『森の中にある、歴史あるフランスのお城』
ため息が出るほど美しく、ヨーロッパの歴史を感じます。
実は、そんな光景が愛媛県松江市にあるのをご存じでしょうか?
この建物は「萬翠荘(ばんすいそう)」と呼び、大正時代に日本人の設計者によって建てられた洋館です。
萬翠荘は、1922(大正11)年に、旧松山藩主の久松定謨(ひさまつ さだこと)伯爵の別邸として建設されました。
久松定謨
久松定謨は旧伊予松山藩17代当主にあたりますが、1867(慶応3)年に静岡で松平勝実の三男として誕生しています。
伊予松山藩主・松平定昭には跡取りがいなかったために、定昭公の願いによって養子となり、まもなく亡くなったことで、その遺言にのっとり17代当主となったのです。
この久松定謨ですが、もしかすると名前に聞き覚えがある方もいらっしゃるかもしれません。
それは、司馬遼太郎の代表作の一つである、長編歴史小説『坂の上の雲』に出てくる人物に関係しているからです。
この物語は、松山出身の若者たち3人(秋山好古・秋山真之の兄弟と正岡子規)が主人公として描かれており、前半は、彼らが近代日本において、いかに成長し生きたのか、また彼らの青春模様が描かれています。
後半は、日露戦争の描写が中心で、その中での彼らの決断と活躍、戦争への経緯などが描かれていますが、あくまで戦争賛美ではなく日本における近代国家の形成を大きな時代の流れの中で描いたものです。
ドラマ『坂の上の雲』はNHKにて、2009(平成21)年11月29日から2011(平成23)年12月25日まで足掛け3年にわたって放送されたこともあり、大変な話題になりました。
坂の上の雲:累計1900万部以上売れました。
NHKドラマ『坂の上の雲』:秋山真之を本木雅弘、秋山好古を阿部寛、正岡子規を香川照之が演じました。
主人公の一人である秋山好古がフランスへ留学し、そこで学んだ騎兵戦術が彼の人生と日本の騎兵隊を大きく変えていきます。
帰国した後に、騎兵第一大隊の中隊長となり、間もなく陸軍士官学校や教官を務め、明治25年には騎兵の世話をする最高の役所「騎兵監」の副官となるのです。
陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と称えられ、日本騎兵の父と言われました。
実は、そのきっかけになったフランス留学ですが、今回の施主である久松定謨公のお世話役(補導役)の一人として同行したものなのです。
留学が決まった当時は、日本軍はドイツ式の戦術をとっていました。
そのため、ドイツに留学するならともかく、ドイツとは全く異なる戦術を取っていたフランスには、好古は好んで行きたいとは思わなかったはずです。
しかし、侯爵の同行を断ることは出来ず、帰国後の自分の立場を案じながらも、フランスのサンシール士官学校へと旅立ちます。
秋山好古
定謨がフランスへ留学することになった理由ですが、昔から日本ではフランス式での戦術を基本としていたことによります。
その当時の流行がドイツ式であろうとも、昔からの慣例となっているフランス式を学ぶことが、侯爵家としてふさわしいという久松家の意向があったようです。
留学した1883(明治16)年、定謨は16歳でした。
もともとはお世話役として加藤拓川(正岡子規の叔父)が同行していましたが、パリの日本公使館に勤務することになり、好古へとそのお役目が回ってきたのです。
フランスの馬術は戦術として目を見張るもので、ドイツ式では馬の装備の見た目を重視するものだったために、騎乗者の負担が大きく疲れやすいものであったと言います。
内務大臣の山縣有朋にも一任されていた好古は、日本に帰国した後に騎兵隊においてはフランス式で通すこととなったのです。
秋山好古と騎兵団
フランスへ定謨が留学した年に、久松家が単独出資により私財を投じて「常磐会」を設立します。
これは、松山から勉強ために上京してくる旧藩士のための学費援助組織で、最初の学資の給付生として正岡子規や好古の弟の秋山真之等10人が選抜されます。
また、彼らのために旧坪内逍遥の住居だったところを、坪内が転居した後に常盤会の寄宿舎として使い、旧松山藩の未来のために後身を育てようと人材育成に力を注ぎました。
常磐会寄宿舎跡:現在はビルが建っており、片隅にひっそり標示板があるのみです。坪内逍遥は小説家・評論家・教育家で有名な人物です。特に、江戸時代の勧善懲悪主義の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで世態風俗の描写がこれに次ぐと論じ、この心理的写実主義を提唱しました。これは近代文学に大きな影響を与えました。
定謨は帰国後、陸軍に所属し、1895(明治28)年、日清戦争にも近衛師団長・白川宮能久親王殿下の副官として従軍します。
慣例として旧松山藩の家臣も出征しましたが、その中には従軍記者として正岡子規がいたことは有名な話です。
しかし、子規は病弱な体をおしての従軍のために、1ヶ月後には、帰国途中の船の上で血を吐いて重態となり、そのまま病院へ入院してしまうのです。
このことで、「鳴いて血を吐く」と言われていたホトトギスに自分を重ね合わせて、ホトトギスの別名「子規」を自分の俳号としました。
そして、本名ではなく俳号である「正岡子規」が一番知られる名前となるのです。
この日清戦争への従軍が彼の死を早めたといっても過言ではないですが、彼にとって一生に一度の海外であり冒険であったに違いありません。
その後、定謨はフランス交換附武官に任命され、1906(明治39)年、日露戦争の終結を機に帰国します。
正岡子規:日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人です。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多岐にわたります。
病弱で約7年間結核をわずらい、34歳の若さでこの世を去りました。
ホトトギス鳥:ホトトギスは口の中が赤いために、それが血に見えたことと、泣き声がとても鋭く甲高い声ので血を吐いてもおかしくない様子から、血を吐くまで鳴き続けると思われ(実際は血を吐きません)、悲劇的な故事や物語として度々登場する鳥です。
以前、建物と株式を通して、日清戦争と日露戦争に触れたブログを描いております。
ぜひお立ち寄り下さい。
鎌倉市長谷子ども会館(旧諸戸邸) - 日本のすばらしい建築物
定謨が別邸として萬翠荘を建築したのは、1920(大正9)年に陸軍中将に昇進した翌年で、50代半ばに差し掛かっていたころです。
フランスでの生活が長かったことから、本格的なフランス建築を望んだと言います。
最後は、生活を東京から松山市へ移し、77歳で亡くなり、歴代藩主が眠る大林寺に埋葬されています。
この別邸・萬翠荘ですが、設計を手掛けたのは木子七郎です。
木子七郎
木子は宮内省内匠寮の技師・木子清敬の四男として、1884(明治17)年に東京で生まれました。
父親の木子清敬は大変優れた宮大工としてしられ、明治宮の建設にも関わり、東京帝国大学で日本建築学の講演を行うなど、大変知られた建築家でした。
また年長の兄は、父親のあとを追って、宮内省に入り、宮廷建築家としての道を選びます。
七郎もまた建築家になるべく、東京帝国大学建築学科を卒業し、大林組に入社し、そこでも実力を発揮し活躍していましたが、新田帯皮製造所の建築を担当したことで大きく運命が変わります。
社長の新田長次郎に気に入られ、新田家の建築顧問となり、長次郎の娘のカツ(勝子)との縁談の話へと繋がっていくのです。
結婚することが決まった七郎は、大林組を退社して、木子七郎建築事務所を自宅に開設します。
次々と新田家関連の設計にたずさわりますが、義父の長次郎が愛媛出身だったという縁で、愛媛県には、愛媛県庁や鍵谷カナ頌功堂(伊予絣の創始者を顕彰するためのもの)
そして、今回ご紹介する萬翠荘を設計しています。
愛媛県庁
鍵谷カナ頌功堂
木子が定謨の別邸を設計することになったきっかけですが、定謨と義父である新田長次郎に関係があると言えます。
新田は安政4年愛媛県松山市に農家の次男として生まれます。
1877(明治10)年21歳の時に大阪に出て製革所に入り、製革技術を習得しました。
その後、幾分かの経験をつんで、ついには独立を果たすのです。
新田組は順調に発展し、大阪紡績(現在の東洋紡)の依頼によって動力伝動用革ベルトの国産化に日本で初めて成功します。
その後、全国で設立された紡績会社に販路を広げ、現在は新田帯革製造所からニッタ株式会社に名前を変え、産業用ゴムベルトを中心にした業務用のゴム関連に高いシェアを持つトップメーカーに発展しています。
その創業者の新田ですが、郷里である松山を大切にしていたとされ、特に旧藩主の定謨を敬慕していました。
もし、伯爵が大阪に来たときの滞在の一つとして使えるようにと、琴乃浦温山荘の主屋の建設を手掛けてたほどです。
琴乃浦温山荘:母屋
琴乃浦温山荘:母屋和室
旧松山城内の一角に定謨の別邸の計画が持ち上がると、その設計は木子に依頼されます。
その際には、定謨がフランス生活が長かったこと、そしてフランスへの熱い思いをくみ取り、わざわざ西欧建築を学ぶために、ヨーロッパに海外視察に訪れています。
視察期間は数カ月にも渡り、木子は本格的なフランス建築を目指したのです。
事実、デザイン・構造・調度品・装飾なども一級品で誂えており、建物自体も美術品のようだと評価される別邸に仕上がりました。
その建築費は巨額なもので当時のお金で約30万円と言われています。
これは、7年後(昭和4年)に建てられた愛媛県庁本館の建築費が約100万円だったことを思うと、県庁よりはるかに小さい規模の別邸にその3分の1をかけたこと、さらに当時の物価において30万円という金額を考えると、それ以上の費用に相当し驚くばかりです。
また、面白いことにこの敷地は、旧松山藩家老屋敷の跡地で、実は「愛松邸」のあったところです。
「愛松邸」と言えば、1895(明治28)年4月から6月頃までの数か月間、夏目漱石が松山中学の教師として赴任したときに下宿した小料理屋で、漱石の代表作の一つである「坊ちゃん」の主人公が下宿したモデルにもなっています。
坊ちゃん:明治初版本
愛松邸跡地
この下宿先(愛松邸)には高浜虚子も訪れたと言います。
また夏目漱石は正岡子規とも大変仲が良く、漱石の下宿先にて俳句会を開くほどでした。
ちなみにこの3人の関係ですが、雑誌「ホトトギス」の創設が関わっています。
「ホトトギス」は、子規の友人・柳原極堂が創刊した俳句雑誌で、夏目漱石が小説『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』を発表したことでも知られています。
子規を師事した高浜虚子が後に、この雑誌を引継ぎ主宰しました。
雑誌 ホトトギス
夏目漱石:吾輩は猫である
それでは、ヨーロッパの人も驚いたと言われる、純フランス建築の別邸「萬翠荘」を見ていきましょう。
建物は地下1階、地上3階の鉄筋コンクリート造り、敷地は総面積268坪あります。
左右非対称の建物で、外壁には白地陶器のタイルが使われています。
外観:正面
典型的なフランス・ルネサンス様式で、公式ホームページには「ネオルネサンス様式」として記載されています。
ネオルネサンス様式とは、ルネッサンス・リバイバル建築とも呼ばれており、19世紀前半からヨーロッパで始まり、日本を始め世界に波及していった様式です。
ルネサンス様式は、イタリアで始まり、それがフランス・イギリス・ドイツ等に影響を及ぼしたものです。
ひとえにルネサンス様式と言っても、初期~後期といった時代背景や各国の文化が混ざることで、変化して行きます。
これを、ずっと以前(初期)のルネサンス建築に基づき当時の荘厳さを踏まえた上で、各地の新しい建築方式を織り交ぜ復興した形が、ネオルネサンス様式なのです。
萬翠荘では、鱗型天然ストレート葺きのマンサード屋根、クラシックなバルコニー、ドーマー窓の屋根など大変繊細なクラシックの意匠となっています。
鱗型屋根とドーマー窓:ドーマー窓は屋根に小さな空間を設けて取り付ける窓のことです。
マンサード屋根は寄棟屋根の、外側の4方向に向けて2段階に勾配がきつくなります。屋根裏部屋を造るのに優れていて、屋根の頂部は銅板を使用しており、この屋根の部分が3階となります。
玄関正面には、車寄せがあり、その上部はバルコニーとなっています。
玄関の車寄せは太い柱で大変な重厚な作りとなっており、柱の上部にはギリシャ建築で見られるコリント式という飾りが見受けられます。
車寄せ
コリント部分
玄関のドアは木製で上部にも明かりが取れるように四角いガラスが入っています。
ガラス部分にはアイアンワークで模様が施されており、「鳳凰」と久松家の家紋である「梅鉢」をイメージした梅のデザインが施されています。
玄関ドアの窓模様
車寄せの上部にあたるバルコニーの左右には、アーチ型の柱を持つバルコニーがあります。
欄干も細かく施され、内側の建物の壁にも白いタイルが貼られています。
バルコニーと陶器壁
玄関から室内に入りすぐに目につくのは、エントランスホールの階段です。
まるでお城のような階段に迎えられます。
これらの階段に用いられた建材は輸入されたもので、細かな手彫りの装飾が施され、色もツヤも高級感があるものです。
エントランスホール
建物1階の東側には大きな部屋が2つあります。
一つは「謁見の間」で、柱や窓の枠には白漆喰でロココ調の装飾が施されています。
カーテンは優雅で絨毯は赤地に模様が装飾されており、古いお城そのものの雰囲気を漂わせています。
天井からはシャンデリアがぶら下がり、マントルピースの上部は鏡となっています。
この部屋には、松山市出身の画家・山羊彩霞の描いた2面の絵が飾られています。
「三坂峠」と「神奈川台場の図」です。
この絵を裕仁親王(後の昭和天皇)が気に入り、松山へご訪問のたびにこの部屋をお立ち寄りになったと言います。
謁見の間
もう一つは晩餐の間(食堂)です。
こちらのシャンデリアはたいへん豪華なもので、天然水晶で出来ており、豪華で美しいものです。
絨毯は、謁見の間と同じような模様ですが、色は落ち着いた濃紺となっています。
壁は濃い茶色に塗装された高い腰板壁で、天井は大きな梁と小さな梁を組んだもので格調高いものです。
晩餐の間
シャンデリア
2階へ上がってみましょう。
エントランスホール、階段、2階の廊下には深紅の絨毯が敷かれています。
階段の踊り場にあるステンドグラスがあり、必ず足を止めてしまうでしょう。
このステンドグラスはアメリカ式ステンドグラスで、色彩にグラデーションがあるところが特徴です。
こちらは、木内真太郎の作品で、定謨が士官学校への留学の際に初めてフランスへ渡った様子を思い起こさせるものです。
定謨自らも何度となくここに足を止めて、昔に思いを馳せたに違いありません。
階段踊り場:船のステンドグラス
階段を上がった正面の部屋が、建物中央にある居間です。
玄関ポーチ上のバルコニーに通じています。
居間の絨毯は落ち着きがあるベージュ。
特に目につくのが、マントルピース上部の大鏡(ベルギー製)でしょう。
重厚感があり華やかさを演出しています。
この部屋は両隣の部屋へ直接移動が出来るようになっています。
2階:居間
各部屋の壁は白く大変シンプルですが、扉の枠や窓枠が扉と同じ建材でしっかりと縁取られているのが特徴です。
腰高も同じ建材が用いられており、居間の天井の漆喰での装飾が美しい意匠となっています。
2階:居間の天井
また、各部屋の扉上部にはステンドグラスが施されており、芸術的な美しさの他に、暗くなりがちな廊下には採光がとれるよう工夫されています。
2階:廊下
一般公開はしていませんが、3階の屋根裏部屋は当時物置として使用されていました。
こちらは、屋根を支える骨組みを見る事が出来るようです。
特別公開されることがあれば貴重な機会なのでチャンスがあれば訪れてみて下さい。
3階:骨組みの様子
萬翠荘は1階も2階も部屋数が多く見応えのある建物となっています。
また、この敷地内には、漱石が愛松邸から下宿先を移した「愚陀佛庵」がありました。
正岡子規が従軍記者として日清戦争から帰路した後、吐血により体調を崩したため、松山に帰ってきた後に、漱石のこの下宿先で居候するのです。
ここは、愚陀佛庵と呼ばれ、漱石の俳号「愚陀佛」から付けられました。
毎晩のように句会がおこなわれ、漱石も夢中で俳句を詠んだと言います。
しかし、残念ながら愚陀佛庵は太平洋戦争により焼失し、その後久松家により復元されていましたが、2010(平成22)年7月12日の記録的な豪雨で、松山城に大規模土砂崩れが発生し全壊しており、その後は復元されていません。
災害前の愚陀佛庵
萬翠荘は戦禍を免れた、当時を知る大変貴重な建物です。
皇族や各界名士の社交場というだけではなく、歴史的に有名な人物の足跡を感じ取れる素晴らしい場所として愛されています。
ぜひ、愛媛にお越しの際は、多くの歴史ロマンが垣間見える萬翠荘へお立ち寄り頂けたらと思います。