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日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧新潟県議会議事堂(新潟県政記念館)

突然ですが新潟県というと何をイメージするでしょうか。

 

日本有数の米の産地や美味しい日本酒などがまず始めに思い出される方も多いと思います。


また、地理は日本海側に大きく長い形をしているため日本地図から見つけやすく、
豊富な水揚げ量を誇ることも納得できます。


そして、内陸部では冬は豪雪になることも知られているでしょう。

 

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新潟県

 

それでは、明治時代に新潟県の人口が日本一位だったことはご存じでしょうか。


1888年(明治21)年の人口調査によると、1位・新潟県(166万人)、2位・兵庫県(151万人)、3位・愛知県(144万人)でした。


現在の1位である東京都は、同年第4位です。

 

2015年の国勢調査(速報)での順位は、1位・東京都(1,351万人)、2位・神奈川県(912万人)、3位大阪府(883万人)で、新潟県は全国15位(230万人)となっています。

 

新潟県が日本一であった理由ですが、明治初期は都市化があまり進んでおらず、農業中心の社会でした。


特に新潟は、稲作に適した気候で米の収穫量が多く、交通はあまり発達していない時代に米や魚などを船で運ぶ北前船(北海道・大阪・門司を結ぶ)の航路があったことは大変な幸運でした。


つまり、この地には多くの人口を抱え育てるだけの力があったのです。

 

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新潟湊 北前船

 

以前、ブログで北前船の船主の館をご紹介しています。


是非、読んでみて下さい。

 

右近権左衛門邸(北前船主の館) - 日本のすばらしい建築物

 

明治時代に多くの人々が住んでいた町に、新しく県議会議場が完成したのが1883(明治16)年でした。


今回は、明治前期の府県会議場として唯一現存している『旧新潟県議会議事堂』をご紹介します。

 

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元々、議場は新潟県庁内にありましたが、1880年に大きな火災(新潟大火)があり焼失してしまいます。


この大火は、8月7日午前1時に出火し、約16時間燃え続けたと言います。


新潟町の6割以上の家が焼失し、公立の建物や、銀行・商工会議所、複数の会社も被害にあいました。(6000戸以上焼失)

 

そして、しばらくの間は新潟学校を借りて議会を開いていました。

 

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初代新潟県庁:新潟県庁は、江戸時代の新潟奉行所が廃藩置県によって、初代新潟県庁となりました。
焼失前は、こちらに議会がありました。

 

当時の県令(県知事)だった永山盛輝が、県会議事堂の新設を主唱し、ついに1882(明治15)年に建設が始まります。


永山盛輝は、1875(明治8)年から1885(明治18)年までの約10年にわたり県令として様々な行政整備を行いました。

 

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永山盛輝

 

永山は、幕末の薩摩藩士の息子として1826年に生まれ、江戸時代では勘定奉行、江戸留守居役を務めます。


そして、戊辰戦争では薩摩藩兵監軍として戦い、様々な役職を歴任して、筑摩県(長野県)の県令となります。


筑摩県(長野県)を経て、新潟県の県令となるのですが、永山と言えば筑摩県での活躍が特に有名です。


筑摩県では教育の普及に大変力を注ぎ、自ら県内を回り「学制」が始まる前から県内に数多くの学校を設置しました。

 

「学制」とは、1872(明治5)年に定められた教育法令で、全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置し、身分や性別に区別なく国民皆学を目指したものです。

 

そして、開智学校を手掛け「教育県令」と称されるほど子どもたちの教育のために学校設立・整備に心血を注いだのです。


旧開智学校は、明治初期の小学校建築を代表する建物として、現在も残る大変有名な学校の一つです。


永山の主導で建設され、自ら工事現場に何度も足を運び監督を務めたとされています。

 

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旧開智学校(第一番小学開智学校)

 

永山にとって、小学校に間借りしながら議会を開かなければならなかったのは、苦痛であったに違いありません。


そこで白羽の矢が立ったのは、新潟県出身の棟梁・星野総四朗でした。


星野は、1845年に、地元の大工であった星野惣七の次男として生まれました。


少年時代には、大工の年季奉公をし、叩き上げで鉄道寮に入ったとされています。(幼少期の記録には不明点が多く、本人の履歴書よる経歴です)


鉄道寮関連の建設に従事し、初代の大阪駅や神戸駅の建設に従事し、1877(明治10)年に退官した後は、新潟にて建築工事の請負業を始めました。


永山から議事堂建設を命じられたのは、星野が36歳の時で、明治の花形(最新)であった鉄道関連の施設を手掛けいたことも抜擢された理由の一つかもしれません。


その後、再び鉄道関係の建築設計を行い、晩年に相馬子爵邸を建設していますが、残念ながら現存していません。


1915(大正4)年、星野は東京で亡くなりましたが、唯一現存する建物が、「旧新潟県議会議事堂」なのです。

 

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星野総四郎

 

星野は県議会議事堂を手掛けるにあたり、議場スタイルは「イギリス議会議事堂」をモデルにしたと言われています。


議会の議場は一般的に4つの型(イギリス型、フランス型、北欧型、ドイツ型)に分けられます。


イギリス型とは、議席が左右に分かれるもので、議長席から見て右が与党、左が野党に分かれて座ります。


実は、この頃の日本は、自由民権運動の高まりにより、自由と権利を求める演説が各地で活発に行われ、政治演説ブームが起きていました。


この近代社会の流れを受けて、星野が設計した議事堂は、右翼(保守派)か左翼(革新派)に分かれ、議論が対話型になるイギリス型を選択したと想像できます。

 

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イギリス議会の様子


同じくこの頃に建てられた、福澤諭吉の三田演説館にて時代背景を詳しく掲載しています。


ぜひ参考に足をお運び下さい。

 

三田演説館(福澤諭吉と塾生の演説発祥の地) - 日本のすばらしい建築物

 

ちなみに、他の3つの型ですが、フランス型は議席が扇形に配置され、与野党に関わらず、右が保守、左が革新が陣取ります。

 

北欧型は、地域性を重視し、選挙区ごとに議席がまとめられており、所属政党とは関係なく当選回数や順位を基準に席が決まります。

 

ドイツ型は、日本の国会議事堂が採用している形で、フランス型と同じく扇形に席が配置され、正面の少し高い位置に閣僚席が置かれ、閣僚対議員が対峙するようになっています。

 

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日本の国会議事堂の様子

 

それでは、実際に建物を見ていきましょう。

 

旧新潟県議会議事堂は、1883(明治16)年3月に竣工した、木造2階建てで、漆喰壁の擬洋風建築です。


建設費は、当時の価格で3万7千円という巨費が投じられました。

 

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外観:正面


擬洋風建築とは、明治時代初期に日本の各地で建築された日本人の大工・宮大工・左官職人らが、西洋人の建築家が設計した建物を参考にし、「見よう見まねで建てた西洋風の建築物」のことです。


戦前は「西洋建築の専門知識を持たない人物によって建てられた寄せ集め的な建物」扱いを一部では受けていましたが、現在は純和風建築にも純洋風建築にも見られない味わいで、その印象的なデザインと雰囲気は、斬新でお洒落な一面もある独特のものとして高い評価を得ています。


擬洋風建築は今までにも何度がご紹介していますので、ぜひ足をお運び下さい。

 

盛美館(庭を愛でるための館) - 日本のすばらしい建築物

 

旧旭東幼稚園園舎(八角形の遊技場) - 日本のすばらしい建築物

 

旧水海道小学校本館 - 日本のすばらしい建築物


実は、この建物の外観は、当時東京木挽町に出来ていた『明治会堂』を模していると言われています。

 

明治会堂は1881(明治14)年1月に完成した建物で、福澤諭吉と慶応義塾(現・慶応義塾大学)の政治結社グループにより建築された演説専用の公会堂です。


先にリンクを貼りました、三田演説館にて「三田演説会」が頻繁に開催され多くの議論がなされていましたが、福澤諭吉は慶応義塾以外の場所でも演説会場が必要だと感じて作らせたのが『明治会堂』です。


東京府下で一番の会場として、会館直後から連日満員となりましたが、この人気にあずかってのことか、星野には魅力的に映ったようです。


正確な記述がないため、はっきりとはわかりませんが、確かに外観の印象が似ています。

 

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明治会館

 

外観は、正面から見るとシンメトリーに見えますが、玄関から向かって右側は議場になっており、後ろに7mほど長くなっています。

 

中央玄関には車寄せと玄関ポーチ、2階にはベランダを設けており、両翼は中央棟より突出したEの字型になっているのが特徴です。

 

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正面:玄関

 

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屋根や腰回りの軒下に用いられている装飾

 

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2階屋根の軒下の装飾


窓は、上げ下げ式のギアマン窓です。

 

建設当初の外壁は漆喰塗り(後にモルタル塗りになる)で、隅と窓枠の周りには石材を用いてアクセントをつけています(隅石)。


石材は、津川産の谷沢石とのことで、独特の色彩を持っています。

 

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窓と隅石

 

また、3階に八角形の塔屋を増設しているのが特徴で、参考にしたとされる明治会館とは決定的に違います。

 

遠くからでも目を引く建物になっており、最初の設計には無かったようですが、建設が進むにあたり、この塔が加えられたようです。

  

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八角形の塔

 

両翼の建物には、透かし彫りされた破風飾りがあり、屋根上部には擬宝珠型をした棟端飾りが施されています。


これらは、寺院建築で見られる手法で、擬洋風建築の特徴ともいえるでしょう。


面白いことに、擬宝珠型の棟飾りがそのままひっくり返した形で、妻飾りになっています。


当時の大工の棟梁には、西洋風がどのように目に移っていたのか興味がわいてきます。


そして、破風にある窓は鎧戸があり、こちらの鎧戸は外観から見る限り開閉できないようです。

 

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破風飾りと棟端飾り


<棟端飾り>とは、屋根の頂上を棟といい、角や尖っているところを風雨や日光などの風化から守るために施されているのが棟飾りです。その棟飾りに、屋根を守る機能に加えて、装飾的要素が加えられたものを棟端飾りと呼びます。


室内ですが、知事室、議長室、委員室、応接室の他に、最大の特徴である議場、傍聴室、傍聴人控室、議員控室といった議事堂ならではの部屋があり、全部で14室からなります。

 

中でも右翼の議場は吹き抜けとなっており、壁に沿った部分がギャラリーで傍聴席となって会議の様子を見下ろすことが出来ました。


奥行は21.9mあり、この大空間はトラス小屋組が支えています。


トラス小屋組は、現代でこそ普及している工法ですが、当時の日本ではトラス組に必要な部材や熟練した技術者があまりいませんでした。


そのため、柱が細くても三角に組んで強度を高め、広い空間を維持することができる外国の工法はとても新しい技術だったのです。


大工の高い技術と、洋風建築に近づけようとする工夫と努力が目に浮かびます。

 

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議場:議長席から見た議場の様子

 

傍聴には決まりがあり、1879(明治12)年の最初の県会で定められていたのは、一般傍聴100人で新聞記者4人以内とされていました。


その後、1897(明治30)年に改正され、一般傍聴が300人となり、傍聴席に長椅子が並べられました。

 

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2階:傍聴席

 

傍聴席を支えているのは、柱頭に扇のような装飾が施された鋳鉄製の柱ですが、その柱の細さが華奢に感じられて大丈夫なのかと不安に感じられるほどです。

 

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美しい柱頭

 

議場に敷かれる絨毯は、議場一面に敷かれた大きさで、単純な赤ではなく、華やかな柄がありシンプルな室内を華やかで豪華な印象へと演出しています。


また議席は床から1段高くなっており、議席がギュッと凝縮されているようです。

 

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1階:議場


窓枠や扉は薄い緑色の配色で、議場正面の議長席の背には、2階へも届くような大きな窓が光を注ぎます。

 

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1階:議長席の窓と大時計

 

また、議場には当時使用されていた大時計が復元されており、より当時の姿を忠実に再現してあります。

 

この大時計のオリジナルは、県会書記を勤めた尾崎行雄(咢堂)がロンドンから取り寄せたものとされ、開館から議場が移るまでの間ずっと時を刻んでいましたが、その後、様々な場所へ移り、最後は新潟の大地震のために壊れてしまいました。


議長席の広報に掲げられている大時計は、平成元年(1989)年に復元されたもので、高さ2.32m、幅80cm、重さ70kgもあります。

 

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明治初期の県会議事堂:すぐそばには信濃川が流れていましたが、その後埋め立てられました。

 

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大時計:壊れた部品から忠実に復元されています。

 

次は、階段に目を向けてみましょう。

 

手摺の頭には議会の開会に用いられたベルがデザインされており、可愛いらしいデザインです。

 

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写真は最上階の手摺の柱ですが、各所に同デザインが見受けられます。

 

また、大変珍しいのですが、階段の途中で大きく手を叩くと、2~3秒間八の羽音のような音が響きます。


これは、「鳴り天井」と言い、耳の鼓膜が震える感覚で、こそばゆく感じるのですが、めったにない体験をすることが出来ます。


日光東照宮の「鳴き滝」と同じ原理で、狭い階段というい空間と、高い天井がうまく組み合わさり、大きな共鳴箱の役割を果たし、拍手の響きが階段、天井、壁の間を何度も反射し合い、音が多重反射するためだと考えられています。

 

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階段:鳴り天井

 

左翼の建物の2階には議員控室などがあり、現在は展示室となっています。

 

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2階:議員控室

 

2階の委員室には、当時使われていたままの丸テーブルセットがあり、手の込んだマントルピースがあります。


椅子はかなり痛みが見受けられます。

 

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2階:委員室


現在、旧県議会記事堂は記念館として、建物自身が持つ優れた文化的価値と、当時の人々の暮らしがわかる資料の数々や美的感覚を今に伝えてくれる大切な場所として
管理されています。


そして、それが入場無料で楽しめるのですから、新潟を訪れた際はぜひ足をお運び下さい。