今まで、このブログでは「横浜のすばらしい建築物」をたくさんご紹介してきました。
特に山手は、幕末から1899(明治32)年まで外国人居留地であったために、異国情緒あふれる貴重な建物が残され、地区内に複数ある公園により散歩するにも気持ちの良いエリアです。
残念なことに1923(大正12年)の関東大震災で、山手の街並みは壊滅的な被害を受けますが、震災復興期に建てられたものと以前から建っていたもの、移築された洋館など、明治・大正・昭和の洋館が混在する独特な景観がさらに個性的で特徴ある街並みを築いています。
今回は、大英帝国の風格を漂わせる「旧英国領事館公邸(現・横浜市イギリス館)」をご紹介します。
過去に山手周辺の建物を数多くご紹介していますので、ぜひご覧下さい。
山手234番館(外国人向け復興住宅) - 日本のすばらしい建築物
ベーリック・ホール(旧べリック邸) - 日本のすばらしい建築物
それでは、現在の山手の姿になるきっかけともいえる最初の姿に少し触れてみたいと思います。
もともと外国人居留地になった理由は、1853(嘉永6)年の黒船来航にあります。
突然、アメリカ合衆国からペリー艦隊が横浜に4隻の編隊を率いて浦賀に訪れ、日本政府は慌てふためきました。
黒船来航
そして、日本の鎖国政策をやめるように求められ、日米和親条約の締結により、鎖国が終焉をむかえたのです。
1858(安政5)年にはダウンゼント・ハリス(アメリカ合衆国の外交官)により、「日米修好通商条約」締結します。
タウンゼント・ハリス
そして、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結び、1859(安政6)年に、日本の3港を開港しました。
その3港とは、神奈川・長崎・箱館(函館)です。
以前ブログにて、箱館「函館」にある旧函館区公会堂をご紹介しました。
もともと、神奈川や横浜は開港の予定がなかったと言いますが、幕府からの要望でハリスへ横浜港の提案をしたようです。
日本政府もついに外国貿易に本腰を入れたために、江戸に一番近い港を重要拠点にしたいという思惑がありました。
仕方なく神奈川県を受け入れたハリスが希望したのは神奈川宿のあたりでしたが、日本政府の強い希望により横浜に決まります。
一般の日本人から適度に離した環境が幕府にとって都合が良かったのです。
当時の横浜は、小さな漁村で、もちろん海外貿易港とは程遠いものでした。
横浜は港に流れ込む川によって土砂が堆積していたために、まずは水深を増す工事が施されました。
そして、2か所の波止場が整備され、1859(安政6)年6月2日に、開港し自由貿易が開始されたのです。
横浜港:開港当時の様子
開港より少し遅れて、1860(万延元)年、横浜には、山下町の一部に居留地が設けられました。
先に設置された「山下居留地」とその後設置された「山手居留地」の2か所です。
山手居留地は、関内から南の高台に設置された地域ですが、実は最初に山手の地に進出してきたのは外国の軍隊でした。
そのきっかけとなったのが「生麦事件」と呼ばれる殺人事件です。
生麦事件:現場
1862(文久2)年8月、生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)付近でそれは起こります。
薩摩藩主・島津茂久の父で薩摩の最高指導者であった島津久光は、江戸から帰る途中で生麦村に差し掛かりました。
島津久光
400名の大名行列ですので、道行く人々は道の端に土下座をして通り過ぎるのをじっと待っています。
そこに、タイミングが悪く馬に乗った4人のイギリス商人たちが出くわします。
彼らは、商売の途中に観光をするための道中であったと言います。
馬から降りて脇に寄るように薩摩藩士に言われますが、全員日本語がわかりませんでした。
彼らは、馬に乗ったまま道の脇によりましたが、ついには無礼な行動として数名の藩士たちに突然斬り付けられてしまいました。
彼らがとった行動には諸説あり、藩士の日本語を誤解して「引き返した」ことが非礼にあたったという話や、道の左側に寄って立ち止まり行列が通り過ぎるのを待っていた時に、一人の婦人の馬が道を踏み外しかけてしまい、馬を道路に戻すために前に出たことが原因とも言われています。
斬り付けた薩摩藩士たちにも言い分はもちろんありますし切捨御免の時代ですが、江戸ではくれぐれも外国人を斬らないようにとのお達しを受けていた帰りでした。
しかし、生麦事件が起きる前から、水戸浪士たちによるイギリス公使館襲撃や松本藩士によるイギリス公使館水平殺害事件、フランス士官の傷害事件などが連続して起こっていた最中で、薩摩藩士の心内にメラメラとした攘夷への気持ちは無かったとは言えません。
明治になって描かれた錦絵「生麦之発殺」(早川松山画)
もちろん、この事件は大きな外交問題となりました。
これを受けて1863(文久3)年、イギリスとフランスは自国民の保護と居留地の防衛のために自国軍の駐屯が始まりました。
幕府はそれを認めざるをえませんでした。
フランス海兵隊は、山手186番(現在のフランス山)に駐屯を開始します。
約3000坪の駐屯地に、日本の費用負担で3棟の建物が建てられ、兵士20名から始まり、その後300名以上となりました。
その翌年、イギリス軍は山手115番から116番のあたりで駐屯しますが、その地域は「トワンテ山」と呼ばれています。
この「トワンテ山」の由来ですが、最初に駐屯した英国第20連隊の20「トゥエンティ」の発音からトワンテと付いたそうです。
イギリス軍も続々と来日し、最大で陸軍部隊(約900名)、海兵隊(530名)が駐屯しました。
フランス軍駐屯地
トワンテ山:第20連隊の様子
山手居留地が一般の居留外国人に開放されたのは、1867(慶応3)年になってからのことです。
200区画の土地が幕府から貸し与えられ、住宅地として幕を開けました。
外国商館、オフィス街、教会、学校、劇場といったさまざまな施設が整備されていきました。
このかつてイギリス軍の駐屯地であった場所に、1937(昭和12)年英国総領事公邸が建設されます。
1931(昭和6)年に「旧英国総領事館」が出来ていますので、総領事官が公邸(自宅)から領事館(職場)に通っていたのです。
旧英国総領事館:現在の横浜開港資料館
公邸が竣工した1937(昭和12)年というと、日本では、ヘレン・ケラーが来日し、近衛文麿内閣が成立、西武球場・後楽園球場がそれぞれ開場しました。
また、双葉山が第35代横綱となり、美空ひばりが横浜で後の首相となる橋本龍太郎が東京で誕生しています。
前回のプログでご紹介した東山動植物園の開園、名古屋汎太平洋平和博覧会の開催も同年です。
東山植物園温室(現存する日本最古の温室) - 日本のすばらしい建築物
とても華やかに日本が成長しているかに見えていましたが、実は同年末には日中戦争が勃発し、日本が戦争へ走り出しはじめていた時でした。
日本がアメリカとイギリスに宣戦布告した1941(昭和16)年には、両国の公館員たちは日本政府の監視下に置かれるようになります。
そして、翌年には代理領事であったマクヴィティーたちが刑務所へ収監されたようです。
英国総領事公邸は主を失ったまま終戦を迎え、1969(昭和44)年に総領事がイギリスに引き上げたことで横浜市が公邸の建物と土地を買い取り「港の見える丘公園」の一部として整理されました。
そして、旧英国総領事公邸は、「横浜市イギリス館」として一般公開され、市民がホールや会議室として利用できるようになったのです。
港の見える丘公園
公邸を設計したのは、イギリス公務局上海事務所です。
この事務所では、東アジアの英国総領事館などを管轄し設計しています。
現存する日本の建物では、「旧函館市旧英国領事館」「旧下関英国領事館」「イギリス大使館(東京)」が残っています。
旧函館英国領事館
旧下関英国領事館
イギリス大使館
それでは、建物を詳しく見ていきましょう。
横浜市の旧英国総領事公邸は東アジアの領事公邸の中でも重要視され、格上とされており、大英帝国の威信と威厳を感じられる堂々とした姿をしています。
鉄筋コンクリート造りの2階建て、地下1階となっており、外観は装飾を抑えた白いモダンな作りとなっています。
東西に長い建物で、玄関がある北側と庭に面した南側とは、外観の印象が全くことなったものに感じられます。
外観:玄関正面
北側に面する玄関正面は、シャープでスッキリした印象ながら、玄関ポーチを支える大きな柱が厳格で力強い印象を与えます。
玄関ポーチの屋根の部分がゆったりと曲線を描いており、どっしりとした中にも優雅さが感じられるものです。
また六角形の照明が一つついています。
玄関:2本の柱は、それぞれ4本の円柱を束ねた姿をしています。
玄関窓には、アイアンワークが施され、上部には小さな丸いガラスをはめ込んだ採光窓があります。
玄関:採光窓
まず注目したいのは、玄関左側の壁にはレリーフが掲げられているところです。
これは、王冠の下にアルファベット「GR」とローマ数字「VI」が組み合わされており、その下に竣工年が刻まれています。
当時のイギリス国王ジョージ6世時代を示したもので、この統治下で建てられたことを示しています。
レリーフ
西側には半円形のサンルームがあり、上部はバルコニーとなっています。
南側は芝生の広い庭となっており、こちらは中央のベイウィンドウを中心にシンメトリー(左右対称)のデザインが特徴です。
正面2階の窓にはレリーフや玄関ポーチと同じ石でグルリと囲まれ、随所にグレーのラインで装飾されています。
2階の両端には、丸窓がデザインされ、南側はどっしりとした重厚感が漂います。
テラスには屋根はなく、当時のままのタイル張りが残されています。
外観:南側
玄関から室内に入ると、まずは玄関ホールとなっています。
装飾品の展示のために壁が半円に後退させて作った窪み(アルコープ)があり細かな装飾が施されています。
このアルコープはシェルの形で、生命や富の繁栄を表したデザインとなっています。
1階:玄関ホール
玄関を挟んだ左右には、書斎・台所・配膳室があります。
その奥には、西側からサンルーム・応接室・食堂となっており、各室から庭のテラスに出る事が出来ます。
室内の壁や天井は白漆喰で、天井との境目の縁には段が装飾されています。
この段が多いほど家の格調が高いとされており、各部屋の天井の段を見てみるのも面白いものです。
東側の付属室は、使用人の住居となっていました。
サンルームは、半円形に張り出した出窓が大きくとても明るい部屋となっています。
天井も高く華やかな印象で、外交官たちの喫茶室であったかもしれません。
1階:サンルーム
応接室はサンルームとつながっており、こちらも大きな窓があります。
こちらには、シンプルなマントルピースがあり、大きなシャンデリアが特徴的です。
1階:応接室
配膳室や台所も見どころの一つで、作り付けの棚があり、当時のままの大き目のタイルが貼られています。
巨大なガスコンロは現在でも現役で使用されているそうで、綺麗に維持されています。
こちらでは何人前の食事が一度に作られていたのでしょうか。
また、配膳室の前には、使用人の呼び出しランプが設置されており、当時はどの部屋からも使用人を呼ぶことが出来たようです。
1階:台所のガスレンジ
1階:配膳室前の呼び出しランプ
階段の踊り場には、アーチ型の大きな窓があり、薄暗くなりがちな階段に多くの自然光を取り込んでいます。
階段
2階ですが、こちらは完全なプライベート空間となっています。
寝室が3部屋のうち、1部屋に衣装室が付属しており、浴室・化粧室・休憩室が設けられていました。
一部の寝室は復元され当時を思い起こすことが出来ます。
マントルピース(暖炉)は、シンプルで張り出さないモダンでお洒落なデザインです。
また、照明はアールデコ風の意匠となっています。
2階:寝室
2階:寝室の暖炉
こちらの寝室の奥はスリーピングポーチとなっており、さらに弓型のバルコニーに出ることができます。
スリーピングポーチとは、日本語で午睡室(ごすいしつ)のことです。
昼間の暖かい陽射しの中で、ウトウトと仮眠することを楽しむ部屋と言ったら良いでしょうか。
外国では、午睡を楽しむ習慣があり、そのための部屋や小空間を作ることがあります。
こちらには、外観からも印象的だった大き目の丸窓があります。
ちょうどシンメトリーになっているもう一つの寝室にもスリーピングポーチがありますが同じく丸窓がある部屋で、そちらにはバルコニーはありません。
2階:スリーピングポーチ
実はこの建物は、昭和40年代まで現役で使用されており、一般公開されたのも2002(平成14)年です。
今では、横浜市の公共施設として使用することも出来ますが、公開が最近であるからこそ、良い状態で残っているとも言えます。
ぜひ、山手で西洋館巡りをされる際には、ぜひお立ち寄り下さい。