江戸末期まで、水資源に乏しく農地に適さない土地だった那須野ヶ原。
それが、明治を境目にして、名だたる華族が次々と押し寄せ、競うように農場を開いたと言うのです。
それは、なぜだったのでしょう。
今回は、そんな農場の一つ、旧青木家那須別邸(とちぎ明治の森記念館)をご紹介します。
那須野ヶ原は栃木県北部の那須地域にある、那珂川と箒川との間に形成された複合扇状地で、面積4万平方メートルという日本有数の広大な土地です。
標高150m~500m程度の緩やかな傾斜した台地ですが、扇状地であるために歴史的にも水には大変苦労した土地です。
山間から運搬された土砂により、地表から30~50cmより下は砂礫層(砂と小石の層)となっています。
難点は、水がすぐにこの砂礫層へ浸透してしまうことで、なんとか近くから河川を引いたとしても、大雨の時以外は表面に流れず、もちろん留まることはないのです。
このように、保水力が弱く、少し掘ればすぐに石や砂利がゴロゴロと出てきてクワも刺さらない土地は農作業には不向きでした。
そして、この過酷な土地は、江戸末期まではほとんど人が住んでいない原野だったのです。
それが、明治に入り転機が訪れます。
なぜなら、この扇状地を開拓しようという計画が持ち上がったのです。
その先駆けが「那須疎水」です。
蛇尾川:那須野ヶ原の扇状地を伏流水(砂礫層の中を流れている地下水)として流れる水無川です。通常は水が流れていませんが、大雨の際には、この河原に一気に水が流れ込み、過去には洪水による被害を出しています。
疎水とは、給水、灌漑(田畑に人口的に水を引き入れること)、舟運などのために、新しく土地を開いて水路を設けることです。
そして、那須疎水と言えば、「福島県の安積疏水」、「京都府の琵琶湖疏水」と並ぶ、日本三大疎水に数えられる規模の大きい疎水。
そもそも、今まで見向きもしなかった土地に、大変な国家予算を用いて作られたのは一体なぜでしょうか?
実は、東京から那須をつなぐ『幻の大運河計画』があったのです。
まず那須野ヶ原の北の端に流れている那珂川を、那須平野に横断させ、それを鬼怒川につなぐという壮大なものでした。
那珂川は豊かな水が流れます
常陸河川国土事務所ホームページより
明治初期はまだ汽車も普及していなかったため、一度に多くの荷物を運ぶ最良の手段は舟でした。
そのため、開拓により荒地に水が潤い農業が出来る土地へと生まれ変わります。
そして収穫した農作物を、一本の大きな運河を、舟を使いそのままストレートに東京市場へ出荷できるのです。
これが成功すれば大変な利益を生み出す一大プロジェクトと言えます。
一見夢のような壮大な計画ですが、環境的には理にかなったものでした。
しかし、あまりにも総工費が膨大な上、福島県では「安積疎水」が開削中だったため政府から資金援助を得られません。
開拓に白羽の矢が立った、地元の印南丈作や矢板武、そして県令・三島通庸たちは、なんとかこの夢のプロジェクトを成功させようと嘆願します。
それにより、なんとか新政府からは飲料用の開拓と灌漑用の開拓の許可が下りましたが、結局のところ大運河計画は幻に終わったのです。
しかし、那須疎水は、1885(明治18)年に、5カ月という短期間で開削され、その後1905(明治38)年にも水門や導水路などが建設されました。
そして、那須野ヶ原全域に農業用水が供給されたのです。
那須疏水旧取水口:那須野ヶ原の開拓精神のシンボルとされ、国指定重要文化財となっています。
開拓にたずさわったのは、先にも触れた、県令(県知事)の三島通庸「肇耕社」と印南丈作・矢板武の「那須開墾社」です。
「肇耕社」は、長男を社長にし、親交の深かった部下14人を株主として入植者を募集したといいます。
これが、この地での華族農場第一号となり、後に三島農場となりました。
三島通庸
「那須開墾社」は、地元の印南丈作が社長となり、矢板武と二人で開拓に力を注ぎました。
印南が57歳で亡くなった後、矢坂が社長を引継ぎ、1893(明治26)年に那須開墾社を解散し、矢坂農場を設立しています。
印南丈作
矢板 武
もともと、疎水が出来る前から農場を持っていたのは、この2社だけでした。
しかし、那須疎水が建設されると決まったころから、突如多くの華族経営による大農場が現れます。
1881(明治14)年、「加治屋開墾場」 大山巌(陸軍大臣・公爵)と西郷従道(海軍大臣・侯爵)の共同所有。
1881(明治14)年、「青木農場」 青木周蔵(外務大臣・子爵)
1885(明治18)年、「毛利農場」 毛利元敏(旧豊浦藩主・子爵)
1887(明治20)年、戸田氏共の「戸田農場」(旧大垣藩主・伯爵)
などです。
1888(明治21)年には、松方正義(総理大臣・公爵)が千本松牧場を持ちますが、こちらは矢坂の那須開墾社から譲り受けて作った農場でした。
また隣接地には、明治19年には山縣有朋の「山縣農場」が出来ました。
まさに、農場ラッシュです。
三島農場
千本松牧場
大運河計画も消え、疎水や開拓の計画さえも消えかけた時に、一部開拓の許可が下りたのには、三島と印南(矢坂)により、伊藤博文や松方正義などの新政府との間で、何か裏で取引があったのではないかと勘ぐってしまいます。
多額の工費をかけて、あっという間の速さで開拓したのには、当時の新政府たちの新しい収入源として確保しておきたかったのでないでしょうか。
大臣というポストも永遠ではありませんし、当時の天下り先であったと考えることも出来ます。
表向きは、ヨーロッパの貴族たちが、自分の領地で農場経営を行うことが、伝統的な貴族慣習だったのを見習った・・・ということのようですが、なんにせよ、江戸時代までまともな食物も育たなかった土地が、豊な大農場に生まれ変わったことは、この土地にとって素晴らしいプロジェクトとなりました。
現在の那須野ヶ原の様子
それでは、今回ご紹介するのは、「青木農場」の青木周蔵邸です。
周蔵は、1844(天保15)年、山口県にて、蘭方医師・三浦玄仲の長男として生まれました。
22歳の時に長州藩13代藩主のお抱え医師で日本で初めて種痘を行った蘭学者・青木周弼の弟の青木研蔵の養子となり青木姓を名乗ることとなりました。
青木周蔵
叔父の青木周弼も義父の青木研蔵も実力のある優秀な蘭方医でした。
儒学を学び、長崎に足を運び兄弟そろってシーボルトから教えを受けています。
また、藩内に種痘を用いてコレラ治療に貢献しています。
<コレラとは> 日本で初めてコレラが発生したのは、1822(文政5)年です。
九州から始まり東海道まで広がりました。その後1858(安政5)年から3年にわたり日本でも大流行となります。
義父・研蔵が周蔵を養子に迎えて3年後には、典薬寮医師を経て、明治天皇の大典医となり、士族という位を授かります。
周蔵はこの養子縁組により、藩医から士族の身分となったのです。
しかし、養子になるかわりに条件がありました。
それは、研蔵の娘・テルと結婚することでした。
そのため、養子に入った際にテルと結婚しています。
周蔵は長崎で西洋医学を学んだ後、1868(明治元)年にドイツへ留学し、医学の他に、政治・経済学を積極的に学び帰国しています。
1873(明治6)年に、木戸孝允の推薦により外務一等書記官心得となり、ドイツ通を買われて駐ドイツ公使となりドイツに赴任しました。
そこで、とても美しいプロセイン(ドイツ)貴族の令嬢エリザベートと巡り合います。
もともとドイツに赴任する際に、妻のテルと一緒に行く予定であったようですが、テルがそれを拒んだことで、単身赴任していました。
日本に妻がある身ですが、彼女の美しさに惹かれ、周蔵はエリザベートとの結婚を決意するのです。
エリザベート
しかし、もちろんテルとの離婚は青木家から承諾を得られるはずはありません。
そのため、周蔵がテルに新しい夫を3回も紹介し、それぞれに結納金を3回支払うことで、ようやく許してもらえることになりました。
このように、多少無理なようなことでも押し通せたのには、それだけ明治政府の中で地位を高めており、誰にも口を挟ませない影響力があったからにほかなりません。
1879(明治12)年、妊娠中のエリザベートと帰国したあと、条約改正取調御用係となり、その翌年には、再度駐ドイツ公使としてベルリンに赴任しました。
そして、オランダやノルウェー公使も兼任し、外交の窓口として、内閣を補佐し、外国との交渉を成功に導きます。
各国の公使、大使となり、外務大臣を3度歴任し任命され、明治政府の重鎮とまで上りつめていきました。
留学経験や外交官として外国に赴任している期間は、25年にも及び、ドイツ通として日本に政治的、文化的に貢献した人物でした。
最後は、1914(大正3)年、肺炎のため71歳で亡くなりました。
娘のハナと一緒に写真に写る周蔵と娘ハナですが、ドイツの伯爵と結婚し孫のヒサも生まれ、幸せであったようです。
周蔵が那須野ヶ原に農場を開設したのは、1881(明治14)年です。
1576haという当時は広大な広さを誇りました。
周蔵はドイツへの滞在が長く、妻もドイツ貴族であったため、那須別邸はドイツ建築を希望しました。
そこで選ばれたのが、同じくドイツ生活が長く、ベルリン工科大学で建築を学んだ松ヶ崎萬長でした。
松ヶ崎は、1858(安政5)年、孝明天皇の侍従長・堤哲長の次男として京都で生まれました。
孝明天皇の隠し子ではないかという噂もあるほど、天皇は松ヶ崎を目にかけていたようです。
9歳の時、甘露寺家の養子となりますが、哲長と同等の公家として、松ヶ崎姓を賜り、それ以降は松ヶ崎を名乗りました。
1871(明治4)年、13歳で岩倉使節団に加わり、そのままドイツ(当時はプロイセンと呼びます)に留学します。
そこで、2年間ベルリン工科大学のヘルマン・エンデの下で建築を学びました。
ヘルマン・グスタフ・ルイ・エンデ
帰国後、松ヶ崎家は男爵を賜り、1884(明治17)年に帰国しました。
その後、ドイツの師匠であるヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマン(エンデの後輩で一緒に事務所を開設)を、松ヶ崎が日本政府の要請で日本に招きます。
当時の外務大臣・井上馨が西洋式の官庁を集中させる計画「首都計画」により、近代国家としての体制を整えるためでした。
日比谷・霞ヶ関付近に、中央官庁を集中して建設する壮大な都市計画案でしたが、財政上難しいものでした。
すぐに計画は縮小されてしまい、その後、井上が条約改正の失敗により大臣を失脚したため、幻の計画となってしまいました。
ヘルマンとベックマンが設計をして実現したのは、結局、旧司法省庁舎(現存)と最高裁判所のみでした。
旧司法省庁舎 1895(明治28)年竣工
松ヶ崎は、1886(明治19)年、辰野金吾、河合浩蔵らとともに「造家学会」の創立委員となります。
「造家学会」とは、のちの「日本建築学会」で、建築に関する学術・技術・芸術などの発達を図ることを目的として設立された学会です。
調査研究・情報の発信と収集・教育や文化事業の振興など、日本全体の建築における重要な役割を現代まで担っています。
創設当初から、造家学会の会長として、6年間勤め上げました。
学会が創設して2年後に、今回ご紹介する旧青木家那須別邸を設計しています。
これが、日本国内に現存する唯一の作品となるのです。
建築雑誌:2016(平成28)年3月号 『建築雑誌』は、建築学会の月刊誌で1887年7月に創刊された日本最古の学会専門雑誌です。
松ヶ崎は、1893(明治26)年に裁判所から財産分散の宣言を受け、男爵という爵位を返上させられます。
浪費によるものか、投機の失敗によるものかは不明ですが、経済的な理由によるものだと考えられています。
しかし、松ヶ崎には爵位を失っても、設計の才能がありました。
1903年には仙台に転居し七十七銀行本店の設計にあたり、1907(明治40)年からは、台湾総督府鉄道局に勤務するために台湾に滞在していた際に、「基隆駅」や「新竹駅」などの建築にあたっています。
七十七銀行本店:1903(明治36)年 煉瓦造り2階建てで、27mの高さの三角形の塔が設けられたドイツルネッサンス様式のものでした。現在は建て替えられたいます。
基隆駅:1912(大正元)年竣工 現存せず
新竹駅:1913(大正2)年竣工
その後も建築家として活躍していましたが、1921(大正10)年に63歳で亡くなりました。
それでは、ドイツを熟知していた公家出身の建築家・松ヶ崎が手がけた「旧青木家那須別邸」を見ていきましょう。
旧青木那須別邸は、農場が開設してから7年後の1888(明治21)年に、2階建ての中央棟のみ建設されました。
当初は本来の目的通り、避暑地や自然を楽しむための別荘として建てられたものでしたが、1908(明治41)年に青木が退官して、この別荘を住居として暮らすことを選んだために、翌年には左右に平屋建て部分が増築され、現在の姿となっています。
中央棟だけ見れば、中央に玄関があり、窓を見ると左右対称(シンメトリー)であったことがうかがえます。
外観:正面
建物は、シングル様式を採用しています。
外壁から屋根まで、すべてストレートのシングル材(こけら板)で覆って仕上げられているのが特徴です。
シングル様式の建物を今まで何度となくご紹介してきましたが、こちらの建物は外壁が特徴的です。
外壁は独特の蔦型と鱗形のストレートで覆われています。
蔦型:正面全体は蔦型のストレートです。
鱗形:平屋建て部分の裏側と横側などに用いられています。
以前ブログにてシングル様式の建物を取り上げていますので、ぜひ足をお運び下さい。
インブリー館(本家アメリカのシングルスタイル) - 日本のすばらしい建築物
雑司が谷旧宣教師館(旧マッケーレブ邸) - 日本のすばらしい建築物
中央棟に向かって右側は、増設された部分ですが、小さな寄棟屋根がついた小屋があり、その中に窓が設けられている、とても面白い意匠です。
これは、ハンマービームという手法で支えられており、梁を利用して小屋を壁の上にのせる手法でドイツ風のものとなっています。
ハンマービームの出窓
屋根には、ドーマー窓があり、屋根の上には飾り柵のついた物見台があります。
このドーマー窓には、和風建築のような飾りが3つあり特徴的です。(ハンマービーム窓にも同じ飾りがあります)
ドーマー窓
玄関ポーチの上はベランダとなっています。
また、増設された正面向かって左側にはベランダがあり、そこは応接室となっています。
真っ白なベランダの柵は爽やかさを与えてくれ、また庭に自由に出入りが出来るようになっています。
現在は見学の際の入り口となっています。
2階:ベランダ
1階:ベランダ
建物全体が少し高くなっており、玄関には階段を上って入ります。
玄関扉には、大きなガラスがはめ込まれており、上部は半円のガラス張りです。
玄関ポーチのため、玄関が少し奥にありますが、この扉により内部を明るくしています。
玄関
室内は、大変簡素な作りとなっています。
全体的に、白い板張りとなっていて、華美な装飾は見当たりません。
玄関正面の奥には主人室があります。
そんなに大きな部屋ではありませんが、当時使われていた家具を見ることが出来ます。
床は簡素な板張りで、壁は大きな横板が張り巡らされ、白い大きな窓枠が印象的です。
1階:主人室
主人室の隣は、大食堂となっています。
椅子は当時のもので、奥にはマントルピース(暖炉)があります。
隣の主人室のマントルピースと背中合わせとなっており、栃木県産の大谷石で作られた大変シンプルなものです。
当初の物は傷みが激しく、現在は復元されたものです。
壁は大きな横板が張り巡らされ、大きな窓が印象的です。
1階:食堂
主人室の奥の増設された部屋は、夫人室です。
ここは、ドイツ人女性のエリザベートが過ごした部屋で、大きなドレッサーが一台置いてあります。
部屋の一部にはアーチ状の飾り柱があり、デザインされたもので、工夫が施されています。
壁紙もこの部屋はピンク系の可愛らしものとなっており、優しい気持ちにさせてくれる部屋です。
1階:夫人室のドレッサー
また、夫人室の隣には浴室が設けられています。
1階:浴室>
正面玄関すぐ脇には、2階への階段があります。
階段下には、周蔵が当時使っていた馬車が展示されています。
馬車は1人乗りで、自らが運転していました。
階段は、真っ白のペンキ塗りの折れ階段となっていて、シンプルながら美しいものです。
1階:階段と馬車
この建物の大きな特徴は、2階の階段ホールです。
旧青木那須別邸は、軸組み小屋裏にドイツ建築の影響が強く現れていると言われています。
ドイツでは、半小屋裏と呼ばれる「架構法」がよく採用されているのですが、小屋裏とは屋根裏のことで、通常は人が使う空間ではないところを、マンサード風の屋根にして、1メートルほど屋根を高くし、小屋組の部材を整えたドイツでは多様されている技術です。
3階(2階上部)は非公開ですが、階段ホールには屋根裏に続く階段を見ることができます。
また梁や軸の複雑で美しい姿を見ることが出来ます。
2階:階段ホール
2階上部:小屋裏部屋(非公開)那須塩原市ホームページより
実は2階への階段はもう一か所あります。
その階段を上ると、この建物の唯一の広い和室がありますが、この和室には面白い特徴があります。
それは、天井が一部くりぬかれていることです。
その理由は一目瞭然です。
部屋奥のアーチ窓の上部の部分が天井にあたってしまうのを防ぐためと、照明を高いところに持ってくるために繰り抜いているのです。
しかし、この部屋には、どうにも違和感を感じます。
どの部屋からも感じなかった、天井の圧力感、平坦な壁、和室には似合いそうのないアーチ窓など面白いというより、不思議な部屋という印象です。
2階:和室
また2階には寝室が2部屋あります。
そのうちの一室には、黒塗りの鉄製のベッドが置かれています。
2階:寝室
1階の居室には、復元された際に、壁を一部ガラス張りにして、内壁を見せてくれる場所があります。
多くの木材が複雑に構成されていて、斜材を用いて壁を補強されている様子が一目でわかり手の込んだ様子が見て取れます。
どうぞ、直接ご覧頂けたらと思います。
旧青木那須別邸は、道路から、明治から変わらない並木道のアプローチを抜けると見えてきます。
木々で薄暗くなった森の中の真っ直ぐな道は200mほど続き、その真正面には青白い壮麗な洋館が現れるのです。
目を閉じると、青木を乗せた馬車の足音が聞こえてくるようです。
ぜひ、一度足をお運び下さい。