日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

富士屋ホテル(今日に伝わるホテル建築の傑作)

 

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正月、家でこたつに潜り、重い瞼をこすりながらテレビをなんとなくつける。

 

そこには、寒い冬空の中、懸命に走り続ける若者の姿がある。

 

日本人であれば誰もが知っている、あの箱根駅伝の舞台である、箱根温泉街。

 

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箱根

 

箱根は「箱根七湯」の名で江戸時代から知られ、明治以降、車道の完成や馬車鉄道、箱根登山鉄道の開通など、交通網の整備により、東京や横浜から近い避暑地、観光地として発展しました。


そのため、外国人からも人気を得た温泉街です。

 

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箱根温泉街

 

そんな箱根山の中腹、宮ノ下に、神社のような唐破風をのせた玄関。

 

軒下には鳳凰、鷲、孔雀の彫刻がほどこされ、ガラス戸のはまった白壁の外側には朱塗りの欄干。

 

なんとも奇妙な建物があります。

 

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これが、1884(明治17)年より増築しながら建てられて以来およそ130年、国内外の観光客の人気を保ち続けている富士屋ホテルです。


富士屋ホテルの創業者であり、建物の最初の施主は山口仙之助。


山口は1872(明治4)年、20歳でサンフランシスコに渡りました。

 

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山口仙之助

 

しかし、身寄りも頼りもないアメリカでの暮らしは生易しいものではなかったようです。

 

勉学などろくにできず、「皿洗いまでやり、艱難辛苦(かんなんしんく)した」と言う話が子孫に伝わっているほどです。


そして3年間働いて、稼ぎ貯めたお金で7頭の乳牛を買い日本に戻ってきました。

 

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現在のサンフランシスコ

 

実はこの頃、山口はホテルを経営する気など毛頭なかったのです。

 

むしろ、「これからの日本に必要なのは牧畜業」という青年らしい思い込みで牛などを買ってきたわけです。

 

しかし、このもくろみは見事に外れてしまうことになります。

 

明治初頭、いくら開港場(外国貿易のための港)とはいえ牛乳の需要など微々たるものだったのです。

 

それに山口は牧畜業を学んだわけでもなく、指導してくれる人もいませんでした。

 

単純に、儲けられるかもという安易な発想で手を出しただけの牧畜業。

 

そして、たちまち2頭の牛が死んでしまいました。


「牛が死んでいく、牧畜がわからない。」と、途方に暮れていたところへ、駒場勧業寮(東大農学部の前身)が外国産の繁殖用牛を求めていることを聞きつけた山口は、渡りに船と残った牛5頭を即刻売り渡しました。


国の買い上げ価格は1250円だったといいます。

 

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駒場農学校

 

この頃は巡査の初任給が6円、今の世田谷区、新宿区あたりの土地が3.3平方メートル当たり20銭、盛り蕎麦8厘という時代の1250円はかなりの大金です。

 

そもそも、なんとなく勢いで買ってしまただけの外国産の牛が、まさかこんな大金になるとは思ってもみなかった山口ですが「さてこれを元手に何をやろう。」と考えるようになります。

 

勢いだけで何かを買ってしまうというようなことは実際よくあることですが、それで失敗したときにどう動くかが人間の真価だと言われています。

 

山口は牛を買って一度失敗はしたものの、それを見事に大金に換えてしまったわけです。


この頃、山口は慶應義塾大学に入学しており、福沢諭吉から学んでいるのですが、その影響から「外国留学」という分野をとても重要視していたようです。

 

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慶應義塾大学

 

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福沢諭吉

 

そして、考え抜いた末に「箱根に外国人が泊まれるホテルを造る」と決めました。

 

おそらく、アメリカで苦労して皿洗いをしていたホテルのことを思い出したのでしょう。

 

そして1877(明治10)年、箱根宮ノ下の草分けで、500年もの歴史を持つ老舗「藤屋」の敷地、建物、温泉の権利をそっくり買収し、横浜から洋館建築に慣れた大工、職人を引き連れ、資材を運び込んで3階建ての洋館ホテルを造りました。

 

この頃から、富士屋ホテルの設計、施工を担当したのは、河原兵次郎、河原徳次郎でした。


「外国人には何といってもフジヤマだ」と、屋号も「藤屋」から「富士屋」に改名、翌年の1878(明治11)年、富士屋ホテルを開業しました。

 

山口は「外国人の金を取るをもって目的とす」という言葉を残しているほど、外国人観光客に特化したホテルを作り上げようとしていました。

 

この理由は、当時箱根には外国人客のほうが日本人客よりも多かったこと。

 

また山口自身がアメリカに3年も留学していた経験から、外国人に対する対応において、誰にも負けない自信を持っていたことも挙げられます。


が、冒頭でも述べたように、現在の富士屋ホテルは1884(明治17)年から建築されたものです。


しかし、創業は1878(明治11)年。

 

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富士屋ホテル

 

ここに何があったのかというと、実は当初、富士屋ホテルは、この箱根に本格的リゾートホテルとして、1878(明治11年)に開業したのですが、5年後の1886(明治16)年に火災が発生し、建物が全焼したのです。

 

しかし、先の牛の件でもわかる通り、山口は失敗してから立ち直るスピードが常人離れしています。

 

火災で全焼した翌年には、ホテルはすぐに復興、以後次々に建物を増築していったのです。


ちなみに、創業当初から富士屋ホテルの向かいには、老舗旅館「奈良屋」が存在していました。

 

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奈良屋

 

富士屋ホテルと奈良屋はずっと外国人客獲得で競い合っていたのですが、1893(明治26)年から20年間、富士屋は外国人客、奈良屋は日本人客専用とする契約を結び、外国人用ホテルとしての評価を定着させていきました。


富士屋ホテルを建築の視点から触れてみましょう。


「アイリー」という建物が1884(明治17)年に建築されました。

 

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アイリー

 

そして、「ハーミテイジ」が1886(明治19)年。


ちなみに、ハーミテイジはすでに取り壊されているようです。

 

「本館」ですが、実は1891(明治24)年に施工されています。

 

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本館


その後、奈良屋と協定を結んでから、外国人専門のホテルとして経営を行っていたのですが、その後さらに増築を繰り返します。

 

1895(明治28)年、菊華荘(現・別館)

 

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菊華荘

 

1906(明治39)年、西洋館1号館、西洋館2号館を施工しています。

 

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西洋館

 

山口仙之助は1914(大正3)年に引退したのですが、その後の経営は、仙之助の娘婿で、日本リゾートホテルの草分け的存在「日光金谷ホテル」創業者金谷善一郎の次男、山口正造が受け継いでいます。

 

正造もまた、仙之助と同じく、18歳のころ(1900(明治33)年)単身でアメリカに渡り、ホテルのコックなどを経験しています。


仙之助と同じく、外国で苦労した経験を持っています。

 

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山口正造

 

1905(明治38)年に帰国し、翌年に、仙之助の長女「孝子」と結婚し、山口家の婿となりました。

 

仙之助には1人の息子と、3人の娘がいたのですが、長男の脩一郎はもともと病弱であったため、3人の娘すべてに、婿をもらいました。

 

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正造の若かりし頃


写真の左下、赤い丸で囲っている人物(日本人「Mr.Kanaya」と書かれている)が、山口(旧姓・金谷)正造です。


柔術家でもあった正造は脩一郎と違いかなり丈夫な人間だったようです。

 

そして、一応、脩一郎が経営者で、正造は専務という肩書を持っていたのですが、先にも述べた通り、脩一郎が病弱であったため、実質経営を行っていたのは正造でした。

 

もちろん、そこに特に確執などなく、正造は脩一郎を助けるために尽力していたそうです。

 

そして正造は3代目の社長に就任します。


正造の代になっても、さらに富士屋ホテルは増築を繰り返します。

 

1920(大正9)年、カスケードルーム。

 

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カスケードルーム

 

1930(昭和5)年、食堂棟。

 

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食堂棟

 

1936(昭和11)年、花御殿。

 

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花御殿

 

正造の時代の後も増築などがあったのですが、今現在でも、仙之助、正造時代の建築が蓄積しており、非日常の空間を作り出しています。

 

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富士屋ホテルマップ


富士屋ホテルの独特な雰囲気を演出するのは、内外に取り入れられた日本的な意匠です。

 

まずは1891(明治24)年施工の本館から見ていきましょう。

 

入母屋造桟瓦葺きの屋根、正面には仏堂や銭湯の入口のような唐破風がのり、兎毛通に鷹、ドアの上に孔雀の彫り物を付けています。

(兎毛通とは唐破風に設けられる懸魚のことを、特に兎毛通と言います。
懸魚とは屋根の破風に取り付けて、棟木や桁の木口を隠す装飾のことを言います。)

 

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本館外観

 

左右の欄間に唐子を描く彫り物、階段のそばの旧カウンター前面には源頼朝の「富士の巻狩り」を題材とした幅広の彫り物があります。

 

これらは富士屋の名にちなんだモチーフなのでしょう。

 

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富士の巻狩り(彫刻)

 

旧カウンター回りの柱には、梅に尾長鶏、ひょうたん、藤など、日本の花鳥を題材とした彫り物が満載です。

 

本館にはこういった彫り物が多く、美術館を訪れたような錯覚を引き起こします。

 

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尾長鶏

 

西洋館1号館、2号館も、入口に唐破風を付け、両脇に花頭窓を配しています。

 

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西洋館 唐破風


この装飾は、1930(昭和5)年完成の食堂棟ではさらに濃厚になっていきます。


食堂棟の4層の塔屋には龍が巻き付き、妻に七福神が微笑んでいます。

 

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塔屋に巻き付く龍

 

柱上部には神社などに用いる舟肘木、各層には高欄が巡っています。

 

この時代のほとんどすべての「外国人向け」の建築は、いわゆる洋風を取り入れ、和風を排除する傾向が強かったのですが、富士屋ホテルは全く逆の道を行くことになります。


富士屋ホテルの山口仙之助と正造は、あえて「和風」の意匠を存分に取り入れることで、外国人客に対し「日本らしいリゾートホテル」という独自性を打ち出していったのです。


考えてみれば、簡単な話なのですが、あなたが外国に行った際、「和風の旅館」に泊まりたいと思うでしょうか?

 

外国に行ったのなら、その国の独自の文化に触れたいと思わないでしょうか?

 

それと全く同じ感覚を仙之助と正造は持っていたのでしょう。


故に、これらの和風意匠を積極的に取り入れ、外国人客専用のホテルとして定着させていく戦略をとったのです。


さて、これらの和風意匠は一見同じようなものに見えるのですが、実は建物ごとに大きな差があるようです。

 

まず初代仙之助が建てた本館や西洋館は、唐破風が目立つものの、ペンキ塗り・下見板張りの壁や上げ下げ窓は洋風の要素を持っています。


さらに、柱の装飾も西洋のオーダーの1つ、イオニア式の柱頭です。

 

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本館階段

 

内部の漆喰塗りの天井や階段の手摺りも洋風の意匠で、全体的に見れば、洋風建築をベースにして、入口などの目立つ部分にだけ和風装飾を加えたことがわかります。

 

こうした手法はいわゆる当時の「擬洋風」と呼ばれる建築に近いです。


もちろん、仙之助の手掛けた建築も普通の擬洋風建築よりも和風に近い建築なのですが、正造の手掛けた建築はそれをはるかに超えます。

 

正造時代の食堂棟は、柱や長押を強調し、寺社建築の組み物をのせるなど、骨組みそのものを和風化し、建具にも格子など伝統的な意匠を用いています。

 

仙之助時代の建築はいうなれば、「洋風に和風が混在する」という建築だったのですが、正造時代の建築は、「和風を積極的に採用する方向性」という感じです。

 

圧巻なのは、メインダイニングで、高い折上格天井に高山植物を描き、その下を馬や鶏などの彫り物で埋めています。

 

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食堂棟 天井

 

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食堂棟 天井アップ


この和風意匠の到達点が、1936(昭和11)年完成の花御殿です。

 

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花御殿

 

鉄筋コンクリート造なのですが、木の柱や長押を付けて真壁に見せ、軒下の組み物や入口の唐破風は食堂棟と同じです。


ただ、唐破風に乗るのは、獅子ではなく、ライオン、その下の兎毛通はバラに鳩が飛ぶ文様で、梁にもバラのつるが巻き付いています。

 

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花御殿 唐破風アップ

 

伝統的な和風の細部でありながら、洋風の文様を用いるという、これまでとは全く逆の方法をとっているのが特徴的です。

 

この花御殿にはヘレン・ケラーが泊まったり、ジョンレノンが絶賛したというエピソードが残っています。


花御殿を設計したのは、木子幸三郎です。


京都御所の大工の家柄で、宮内省内匠寮の技師を長く務めていました。

 

1909(明治42)年竣工の東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)の造営にも関わり、
正統的な洋風建築に対し、武士や、菊、桜など日本の文化や産物を用いた装飾を導入していきました。

 

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赤坂離宮

 

富士屋ホテルの花御殿は宮内省を退職し、事務所を構えた後の仕事なのですが、伝統的な意匠をただ取り入れるのではなく、「新しい和風」を創造しようとする姿勢が見られました。

 

その到達点として、和風の様式に洋風の文様という、当時のほとんどの建築とは、真逆の発想を作り出しています。


こうしたことから、富士屋ホテルとは、義理の親子ではありますが、親子2代ともにアメリカに渡り、そこで得た経験に基づきながらホテル経営の道を歩んだ一家の最高傑作といえるでしょう。

 

また同時に、近代の国際ホテルにふさわしい「和風」を模索した成果の蓄積で、日本が誇るホテルの最高傑作の1つなのです。

 

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富士屋ホテル全景

 

箱根温泉に行く際は、一度頭の片隅にこのホテルのことを置いてみてはいかがでしょうか?