日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

ニコライ堂(東京復活大聖堂教会)

東京、駿河台の丘に佇むのは、なんとも異国情緒溢れる大聖堂です。


ビザンチン建築国内最大級の荘厳な建物は、正式名称「東京復活大聖堂教会」といい、ロシア教会からもたらされたハリストス正教の日本の総本山にあたります。


ロシア教会から日本での布教活動に来られた大司教ニコライの名前からとり「ニコライ堂」の愛称で親しまれている建物をご紹介したいと思います。

 

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ハリストス正教会というと聞きなれない方もいらっしゃるかもしれませんが、ハリストスとはキリストのギリシャ語読みです。


正教会はキリスト教?カトリック?プロテスタント?という疑問が浮かぶ方もいらっしゃるかもしれません。


教徒ではないため、不明な点や勉強不足があるかとは思いますが、少し触れてみたいと思います。

 

キリスト教は大きく「西方教会」と「東方教会」と呼ばれる2つに分けることが出来ます。


ローマ・カトリックが「西方教会」、正教会が「東方教会」に位置します。


そしてカトリックから分裂したのがプロテスタントとなるので、プロテスタントは「西方教会」に位置するわけです。

 

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キリスト教諸教派の成立概略図:ウィキペディアより

 

つまり、信仰の源泉は同じ旧新約聖書で、キリスト教教会です。


キリスト教はローマ帝国の発展とともに小アジアから、ヨーロッパを始め、各地に広がっていったと言われています。


しかし、イエスがいた頃のキリスト教はローマ帝国から激しい迫害を受けていました。

 

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イエス・キリスト(イイスス・ハリストス):6世紀頃に描かれたイコン(聖カタリナ修道院所蔵)

 

もともとキリスト教はユダヤ教の形式化に疑問をもったイエスの教えにより始まったものです。


イエスは紀元前4世紀(6世紀との説もあり)頃、ユダヤ北部のナザレという村で大工ヨセフと妻マリアの間に生まれました。


イエスはユダヤ教に対し改革的な運動をはじめ、説教(道徳的な指導)を社会的身分の低い地位にある人々にほどこし、彼らの癒しと、導きとして、イエスは救世主であると信じる人々が増えていきました。


この「救世主」が「キリスト」の意味です。


イエスは、神は愛の神と説き、民族や貧富の差をこえ、平等な愛を人々に及ぼすとしたのです。

 

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聖マタイの召喚:ジョバンニ・パオロ・パンニーニ ボルディ(ベッツォーリ美術館所蔵)


有名な言葉として、


「この金貨は神のものか?それともローマ皇帝(カエサル)のものか?(ローマに税を納めるべきか?)」

 

という質問を信者からされます。イエスは、

 

「神のものは神のもの、カエサルのものはカエサルのもの」

 

と答えています。


つまり、神のものだと答えるとカエサル(ローマ帝国)から反逆罪とみなされ、カエサルのものだと答えると権力に負け信仰を曲げたと信者から見られてしまいます。


そのため、この質問は大変応えにくいものだったはずです。


しかし、金貨にはローマ帝国の銘があったためイエスの「カエサルのものはカエサルに返せ」(カエサルの銘が入っている金貨は、税金として納めよという意)という言葉は、たいへん気転がきいた言葉だったと言えるのです。


キリスト教では神の愛がユダヤ人以外にも施されると説いたために、ローマや各地への布教活動により小アジアから地中海世界へと広がっていきます。


特に、下層市民といわれる人々・女性・奴隷たちに支持され始めるのですが、皇帝崇拝を拒否する異教としてローマで迫害されるようになります。


ローマはもともと多神教で、一神教としてのキリスト教は受け入れがたいものでした。


キリストの神が皇帝より大切となると、ローマ皇帝の権力が弱まると考えたためです。


その後もローマ帝国はキリスト教の迫害を繰り返し、皇帝崇拝を強要してきたのですが、さすがにローマ市民・上層民にも信者が現れるようになり考え方を変えざるをえませんでした。


313(仁徳天皇元)年、混乱の真っ只中にあったローマ帝国は帝国支配を安定させるために、むしろキリスト教を認めることに踏み切りました。


といっても、当時は国教にするということではなく、あくまでも宗教寛容令であり、帝国の西半分で宗教信仰の自由を認めたものです。


そして、キリスト教もそのうちの一つにすぎませんでした。

 

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ローマ皇帝・コンスタンティヌス帝


しかし問題も起き始めます。


信仰を隠す必要がなくなり、積極的に活動が行えるようになったものの、すでにイエスがいた時代から300年は経過していました。

 

そのため、同じキリスト教でも、地域や指導者により教義や儀式のあり方などの違いが明確に表れ、キリスト教内部で対立が表面化してきたのです。


信者以外にはわかりにくいのですが『神学論争』が巻き起こります。


簡単に説明すると、「イエスを人間とみるのか、神とみるのか」です。


様々な議論が交わされた結果、全員が納得したわけではありませんが、『三位一体説』が正統なキリスト教の教義とされました。


父なる神(神様)・神の子(イエス)・精霊はそれぞれ形(見た目)は違うけれども、すべて同じ神であるとしたものです。


すなわち、『イエスは神である』が認められたということになります。


つまり、「父なる神だけ信じる」や、「イエスだけ信じる」ということは出来ないということでもあります。

 

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聖なる三位一体 1754年 コッラード・ジアキント作(プラド美術館所蔵)

 

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聖なる三位一体 一部拡大

 

イエスは素晴らしい神聖であっても人間にすぎないと考えている信者からの反発は大きなものでしたが、4世紀後半には異端者や背教者とされローマにはいられなくなりました。


392年に、時のローマ帝王によりついにキリスト教を国教とし、他の宗教を厳禁としました。


そして、教会は国会の保護を受け「教皇(法王)」を頂点としたピラミッド型の組織が出来上がってきます。


しかし残念なことに、世俗の権力を持ち始めると徐々に腐敗してくるもの世の常ねです。


16世紀になりローマカトリックの腐敗に抗議する団体として宗教改革運動が始まりプロテスタントが生まれます。


原始キリスト教を復活しようとしたのです。


プロテスタントとは1つの宗教名ではなく、カトリックに異議を唱え分裂した諸教派の総体のことです。


純粋なキリスト教の教えを回復するために、一つだけの組織に権力が集中することを認めず「教皇」の存在も認めていないのが特徴です。

 

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マルティン・ルター:プロテスタントの1つであるルターは、全世界に推定8260万人の信徒がおり、有名音楽家の多くが所属していることで、作曲家や音楽家に縁がある教会として知られています。(バッハやテルマン等)

 

それでは、やっと出て来ましたが「正教会」はどうやって誕生したのでしょう。


先程触れたように、原始キリスト教「新約聖書」をもとにしています。


そういった意味ではローマカトリックに極めて似ていると言えますが、1054年に東西教会の分裂という大事件が起こるのです。


実は、それまでにも教義の考え方など多くにおいて長きに渡り両者は対立していました。


そのため、教皇(後のキリスト教最高位聖職者)と、総主教(後の正教会における最高位聖職者)がそれぞれおり、互いに首位権をめぐって争っていました。


1054年に総主教ミハイル1世が教皇レオ9世に宛てた手紙の中で、ミハイルが全地総主教と記載し、教皇レオ9世には「父」ではなく「兄弟」と呼びかけていた事が判明し、それが大変な争点となったのです。


それはあくまできっかけにすぎず、それまでに蓄積されていた考えの違いから、両者は互いに互いを「破門」にします。(相互破門と呼ばれています)


互いに破門を言い渡したことで、キリスト教徒は東西に分裂することになりました。


ローマ教会は西ヨーロッパを中心として発達し、ローマ・カトリック教会となり、コンスタンティノープル教会(後の正教会)は、ローマカトリックよりも正しい教会(オーソドックスな教会)という意味から正教会として、ギリシャを中心に東ヨーロッパで発展します。


15世紀には、ギリシャ正教会がオスマン帝国の支配化に置かれると、ロシアへと教会の力を移し、ロシア正教会が大きく発展していくのです。

 

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オスマン帝国軍がコンスタンティノーブル攻め入り、ついに城壁を打ち砕きました。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が終わりを告げました。

 

コンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)

 

しかし、実は2016年は歴史的な年となりました。


2月にキューバのラウル・カストロ議長が立ち合いとなり、キューバの首都ハバナで、フランシスコ法王と、ロシア正教会(東方正教会・最大勢力)の総主教の一人キリル総主教が和解に向けたトップ会談を行ったのです。(正教会には総主教が複数いらっしゃいます)


しかし、正教会の間でも何かいろいろあるようです。

 

なんと同年6月には、「全正教会会議」が開催されました。


東方教会の代表が一堂に集まり会議を開くのは、なんと1200年ぶりと言います。


しかし直前になって、ロシア正教会など4教会が欠席を表明したのです。


実は、コンスタンチノープル(現・イスタンブール)教会が最初の総主教ですが、現在最も信者数が多いロシア教会の影響力は大変大きなものになっています。


ロシア正教会の欠席理由ですが、表向きは会議文章の内容に反発して調整が付かないということですが、本当は、歴史的な会議の主導権をコンスタンチノーブル総主教に握られたことに対する不満が背景にあるのではとささやかれています。

 

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トップ会談 2016(平成28)年2月12日 左:キリル総主教 右:フランシスコ法王

 

日本に正教が伝わったのは1861年ロシア教会のニコライによってもたらされました。


その頃の日本は、幕末末期であり、翌年には坂本龍馬が土佐脱藩したり、寺田屋騒動が起きたり、以前ご紹介した生麦事件などが発生した時代です。

 

旧英国領事館公邸をご紹介した際に、生麦事件に触れています。

 

旧英国領事館公邸(現・横浜市イギリス館) - 日本のすばらしい建築物

 

ニコライの本名はイオアン・デミトリヴィッチ・カサートキンと言い、1836年にロシアのスモレンスク県で生まれました。

 

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イオアン・デミトリヴィッチ・カサートキン(聖ニコライ)

 

5人兄弟の次男で、ニコライが5歳の時に母親が35歳の若さで亡くなっています。


地元の神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を主席で卒業し、官費生として1875年サンクトペテルブルク神学大学に入学しました。


そこで運命的な書物に出会うのです。


それは、ヴァーシリー・ゴローニン(ゴロウニン)著『日本幽囚記』です。


これを読んでからと言うもの、日本に渡航し正教を伝道したいという気持ちに駆り立てられるのです。

 

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ゴローニン(ゴロウニン)

 

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日本幽囚記


江戸後期の1811(文化89)年、ロシア海軍ディアーナ号が日本の役人に拿捕され、その後2年2カ月にわたり函館で幽閉された手記です。


一度は脱走を試み、再び捕らえられますが、日本人の礼儀に触れ、日本を「世界で最も聡明な民族」「勤勉で万事に長けた国民」であるとし、ヨーロッパにそれまで伝えられていた野蛮な国というイメージを覆すものでした。


そして、日本の風習・宗教・社会性等を鋭く観察し、地図学者の間宮林蔵や蘭学者の馬場佐十郎などの知識人にロシア語を教えたことが記録されています。


この本はロシア語の初版(1861年)を始め、ドイツ語、フランス語、英語、デンマーク語など初版から3年以内には翻訳され世界に広まりました。


それだけ、謎の多かった日本に対して、世界の関心の高さがうかがえます。


ゴローニンが捕らえられた後、逆に日本人の高田屋嘉兵衛がロシアに拿捕されてしまいます。


しかし、そこで気転をきかせた高田の活躍により、日露の仲介役として活躍し、双方の人質を交換するという策を日露が了承し、函館にてゴローニンは引き渡され、ロシアに戻ることが出来ました。


その後、ロシアで書かれたのがこの本『日本幽囚記』です。

 

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高田屋嘉兵衛 江戸時代後期の廻船業者・海商で巨額な材を築き箱館の発展に貢献しました。

 

本で読んだ日本での伝道活動を願っていたニコライは、偶然にも日本の箱館(後の函館)領事館付司祭を募る文書を目にします。


ニコライは応募者4人の中から選ばれ日本に渡来してくるのです。


当時の箱館(後の函館)ですが、外国人を受け入れる港は日本に3か所(神奈川・長崎・箱館)しかない開港のうちの一つで、多くの日本人もチャンスをつかもうと大変活気溢れた町でした。

 

ニコライは本来、領事館内だけの司祭としての役目でしたが、日本人への伝道を志していただけに、日本語を熱心に学び、日本人へ布教活動を積極的に行っていきました。

 

それには、ロシア正教会の本部も賛成していたようで、日本での活動を一任していたようです。

 

1868(明治元)年、箱館で3人の日本人が信徒となります。


沢辺琢磨・酒井篤礼・浦野太蔵です。


当時の日本はまだキリスト教は禁止されていましたが、秘密裏に3人はニコライのもとを訪れ、洗礼を受けるまでに至りました。

 

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沢辺琢磨:日本ハリストス正教会初の正教徒にして、最初の日本人司祭です。聖名(パウェル)

 

そして、ニコライのたっての希望であった、東京での布教に取り組みます。


1872(明治5)年に神田駿河台の土地2300坪を購入し、宣教の拠点としたのです。


1891(明治24)年、今回ご紹介する東京復活大聖堂(通称・ニコライ堂)が建設されます。

 

信者は当時からすると驚異的なスピードで増えていきましたが、その後は順風満帆とはいきませんでした。


明治の日本は、世界からみると小国で、なおかつ鎖国していたために、日本は世界から低くみられていました。


自分達は井の中の蛙であったことに気づいた日本人の一部には大変な驚きと屈辱であったようです。


日本が、大国のロシアから多くの圧力を受けていたことや、北方諸国に関して強固な姿勢を貫く姿に、反ロシアの機運が高まっていました。


そして、ついにはロシア皇太子の暗殺未遂が勃発し、さらにその矛先はロシア正教会にも及びはじめ迫害の対象となっていきました。

 

 

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ロシア皇太子の暗殺未遂:通称「大津事件」が1891(明治24)年
日本を訪問中のロシア帝国皇太子が、滋賀県滋賀郡大津町で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件。

 
正教会にスパイ容疑がかけられ神父が襲撃されたり、教会が破壊される行為が各地で起こりはじめます。


そしてこのタイミングで1904年に日露戦争が開戦するのです。


ニコライは、それでもロシアへ帰国する勧めを断り、日本に残る決心をしましたが、祖国の劣勢を聴くたびに苦悩があったと言います。


しかしながら、ニコライは日本正教会の主教として、日本のために、世界のために祈る姿を貫き通したのです。


それでも、ニコライ堂は放火の危険にさらされたり、暴徒に襲撃されることがあり、大変な苦労を伴いました。


1912年(明治45・大正元)年、明治最後の年にニコライは76歳で永眠しました。


亡くなる1年前に、ニコライは大主教に昇叙され、当時のカトリック教会につぐ規模へと信仰者を増やしていました。

 

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日露戦争 1904(明治37)年から1905(明治38)年まで

 

1891(明治24)年竣工した東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)ですが、原案設計者と実施設計者の2人が存在します。


ニコライから直々に依頼を受けたのが、ロシア工科大学教授の建築家・ミハイル・アレフィエビチ・シチュールポフで原案を作成し、お雇外国人として日本に来日し建設設計事務所を開いていたジョサイア・コンドルがそれをもとに実施設計を作成したのです。

 

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ジョサイア・コンドル


この二つの設計の間にどのくらい改変があったのかについては、資料が焼失しているために不明となっています。


建築工事は長郷泰輔が請負い施工は清水組(現・清水建設)が担当しています。


建設費用は当時の金額で24万円で、多くはロシアに住む正教徒たちの献金によるものでした。

 

明治の日本においてビザンチン様式の建築物は当時大変珍しかったに違いありません。

 

中央ドームは八角形、鐘楼は中央ドームよりも高くそびえていました。


八角形の上にドームを乗せた形は、ジョサイア・コンドルの考えによるもので、日本人の職人が施工しやすいように尺貫法を用いて図面に起こしたものでした。
※尺貫法は日本古来からある日本の長さの単位です。

 

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ニコライ堂:竣工当時の写真1

 

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ニコライ堂:竣工当時の写真2


イコノスタシス(大聖堂内部の正教会では大切なイコンで覆われた壁)はロシアに発注されましたが、聖画像の中には日本で聖像画家として知られる山下りんが残したものも4点あったといいます。

 

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山下りん


夏目漱石の『それから』の一節に登場したり、与謝野晶子は近くに住んでいたこともあり作品の舞台にもなっています。

 

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夏目漱石

 

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それから:1909年6月から10月まで朝日新聞に掲載されていた小説 夏目漱石前期3部作の一つ。

それから [DVD]

「代助は面白そうに、二三日前自分の観に行った、ニコライの復活祭の話をした。

御祭が夜の十二時を相図に、世の中の寝鎮まる頃を見計って始る。参詣人が長い廊下を廻って本堂へ帰ってくると、何時の間にか幾千本の蝋燭が一度に点いている。・・・」

 

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与謝野晶子 歌人・作家・思想家として知られます。


隣り住む 南蛮寺(なんばんでら)の 
鐘の音(ね)に 涙のおつる 
春の夕暮れ 

 

ジョサイア・コンドルが設計した建物をいくつか過去にご紹介しております。
ぜひご覧ください。

 

三菱第三代社長、久彌の豪邸「旧岩崎久彌邸」 - 日本のすばらしい建築物

 

清泉女子大学本館 - 日本のすばらしい建築物


ビザンチン様式の葱花アーチを基本モチーフとした聖堂でしたが、残念なことに、ニコライ堂に一大事が起こります。


それは、1923(大正12)年に起きた関東大震災です。

 

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関東震災後のニコライ堂

 

特徴的だったドームは隣にあった高い煉瓦造りの鐘楼がドームに倒れかかって崩壊し、また木造部分の多くが焼失しました。


また、聖堂附属の図書館・神学校なども失うことになり、被害は甚大なものでした。

 

そのため、建築家・岡田信一郎の手により、1930(昭和5)年に修復され、建物の一部がが改変されてました。


外観はその際、一部変更されていますが、装飾や窓廻りには当初の意匠が忠実に再現されています。


さらに、1992(平成4)年に修繕が行われ、平成12年から一般公開されるようになりました。


平成10年の修復工事は、1929(昭和4)年の再建当時の復原を目指したもので、ピザンチン様式の美しい姿を蘇らせています。

 

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岡田信一郎

 

岡田信一郎は、大正から昭和初期にかけて活躍した建築家です。


代表作としては、歌舞伎座、旧東京都美術館、明治生命館などがあります。


1883(明治16)年に東京で生まれ、東京高等師範学校付属中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学を卒業しています。


後に第52・53・54代内閣総理大臣となる鳩山一郎とは中学・大学と同じで、生涯交流があったと言われています。


また明治末に「日本一の美人」と謳われた、人気芸妓の萬龍との結婚も大変話題になりました。

 

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萬龍


1908年に「文芸倶楽部」誌が主催した芸妓の人気投票「日本百美人」で9万票を得て第1位となり、新聞や百貨店のポスターに掲載され、「酒は正宗、芸者は萬龍」と流行歌にも歌われるほど評判になったそうです。


現代のAKB48の先駆けのようですね。

 

もともと、萬龍は帝国大学の文学志望の青年・恒川陽一郎と運命的な出会いをし二人は恋に落ちてそのまま結婚。


当時、大学生と芸妓のロマンスとして新聞紙面で大きく取り上げられました。しかし、結婚4年目にして恒川が病死し、若くして未亡人になった萬龍は、翌年に恒川の知人であった岡田と再婚します。


岡田は病弱であったために、夫の看病や設計事務所の手伝いをしていましたが、1932(昭和7)年に岡田が先に亡くなり再び未亡人となりました。


その後、萬龍はお茶の先生として多く弟子に慕われて余生を送ったそうです。

 

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鳩山会館 1924年竣工

鳩山会館(旧鳩山一郎邸) - 日本のすばらしい建築物

 

 

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歌舞伎座 第3期 1924年竣工 昭和20年5月25日の空襲で焼失。

 

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明治生命館:1934年竣工


それでは、東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)を見てみましょう。

 

名前の通り、イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ読み)の復活を記念した聖堂で、東方教会の流れをくむ日本正教会の建物です。


日本最大級の本格的なビザンチン様式の教会で、高さ35メートル、八角形の上にドームを乗せた特徴的なものです。


また日本における石造の重要文化財の中では、この建物が一番古いものです。


岡田は、関東大震災での反省から、以前は木造であった部分も、不燃化のために石造へ改修し、ほとんど木造の部分はありません。


ドーム部分も鉄筋コンクリート造と鉄骨造とされ、内部も補強を兼ねた中二階が3か所、中二階のないイコノスタシス(正教会では大切なイコンで覆われた壁のこと)
の上部に補強アーチが加えられています。

 

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外観


本堂のドームですが、岡田の改修により強度を増すために、ドームの内側にドラム(ドームがのる部分で太鼓で言うと胴に当たる部分)を付けています。


また、ドームの窓の数がだいぶ多くなっていますが、窓は石造りでぎっしりと周囲を囲っているため、竣工当初よりかなり強度が保たれていることでしょう。


ドームの屋根は緑色の銅板葺きとなっています。


また岡田により四方屋根を マンサード形式で屋根窓のついたものへと変更しています。

 

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ドームの屋根:震災前の写真とは窓の部分が随分異なります。

 

建物正面に立つとシンメトリーになっており、手前が鐘楼で、後ろがドームとなっており、鐘楼の方が低くなっています。


鐘楼の方が低いのは岡田による改修によるものです。


鐘はロシア製が1つとポーランド製の小鐘5個です。

 

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鐘楼のアップ:中央奥には大きなロシア製の鐘、周りに小鐘

 

各所に、十字架がありますが、この建物では形が少し異なる十字架も見られます。


「ロシアン・クロス」とよばれる、ロシア式十字架で、八端十字と言われるものです。

 

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また、入口上部のフレスコ画には、イエスが持つ聖書に

 

太初に言有り
言は神と共に有り


と書いてあります。

 

これは、新約聖書の『ヨハネによる福音書』の冒頭部分の大変有名な言葉です。


「はじめにことばあり、ことばはかみとともにあり」と読みます。

 

そして「言は神なりき。(ことばはかみなりき。)」と続きます。

 

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入口上部のフレスコ画

 

アーチ状の入口上部にはロシアン・クロスの模様が入ったランプと緑の十字架、そしてアーチ部分にも十字架の装飾があります。

 

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正面入り口

 

また正面両脇には八角柱が用いられ、デザイン的にも重厚感が出るほか、建物の補強に一役買っています。


これも岡田の改修によるもので、震災にそなえるため強度を意識してのことです。

 

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正面両脇:写真は正面向かって右側の八角柱

 

窓のサッシは鮮やかな緑で、屋根の緑、外壁の白、扉の緑、ライン・装飾・鐘楼等の濃いグレーがエキゾチックな配色でバランスのとれた美しさです。

 

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窓からステンドグラスの裏側が見えています


聖堂内部は撮影禁止のため写真に残すことは出来ませんが、外観よりもさらに荘厳で豪華絢爛な様子となっています。

 

聖堂奥にあるイコンは金箔と白金箔で飾られ、明治時代のシャンデリアが再現されており蝋燭の光を跳ね返しさらに一層輝きます。


教会の窓には聖人たちを細部まで細かく表現したステンドグラスは室内へ美しく光を照らします。


また、ビザンチン美術を代表とすイコンが掲げられ、厳かな空気に包まれます。


イコンは東方正教会にとって大きな意味を持ちます。

(イコンは崇敬される板絵の聖画像のことです)


キリスト、聖人、聖書における重要な出来事やたとえ話を描いています。

 

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 ニコライ堂内部の様子 絵葉書よりイコンの様子

 

以前は、ニコライ堂敷地内にニコライ学院があり、そこで教鞭をとっていた人物の一人が杉原千畝(聖名:パーウェル)です。


杉原千畝と言えば、リトアニア領事館領事代理としてナチス・ドイツの迫害から逃げるユダヤ人にビザを発行し続け、およそ6千人の命を救ったと言われています。


東洋のシンドラーと呼ばれた千畝も実は正教徒でした。

 

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杉原千畝

 

ニコライ堂は、正教徒ではない人に対しても門戸を開いています。

 

見学は礼拝時間に出来るため、HPで礼拝のマナーなどを確認したうえ、ぜひ訪れてみて下さい。