日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧立花寛治伯爵邸 西洋館(柳川御花西洋館)

明治維新後に『華族』という、新しい身分制度が存在していたことをご存じですか。


この身分制度は、1869(明治2)年から始まりますが、1947(昭和22)年に華族制度が廃止となります。


そして、華族令により守られていた人々は一気に没落し、路頭に迷う事になるのです。


華やかな生活が一変し、大きな屋敷も手放さざるを得なくなりますが、唯一売却せずに現在まで残すことが出来た建物があります。


それが、今回ご紹介する「旧立花寛治伯爵邸 西洋館」(福岡県、柳川御花西洋館)です。

 

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昔の昼ドラには、華族の悲劇と悲恋を描いたものも多かったように思います。


華族について少し触れ、どのように立花家が屋敷を守ったのか探ってみようと思います。

 

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華の嵐:嵐3部作として人気を博しました。

 

明治維新以後、日本に新たな階層として『華族』が登場しました。


江戸時代に、将軍によって、全国の領地を支配していた大名たち(諸侯)や、公家の中でも公卿という地位にいた人々の身分を排しし、『華族』と称するようになります。

(公卿とは公家の中でも、公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官のことです。)

 

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新撰華族一覧表:新撰華族一覧表 明治13年 早稲田大学図書館所蔵


これは、1869(明治2)年の版籍奉還がきっかけで、版籍奉還とは明治政府による中央集権的な国家体制を確立するためにも、藩を各大名が収めるのではなく、その領地と人民を天皇(明治政府)に返還するというものです。


しかし、簡単に大名が自分の領土や人民を手放すはずはありません。


各藩の思惑があるのですが、手放すだけの見返りが必要でした。


そのため、華族として特権を与え、藩士を士族として優遇することにしたのです。


そして、公卿137家、諸候270家、合計427家が新しく華族として誕生しました。(注意:数字には諸説あります)

 

版籍奉還について、以前書いたブログにも触れていますので、ぜひ建物も含めてご覧頂けたらと思います。

 

旧土岐家住宅洋館 - 日本のすばらしい建築物

 

当初は華族に等級はありませんでした。


また華族同士の交流があり、1877(明治10)年には華族銀行と呼ばれた第一五国立銀行が設立されています。


岩倉具視の呼びかけにより、徳川慶勝(尾張藩14代藩主・政治家)・山内豊範(土佐藩第16代藩主)・黒田長知(筑前福岡藩の第12代藩主)・池田章政(備前国岡山藩の第10代藩主)などなど、華族が発起人となって設立された銀行です。

 

有力華族の出資により設立した銀行のため第一五国立銀行は「華族銀行」とも呼ばれたのです。

 

この銀行は世間の信頼が高く、国立銀行として営業期間を満了し、普通銀行になっても躍進を続けます。

 

特に鉄道事業は大変成功した事業の一つです。

 

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岩倉具視

 

そもそも、銀行の原資はどこにあったのでしょうか。

 

江戸時代は藩主から武士へお給料(家禄)を支払っていました。

 

しかし、明治からは藩主と武士の絆を絶つ思惑もあり、明治新政府が華族(藩主)や士族(武士)にそれぞれお金(給料)を支払うことになりました。


もちろん、ずっと払い続けられる金額ではありません。


版籍奉還を士族に納得させるだけの建前であったことから、いづれ廃止にする計画であったようです。

 

そしてついに、秩禄処分といって、給料の支給を廃止し、その代わり金禄公債を発行します。

 

金禄公債とは、突然、給料支給を廃止することを納得させるために、華族や士族に、家禄の5年~14年分のまとまったお金を渡す決定をしますが、政府には一度に払う余裕はありません。


そのため、金禄公債という手形のようなものを発行します。


条件として、その額面を現金化するには、5年間据え置きで、6年目から抽選で順番に支払うというものでした。


これには、もちろん利子も付きました。


特に、華族には高額な金額の金禄公債が発行されたようです。

 

そのため、この金禄公債の公債証書を、士族たちは担保にて商売を始めたのです。

 

そして、この金禄公債を華族たちが集まって、銀行の原資にしたのが、第一五国立銀行というわけです。

 

公債の利子収入と銀行の利潤配当等の収入により、華族の財産は一層確固たるものになっていきます。


さらに、宮内省(現・宮内庁)の御用銀行でもあったことから、一層信頼が高かったこともうなずけます。

 

しかし、この銀行も終わりを迎えます。

 

1927(昭和2)年の昭和金融恐慌により、取り付け騒ぎが発生し、経営破綻するのです。


その際、大名華族たちは旧家臣の情報網により事前に察し、倒産前に財産を逃がすことが出来ましたが、公家華族は倒産するまで何も知らさせず、大損害を受けました。

 

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昭和金融恐慌


華族がきちんとした身分の一つとなるのは、1884(明治17)年に華族令が出されてからです。


華族には、主に4つに分けることが出来ます。


公家華族・・・公家(公卿)に由来する華族。
大名華族・・・江戸時代の藩主に由来し、諸侯たちの華族。
勲功華族・・・維新以来、国家への功績が認められ華族のことで、新しく加えられた者たちを新華族と呼ばれました。
皇親華族・・・元皇族を由来とした華族。

 

また、本人のみ一代限りの『終身華族』と子孫も華族となる続ける『永世華族』がありました。

 

当初は華族に等級はありませんでしたが、華族令の制定により、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵から5つの爵位に叙され、功績により上位の爵位に移行する例も見られました。

 

公家華族は家格が考慮され、武家に関しては徳川家と元対馬藩主宗家以外は石高(実際の米の収入)を元に爵位が決まりました。


具体的に何を考慮したのかという規定は公表されなかったために、叙爵に不満を持つ者もいたようでした。


また、公家や諸候ではなかったものの、新政府として功績を認められた伊藤博文ら29家が華族に列せられ、終身華族はすべて永世華族に変更になり、すべての華族が永世華族となったのです。

 

公爵は、公家から徳川家・5摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)功績から、岩倉家(岩倉具視の功績)・島津家宗家(薩摩藩主島津忠義の功績)などが叙せられました。

 

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島津忠義公爵

 

侯爵は、公家から清華家、武家からは徳川御三家(15万石以上の大名家)。


功績から、木戸家(木戸孝允の功績)、大久保家(大久保利通の功績)などが叙せられました。

 

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木戸孝允侯爵

 

伯爵は、公家から大臣家・大納言家・徳川御三卿(江戸時代中期に徳川一族から分立した大名家)、5万石以上の大名など。


功績から、伊藤博文、黒田清隆・井上馨・西郷従道・山県有朋・大山巌といった、維新の元勲が叙されました。

 

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伊藤博文伯爵

 

そして、子爵、男爵と続きます。

 

1886(明治19)年には「華族世襲財産法」が制定されます。


中小の華族層の中には、社会の変化についていけず、様々な問題から、所有財産が安定しないものも現れました。


そのため、政府は華族所有の財産を保護する動きに出たのです。

 

それは、単に一つの華族が財産を失うことだけの問題ではなく、華族制度全体に与える影響が計り知れないことを指しています。


それだけ華族層が当時の日本経済に与えていた影響、資本主義発展などにおいて、大変に貴重であったためです。


日本という国を揺るがしかねない危険な事態を招かないためにも、華族世襲財産法が制定されたと言えます。


世襲財産の田畑・有価証券などは第三者による売却が禁じられ差し押さえをすることが出来ないという法律です。


これは華族家継続のために財産を保全するための特別法でした。


1889(明治22)年の大日本帝国憲法が制定させ、華族は貴族院議員になる義務を負います。


華族世襲財産法を制定したのには、この貴族院を作るためだったとの裏もあるようです。


この法律を作った代わりに、皇室を守るための防壁として貴族院を機能させるためでした。


そして、爵位上位のものには、貴族院での地位が保証されていました。

 

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大日本帝国憲法:憲法発布略図(1889、揚州周延画)

 

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第一回仮議事堂貴族院議場 1890(明治23)年に第1回が開催されますが、翌年、漏電のため焼失します。


また、華族世襲財産法は世襲において、大切な規定を明記してあります。


それは、男子の長子相続を明記していることです。


永世華族であったとしても、女子が家督を継ぐ際には叙爵されません。


男子が家督を継いだ家には、叙爵も受け継がれ、同じ戸籍にある人(家族)にも叙爵されました。


そして、華族の家庭に生まれたとしても、平民と婚姻等により分籍したものは、爵位をはく奪されたのです。

 

この体制は約80年続きます。


日本の上流階級として華族は栄華を築くことになるのです。

 

しかし、これは永遠ではありませんでした。

 

ついに終焉の幕がきって落とされたのです。

 

日本は太平洋戦争に敗戦し、戦後の財政を打破するため、GHQの指導のもと、華族の財産が標的とされました。


1948(昭和23)年に法の下に平等として日本国憲法が制定され、それとともに華族制度は廃止されます。

 

GHQに指示を出していたのは、ダグラス・マッカーサーでした。


マッカーサーはアメリカ陸軍元帥で、戦後は日本占領連合国軍最高司令官となり、民主化政策をとった人物です。

 

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マッカーサー

 

以前、ブログでマッカーサーが宿泊したホテル『ホテルニューグランド』をご紹介しました。


エピソードにも触れていますので、ぜひご覧ください。

 

ホテルニューグランド(歴史ある横浜のシンボル) - 日本のすばらしい建築物

 

1946(昭和21)年、マッカーサーは「マッカーサー・ノート」と呼ばれる三原則を打ち出し、それを日本の新憲法の草案として憲法草案の責任者コートニー・ホイットニー民政局長に示しました。


そして10日ほどで、日本国憲法の草案が作成さます。

 

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コートニー・ホイットニー民政局長

 

いくら日本が敗戦国としてもその国の憲法に介入するなどもってのほかです。


これは国際法違反に当たります。


そのため、あくまでも日本の国会の審議により自主的に改正したように見せかけたものでした。


もし、受け入れなければ天皇の身を保証できないとの脅迫があったとも言われ、日本は受け入れざるを得ませんでした。

 

マッカーサーの三原則は、現在でも特に争点になる憲法9条が大きく影響を受けて出来たものです。

 

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マッカーサー・ノート

 

<マッカーサー・ノート>


1・天皇は国家の元首の地位にある。
 
  皇位は世襲される。
  
  天皇の職務と権限は、憲法に基づいて行使され、憲法の定めるところにより、国民の基本的意思に対して責任を負う。


2・国家の主権としての戦争は廃止される。

 

  日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄する。

 

  日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に信頼する。

 

  日本が陸海空軍を保有することは、将来ともに許可されることがなく、日本軍に交戦権が与えられることもない。


3・日本の封建制度は廃止される。

 

  華族の権利は、皇族を除き、現在生存する一代以上に及ばない。

 

  華族の特権は、今後、国または地方のいかなる政治的権力も包含するものではない。

  予算は英国の制度を手本とする。


2の「自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄する。」ですが、こちらは現実的ではないと民政局次長のチャールズ・ケーディスが削除したとされています。

 

マッカーサーの三原則は、1と3を見る限り、一見矛盾しているように感じます。


天皇は残す、華族は消す。


本当は天皇制も廃止したかったのかもしれません。


しかし、貧しく悲惨な戦争を送ってきた日本国民にとって天皇は唯一のよりどころであったために、天皇をすぐに排除することが、日本人の反感を一気にうけ、占領政策がスムーズに進まないという計算があったと考えるほうが自然でしょう。

 

しかし、貴族院のように天皇を支える後ろ盾は排除したかった。


そのため、三原則という大きな柱に、徹底した華族の廃止を明言したのです。

 

敗戦間際の華族といえば、陸軍予備士官学校に象徴されるように、華族の子弟が軍人として、高度な軍事知識を身に着けるようになり、高い位につくようになります。


また、日清戦争や日露戦争の功績により、大量に「爵」を叙するようになるのです。


その中でも目を引くのが東郷平八郎です。


多くが、男爵や子爵でしたが、ただひとり伯爵を叙爵しています。

 

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東郷平八郎

 

敗戦時を迎えたころには、924家、およろ6000人にまで華族が膨れあがっていたというのですから、日本を統治するにあたり、どれだけ邪魔な存在だったのか容易に想像が付きます。

 

それでは、GHQはどのようにして華族を排除したのでしょうか。

 

マッカーサー・ノートにもありますが、まず華族は現存する一代のみとなり世襲が禁止になりました。

 

しかし、華族という身分を廃止したところで、巨額な財産を維持させておけば、それだけ力が備わっていることになります。

 

そのため、日本国憲法が施行される1年ほど前から、GHQは動き出すのです。

 

その方法は、劇薬と言わざるを得ないものでした。

 

まず、そのきっかけとして、1946(昭和21)年2月金融緊急措置令として、新円切替と預金封鎖が行われました。


それまでの紙幣から新しい紙幣へと切り替える名目で、従来の紙幣を強制的に銀行へ預金させた上で、旧円の市場流通を差し止めます。そして、1世帯1カ月の引き出し額を500円以内に制限させたのです。


表向きは、戦後発生したハイパーインフレへの対策と抑制が目的ですが、実はその後の劇薬をより効果的にする狙いもあったのです。

 

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朝日新聞より戦後のハイパーインフレ:朝日新聞より1946(昭和21)年

 

ついに1946(昭和21)年11月「財産税法」が公布されます。

 

これは、1946年(昭和21)年3月3日午前0時において国内に在住した個人の財産の全額、および国外在住の個人が国内に所有した財産に対して財産税を課すものです。

 

この税率が驚くべきもので、瞬時に華族を没落させるまさに劇薬でした。

 

この法律は、当時の10万円以上の財産を保有する個人に課せられたもので、全国どこにいても、海外にいても免れませんでした。


(※当時の10万円 現在価格5000万円以上)

 

課税価格(当時)と税率

10万円超~11万円以下    25%
11万円超~12万円以下    30%
12万円超~13万円以下    35%
13万円超~15万円以下    40%
15万円超~17万円以下    45%
17万円超~20万円以下    50%
20万円超~30万円以下    55%
30万円超~50万円以下    60%
50万円超~100万円以下   65%
100万円超~150万円以下  70%
300万円超~500万円以下  80%
500万円超~1,500万円以下  85%
1,500万円超          90%

 

1,500万円を超える巨額な華族がどのくらいいたのか不明ですが、全財産の90%を税金として支払え!というのですから驚きです。

 

しかも、逃げられないように法律が施行する以前の3月3日に遡って計算するというのですから、脱税・節税しようにも書類をごまかそうにも手の打ちどころがないのです。


また、面白いのは、50万円以下までは、細かく税率が決められているのに、それ以上になると大変雑な課税価格設定です。


そして、歴史的に見ても初めて天皇も課税対象になりました。


もちろん、この年で一番多く税を納めた人物が天皇になります。


天皇の全財産は自宅以外ほとんど丸裸になり、自宅すら国の所有物となりました。


税金ですが、現金以外でも、物納することが出来たため、屋敷、土地、別邸、絵画、掛け軸などの骨董品類がそのまま物納され、海外に貴重で素晴らしい美術品の数々が流出してしまったのはこのためです。

 

斜陽 他1篇 (岩波文庫)

没落貴族の華族4人が滅びゆく運命を描いていた作品で、太宰治の代表作の1つ。
太宰も、青森県津軽の280町歩大地主の家柄の出身でしたが、戦後改革により多くを失っており、「斜陽」は自分自身のことを書いたとされています。
ただし、作品が書きあがったのが財産税法の施行前のことなので、戦後の混乱と改革は、地方の地主(富裕層)にまで及んでいたことがうかがえます。


実は、敗戦後すぐには、GHQは華族制度について特に言及していませんでした。


そのため、華族の多くは財産も地位もそのままで、特権階級は変わらないとあぐらを組んでいました。


それがマッカーサーにより、まさに寝耳に水の状態、華族に時間は残されていませんでした。


ドラマのように「美しく気高いお嬢様が落ちぶれ路頭に迷い、親を亡くした貧しい青年が華族を恨みながら成長し、会社を成功させ、彼女の前に現れる。」そんな夢物語が、本当にあったのもうなずけます。


実際に、伯爵令嬢が、成金から援助を受けるために、高額な結納金と引き換えに結婚した話もあったようです。

 

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小佐野賢治
幼いころは大変貧しい生活を送っていましたが事業で成功を納め、絶世の美女と言われた伯爵令嬢と結婚しました。しかし、そのやり口は大変なもので、ロッキード事件でも関係者として国会に召喚され、「記憶にございません」と答弁を繰り返したため、当時の流行語となりました。


加賀百万石の跡継ぎであった前田利達の財産税は、課税価格3,502万円 税率86% 税額3013万円。


東洋一の個人邸宅としてしられていた目黒区の1万3千坪や別宅などすべてを失います。

 

しかし、女性はいつの時代もしたたかで、強い。

 

クラブ(バー)を経営し、成功をおさめた華族の女性や、女優として銀幕を飾った女性、鶏やうずらを買って卵を卸したり毛皮が高価なヌートリアを買うことで生活を支えた女性もいました。

 

この劇薬ですが、実は、これを考えた人物が、あろうことか本人も華族の一人で、銀行の神様と言われた渋沢栄一の孫だというのですから大変な驚きです。

 

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第一国立銀行や東京証券取引所などの設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」と言われる人物です。


孫の渋沢敬三は早くから父を亡くしており、その不憫さから祖父・栄一からの寵愛を一心に受けていたと言います。


そして、栄一自ら頭を下げて、民俗学者の夢を持っていた敬三に跡取りとして生きてくれるように頼み込んだのです。


太平洋戦争に突入した直後に、当時の首相であった東条英機に強引に日銀副総裁に任命させられます。


半ば半強制的に政治の世界に入りましたが、戦時中の日銀に課せられた役割は軍の都合のいいように赤字国債を出し続けるだけで、日本国や国民のための金融政策が出来ないことに、苦しみ良心が傷んでいたと言います。


そして、戦後、軍に屈した自分を責め、日本にハイパーインフレを引き起こさせてしまった贖罪として、GHQの財閥解体の命令に対して、これに進んで従いました。

 

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渋沢敬三

 

GHQは渋沢財閥に対し、特別に財産税の対象から外すとしたものの、渋沢は願い出ませんでした。


「ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷に百姓に戻ればいい」(深谷とは祖父の出身地のこと)と語ったそうです。


そして、財産税により、5千坪の渋沢家の豪邸を物納し、敷地内の片隅にあった執事が使用していた小屋に移り住んだのです。


しかし、渋沢はその後、経済団体連合会相談役、国際電信電話(KDD)社長、文化放送会長、日本モンキーセンター初代会長など実業家として昭和を生き抜いています。


そして若き日からの憧れである、民俗学にいそしみ、多くの学者を支援し育てることで日本の学問に大きく功績を残しました。

 

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三 (文春文庫)

この財産税という劇薬で、華族は歴史から抹殺されます。

 

しかし、この波乱万丈な時代の中で、総面積約7000坪という広大な敷地内に100畳の大広間を持つ日本建築(本館)と明治時代の面影を伝える西洋館が残されているのは、なぜでしょうか。

 

柳川藩藩主立華邸「御花」は、1738(元文3)年、柳川藩5代藩主・立花貞俶が城下の一角に自分の住まいとして奥座敷を移したのが始まりです。

 

1872(明治5)年に柳川城が焼失したため、そのまま別邸が本邸となり、叙爵により立花伯爵家となります。

 

ここで少し疑問に持たれる方もいらっしゃるかもしれません。


本来、新明治政府は、全国すべての殿様に新東京に住むように命じており、もちろん全員がそれに従ったはずです。


どうして立花伯爵は、そのまま地元に残ることが出来たのでしょう。


それは、旧家臣と農民たちのために、農業改革に真摯に取り組み、尽くしたいという情熱が明治天皇の心を動かし特例として許可されたといわれています。
(徐々に規制が緩み、地元に帰る許可も出始めた時でもありました)

 

その後、1910(明治43)年に、立花家14代当主・立花寛治が自分の新しい住まいとして建てた洋館が旧立花寛治伯爵邸西洋館です。


西洋館の他にも和館や庭園も同時に造営されました。


明治時代は大型日本家屋と白亜の西洋館を融合させる大邸宅を建設することが流行していた時代だったのです。

 

 この地は、アヤメなどの花畑があったため、江戸時代に「御花畠」と呼ばれ、その後「御花」と呼ばれるようになりました。

 

しかし、戦後は大きな時代の流れに飲み込まれます。

 

先に述べた戦後の華族制度廃止により、立花家も巨額の財産税をかけらることになるのです。


そのため、屋敷を売却しなければならない状況に陥っていました。

 

そこで、16代当主・立花和雄の妻・文子の発案により料亭旅館「御花」として生まれ変わることを決心するのです。


これが生き残りをかけた苦肉の策でした。


伯爵は料亭「御花」社長、お姫様が料亭の女将さんとして二人三脚で始めた料亭です。


人生も経営も波瀾万丈であったに違いありません。


しかし、そのかいもあり、今でも当時のままの姿で保存されているのですから、その決断にあっぱれと言わざるを得ません。


今では、立花伯爵とその家族の居室であったお部屋をそのまま料亭として使用しているのですから、なんとも贅沢な話です。

 

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「なんとかなるわよ お姫さま、そして女将へ立花文子自伝」立花文子著 2004(平成16)年 海鳥社

 

立花邸を建設設計したのは、明治から大正に活躍した建築家・西原吉治郎です。

 

西原はもともと福岡県土木課技師として働いていました。


立花邸の設計計画は1897(明治30)年には発案されていたそうですが、日露戦争のために着手が遅れてしまいます。


そしてついに1906(明治39)年頃に工事が着工するのです。


しかし、西原は建設途中で突然、愛知県営繕課技師に転身してしまいます。


なぜ、愛知に行ったのかですが、単なる移動だったのか、本人の希望であったのか、詳細は不明です。


西原は、愛知に移ってから「岩瀬文庫児童館」などさまざまな洋館を手掛けています。

 

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岩瀬文庫児童館

 

御花はその後、亀田丈吉が引き継ぐ形で手掛けます。


そして1910(明治43)年に竣工します。

 

それでは建物を見ていきましょう。

 

西洋館は迎賓館として建てられた、白亜の洋館で、木造2階建ての建物です。


正面屋根は三角破風のペディメントが採用され、玄関ポーチにはトスカナ式の円柱が用いられた、フレンチ・ルネッサンス様式の建物です。


屋根はストレート葺の一部緑青銅板葺でルネッサンス様式にみられる王冠型の棟飾りがあり、円形の換気用窓(ドーマー窓)が随所に設置されています。

 

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外観:正面

 

車寄せの上に2階部分が大きく張り出した正面の外観は、大変重厚なデザインとなっており、全体の建物サイズと比較すると、硬すぎるぐらいの堂々たるデザインとなっています。


正面屋根には3つの塔飾りが見うけられます。

 

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三角破風(ペディメント)

 

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車寄せ:トスカナ式円柱3本が1セットになっています。

 

上げ下げ窓で、1階はアーチ型、2階は縦長ですが、2階窓にはペディメントを模ったような小さな庇風デザインが装飾してあります。

 

建物の裏側には1本真っ白な煙突があり、煙突上部には紋様が装飾されており大変優雅な印象を受けます。

 

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建物:裏側

 

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煙突紋様のアップ

 

重厚な玄関から室内に入ると、素晴らしいエントランスが私たちを出迎えてくれます。


この建物の最大の見どころは何と言っても室内の美しさにあるのです。

 

エントランスの玄関ホールには、イオニア式の木柱と3連アーチがのお出迎えです。


漆喰で真っ白な壁、木柱と奥に見える木製ドア、木の腰壁、廊下の赤い絨毯のバランスは、重厚かつ気品に溢れるものです。

 

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1階:玄関ホール 三連アーチ

 

すぐ正面左側が応接間となっており、正面扉の奥が食堂になっています。

 

階段の親柱は、たいへん手の込んだ装飾となっており、美しさと豪華さが感じれます。

 

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階段

 

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階段踊り場の親柱


階段を上がった空間も、天井に大変美しい木造細工がほどこされており、白と焦げ茶色のバランスが美しく仕上げられています。

 

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2階:階段を上った廊下の天井

 

2階に上がると、この建物の最大の見どころである大広間があります。


社交ダンスホールとして使われていたであろう大広間は、天井4mもあり、中央部だけ漆喰で華やかな装飾が施されており、周囲は光沢が艶やかな板張りで仕上げられています。


天井の装飾を立体的にしたかのような、可愛らしいシャンデリアが一層華やかさを演出しています。


正面には真っ白な暖炉が設置され、格調高く、落ち着きがある、温かみのある空間が作り上げられています。

 

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2階:大広間

 

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2階:天井

 

大広間と隣の控室には扉があり行き来できるようになっていました。


控室(小部屋)は喫煙室として使われていたようで、ここは車寄せの真上にあたります。

 

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2階:控室

 

2階にはシャンデリアなどの調度品が当時のままに残されていますが、こちらは建設当初から、輸入品の照明や電気器具にしようするため自家発電施設を備えていました。


まさに明治の華やかな雰囲気を感じとることが出来ます。

 

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オルガンや調度品

 

西洋館と和館は長い廊下でつながっています。

 

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西洋館と和館をつなぐ廊下には、西洋兜がぎっしりと装飾されています。


御花には、松が大変美しい庭園『松濤園』があり、豊富な石庭と樹齢200年以上の280本の松を見ることができます。


それを含めて敷地全体が「立花氏庭園」として国指定名勝となっているのです。


時間がゆっくりある際には、屋敷にて素晴らしいお料理に舌鼓を打ちながら、華族の繁栄と没落の寂しさ、御花の見てきた歴史を感じて頂けたと思います。

 

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松濤園