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日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧函館区公会堂

北海道の「函館」は、さまざまな歴史が詰まった地域の一つと言えます。

 

一番最初に函館にスポットが当たったのは、黒船来航によるものでしょう。


1853(嘉永6)年、アメリカ合衆国からペリー提督が江戸湾(現・神奈川県横須賀市)に来航し、鎖国をやめて開港するようにと迫りました。


その後、日米和親条約の締結により、開港地として選ばれたのが箱館(現在・函館)で、この地を視察するために、1855(安政2)年に函館港にペリーが来航しました。


たいへん良好な港で、ペリーは大変喜んだと言われています。

 

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マシュー・ペリー

 

ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫)

ペリー提督日本遠征記 (下) (角川ソフィア文庫)

この開港により、海外との貿易港として栄え、西洋文化がいち早く取り入れられて、とてもハイカラな文化が広がりました。

 

また、今では代表的な観光地になっている「五稜郭」も、もともとは、函館開港時に出来た箱館(函館)奉行所の移転地として築造されたものです。


ここは、戊辰戦争の最後の戦争(箱館戦争1868年)により、五稜郭防衛線にて新選組の土方歳三が戦死したのは、あまりに有名な話です。

 

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五稜郭

 

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土方歳三

 

そして、函館と言えば、歴史的に大火(大火事)が多いことも上げられます。


記録が残っている、江戸時代の安政以降からでも1,000戸以上を焼失する大火は10回以上に及びます。


ざっくり上げるだけでも、

明治4年「切見世火事」1,123戸焼失

明治6年「屋根屋火事」1,314戸焼失

明治12年2,326戸焼失

明治40年12,390戸焼失

そして昭和9年の「函館大火」11,105戸焼失・死者 2,166人・重症者2,318人

など、たくさんの大災害をむかえます。

 

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函館大火:昭和9年の函館大火により焦土と化した惨状の様子 函館市中央図書館蔵

 

原因の一つとして、防火設備の甘さが挙げられますが、大火を多く経験し、明治に入ればノウハウもあったはず。


それにも関わらず繰り返しており、函館大火の場合は函館市の至る所に設けられた防火水槽が全く機能していなかったといいます。


その大きな理由は、強風によるものでした。

 

江戸の振袖火事にしても、関東大震災にしても、敵は風。


防災意識の低さと強風があっという間にすべてを炎で包んでしまったのです。

 

これらのことから、函館に残されている歴史的な建物の多くは、木造が少なく、煉瓦やコンクリートが多いと言われているのです。

 

今回ご紹介するのは、そんな函館の中心地として栄えた元町にある貴重な木造建築の「旧函館区公会堂」です。

 

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建設のきっかけとなったのは、先に少し触れた1907(明治40)年の大火でした。

 

この大火は、函館市のホームページによると、8月25日午後10時20分頃に、東川町の石鹸製造所より出火(洋燈転落の説あり)して、非常に強い東風と飛火によって起こりました。

 

20町あまりの町内を巻き込み、翌日26日午前9時25分に鎮火しています。


被害は、り災面積400,000坪、焼失戸数12,390、死者は8名と少なかったものの類焼した建物は、館庁舎・英国領事館・露国領事館・連隊区司令部・海事局・函館郵便局・函館電話局・商船学校・商業学校・高等女学校・函館病院その他私立病院8・
区立小学校5・ 私立小学校6・ 会社38・銀行8・神社3・寺院6・教会5・新聞社5・劇場4等でその他商店,旅館,倉庫等主なる建築物がり災しました。

 

余談になりますが、この大火により、歌人で詩人の石川啄木も被災しています。


岩手県から函館に移り、尋常小学校の教師となったのち、新聞記者の職についたものの、この火災によって職場を焼失し、生活の基盤を失ったために、札幌の新聞社に移ることになるのです。


その後、東京へと上京することになりました。


啄木は、この大火について知人に手紙を残しています。

 

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石川啄木

歌集「一握りの砂」より
・たわむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず
・はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る


この大火により函館区民が集会を開いたり、町の商業会議所があった「町会所」が焼失してしまい、新しい集会所が必要になりました。

 

その際の費用ですが、募金で集まったのは8000円程度と大変少なく難航したそうです。


しかし、北海道屈指の豪商であった初代・相馬哲平が当時の金額で5万円(現在の価格で10億円相当)という多額の寄付をしてくれることになり、ついには、集会所の実現につながりました。

 

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相馬哲平


初代・相馬哲平は、1833(天保4)年、越後国新井浜(現・新潟県)で生まれます。


その頃は、まさに激動の時代で、江戸幕府と明治時代の境目にあたります。


箱館港はぺリー来航のあと、1859(安政6)年に、横浜・長崎港ともに貿易港として開港しました。


それから数年後、28歳の血気盛んな相馬は開港したばかりの箱館で一旗揚げようと津軽海峡を渡ってくるのです。


そこでは、同郷だった岩船屋春蔵宅で雇われることになり、商売を教えてもらうことになります。


わずか3年ほどですが、給金をほぼ貯金して貯めたお金を資金に米穀商を始めました。


豪商になるきっかけは、この米穀商です。


米穀店とは卸される米を中心に穀物を扱う食料販売店のことですが、独立して5年後の1868(明治2)年に箱館戦争が起こるのです。

 

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箱館戦争図:「箱館大戦争之図」永嶌孟斎画

 

この戦争により多くの区民は避難する中で、相馬は戦禍の中で米穀を買い集めていきました。


いくら、周りから呆れられ非難されてもやめなかったのは、戦後の米の高騰を見込んでいたためでした。


そして、相馬の読みは的中します。


見込み通り食料が高騰し、高値で米を売り抜き30代後半という若さで巨利を得るのです。

 

その後、米穀商をやめて、海陸物産商を始めます。


漁業の仕込みや、土地への投資、金融業と手広く行い、どれもが成功し蓄財をなしていきます。


第百十三国立銀行、函館銀行、函館貯蓄銀行の設立にも加わり重役となり、函館の経済には欠かせない存在となっていきました。

 

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相馬株式会社

 

豪商と呼ばれた相馬でしたが、生活は質素であったといいます。


朝食はご飯・油味噌・漬物だけで、下駄はすり減っても履き続けるといった倹約家でした。


しかしケチだったというわけではないのです。


社会貢献のためには、惜しげもなく私財をなげうって惜しまなかったのです。

 

相馬家の家訓
一、神仏を尊敬すること
一、勤倹を守り、贅沢をせぬこと
一、家業を大切にすること
一、借金をせぬこと
一、投機に手を出さぬこと
一、政治に関係せぬこと

 

今回ご紹介する公会堂建設以外にも、相馬は多くの公共施設建設・整備に寄付をしています。


ほんの一部ですが、函館図書館書庫建設に9000円・函館区救済米廉売資金に1万円・函館区消防設備資金に5万円など。


昭和の函館大火では、自身の住宅や店舗を消失していましたが多額の寄付を続けました。


函館を愛し、函館のために全身全霊を尽くした人物で市民に愛された人物でした。


数々の功績が称えられ紺綬褒章が授与されます。

 

また北海道最初の貴族院議員に挙げられましたが、1921(大正10)年89歳でこの世を去りました。

 

元町にある旧相馬邸ですが、2010(平成22)年から一般公開されています。

 

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旧相馬邸


ご紹介する旧函館区公会堂ですが、1910(明治43)年に竣工されました。


設計は、函館区役所の土木課主任であった小西朝次郎によるもので、棟梁には村木甚三郎他、多くの職人が集められています。


小西は学校にて正規の建築教育を学んでいなかったようですが、独学で洋風建築の研究をしており、函館を代表する建築家として素晴らしい建物が生み出されました。

 

小西についてはあまり記録になく不明な点が多いのですが、棟梁であった村木甚三郎は北海道屈指の工事請負人として知られています。

 

村木は、1848(嘉永元)年に、新潟県で織物業をしていた林之助の長男として生まれます。


15歳で大工の棟梁・古山藤松の徒弟として修行に励みました。


1865(慶応元)年に、函館市にある高龍寺(函館市内にある最古の寺院)の建築工事のために師匠と共に渡来し、明治2年に独立を果たすのです。

 

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高龍寺

 

それから10年後の1879(明治12)年、函館を大火が襲います。

 

これが「12年の函館大火」です。


火災の原因は放火のようでしたが、折からの強風により各所に飛火し、消化不可能な状態となり未曾有の大火となりました。


これにより、函館は消滅したかの如くであったと言います。


この災害により、再建工事を請け負った村木は巨利を得た上に、各方面の信頼を得ていきます。


そして、この流れによって道内の大きな仕事も入り、全道各地の工事で財を成しました。


その後は、多くの公共事業への入札を落札し、官公庁や、大会社の工事を請け負い道内に名を馳せました。

 

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大手町ハウス:浅野セメント(株)函館営業所(現・大手町ハウス)1918(大正7)年竣工

 

村木は、運が良かったというだけではなく、仕事に見合う技術を持っていたからこそ、多くの信頼と実績を積み上げてきたと言えます。


また、公会堂は、集会場だけでなく、政界財の社交場が求められていたために、様々な技法や意匠が結集された、道内屈指の建築物となったのです。

 

それでは、旧函館区公会堂を見ていきましょう。

 

まず最初に目に付くのは、何といってもその色彩でしょう。


壁のブルーグレーと、柱や玄関や窓の桟がレモンイエローというとても華やかな調和の美しさに目を奪われます。


木造2階建てで、幅43.6m、奥行き22m、高さ15.6mで、桟瓦葺き屋根です。


1980(昭和55)年から解体修理がおこなわれ、1982(昭和57)年に建設当時の現在の姿に戻りました。

 

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外観

 

シンメトリー(左右対称)で、コロニアル様式が特徴です。


コロニアル様式とは、アメリカ合衆国がイギリスなどの植民地であった時代にアメリカで発達した建築様式で、おもに木造で、板を横に張った壁が特徴的です。


日本では、明治以降の長崎や横浜などの外国人居留地で用いられています。

 

 

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雑司が谷旧宣教師館

雑司が谷旧宣教師館(旧マッケーレブ邸) - 日本のすばらしい建築物

 

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旧岩崎邸

三菱第三代社長、久彌の豪邸「旧岩崎久彌邸」 - 日本のすばらしい建築物

 

また特徴的なのは、正面に中央・左右と3つの玄関を持つことです。


それぞれ、円柱が支えるバルコニー付きの玄関ポーチがあり、一層、建物が華やかに演出されています。

 

3か所の玄関がある理由ですが、「集会所」「商業会議所」「ホテル」の3つの機能があり、それぞれに玄関を儲けたものです。


実際には、ホテルとして営業されなかったようですが、大正天皇や皇族がお泊りになっています。

 

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外観:中央玄関

 

外観正面の中央・左右にある屋根にはペディメント(破風飾り)があり、レモンイエローの彩色が施された唐草模様がとても美しく装飾されています。


このペディメント(破風飾り)とコリント式の円柱がギリシャの神殿らしい印象を与えてくれます。


また、外観は細部にわたり、細かな装飾が施され、屋根頂部にもアイアンワークの柵が取り付けられています。

 

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中央破風と屋根頂部の飾り

 

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ペディメント:両端屋根のペディメント 唐草模様といっても、色彩とバランスにより和の印象はあまりなく、豪華な印象です

 

コリント式とは、前5世紀頃の古代ギリシャ建築で用いられた柱の様式で、3種類あるうちの一つです。


溝が彫られた細見の柱で、柱頭にはアカンサス(葉アザミ)の葉をモチーフにした装飾が施されているのが特徴です。


アカンサスはギリシャの国花で、古くはアテネのオリンピア・ゼウス神殿の柱が現存しています。

 

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葉アザミ・アカンサス

 

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葉アザミの花

 

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オリンピア・ゼウス神殿:コリント式オーダー(円柱)

 

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旧函館区公会堂の柱

 

館内ですが、3か所の玄関があっても、室内には境はありません。


しかし、ホテル(正面向かって左)の玄関側は、寝室や宿泊者の小食堂があり、渡り廊下でつながっている別館には、浴室・居間・トイレなどホテルの役割をになっています。


中央玄関付近は、集会所の役割を担うため、応接室や予備室、さらに奥にある大食堂・遊戯室とスムーズに移動できるよう動線が計算されています。


商工会議所(正面向かって右)の玄関側には、会議所の応接室・事務室があり、役所としての機能が伺えます。


館内全体ですが、ルネサンス様式が見受けられ、1階は統一感のある意匠です。

 

遊戯室の壁は白漆喰で、腰板張りの部屋となっています。


シャンデリアが掛かる天井部分には漆喰で美しい装飾が施され、隣の食堂へ通じる境目には彫刻された扉枠となっています。


この遊技場には、ビリヤード台が2台置かれ、プレイを楽しむ財界人が多く訪れたようです。

 

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1階:遊戯室

 

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扉枠:遊戯室と食堂をつなぐ扉枠

 

隣の大食堂の特徴は、寄木の格天井です。


遊戯室と同じようなデザインのシャンデリアがあり、こちらのほうが電球が2つほど多くなっています。


実は、館内にあるシャンデリアは、すべてアカンサスをモチーフにデザインされています。


とても繊細で美しいものです。


この部屋も遊戯室と同様に、白漆喰壁で腰板張りとなっています。


食堂のマントルピースは、アールヌーヴォー調のタイルが貼られています。

 

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1階:大食堂

 

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1階:大食堂のマントルピース

 

2階へは、赤絨毯が敷かれた優美な階段を上がります。

 

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階段


2階の特徴は、何といっても430平方メートルという広大な大広間です。


ヴォールドというかまぼこ型の吊り天井によってまったく柱がない圧倒的な広さに驚かされます。


函館の公民館として、経済の発展と共に、社交場として賑わいをみせ、財界人たちによる舞踏会が日夜行われていたそうです。

 

今でも華やかなドレスを着た女性と燕尾服の紳士たちのダンスが目に浮かぶようです。

 

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2階:大広間

 

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2階:舞台 大広間には舞台があり、手の込んだものです

 

また、貴賓室があり、こちらの部屋も見どころの一つです。


こちらは1階の各部屋とは違い、とても豪華で華やかな部屋となっています。


壁は漆喰ではなく、細かい模様がある壁紙で、シャンデリアが吊るされている部分の装飾や天井壁紙の模様はアールヌーボー調となっています。

 

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2階:貴賓室

 

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2階:貴賓室のシャンデリア


マントルピースは大理石でできており、タイルは華やかな色彩で、マントルピースを囲むように、床が寄木となっています。


隣の貴賓室御座所のマントルピースのタイルは向日葵のデザインで、見どころの一つです。

 

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2階:貴賓室のマントルピース 上部は鏡張りで蝋燭代となっています


旧函館区公会堂は、函館商人たちが集い、意見交換や交流することでより一層の経済効果を生んだ場所で、現在の函館の礎とも言えます。


冬の間を除いてバルコニーに出入りすることも可能なようなので、ぜひ元町や函館港の景色や夜景を楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

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2階:中央バルコニー