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日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧土岐家住宅洋館

こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。

 

 突然ですが、大正時代の名家のお屋敷を訪ねてみませんか?

 

大正時代の格式高いお屋敷では、家族の生活の場となる空間を和風建築にして、応接室や書斎のために洋風建築を併設する様式が流行りました。

 

関東大震災の後、すぐに建てられた侯爵の洋館は、まさにそのスタイルでドイツの別荘を思わせる魅力的なものです。

 

今回は、「旧土岐家住宅洋館」をご紹介します。

 

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施主である土岐章は沼田藩主の子として1892年東京で生まれています。


沼田藩といえば、江戸幕府の時代に大変権力のあった藩の一つです。


そもそも沼田藩は真田家が最初の当主でした。


真田家というと真田幸村が大変知られた武将ですよね。

 

幸村は、1600(慶長5)年の関ケ原の合戦で西軍(豊臣側)に味方しているのに、江戸時代に影響力をもった沼田藩を真田家が収めていたのは不思議に思われませんか?

 

歴史に詳しい方はご存じかと思われますが、天下分け目の合戦が、文字通り真田家にとって大きな分かれ目となるのです。


真田幸村(本名・信繁)とその父・真田昌幸は西軍(豊臣側)につきました。

 

しかし、幸村の兄・信之は妻が本多忠勝の娘(小松殿)だったために東軍(徳川側)につくことになり、そこで袂を分かつことになったのです。

 

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真田幸村

直系子孫が明かす! 真田幸村の真実

 

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真田信之

 

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真田家家紋:仏教逸話に由来する家紋です。死後渡るとされている三途の川の渡し賃が六文であり、戦いに臨む武士の決死の覚悟を表しています。

 

沼田藩は、信之以降しばらく真田家が受け継いできましたが、その途中で血統が松代藩へ移っていったため、沼田藩と松代藩との間で領地争いが起こり、幕府が間に入るといったお家争いが起こることもありました。

 

その後、本多家、黒田家を経て、1742(寛保2)年以降土岐家が3万5000石で引き継ぐことになります。

 

土岐家というと、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家で、源頼光の子孫・光衡が美濃の土岐川流域に土着して「土岐氏」を名乗ったのが始まりです。

 

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土岐家家紋:土岐水色桔梗

 

美濃を基盤に発展し、南北朝動乱の四代当主の頼貞が美濃守護となってからは、足利尊氏に味方したことで足利将軍家を支える有力な武将として活躍しました。

 

そして、美濃の地で土岐の本流から多くの分家を出しましたが、その中には名前を変えて「明智」を名乗るものも出てきます。


実は、その明智とは、本能寺の変をおこした明智光秀の先祖にあたるのです。

 

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本能寺の変:「本能寺焼討之図」(明治時代、楊斎延一画)

 

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明智光秀:本徳寺蔵

 

【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫)

この一大勢力を築いた名門の土岐家でしたが、その勢力を恐れた三代将軍・足利義満の画策によって内乱がおき、お家の結束がくずれ最終的には斎藤道三により没落させられ本流が絶たれます。


これは、本能寺の変が起こる30年ほど前のことで、明智光秀を突き動かした背景には、土岐家の再興へ意があったためとも言われています。

 

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斎藤道三:岐阜市常在寺蔵 

「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成りあがりました。娘の帰蝶は、織田信長正室となっています。

 

本流は絶たれましたが、将軍家にも匹敵するような一大勢力を誇った土岐家の分家が沼田藩の当主となっているのはさすがの名門といえるでしょう。


沼田藩主となった土岐家は、大阪城代、京都所司代、老中など譜代大名しかつけない役職を務めてあげています。


127年間、12代にわたって沼田地域を収めていましたが、明治2年に版籍奉還をし、その後は沼田を離れて東京日本橋に転居しました。

 

<版籍奉還>

江戸時代が終わったことにより、大名たちがそれぞれもっていた領土と領民を朝廷(天皇)に返すことです。


明治維新の立役者である、薩摩・長州・土佐・肥前の四つの藩が真っ先に朝廷へ返しましたが、他の藩も自ら返却することを望み、結局すべての藩が領地と領民を手放すこととなりました。


それには理由があり、江戸幕府と新政府の戦いによって、多くの藩が財政難で領民を取り締まることも難しくなっていたこと、そして、各藩の借金を新政府が肩代わりしてくれることが大きかったようです。

 

しかし、手放したといっても、別段すぐには何も変わりませんでした。


なぜなら新政府は、今までの藩主や役人を藩知事に任命し、藩の政治を行わせたからです。


その後、明治4年に全国の藩を廃止して府県を置く「廃藩置県」により、やっと中央集権的統一国家が確立されました。

 
それでは、「旧土岐家住宅洋館」の施主・土岐章についてご紹介します。

 

章は、12代最後の土岐家当主・土岐頼知の正室の次男として生まれました。

 

東京に移転した後に、明治政府から子爵を任ぜられます。

 

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土岐 章

 

1915(大正4)年に千葉県立高等園芸学校卒業後、東京帝国大学理科大学選科にて発酵学を学び、ドイツへ留学しています。


その後、日本食糧株式会社取締役、帝国酒造株式会社顧問などの要職を歴任しました。

 

章が自邸を建てたのは、関東大震災直後の1924(大正13)年で、渋谷区の広尾に位置します。

 

ちなみに、広尾という場所ですが、江戸時代はたいへんのどかな場所であったといいます。


しかし、明治・大正と時が流れるにつれて、地域では人口が急増し、小学校も複数建設され常にたくさんの生徒であふれました。


旧土岐家住宅の道を一本隔てたところにも、渋谷区立広尾小学校が建つことになりましたが、章は迷惑がることもなく、付近の住民とともに校舎の建設に尽力し、学校行事にも積極的に足を運んだというエピソードが残っており、人柄を伺い知ることが出来ます。

 

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『名所江戸百景』「廣尾ふる川」:本図は渋谷区広尾と接する天王寺あたりから渋谷方面を見た様子で、江戸時代は原っぱが続いていました。
※『名所江戸百景』とは、浮世絵師の歌川広重が1856(安政3)年2月から1858(安政5)年10月にかけて制作した連作です。

 

この土岐家の自邸ですが、たいへん大規模な純和風のお屋敷でした。

 

母屋としてこちらを使い、応接室や書斎などは、洋館を併設して利用していましたが、これが冒頭でも触れた、当時の流行のスタイルでした。

 

その洋館は、学生時代の留学経験から影響を受けて、ドイツの別荘風となっているのが特徴です。

 

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旧土岐家母屋

 

その後、章は18年ほど貴族院議員として務め、1979(昭和54)年にこの世を去りました。

 

現在、洋館部分だけが、かつて藩主をつとめていた沼田市に寄贈され、渋谷区から旧沼田城跡に移築されています。

 

設計は伊藤平三郎ですが、伊藤のことは詳しくは記録に残っていません。


しかし、当時ドイツで流行していた「ユーゲントシュティール」に基づくデザインが採用されていたり、アメリカンコロニアル調が取り入れられていたりと、大変大正期らしいモダンなデザインが豊富に散りばめられている発想力に富んだ設計となっています。


屋根はストレート葺きで、木造2階建て、屋根の内側に屋根裏部屋があります。


2階の壁は、下見板張り(アメリカ風)のですが、1階はドイツ壁(モルタル掃き付け仕上げ)となっており、それに屋根部分と、色もそれぞれ異なるために3層に分かれているように見えます。

 

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外観

 

1階のテラス部分は、石組の柱があり重厚感を醸し出しています。


また、テラスからすぐに庭に出られるように階段が設けられています。

 

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テラス部分

 

特に外観で印象的なのは、屋根に取り付けられた牛目窓(うしのめまど)でしょう。


牛目窓は、ユーゲントシュテイールの特徴の一つと言えます。

 

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牛目窓

 

ユーゲントシュティールとは、ドイツ風アールヌーボーと呼ばれていて、「構成と装飾の一致」を理念とした美術や芸術のことで、建築にも大きな影響を及ぼしました。


簡潔で機能を重視した形が重んじられる一方で、唯一無二の高いデザイン性や芸術性が一体となったものが求められたものです。


つまり、権威のために過度に誇張・華美に装飾された建築ではなく、その建物にあった丁度良い装飾具合や、必要なだけの芸術があればよいという考え方とも言えます。


日本の浮世絵からも影響を受けたとされています。


ドイツの比較的小さな町「ダルムシュタット」から始まったとされ、エルンスト・ルートヴィヒ大公がドイツのいろいろな芸術家を集めて芸術村を造ったことがきっかけです。


その中でも、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒが設計したマチルダの丘の結婚記念塔とロシア教会が大変有名となっています。

 

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ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ:1867ー1908 41歳という若さでこの世を去っています。

 

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マチルダの丘 結婚記念塔:1907年竣工 手の形をした塔は大公とマチルダ妃も結婚を記念して造られました。

 

ユーゲントシュティールでは、動植物や女性のシルエットなどをモチーフとし、柔らかい曲線美があり、それでいて非対称で幾何学的デザインが取り込まれているのが特徴とされています。


まさに、牛目窓は控えめでいて曲線が緩やかで柔らかな姿が人の目を集めます。


日本では、田尻歴史観(谷口房蔵別邸)にも、牛目窓があります。

 

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田尻歴史館:大正11年竣工

 

それでは、旧土岐家住宅洋館を細かく見ていこうと思います。

 

玄関ですが、足元には煉瓦が敷かれ、濃い焦げ茶色のドアの上部は半円形のアーチと石の彫刻が印象的です。


玄関脇の窓が3連に連なっていますが、窓枠にアーチ型の装飾が施されています。

 

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玄関と3連窓

 

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玄関上部:石細工 水ガメにもたれながら音楽を奏でる天使

 

玄関ホールには菱形のステンドグラスが施された窓があり、芸術性の高い複雑な装飾からもモダンな印象を受けます。

 

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玄関ホール:菱形のステンドグラス

 

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室内ですが、1階は応接室とテラス、和室、書生室、納戸があります。


応接室は洋間となっており、壁は赤茶色の漆喰で壁は白漆喰で仕上げられています。

 

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応接室

 

奥の角には幾何学的でモダンな暖炉が設置され、3方向に窓があることから明るい陽射しが部屋いっぱいに広がります。


応接室からテラスへとつながっているため、開放的な空間が演出され、まさにお客様をお迎えするに相応しい意匠です。

 

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1階:暖炉

 

1階階段の親柱には葡萄をモチーフにした彫刻が施されていますが、大変シンプルな造りです。

 

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階段

 

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階段:親柱

 

2階には1階と同じく洋間・和室・書斎が設けられています。


2階では和室が一番広く、洋間は書斎と洋室のみとなっています。


洋館と言えども、大正時代から室内に和室を設ける設計が増えてきます。

 

それは現代にも通じており、建物がいかに洋風であろうとも、生活の用途に合わせて洋室や和室が混在するのが一般的なスタイルとなっています。


和室は、上段の間と次の間があり、床の間を設けた格式の高いものです。

 

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2階和室

 

洋間には真っ白いレースのカーテンがかかりとても美しく光を通します。

 

随所に当時の最先端の建築デザイン(ユーゲントシュティール)が取り入れられている建物で見応えがたっぷりです。

 

江戸時代から明治、大正と短い時代の狭間を生きていた人々は、どのような気持ちで時代の変化を見つめていたのでしょうか。

 

古いものから新しいものへと目まぐるしく変化した時代、人々の価値観にも大きく影響を与えたに違いありません。

 

たった15年ほどしかない大正時代のモダンでお洒落な洋館に、ぜひ一度足をお運び頂けたらと思います。