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日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

ホテルニューグランド(歴史ある横浜のシンボル)

こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。

 

横浜から異国の雰囲気を感じてしまうのは、歴史ある古い町並みによるものでしょう。


その中でも特に有名なのが、横浜のシンボルとなっているヨーロッパスタイルの「ホテルニューグランド」。

 
今回は、この歴史あるホテルをご紹介します。

 

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名前に「ニュー」と付いているのには訳があります。


実は、横浜にあった「グランドホテル」から名前を受け継いだものなのです。


グランドホテルは1973(明治6)年にオープンした日本最大の外国人向け豪華ホテルです。


1889年(明治22)年には新館の増築を行い、客室360を数える大ホテルとなり、帝国ホテルと並んで日本有数のホテルとして知られていました。

 

明治から大正にかけて、国際化を推し進めて行く中、大変な出来事が日本を襲います。


それが、1923(大正12)年の関東大震災です。

 

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震災後の元町通り

 

このブログ「日本のすばらしい建築物」で、建物の歴史を調べていくと、何度もこの震災にぶち当たってきました。


悲しい事実ですが、この震災によって多くの命と素晴らしい建築物が失われてしまったのです。


そして、この震災は、その後の建築設計に大きな影響を与えました。


以前、横浜の震災の様子と復興住宅「山手234番館」を詳しく取り上げました。


ぜひ、そちらへも足をお運び頂けたらと存じます。

 

山手234番館(外国人向け復興住宅) - 日本のすばらしい建築物

 

明治の横浜港は日本と外国との往来の重要拠点でした。


そのため、震災前は山下町界隈に外国人向けのホテルが軒を連ねていましたが、震災で瓦礫と化し姿を消してしまいます。


グランドホテルは地震保険に加入していたため、イギリスのオーナーに保険金が入ったとの話ですが、経営を続けるのは諦めてしまいます。

 

グランドホテル株式会社は解散し、創業約50年で終止符を打ちました。


なにせ、横浜は建物の全壊・焼失・全半壊が8万戸以上、死者が2万3,000人ほどと言われ当時26棟あった領事館がすべて崩壊したほどのものでした。

 

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当時のグランドホテル

 

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当時のグランドホテル 海側からの姿

 

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震災後のグランドホテル


横浜の人々にとってグランドホテルというシンボル失ったことは、精神的にも大きな痛手となりました。


その上、震災後は外国人向けの宿泊施設が不足していたこともあり、当時の横浜市長・有吉忠一と政財界によってホテル建設の計画が動き出します。


今で言う第3セクターの形で、横浜商工会議所や地元の政界と市民から集めたお金によってついに施工されることになりました。

 

そしてわずか震災から5年後の1927(昭和2)年12月にはホテルが竣工し、開業に至ります。


この時、新しいホテルの名称が、横浜の市民に公募されました。

 

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ホテルニューグランド開業当時

 

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ホテルニューグランド

 

横浜市民の頭の中から離れなかったのは、あの贅を尽くしたホテルのことでした。


横浜の新しいシンボルとして、新しいグランドホテルを意識した、「ホテルニューグランド」に決定したのです。


開業日のレセプションには各国大使や外交官など約3,000人が集まり、全国にも例のない都市のホテル経営として大々的に報道されたと言います。


オープン当時の横浜の人々は、新しい横浜のシンボルに復興と未来の光を強く感じていたことでしょう。


そして、このホテルから様々な人物と文化を発信していくこととなるのです。


ホテルの初代会長となったのは井坂孝という人物でした。

 

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井坂 孝

 

井坂は東大卒業の実業家で「東洋汽船専務」「横浜火災保険社長」「横浜銀行頭取」などを勤め上げた人物です。


1921(大正10)年より、横浜商工会議所会頭を務めていたため、大震災後の復興に大変尽力しました。


ホテルニューグランドの名称についても、本当は横浜市民からの公募によるものではなく、井坂が付けたのではないか?という話もあるほどです。


全く最初からホテルを作り上げるという大役とはどんなものでしょうか?


相当の知識と経験がなければ、ホテルとしての基本のサービス業務すらままなりませんし、ましてや日本と海外の重要な拠点である横浜の外国人向けホテルです。


よほどのノウハウがなければ運営はうまくいきません。


そこで、井坂が白羽の矢を立てたのは、同じ東洋汽船出身の土井慶吉でした。


ホテル開業にあたり、土井を常務取締役として迎え入れます。

 

東洋汽船とは、日本屈指の海運会社です。


浅野総一郎が(明治19年)に設立した浅野廻漕店は、ロシアから船を購入し「日の出丸」と名付けたことが始まりで、需要が高まっていた石炭を輸送していました。

 

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浅野総一郎

 

明治では、黒船によって開港したとはいえ、日本人が外国に行きたいと思っても大変難しいものでした。


外国に行くためには、自分が行きたい国へ向かう外国の船に乗り、外国人に代金を支払わなければなりませんでした。


当時の日本人が外国へ向かうには、金銭や言葉の問題があり難しいものでしたが、それにしても、上記のような船舶の不自由な状態が30年近く続いていたことは異常とも言えます。


さすがに明治政府も、日本所有の船で外国航路へ渡るべきだとする考えが生まれ始めました。


そして、それを後押しするように、国の新しい法令が出来きていきます。


浅野は一早くこの時代の流れに乗る決断をしました。


自分が持っていた船を売却し、株式会社を設立して資金を集め、東洋汽船を立ち上げます。


そして、ついにはサンフランシスコ航路開設や日本で最初の1万トンを越える大型船の建造などを果たしました。

 

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東洋汽船 天洋丸(航路:長崎~神戸~横浜~ホノルル~サンフランシスコ)

 

井坂から引き抜かれた土井は、この東洋汽船のサンフランシスコ支店長として活躍していました。


大変やり手で、クセのある人物だったと言います。


海外経験豊かな土井は、欧米や欧州への視察を行い、日本のホテルのイメージを作り上げて行きました。


そして、最も長く滞在したパリの四つ星レストランから素晴らしい人材を連れて戻るのです。


それが、総支配人のアルフォンゾ・デュナンと、ディナンと一緒に働いていた料理長のサリー・ワイルです。


最初は、あまり知られてない異国の島国に来ることは、とても不安であったことでしょう。


しかし、日本に来た二人の活躍により、外観だけではなく中身においても全く引けを取らない最高のホテルとなっていくのです。


玄関のドアボーイに英国風の制服を着せたり、自動車以外に人力車を常駐させ利用者のことを一番に考えたりといったきめ細かいサービスが、評価へつながっていきました。


特に指導者として秀でていたのは料理長のワイルでした。


ワイルは日本のホテル業界において大変な功績を残した人物となります。

 

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サリー・ワイル


まず「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」というキャッチフレーズで、新聞の見出しを飾ります。


ホテルでコース料理を食べる時は、ナイフやフォークの扱い方・姿勢など、大変堅苦しいマナーが重要視されていました。


ワイルにとって食事は楽しみながら美味しく頂くことだったのでしょう。


マナーにとらわれ過ぎるのではなく、カジュアルに楽しむことへ力を注ぎました。


ドレスコード、酒、たばこを自由にし、パリの下町的な雰囲気を取り入れました。


また、料理もフランスにこだわらず、隣国のエッセンスを加えたアラカルトに重点をおいて、たくさんのメニューを作り出し、それを自由に選んで食べるスタイルへと変えていったのです。


以前あったグランドホテルのように、贅を尽くし豪華で一般客は寄せ付けない「人を選ぶ雲の上のホテル」ではなく、横浜のシンボルとして「人々に愛され、親近感と夢を持てるホテル」へと生まれ変わっていったのです。


私たちが普段レストランで味わう人気料理もホテルニューグランドが発祥です。

 

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シーフードドリア:ワイルが体調を崩した外国人客のために、何か喉の通りの良いものをと、考案した料理。

 

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ナポリタン:2代目総料理長が米兵が茹でたスパゲッティにトマトケチャップを和えて食べているのをみて、アレンジを加えました。

 

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プリンアラモード:アメリカ人将校夫人たちを喜ばせたいと、当時のパティシエが考案したデザート。


またワイルは料理を運ぶボーイへの指導や弟子への指導も丁寧に行い、当時年功序列を重んじていた料理界に改革を起こしました。


『どんなにうまい料理ができても、それを客の前に運ぶボーイの態度で客の印象は変わる』


『自分は魚の料理しかできない、肉の料理しかできない、と言うのは恥ずべきことだ』


ワイルは大変人望があり、「スイス・パパ」と呼ばれ、数百人に上る弟子の多くが主要ホテルで指導的地位についたり、ホテルオークラや東京プリンスホテルなど名だたるホテルで料理長を務めあげています。

 

このホテルが料理界の新しい文化のまさに発信源と言えるでしょう。


この素晴らしいホテルの設計は、若かりし頃の渡辺仁です。

 

まさに新進気鋭のころの作品と言えます。


渡辺と言えば、後に銀座の服部時計店、東京帝室博物館(現・東京国立博物館本館)、第一生命館などの、名作を手掛けた建築家として大変有名です。

 

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渡辺 仁

 

渡辺仁が設計した、「原美術館(旧原邦造邸)」は以前ブログにてご紹介させて頂きましたので、ぜひ足をお運び下さい。

 

原美術館(旧原邦造邸) - 日本のすばらしい建築物


渡辺仁についてあまり詳しい資料は残っていないのが残念です。


しかし、作品の数々をみると、近代日本の建築家としては珍しく歴史主義様式のほか
ルネサンス様式、アールデコ、モダニズム、東洋的なデザインを取り入れるなど多岐にわたっています。


先にご紹介した建物などは、大変インパクトのある印象的な建築物として評価が高く、その渡辺が30代の時に手掛けた、ホテルニューグランドは大変興味深い作品と言えます。

 

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服部時計店:1932(昭和7)年 竣工

 

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東京国立博物館本館:1937(昭和12)年 竣工

 

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第一生命館:1939(昭和14)年 竣工 太平洋戦争後の日本占領期、GHQの本部が置かれたことで有名です。

 

それでは、ホテルニューグランドを見ていきましょう。

 

1927(昭和2)年に竣工された、鉄筋コンクリート6階建てで、耐震耐火構造を意識して作られました。(建設当初は5階建てでしたが、後に増築されています)


外観はグレーの外壁で華美ではありませんが、とてもシックで趣があります。


ルネサンス様式にアールデコのエッセンスを加えた建物です。

 

外国から来たお客様が最初に目にする外観の姿は、日本の印象を大きく左右するので、大変力が入っていたことでしょう。

 

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外観:正面玄関

 

建物は3層構造となっており、1層目は堅牢な石積み、ロビーのある2層目は石張りで大きなアーチ窓が並び、そのアーチの内側には細かな彫刻が施されています。

 

外からアーチ窓を見ると白い豪華なカーテンが透けて見え、ホテルの高級感を一層高めています。

 

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アーチ窓:窓枠の内側には細かな装飾が施されています。


3層目は客室となり白壁に四角い窓を規則的に並べています。


道路に面した建物の角は丸く優雅で、そこにあるエンブレムが象徴的です。


エンブレムには開業した年の年号AD1927の文字があります。

 

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エンブレム:道路からよく見える建物の丸い角の部分に施されています。

 

玄関にはホテル名が入った大き目な車寄せがあり、入るとすぐ正面には階段があります。


当時は2階にロビーがあったためです。

 

2階に向かう階段には青い絨毯が敷かれて、石造りで重厚感があり、絨毯が美しく映えます。

 

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2階ロビーで続く階段

 

階段を上って行くとその正面には、東洋のエッセンスがふんだんと散りばめられた空間に出会います。


天井には白漆喰で繊細な装飾が施されており、正面エレベーターの上部には京都川島織物の綴織「天女奏楽之図」が壁に張られています。

 

そして、その真ん中には時計があり、寺院で祀られている仏像の背中にある「炎」が装飾されています。

 

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2階エレベーター付近:このあたりが当初はフロントとなっていました。当時では2階にフロントがあることは珍しかったといいます。

 

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天女奏楽之図

 

そして、天井からは、東洋風の伽藍の灯籠が吊るされています。

 

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2階ロビーの灯籠

 

まさに、「東洋に来た!異国に来た!」と外国人に大変なインパクトを与えるように意識した意匠です。


またロビーには、外観からも印象的だった大きなアーチ窓と豊かなカーテンの間から、山下公園のイチョウ並木と横浜港を眺めることができ、船旅をゆっくり癒せるようにソファーが並んでいます。


またマカボニーの柱と横浜家具が歴史と重厚感を与えてくれます。

 

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2階ロビー:窓際のソファー。

 

また2階にあるフェニックスルームは宴会場ですが、大変独特なものです。

 

宴会場に向かうロビーには太い木柱が印象的で、会場内は、神社のような天井の梁、伽藍のオレンジの光、赤い絨毯がデフォルメした日本の神社を思い浮かべさせます。


外国人が見た神秘的な日本の姿を具体化したような部屋です。

 

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フェニックスルーム

 

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フェニックスルーム

 

またレンボーホールルームという社交場があり、天井がアーチ状となっており、漆喰職人の最高傑作と評されています。

 

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レインボーホールルーム

 

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レインボールームの天井:職人の手の込んだ装飾にはため息がこぼれます。

 

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レインボールームの檀上上部:正面向かって右側のフェニックスです。左右対称で左側にもあり、漆喰で立体的になっており芸術的です。

 

またこのホテルには有名人も多く宿泊しており、それを想像するのも楽しいものです。

 

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チャールズ・チャップリン:世界の喜劇王

 

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ベーブ・ルース:親善野球の為に来日 

 

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ジャン・コクトー:フランスの芸術家で、詩人・小説家・劇作家・画家・映画監督・脚本家など多彩な才能の持ち主でした。

 

そんな中でも、ホテルニューグランドの歴史を語る上で、どうしても欠かせない人物が、「マッカーサー元帥」です。

 

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ダグラス・マッカーサー

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※映画「地獄の黙示録」は、戦後の日本とダグラス・マッカーサーがモデルと言われています。

 

 

第二次世界大戦中、ホテルは戦災にあいませんでした。


なぜなら、米軍が戦後に使うため、空襲の標的から外していたためです。


実はマッカーサーは1937(昭和12)年に二度目の結婚相手ジーン婦人と新婚旅行で来日した際に宿泊しており、その際とても気に入っていたようです。


マッカーサーがマニラにいるときから、日本ではホテルニューグランドに泊まりたいと指示を出していました。


第二次世界大戦後、日本に進駐してきた連合国際司令官のマッカーサーは来日直後の3日間を、315号室で過ごしています。

 

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315号室 部屋のドアには名前のプレートがあります。

 

なんとこの部屋に、今でも宿泊可能です。

 

また、宿泊客がいない場合にはスタッフの案内で見学できるようになっています。


リビングと寝室に分かれたスイートタイプとなっており、当時の調度品を修繕しながら使い続けているそうです。


マッカーサーが使った机や、天蓋のあるベッドなど、機会があれば是非見学して頂きたい一品です。

 

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部屋の一部:広さは56平米もあります。

 

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ライティングデスク:マッカーサーが実際に使用した机

 

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天蓋付きのベッド


戦後、マッカーサーが訪れた時、戦禍で横浜の変わりように何を感じていたでしょうか?


彼が幸せの真っ只中で訪れた日本とはかけ離れていたでことでしょう。

 

激動の時代を優雅に乗り越えてきた、歴史あるホテルにぜひ一度ご宿泊してみて頂けたらと思います。