日本のすばらしい建築物

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旧西田川郡役所

幕末から明治初めにかけて日本各地では様々な時代のうねりの中で、政治・経済・生活スタイル等すべてがガラリと変化していきました。


文明開化を大きく表し、人々に印象付けたのは、やはり洋風建築と言えるのではないでしょうか。


もともと外国人居留地には多く洋風建築が建てられていましたが、徐々に都会の公共施設・学校・病院に取り入れられ、ついには地方にも多くみられ始めます。


今回は、東北の地で幕末から明治初期に大きな時代の波に襲われながらも、新しい文化を取り入れた庄内地方と、変わりゆく明治を生きた大工棟梁が建てた『旧西田川郡役所』をご紹介します。

 

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米どころで知られる山形県の庄内平野ですが、ここには庄内藩があり鶴岡に城がありました。


藩の大きさを示す石高は16万石と中規模でしたが、実際は大変豊かな米どころであり、北前船の寄港地として栄えていたため実際の石高は30万石以上あったと言われています。


また、藤沢周平の時代小説の舞台が庄内藩がモデル(作中では架空の藩「海坂藩」の名称)となっており、それが次々と映画化されたために、映画好きには庄内藩がドラマチックに感じられることもあるでしょう。

 

 

 

 

 

庄内藩の始まりは、徳川家康の側近と呼ばれた「徳川四天王」の一人であった酒井忠次です。

 

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酒井忠次

 

譜代大名であった庄内藩が大きな時代の荒波に飲まれることになったのには、2つの大きな出来事がありました。


江戸時代にゆらぎない地位をえていた庄内藩ですが、幕末から要請があり「江戸市中取締役」を務めることとなります。


江戸の各所で放火や強盗などの凶悪事件が頻発しており、それらのテロに対抗するため、庄内藩は「新徴組」を作ることになったのです。


新徴組のメンバーですが、もともとは近藤勇、土方歳三らと一緒に活動していた浪人でした。その浪人組の中でも、考えに相違が出始めたために2つに分裂することになります。


そして、庄内藩預かりで江戸守護職となったのが「新徴組」、会津藩にて京都守護職を任命されて作ったのが「新選組」となったのです。

 

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清川八郎:清川八郎により浪人組が作られ、その後新徴組と名前を変えて幕府の警備にあたります。この浪人組の一部が新選組として分かれました。

 

問題となっていた江戸のテロリスト(浪人)たちを、実は手引きしていたのが、何を隠そう薩摩藩だったことから事件が起きます。


浪人たちは悪事を働き、これ見よがしに薩摩邸に逃げ込んでいくため庄内藩はいらだちを隠せません。

 

薩摩藩側に抗議をしますが全く改善されず、逆に浪人たちは庄内藩に発砲してくる始末でした。


大政奉還後はまさに動乱の時代に突入するくすぶった時代背景があり、幕府と新政府軍との先の見えない戦いが始まろうとしていた時でした。


ついに堪忍袋の緒が切れた庄内藩は、1867(慶応3)年、なんと「薩摩藩邸焼き討ち事件」を敢行したのです。


まさに、庄内藩からすれば「江戸を守るために、悪党の住処を一網打尽にした」となるのですが、この事件により、江戸では幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったと全国に知らしめることとなり、旧幕府軍にも歯止めが効かなくなりました。

 

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薩摩藩邸焼き討ち事件

 

そして、これがきっかけにより、翌年の1868(慶応4)年1月に鳥羽・伏見の戦い「戊辰戦争」が勃発します。

 

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鳥羽・伏見の戦い(鳥羽の戦いの図)

 

この戦いで、幕府軍は薩長軍との戦いに敗れ、将軍慶喜は江戸に逃げ帰ることになり、勢いづいた新政府軍(官軍)が東北地方に進撃してきます。


そして、幕府軍は次々に敗れ降参していき、伏見の戦いは終わることになるのです。


しかし、この戦いで唯一最後まで新政府軍に負けなかった部隊があります。

 

現代でも語り継がれることになる最強の部隊とは、『庄内藩』なのです。


庄内藩は、官軍を押し戻し逆に攻め込んでいましたが、残念なことに周囲の藩が次々と降伏してしまい「このまま戦い続けても負けが見え領民を巻き添えにしてしまう」と考え、結局は厳罰を覚悟の上、降伏する道を選んだのです。


降参した後、官軍の代表として接収にきた官軍の黒田清隆でしたが、とても謙虚で丁重な対応ぶりであっけにとられます。

 

そして、厳罰かと思いきや、17万石から12万石に減っただけというものだったのです。


この寛大な処置ですが、実は西郷隆盛の指示によるものでした。

 

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西郷隆盛

 

西郷は「もし自分が庄内藩士であったならば、やはり命をかけて最後まで徳川家のために戦っていたはず」という気持ちから庄内藩や会津藩に共感していたようです。


これに感激した庄内藩主や藩士たちは西郷隆盛に惚れ込んでしまうのですから、西郷の人を魅了する手腕には関心してしまいます。


その後、庄内藩士らは、鹿児島で西郷と交流したり、「南西の役」で西郷と共に戦っているのですから、驚かされます。


また、庄内藩の前途有望な若者や、藩主跡継ぎも西郷の傍に置き、西郷の語った言葉をまとめた「西郷南州遺訓」という書物を出版したりと、大変慕い尊敬していたことが想像できます。

 

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西郷南州遺訓:庄内本初版本(荘内南州会蔵)


現在では、読みやすくした本など複数が出版されています。

 


しかし、大久保利通を中心とする新政府にとって、庄内藩(庄内地方)は面白くない問題のある場所でした。


庄内藩は戦いに負けなかったという自負と、領民のために降参したことなどが領内の結束を高めさらに強い意識を生んでいたのです。


そして、明治になっても新政府に対し反感の空気は漂っていました。

 

ところが、1874(明治7)年に、とんでもない男が県令として現れます。


それが鬼県令や土木県令の異名を持つ三島通庸だったのです。

 

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三島通庸

 

三島は、酒田県令(現在の鶴岡)に赴任し、さらに酒田県が鶴岡県に、そして山形県に合併されると初代・山形県令として1876(明治9)年から1882(明治15)年まで着任することになります。


そして、鶴岡にて、殖産興業と文明開化に力を注ぎます。

 

<殖産興業とは>
明治政府が西洋諸国に対抗するために、近代産業を日本に移植し資本主義の生産方法の育成を推進した政策です。初期には、鉄道、電信、鉱山、造船といった官営事業や紡績、製糸などの大型工場の建設、さらには牧畜や農林業などの官営施設の創設を中心に行われました。

 

三島は、山形で過ごした7年間の間に、文明開化の一環として庶民に新しい時代の幕開けを印象付けるために山形県庁舎を中心に、役所、学校、警察など新しく洋風建築を建設していきました。

 

そうすることで視覚的にも、庶民に「新しい時代の到来」を印象付けようとしたのです。


そして、都市整備事業、新しい道の開削、架橋の道路整備など多くの実績を残し、山形の近代化産業を作り上げたと言われています。


この急激な近代化は三島の考えで行われたのではなく、実は大久保利通の考えた日本列島改造計画の一つだったようです。

 

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大久保利通

大久保は明治維新の立役者の一人で、西郷隆盛、と並んで「維新三傑」と称された政治家。学制、徴兵令、「富国強兵」をスローガンとして殖産興業政策を推進しました。


大久保が富国開明を目指す中で、東北振興策を打ち出し、豊かな東北の富を新政府の富として活用することを提案しました。


そして、大久保の意向を受けて東北開発構想を具体化すべく差し向けられたのが、三島だったというわけです。


三島にとって大久保利通は同郷の絶対的存在でした。


そのため、表向きは地元民のためとしながら、多くの負担を民衆に求めてきたのです。


山形県内の新道開削と道路整備においても、開発を急いだために強引な工事を要求し、その膨大な人員と予算は民衆を弾圧する形で工事を強行させていきました。


それが「鬼県令」と言われる由縁です。


山形県に限らず、後に赴任することとなる福島県や栃木県でも民衆はその弾圧に戦々恐々であったと語り継がれています。


もちろん多くの反発も起きましたが、それを押さえつける弾圧があり、最後には怖くて民衆も黙り込む始末だったと言いますから、その人柄は容易に想像が付きます。


先に述べた通り、元来、庄内藩は戦いに負けなかったという自信と、西郷隆盛を失ったという思いから、庄内地方は反政府運動が盛んな場所でした。


農民の暴動(ワッパ騒動)や士族の反発など、統制が難しい地域であったために、大久保が強力な統治者を送り込んで来たとも言えます。

 

しかし、これらの事業により、その後の山形県の発展に大きく寄与することとなり、当時の人々の生活を向上させたのは事実でした。

 

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山形市街図1881-82年 著者:高橋由一 

三島の要請により数々の土木工事の記録がを描いています。


山形県では、2009(平成21)年2月に「近代化産業遺産群 続33」として26件の遺産が経済産業省より認定さていますが、そのうちの三島が行った半数以上の事業がこれを占めるというのですが、現代にまで影響を与えた功労者という反面もあります。


しかしながら、三島が弾圧をしながら増税や労働を強制した事による功績には賛否両論があり、今でも意見が分かれるところです。

 

三島が鶴岡に来て最初に建てたのは、学校でした。


この1876(明治9)竣工の朝暘学校は東北一の大校舎で、42の教室と22人の教職員がおり、市内12の小学校に通う児童1200人を集めて教育を始めました。


これだけ聞けば、教育に熱心で素晴らしいと感じますが、実は三島はまず県令を旧庄内藩の精神的支柱として大切にしてきた旧藩校「致道館」の中におき、その目の前に「致道館」を見下ろすように洋風建築の朝暘学校を建てさせたのです。


まさに、地元の士族たちには屈辱でしかありません。

 

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朝暘学校

 

三島が統治していた山形県鶴岡で、数多くの洋風建築を残したのが、庄内藩御用大工の棟梁であった高橋兼吉でした。


学校の建設には関与していなかったようですが、その後、三島の意向を汲んで、旧庄内藩(酒井家)の棟梁が建設にたずさわることに抵抗はなかったのでしょうか?


少し高橋の人生を振り返ってみることにします。

 

高橋兼吉は1845(弘化2)年に現在の鶴岡市陽光町で地元大工の高橋半右衛門の次男として生まれました。


戊辰戦争のあった1868(慶応4)年は、高橋が23歳にあたり、すでに上京し横浜にて大工佐野友次郎から洋風建築を学んでいたと思われます。

 

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高橋兼吉

 

当時の若い高橋にとって、横浜という西洋文化が溢れる明治の地で多くの刺激を受けていたに違いありません。


鶴岡に帰郷した後、1875(明治8)年に松ヶ岡開墾場にて「蚕室」4棟を建設しました。


松ヶ岡開墾場は旧庄内藩の士族が刀から鍬に持ち替えて、今後の自分達の生活のために新しい産業を取り入れるために開墾した地です。


版籍奉還(領地と領民を朝廷に返上する)のために、廃藩になり職を失った士族に対し、明治政府は家禄(給与)を与えていましたがこれは大きな負担となっていました。


そのため、いずれは家禄も廃止される恐れがあると藩の指導者たちは考え、新しい道を模索したのです。


しかし、いつでも戦争に出られるように軍を保持しながらの開墾であったため、大久保には目を付けれていた経緯があります。


この養蚕場は最新で大規模なもので、田島式養蚕方法が取り入れられ、高度な技術にあった建築が求められました。


この仕事に高橋は十分に応え、また翌年には荘内神社の社殿を造営したことから、大工の腕前を見込まれて藩お抱えの大工として従事することとなります。

 

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新徴屋敷:新徴組の人々が庄内に移住してきたため、1870(明治3)年に鶴岡市大宝寺地内に藩が建てた100棟の住宅で、そのうち明治9年ごろには約30棟が松ヶ丘に移築されました。

 

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当時の松ヶ岡開墾場の大蚕室群

 

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大蚕室:現在の様子 第一蚕室は松ヶ丘開墾記念館となっています。


年表を見ると荘内神社の建設中に三島の指揮のもと朝陽学校が完成したことになります。


1877(明治10)年に南西戦争により西郷隆盛が死んでから、三島は一気に鶴岡に洋風建築を建て始めます。


高橋が鶴岡にて洋風建築を本格的に建設したのが1881(明治14)年竣工の西田川郡役所というのですから、まさに同時期と言えるでしょう。


三島が高橋に建築を依頼し、それに従った姿を見るからに、旧庄内藩士たちが大久保(新明治政府)に従属したことを意味していると言えます。


それが何より三島にとって周りに知らしめるための、プロパガンダであったに違いありません。


しかし、高橋は横浜で学んだ新しい建築をこの手で手掛けたいという思いもあったはずです。


鶴岡の地に恩や情といった昔ながらの気持ちと、明治という新しい幕開けのワクワク感と期待感とで複雑な心持であったことでしょう。


それを物語るかのように、三島の指示でありながらも、高橋が残した洋風建築の数々はとても素晴らしいものばかりで、特に今回ご紹介する旧西田川郡役所と1884(明治17)年竣工の旧鶴岡警察署は高橋の代表作となり全国でも有数の建築物となったのです。

 

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旧鶴岡警察署:2017(平成29)年まで修復工事中です。

 

2棟を建築した後は、娘婿と共同で仕事を行いました。


高橋は、豪放磊落の性格であったと言われ、度量が広く些細なことにこだわらなかったようで、旅先の道中に山賊に出くわした際、高橋が山賊を谷に投げ飛ばしたとの逸話が残っています。


また、晩年には知人の連帯保証人となり多額の負債に追われて、自宅を一部処分したようですが、その家は実に質素なものだったようで、まさに紺屋の白袴といったところでしょうか。


高橋の最後の仕事は、名刹善宝寺の五重塔を約8年かけて完成させ、その翌年の1894(明治27)年にこの世を去りました。


享年50歳でした。


洋風建築に注目が集まりますが、宮大工の技術を持った高橋は伝統的な建物造りにも力を注ぎました。

 

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名刹善宝寺の五重塔

 

高橋の代表作である2棟は、1950(昭和25)年に、旧庄内藩主酒井氏により土地、建物、文化財とともに寄附され、財団法人にて管理されていましたが、1969(昭和44)年に国の重要文化財に指定され、現地(馬場町)で長く保存するには難しいとのことから、鶴ヶ岡城の三の丸にあった庄内藩の御用屋敷跡地の一部に移築復元されています。

 

それでは、旧西田川郡役所を見ていきましょう。


建物は木造2階建てで、両翼は1階建てとなっています。


中央の2階屋根上には時計塔があるルネッサンス風の建物で、時計塔までの高さは20mを有します。


1880(明治13)年に起工し、翌年の1881(明治14)年5月に竣工しましたが、同年9月に三島が兼ねてから念願していた明治天皇の巡幸がきまり、名誉ある宿舎に決まったため、わずか4ヶ月で改築が行われています。


当時、洋装姿の明治天皇の御姿を民衆に印象付けることで、政府の西洋化の推進として一役買っていたようです。

 

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外観:正面

 

1階屋根は入り母屋屋根で2階は寄棟、瓦葺です。


時計塔の屋根の先端と、両翼の屋根の端には丸い玉ねぎのような棟飾りが見られますが、避雷針としての役割もあったかもしれません。


擬洋風建物で見る人によっては天守閣のようだとも、西洋の時計塔のようだとも感じられる建物です。

 

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正面左翼の端にある塔飾り

 

シンメトリーの建物で、正面玄関には車止め、その上部にはバルコニーを備えます。


外壁は白いペンキ塗りの下見板張りとなっており、建物と同様に窓もシンメトリーになっており、縦長の上げ下げ窓が採用されています。


窓には、屋根(ペディメント)を模った小さな庇がついており、洋風建築を意識して設計されたことがうかがえますが、なんとも和風なデザインが擬洋風建築を物語ります。

 

あくまでも、日本人の大工が一流の腕をもって、洋風を見よう見まねで近づけようとした心意気が伝わってくるようです。


玄関ポーチの円柱はルネッサンス風となっており、上部バルコニーの手摺がより洋風を印象づけます。

 

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玄関ポーチ


外観は、とても簡素でありながらも均整のとれた姿は、清々しく美しいものです。


当時の大工棟梁には珍しく、高橋はどの建物でも必ず設計図を描いてから仕事に取り掛かっています。


同時に複数の仕事を抱えることができ、なおかつ一定の品質を保つために行っていたのではないでしょうか。

 

また時計塔を備えているのは、明治初期の西洋建築の特徴の一つと言えます。

 

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時計塔

 

設置されていた塔時計は明治13年製で国内最古のものと言われ、唯一現存している塔時計です。


当時国内最高の時計技術者であった金田市兵衛と鶴岡出身の弟子・木部正直が共同で制作したものです。

 

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金田市兵衛

 

文字盤の直系は約1mにおよぶ大きなものです。


しかし、強い海風によってたびたび振り子が止まることもあり、現在は常念寺に移されています。


昭和には、故障し止まってしまった時期もあったようですが、地元の時計店店主の熱意によって修復され、今でも、4日に1度ネジが巻かれ、時を刻み続けています。

 

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常念寺に保管されている時計

 

室内は、主に展示室となっており、1階の大広間では明治時代に関わらず庄内地方の歴史を古代から戊辰戦争や西郷隆盛との関係など資料が豊富に展示してあります。


当時は事務室として使われていました。

 

2階も資料室となっていますが、建物の造りとしてぜひ見て頂きたいのが、塔屋へ上る階段です。


これはつり階段と呼ばれ、下からの支えがなく、浮いているように見えます。


17世紀の初期ルネッサンス時代に流行した様式で、まさに新しい設計を内部にも取り入れたものです。

 

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つり階段

階段の中央には赤い絨毯が敷かれ、華やかな階段です。

 

 旧西田川郡役所が移築された鶴ヶ岡城三の丸あたりは、鶴岡駅から徒歩30分あたりの場所で、致道博物館として他にも複数の建物を見学することが出来ます。

 

そこには、「明治初期の擬洋風建物」「旧庄内藩主隠居殿と国指定名勝酒井氏庭園」「田麦俣の民家」などタイムスリップしたかのように、たくさんの見どころがあり、鶴岡の歴史や文化を知る上でかかせない博物館です。

 

ぜひ、天気が良い日にゆっくりと足をお運び頂けたらと思います。