの話です。

 

それでは、泉布観をご紹介する前に、少し日本のお金についても触れておきたいと思います。

 

江戸時代のお金で有名なものは、時代劇にも出てくる一両小判や、一紋銭が知られています。

 

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一両小判

 

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一文銭

 

明治維新後、外国との貿易が盛んになっていく中で問題が出てきました。


それが、通貨の信用問題です。


江戸幕府の金・銀貨幣の質が国際基準と大幅に異なり、ばらつきもありました。


そして、偽札もたくさん出回っていたと言います。


日本が外国と対等に取引をし、近代国家になるためにも、国際的に通用する通貨が必要だったのです。


そのため、元薩摩藩藩士の外国事務局判事・五代友厚に白羽の矢が立ちます。

 

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五代友厚

 

藩士時代には、欧州視察も行っており、新政府の要人に知り合いも多かったことから、新通貨製造の話が大久保利通より持ち掛けられました。


彼は、グラバーとの親交もあったため、香港の英立香港造幣局に、使われていない造幣機があるとの情報を得ることになります。


それは、なんとウォートルスが建設にたずさわった造幣局です。


もしかしたら、この情報はウォートルスがグラバーに何気なく話した些細なものだったのかも知れませんし、グラバーがウォートルスに相談をしたものなのかは不明ですが、縁というのは不思議なものです。


グラバーが英国政府との仲介役となり、6万両という価格で造幣機械を購入する契約を結びました。


この金額は当時では破格の値段だったと言います。


そして、これにより先に述べたようにウォートルスが大蔵省に雇用され、機器購入の担当と大阪造幣寮と応接所(泉布観)の設計を担当することに繋がるのです。


これが、日本の明治の近代化建設とウォートルスの全盛の時代の幕開けでした。

 

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大阪造幣寮:1872(明治4)年竣工

 

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旧桜ノ宮公会堂:1927(昭和2)年に取り壊し、旧造幣寮鋳造所玄関(旧桜宮公会堂)としてファザード(建物正面部分)のみ保存されます。

 

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旧桜ノ宮公会堂:現在は結婚式場や写真スポットとして使われています。


まさにウォートルスは総監督として貨幣の鋳造工場や、鉄道馬車、電信架線、地金を溶かすためのコークス窯などを作っていきました。


総工費は年間の税収の3割ほどに当たる、約95万両以上という大変な金額でした。

 

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本位金貨幣

 

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貿易銀貨

 

そして、1871(明治4)年に、貨幣制度の統一を目指し「新貨条例」を制定しました。


外国との貿易を考えて、金貨と銀貨を貨幣の基本とし10進法を用いることにし、その時、「両」から「円」に単位をあらためています。

 

そして、一人の日本人の運命も変わります。

 

それは、先に述べた明治新通貨の立役者、五代友厚です。

 

五代は、さっさと官職を辞め、金銀分析所なる新たな会社を設立し、莫大な資産を気付き大阪経済界の重鎮の一人と呼ばれるまでになるのです。


あらためて、グラバーの人脈と商才に驚かされ、また日本人の歴史的な人物たちがドラマチックな人生へと導かれていることに考えさせられます。


それでは、大阪造幣寮の隣に建てられた、応接所の泉布観を見ていきましょう。

 

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外観(南東から見た正面の様子)

 

建設は1871(明治4)年に建てられた、2階建ての総煉瓦造りで、壁は白い漆喰塗りの大変美しいものです。


正面中央には車止めとなっており、その上部はベランダとなっています。

 

この建物で最も印象的なのは、建物周辺をぐるりと囲んでいるベランダで、これはベランダ・コロニアル様式と呼ばれています。

 

このベランダ・コロニアル様式とは、ヨーロッパの国々が、東南アジア・インド、アメリカを植民地にする際に、その気候風土に合わせた住宅として生み出された欧州とは異なる建築様式のことです。

 

周囲に部屋の延長としてのベランダを持っているのが特徴で基本平面は4角形です。


このベランダは、まるで日本の縁側のような役目を持っており、軒を深くすることで日陰を多く作り、室内への風通しをよくしています。


泉布観では、どの部屋からもベランダに出られるようにっており、美しい景色を眺めることもできました。

 

また、このベランダを支えているのは、屋根から伸びたトスカナ式の柱です。


花崗岩でできており、気品に満ちた美しさを演出しています。

 

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トスカナ式柱:古代ローマ建築の柱の一つで、柱身に溝彫りを持たない簡素な柱のことです。

装飾が少ないドリス式の柱を基本としており、ドリス式は柱身に縦溝が彫られています。

 

ちなみに、トスカナ式の柱が用いられている建築物というと、以前ご紹介した清泉女子大学本館があります。


ジョサイア・コンドルが設計した、たいへん素晴らしく気品に満ちた建物なので、どうぞお立ち寄り下さい。

 

清泉女子大学本館 - 日本のすばらしい建築物

 

 そして、外観から見える、フランス窓は、緑がかった青の綺麗な窓で、清潔感があります。

 

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2階ベランダ南側のフランス窓


フランス窓は、主にテラスやバルコニーに面して設けられる、床面まである両開きのガラス窓のことです。


この窓から出入りができるようになっており、扉の役目も果たします。

 

室内ですが、まずはスケール大きさに驚きます。

 

天井が高く、開口や廊下も大きいため、大変ゆとりを感じます。


玄関から入るとまっすぐに廊下が伸びており、その左右に部屋が配置されています。


1階は、玄関向かって左の南側には、南室(食堂)、配膳室、洗面室。


右の北側には東室、階段、西室があります。

 

南室が一番広く、以前は食堂として使われていました。


部屋の中央あたりに、外観と同じような大きな柱が設置され、大変目を引きます。


この柱は、石ではなく木造で、杉が用いられ、その上を壁と同じく漆喰塗りで仕上げています。

 

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南室:食堂

 

大きな鏡の棚はワインが収納されていたとされています。

 

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南室食堂:大きな鏡棚

 

照明は人の頭の装飾でインパクトがあります。

 

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南室:照明

 

この建物の照明器具は建設当初のガス灯が今もそのまま使われており、とても貴重なものです。

 

特に、玄関を入ってすぐの1階北側にある東室には、カットガラスのシャンデリアがあり、その姿は大変美しく、繊細なガラスの装飾に、目を見張るものがあります。


シャンデリアはとても大きく下へ垂れているため、とても低い位置に設置されているように感じますが展示のために降ろされているかもしれません。

 

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北側東室:シャンデリア

 

2階は南側に東室、中室、西室、洗面室で、北側は東室と西室となっています。


特に2階北側西室には、奥の中央に、楕円形の大きな鏡が取り付けられたマントルピース(暖炉)が設置され、装飾にイギリス製の装飾タイルが美しく豪華で存在感を持っています。


また床は市松模様でその印象に圧倒されますが、当時はタイルが大変高価だったため代用品として木にペンキで描かれています。


このようにタイルの代用は各所に見られ、気品なる優美な建物の中に節約の箇所が見え隠れするのも面白いものです。


また天井が高く、そこにあるフランス窓もダイナミックで大きく、たくさんの光を取り込むことができます。

 

<北側西室>

 

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西室:マントルピース

 

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タイルの模様(展示室より)

 

暖炉に施されたタイルには、イギリス製でありながら日本らしい絵が施され、シックな色使いです。

 

2階北側東室は「玉座の間」と呼ばれ、明治天皇の行幸(天皇が外出すること)の際に御座所が設けられた部屋で、同じく大きな鏡のついたマントルピースと、部屋の真っ赤な壁に圧倒されます。


明治天皇は泉布観に3回訪れていますが、こちらの内装は1898(明治31)の行幸に合わせて改装されたものです。


床にも壁と同じく赤で統一され、窓にかかるカーテンは厚地で、だくさんのドレープが施されている豪華なものです。


マントルピースは、他と違いタイルの装飾を用いていませんが、大変シックな色使いと、足元の装飾は大変手が込んだものとなっています。

 

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玉座の間

 

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マントルピース

 

2階のベランダに出るとあらためてその幅の広さに驚かされます。


各部屋とはベランダがすべてつながっているため、優雅にグルリと歩くことが可能で、気持ちの良いスペースです。


建物正面にある車寄せの上部のベランダ天井には、手の込んだ幾何学的な装飾が施されています。

 

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2階のベランダから

 

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正面車寄せ部分の2階:ベランダ天井部分

 

大阪市は平成24年に、外観などの修復工事を行っていますが、カーテンや手摺などにところどころ痛みが残っています。


年1回の限定で一般公開し、一度に入館できる人数を制限するなど、その保存に力を入れています。


年月によって痛むのが当然の中、このように当時のままで維持されていることに、人々の努力と協力を感じ、さまざまな思いが胸をよぎります。

 

もし機会があれば、ぜひ足をお運び頂き、歴史と物語を感じて下さい。