日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧新津恒吉邸 (石油王の幻の迎賓館)

前回、新潟について少し触れ「旧新潟県議会議事堂」をご紹介させて頂きましたが、さらに忘れてはならないものをご紹介します。


それは、石油・天然ガスの生産量です。


国内の石油生産量のうち約60%、天然ガスの国内生産量でも約76%を占め、圧倒的なシェアを誇っています。


なんと、日本最古の歴史書と呼ばれる『日本書記』にも記録が残っていると言われいるのです。

 

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日本書紀:巻第一 神代上(慶長勅版)

 

668年に「越の国から燃ゆる土と燃ゆる水を献ず」


当時の「越の国」がそのまま新潟に当てはまるかはわかりませんが、一般的には新潟と石油の関わりを示す一つだとされています。

 

今回ご紹介する建物は、昭和の石油王が外国人向けの迎賓館として建てたとされる重厚で圧倒的な姿の「旧新津恒吉邸」をご紹介します。

 

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今更ですが、石油や天然ガスとは、海底に堆積した生物の死骸が数億年の歳月により化学変化を起こして出来た化石燃料です。


資源の少ない日本においては、国産石油の割り合いはごくわずかで、その多くを輸入に頼っているのが現状です。

 

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古くから石油という存在は知られていましたが、実際に活用され始めたのは明治維新後からになります。


新潟は1920年代初頭には、日本の主要な石油産地として、原油を精製する製油業者(起業家)が何人も現れました。


そこで大きな鍵を握る人物が「中野貫一」と「新津恒吉」です。

 

突然ですが、2015(平成27)年の秋に経済ニュースとして話題になった事柄を覚えていらっしゃいますか。

 

出光興産と昭和シェル石油が、経営統合を基本合意しており、翌年の10月の合併を目指すと発表されたことです。


出光は業界2位、昭和シェルは業界5位で、この合併には驚きと今後の石油業界の行く末に興味を持った方もいらっしゃるかもしれません。


業界再編の大きな動きに期待を持っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。


(出光の創業家は合併に反対しているとされ、それも最近では危うくなっていますが・・・)

 

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出光のシンボルマーク


出光興産は、1911(明治44)年に「出光商会」として福岡県門司で創業されたのがルーツです。

 

昭和シェル石油というと、日本の石油の元売りの一つ「昭和石油」と「シェル石油」(ロイヤル・ダッチ・シェル)が合併し1985(昭和60)年に昭和シェル石油株式会社を発足しましたが、そのルーツと言えば、昭和石油になる前の「早山石油」「旭石油」「新津石油」にあると言えるのです。

 

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昭和シェル石油のシンボルマーク

 

特に、「新津石油」の創業者である『新津恒吉』は昭和シェル石油の礎を気付いた人物として名が知られており、丸新グループの元となっています。

 

今回は、新潟の石油産業の発展を築いた人物たちと、石油王の迎賓館に触れていきたいと思います。

 

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新津恒吉は1870(明治3)年に越後国(新潟県)三島郡出雲崎町尼瀬で生まれました。(※油田名と間違え易いので、以後は恒吉と略します)


恒吉が9歳の時に、小間物商を営んでいた父を亡くし、翌年には雑貨商にて奉公に出ています。


その後、小間物の行商の道に進みかけますが、一家を支えるため22歳にして尼瀬で石油精製業「滝谷製油所」を起業したのが始まりです。

 

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新津恒吉

 

「なぜ石油精製業に着手することになったのか?」ですが、石油精製・販売業者で名が知られていた山岸喜藤太からの助言とサポートがあったからのようです。


明治時代はまさに機械産業の発展真っ只中で、各地でも石油精製業者が林立し始めていた頃で一旗上げたいと思う若者は多かったでしょう。


そんな中でも恒吉は浮かれた野心家ではなく、工場で寝泊まりするほどの勤勉で真面目な性格だったと言われています。


しかし残念ながらすべてが順調とはいかず、尼瀬油田が衰退するのに合わせ、活動の地を移さざるを得なくなりました。


そして1900(明治33)年に新津油田帯に根を下ろすこととなり、丸新製油所を開業したのです。

 

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当時の新津油田地帯

 

ちなみにですが、新津油田地帯と新津恒吉は同じ「新津」ではありますが、恒吉が移転する前から新津油田地帯は存在しているので、偶然にも同じ「新津」であったと考えられます。


恒吉が同じ名前の油田を知り、あえて移転してきた可能性もありますが、詳細は不明です。

 

丸新製油所は、順調に事業が進んでいましたが、1908(明治41)年の能代川の大水害により工場が流出してしまいます。


再起不能までに追い込まれますが、恒吉はくじけず、諦めないで粘り強く事業を展開し続けました。


そして運命の出会いが訪れるのです。


恒吉の誠心誠意仕事に取り組む熱意と穏健な人柄に一目置く人物が現れたのです。


それが、石油発掘業者として有名な中野貫一でした。


新津油田帯は明治には日本一の出油量を誇り、石油ブームで湧き上がっていた中心でした。

 

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中野貫一

 

ここで新潟の石油を語るには貫一について触れなければなりません。


中野貫一は、越後国蒲原群金津村(現・新潟県新潟市秋葉区)で1846(弘化3)年に生まれました。


中野家は豪農で代々庄屋を務めていた大地主でした。


貫一は7歳の時から7年ほど、新潟屈指の家塾にて学問を学び、14歳で父を亡くしたために、その若さで中野家の全財産を引き継ぎました。


石油との関係ですが、貫一の曾祖父が石油の採掘権を買い取ったことから始まります。


貫一はしばらく家業である庄屋業を受け継ぎ営んでいましたが、明治政府が石油採掘を奨励しはじめたことから、1873(明治6)年石油抗法が公布されるとすぐに新潟県庁に石油試掘を出願し、許可を得て石油井戸を手掘りで採掘し始めました。

 

<鉱物権>
ここでなぜ許可がいるのか疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、曾祖父の時代に採掘権を買ったといっても、自由に石油を採掘することは出来なかったのです。
現在でも鉱業法というのがあります。
簡単に説明すると、鉱物は国民経済上重要な物質なために、鉱物を屈採する権限を土地所有件から分離して、鉱業権として国が賦与するとしています。
鉱物権は試堀権と採掘権に分かれており、試堀権は鉱物の有無や品質等を調査するための権利で、採掘権は鉱物の存在が明らかで量や品位等から採掘に適する場合に本格的な鉱物の採掘を行うことが出来る権利です。

 


採掘を始めた貫一でしたが思ったように石油は出て来ません。


10年間で100本近く堀ったようですが成果はなく資金的にも追い込まれていきます。


しかし、ついに転機が訪れます。


それは意外なことがきっかけでした。


長男の忠太郎が「石油が噴き出す夢を見た」というので、その場所を掘ってみると石油が噴き出したというのです。

 

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中野忠太郎

 

これを機に、塩谷地区にも進出し成功を納め、1日に3600リットルの採油を得ることに至りました。


世の常ですが、成功するとそれを妬む人物も現れます。


1886(明治19)年に坑法違反を理由に坑業禁止と借区権没収が命じられたのです。(塩谷事件)


もちろん貫一も黙っていません。


禁止の不当性を主張し、これを不服として行政裁判所へ訴え続け、ついに1891(明治24)年に勝訴します。

 

そして得た35,000円の賠償金を元手にして、より石油産業へと参画していきました。


当時の大石油会社と言えば、日本石油と宝田石油ですが、1888(明治21)年創立の日本石油には貫一も発起人として参画しています。

(※日本石油と宝田石油は後に合併し、その後何度となく業務提携を繰り返し社名が変更して、現在の新日本石油となります)

 

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日本石油株式会社の看板

 

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宝田石油本社:長岡市(1912年頃撮影)


そして、最初の試掘から29年経って、ついに商業規模の油田を掘り当て、日本石油と宝田石油に次ぐ大産油業者に躍り出たのです。

 

中野は石油王と呼ばれるようになりました。

 

その後、長男・忠太郎と次男・慎吾と共に石油に関する事業を大きく展開していくのです。


そして、(株)共同石油販売所を設立し、数々の中小石油業者と一緒になり、新しい石油流通と安定した石油品質の向上へと進んでいくのです。


また、1909(明治42)年には、中野合資会社を組織し、石油、林業、土地開発等の事業を手掛けた一方で、地域の社会貢献に力を注ぎ、中野財団を設立して、教育や福祉に力を注ぎました。


地元では貫一のことを現在でも尊敬と親しみを込めて「中野様」と呼んでいます。


貫一と長男忠太郎の親子二代が1904(明治37)年に造営した邸宅は、現在「中野邸美術館」として開放されています。


新潟県下一級の造園技術者を集めて49年の歳月をかけて2.3ヘクタールを造園したものです。


2000本のもみじ園は、秋には圧巻の美しさを見せます。

 

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中野邸美術館


それでは恒吉の話に戻りますが、中野との出会いにより、事業は大きく上昇に転じることになります。


1907(明治40)年に国油共同販売所から製油委託を受けていましたが、さらに中野に認められたことで、中野鉱業部(中野家直属の原油採掘部門)の原油精製も任されるようになったのです。


貫一がオーナーとして経営していた中央石油ですが、1920(大正9)年に日本石油に買収され、新津油田地帯の原油の大半が日本石油と宝田石油の物となってしまいました。


こうなると、恒吉を始めとした地域の製油業者にとっては、中野家だけが頼みの綱です。


その頃には新津油田帯の原油価格は高止まりとなっていたために、中野家をみんなで突き動かし、ついには原油を海外から輸入し、国内で精製する計画が浮上しました。


それが、1921(大正10)年(株)共同石油販売所設立へとつながります。


恒吉は、(株)共同石油販売所の社長・中野忠太郎の元で、同社の常務として実務経営を行っていました。


同社は、輸入原油の委託精製を19か所(創業時)契約しており、そのうち、丸新製油所を始め恒吉がオーナーであった工場が4社あります。


そのうちの一つは、白山製油所(中野慎吾所有)で、慎吾から工場を借り受けて、安い海外の輸入原油の精製に着手を行っていました。


翌11年には中野慎吾・山岸喜藤太と共同出資で中央製油所を立ち上げるに至りました。


その後も製油に関する仕事の依頼を受けては活発にこなし、中野忠太郎も恒吉の事業に対し積極的に資金提供をし、恒吉は販売網を全国に広げていったのです。


そして丸新製油所は「新潟の丸新に非ず日本の丸新」とまで称されるようになり、恒吉も昭和の石油王と呼ばれるようになったのです。

 

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初期のガソリン自動車:国産吉田式『タクリー号』 1907(明治40)年


恒吉には子供はいなかったようで、丸新グループのHPによると、小さい頃から身近にいた「義雄」を養子として迎えたとありました。


この新津義雄が現在の『丸新グループ』の創業者にあたります。


この人物も商才があり、戦後わずか3名で始めた会社を400人規模にまで育て上げていきます。


車社会が到来し、益々石油が経済の中心となってきた時代に、石油の流通をベースに会社を立ち上げたことが成功のカギとなりました。


義雄は2011年12月89歳で亡くなっていますが、丸新グループの創立以外に、新潟市教育委員会委員長やテレビ新潟放送網社長などを歴任し、後に、今回ご紹介します旧新津恒吉邸を新津記念館として開館し、館長も務めることになるのです。

 

恒吉はこの義雄に多くの財産を残しはしませんでした。


「義雄には一流の教育を与えるが、余分な財産は残さない」とした上で、私財を投じて地元地域の為に新潟市公会堂建設に寄付をし、外国からの要人を迎え入れるための迎賓館(旧新津恒吉邸)の建設に力を注いだのです。


恒吉は「地域で儲けたものは地域に還元する」という精神の持ち主で、60代初頭まで家を持たず会社で寝泊まりをしながら働いていたというのですから驚きです。

 

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新潟市公会堂

 

恒吉の人生感を垣間見ると、以前ご紹介した『旧函館区公会堂』を建設した北海道屈指の豪商・相馬哲平が思い浮かびます。


大変な苦労の中、成功をおさめた相馬でしたが、生活は質素でありながらも、社会貢献のために惜しげもなく私財を投げ打った人物でした。


是非、ご覧頂けたらと思います。

 

旧函館区公会堂 - 日本のすばらしい建築物

 

恒吉は1938(昭和13)年に新津油田を設立させます。


同じ年に、公会堂と迎賓館が完成しますが、それを見届けて翌年の1939(昭和14)年に69歳でこの世を去りました。


残念なことに迎賓館(旧新津恒吉邸)は外国からの来賓を迎えることはありませんでしたが、先にも述べました通り、義雄の手により新津記念館として一般に公開されることとなったのです。

 

旧新津恒吉邸の設計は、清水組の建設部技術者・大友弘によるものです。


大友による建築は24件ほどあり、設計には社内でチームが組まれて行われています。


大友は、1888(明治21)年東京生まれで、15歳で清水組へ入店、その後に「工手学校」へ通い卒業したそうです。


「工手学校」とは、1887(明治20)年に専門の技術者を補助する工手(技師と職工の中間の技術者) 養成のために設立された学校です。

 

清水組設計部では、技師を長としてチームを作り、各々の組織が設計業務を行っていました。


これにより会社は効率よく、同一の設計者による、複数の設計工事を行うことができました。

 

大友が設計した現存する建物は6つあり、そのうち国登録文化財2つのうちの一つが今回ご紹介する旧新津恒吉邸になります。

 

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平澤邸(松籟閣):朝日酒造株式会社の創立者平澤與之助の邸宅 1934(昭和9)年竣工

 

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川崎銀行佐原支店及附属家:

川崎銀行佐原支店として建設されましたが、その後三菱銀行と合併しました(旧三菱銀行佐原支店)

 

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鍋茶屋

 

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起雲閣


大友の設計、合資会社清水組施工により、旧新津恒吉邸は2年余りを費やして建設され、1938(昭和13)年に完成しました。


鉄筋コンクリート造りの地上3階建て(塔屋付き)地下1階で、床面積は延べ約636平方メートルの欧風バロック調の洋館です。


特に印象的なのは、遠くからでも良く見える2本の高い煙突でしょう。


全体的に四角い印象の建物には、コーニスが施されており、バロック調らしい重厚感を感じます。

 

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外観

 

外壁はスクラッチタイル(テラコッタ)張りで、この建物のために作られた特注品です。


スクラッチタイルとは昭和初期に流行したタイルのことで、特にテラコッタが多く用いられました。


テラコッタとはアメリカから日本へもたらされた「焼いた土」のもので、日本では鉄筋コンクリート造の外装材としてスクラッチタイルと一緒に使われることが多かったようです。

 

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玄関上部のコーニスとスクラッチタイル

 

外観全体は細かな装飾はありますが、華美でなく派手な色彩ではないため、威風堂々たる重厚感があります。


また、正面はとても立派でどっしりとした印象の車寄せがあり、その上部の装飾は細かで手が込んでいるものです。


車寄せのアーチと玄関の下部はタイルではなく石が用いられ、その石の形がわざと不揃いなため、より立体感が生まれ、コロニアル式の円柱を思わせる柱が2本ずつ束になってそれを囲んでいます。

 

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玄関:車寄せ

 

入口の扉にはアーチの窓がはめ込まれ、扉の上部も同じくガラスでそれぞれアイアンワークが施されています。


それは美しく繊細な仕上がりです。

 

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玄関:扉のアイアンワーク


正面から左側は、中庭になっており(東側)、中庭に臨んで3連アーチがあります。


広い芝生に出られるようにテラスとなっており、その3連アーチにシンクロするように、室内へと通じるアーチ型の扉が3か所あります。


テラスの2階は、広いバルコニーとなっています。


そして、1階と2階のバルコニーの境目にも細かな装飾が施されていますが、派手なものではなくシンプルなアクセントとなっています。

 

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東側テラス

 

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テラス横の樋:樋や樋を止める金属にも装飾が施されています。


残念ながら、室内は撮影禁止となっていますが、階により内装が異なる演出で豪華な室内を楽しませてくれます。


1階はジャコビアン様式の「イギリスの間」。


2階はルイ16世様式のフランスの間と伝統的な日本間。


3階はロッジ風のドイツの間となっています。


また、広い階段室では、美しいステンドグラスを見ることができます。

 

※新津記念館の公式HPには室内の写真も一部公開してあります。


迎賓館には水周りの設備はないようで、必要な際は裏の和館を使う予定にしていたのかもしれません。


この和館は、恒吉が初めて自宅として建築したもので、建物は入り母屋造り、屋根は鳳凰作りになっています。


1928(昭和3)年まで工場で寝泊まりしていただけに、恒吉の人生にとっては大変な贅沢だと感じていたかもしれませんね。

 

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和館


旧新津恒吉邸のその後ですが、太平洋戦争が勃発したてめ、迎賓館として使われることはなく、恒吉は竣工の翌年に他界しました。


終戦後、GHQに接収されたため荒廃しましたが、1992(平成4)年に修復され一般公開されることとなったのです。


前回ご紹介した旧新潟県議会議事堂(新潟県政記念館)とは場所が近いので、ぜひ合わせてお立ちより頂けたらと思います。