日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧加賀正太郎別邸(アサヒビール大山崎山荘美術館本館)

近代の洋風住宅というのは、事業で成功した富裕層が施主であることが多いものです。

 

そういった成功者の住宅には、建築家の好みや意向も反映されますが、それ以上に施主の好みや意向が大きく反映されているのが特徴的です。

 

中には、建築家に建物の意匠を任せるのではなく、理想の住宅を自ら追及し、施主本人が設計に取り組んで完成した建築も多く存在しました。

 

今回ご紹介する建築物も、まさにそういった、施主自らが設計に取り組んだ建物です。


大阪府と京都府の境に位置する、京都府大山崎町。


JR京都駅から在来線で15分、山崎駅が見えてきます。

 

山崎駅の目の前にあるのが、かつて羽柴秀吉が明智光秀を討ち破った「山崎の戦い」の舞台、天王山です。

 

その南麓から、木漏れ日が降り注ぐ坂道を登っていくと、「琅玕洞(ろうかんどう)」という国の登録有形文化財に登録された、石造りのトンネルが現れます。

 

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琅玕洞

 

そのトンネルの向こう側に、現在の『アサヒビール大山崎山荘美術館』が見えてきます。

 

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今ではこの山荘は美術館の本館になっていますが、もともとこの建物のオーナーは「加賀正太郎」という人物で、彼が自分自身の別荘として自ら設計したものです。

 

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加賀正太郎


約5,500坪の広大な庭園の中で、安藤忠雄設計の「地中の宝石箱」や「夢の箱」といった打ち放しコンクリートの新館と対比した、素朴ですが奥深さと洗練された趣を感じる英国風カントリーハウスです。

 

それが現在のアサヒビール大山崎山荘美術館本館(旧加賀正太郎邸)というわけです。

 

木の扉を開け、一歩踏み入れば、そこには非日常の世界が広がっています。


両手でも抱えきれない太い柱、姫路城の石垣にも使われた竜山石を用いた壁、燃えるような美しいオレンジの色ガラス窓。

 

階段の踊り場を彩るステンドグラスなどは、オーナー兼設計者である加賀正太郎の美意識を垣間見ることができます。

 

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本館:ステンドグラス

 

しかしなぜ、この山荘は現在アサヒビールのものになっているのでしょうか?


アサヒビールと、加賀正太郎にはどのような関係があったのでしょうか?


そもそも、加賀正太郎とはどんな人物であったのでしょうか?

 

これらのことを調べていくと、そこには熱い人間ドラマがあったことがわかります。


そして、この「加賀正太郎」という人物がいなかったら、今この時代になかったものが2つあるということがわかりました。

 

1つは「ニッカウヰスキー」。


もう1つは「日本の蘭栽培の土台」です。

 

では加賀の生い立ちから話を始めていきましょう。

 

加賀は1888(明治21)年1月17日、大阪市東区今橋の富商加賀商店という、江戸時代から両替商を営む家に生まれました。

 

この商店は、明治に入ると、証券業にも参入していきました。

 

しかし、加賀が12歳の時、父親が他界。

 

その若さにして、実家の家業である両替商を継ぐ形となりました。

 

さらにその後ヨーロッパへ留学し、イギリスの英国王立の植物園である「キュー・ガーデン」で蘭栽培見学を行ったり、アルプスのユングフラウ(標高4158m)に登頂した初めての日本人にもなっています。


以前ブログにて、現存する日本最古の温室として『東山植物園温室』を取り上げています。


その際、キュー・ガーデンにも触れていますので、ぜひご覧ください。

 

東山植物園温室(現存する日本最古の温室) - 日本のすばらしい建築物

 

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キュー・ガーデン

 

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ユングフラウ


そして、日本に戻った加賀は、加賀證券(のちに菱光証券に商号変更し、三菱UFJ証券に合併)を設立し、社長業を務めました。


また証券業だけでなく、多くの会社経営を行い、林業、不動産業、ゴルフ場経営(現:茨城カンツリークラブ)、洋蘭業などで成功も収めています。


加賀は、それらの事業の中でも、特に洋蘭業に没頭しました。

 

これは留学中にキュー・ガーデンで蘭に深い感銘を受けたためと言われています。

 

しかし、彼は26歳の頃、初めて蘭栽培に着手したのですが、蘭の栽培はとても難しく、彼の最初の蘭栽培への挑戦はあえなく失敗しました。


ではこういった生い立ちを持った加賀正太郎という人物の建てた山荘はどのようなものだったのでしょうか?


邸宅の話に戻りましょう。

 

加賀が留学から帰り、加賀證券を設立したころ、大阪は工場から出る煤煙が絶えず、とても健康的と言えるような場所ではありませんでした。


これは1911(明治44)年、第一次世界大戦が勃発する8年前の話です。

 

この頃になると、製造業の近代化が完成し、生活に必要な様々なモノが創り出されていきました。


その代償として、工場付近では大気汚染による被害が続出していました。


こういった時代背景から健康的住宅地を開発しようとする風潮が強かったのです。

 

その中で加賀が自分自身の別荘として選んだ土地は、淀川と天王山が接する風光明媚な地「大山崎」でした。

 

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大山崎の位置

 

1911(明治44)年、加賀はこの大山崎の土地を入手します。

 

そして、最初に木造3階建ての建物が1915(大正4)年に竣工、「白雲楼」と名付けられました。

 

ちなみにこの建物ができる直前に、先に述べたように加賀は「蘭栽培」に失敗しています。

 

しかし蘭栽培を諦めきれなかった彼は、この山荘に本格的な温室を作りました。

 

この山荘は、いわば「蘭栽培」のために建てたと言っても過言ではないほど、彼は憑りつかれたように蘭の栽培に没頭しました。


その後、1917(大正6)年に、現在の大山崎山荘の玄関と広間付近の木造の建物が竣工、「悠々居」と名付けられました。

 

さらにその後、悠々居に改造を施し、1932(昭和7)年になってようやく現在の山荘の姿が完成しました。


これが現在の美術館本館です。

 

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悠々居 外観

 

木造に見えますが、一部鉄筋コンクリート造による部分があります。

 

加賀は20年という歳月を費やしてこの山荘を作り上げました。

 

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 本館:踊り場

 

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本館:展示室(旧居間)

 

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本館:展示室(旧居間)

 

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調度品(オルゴール)

 

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調度品(時計)

 

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 本館:展示室(旧貴賓室)

 

大山崎山荘は、イギリスのチューダー様式やジャコビアン様式などの意匠をまとい、
外観は木組みが壁面に露出する「ハーフティンバー」を採用しています。

 

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チューダー様式例

 

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ジャコビアン様式例

 

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ハーフティンバー様式例


木組みの間の壁面には煉瓦風のスクラッチ・タイルが張られ、他の壁面はスタッコ塗り。


これはイギリスの領主のマナーハウスや貴族のカントリーハウスなどに用いられたスタイルです。

 

マナー・ハウス とは中世ヨーロッパにおける荘園(マナー)において、地主たる荘園領主が建設した邸宅のことです。


マナーの語源はマンションと同じで、どちらも領主などが「滞在する」という意味です。

 

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マナーハウス例


先に述べた通り、加賀は東京高等商業学校(現在の一橋大学)に在学中にイギリスに留学しており、その頃に、こうした建築スタイルに親しんだとみられています。

 

建物2階には、淀川を望む南東側に大きなバルコニー、背後の山と蘭栽培用の温室を望む北西側には小さなベランダが設置され、周囲の大自然とその風景を楽しめるようになっています。

 

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 本館:喫茶室テラス(バルコニー)

 

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本館:外観庭園より


室内は、チューダー様式の手法を基調としながら、随所に近辺で名産の筍の模様や、
中国風の装飾が使われるなど、様々な様式が混在しています。

 

また、木の柱や梁がむき出しとなった粗野な様子や、壁面に使われた京都の泰山製陶所のタイルなどは、日本で大正期から昭和初期に柳宗悦(やなぎむねよし)という人物が主導した技法が取り入れられています。

 

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柳宗悦

 

また、山荘を設計するにあたり、庭も大切な山荘の要素ということを考えていた加賀は、山荘本館の下に、3つの池「琵琶の池」「一の池」「二の池」を配すことで、庭と山荘を山麓に融け込ませました。

 

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 庭園睡蓮池

 

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本館:睡蓮池

 

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 本館:温室通路

 

この池の工事中には、夏目漱石も見学に訪れるほどでした。

 

この住宅の意匠は、外観から室内に至るまですべて加賀が自ら指示し、実設計や構造設計については、「大林組」の設計部が担当しました。


室内装飾については、大阪清水製作所の角丸久雄が担当。


様々な様式や、民芸調が混在し、とてつもなく折衷的ではありますが、それらには全く違和感がありません。

 

また破綻もなくまとめられた意匠には、加賀の趣味や教養の高さを読み取ることができます。


さて、加賀がこの山荘を建築した理由は2つあります。

 

1つは、「蘭の栽培に没頭するため」、もう1つは「悠々居」という名前から連想できますが、「悠々自適にのんびりするための別荘として」です。

 

当初は蘭栽培のために週末だけ訪れていた加賀ですが、増築してからは、常時居住するようになったそうです。


幼いころから家業を引っ張り、様々な事業で成功をおさめ続けた彼は俗世界の喧騒に少し疲れていたのでしょうか。

 

この頃から、自身の事業云々よりも、他人の事業を支えたり、蘭栽培といった趣味によりいっそう没頭していくようになりました。


あなたは「マッサン」という名前に聞き覚えがないでしょうか?

 

そう、以前に朝の連続テレビ小説で有名になった、「ニッカウヰスキー」の生みの親、「竹鶴正孝」という人物の愛称です。

 

このドラマではマッサン役を玉山鉄二、エリー(本名・リタ)役をシャーロット・ケイト・フォックスが演じています。

 

朝ドラ史上初めて、外国人女性がヒロイン役になり、さらに、現在の二大酒販会社「アサヒビール」と「サントリー」が深く関わっていたことで、当時話題を呼んでいたのを覚えています。

 

この「マッサン」こと、竹鶴正孝という人物がこの山荘、そして加賀にどう関わってくるのかを調べることで、ようやく、「現在なぜこの山荘がアサヒビールのものとなっているのか」、「どうニッカウヰスキーに影響を与えたのか」ということがわかってきます。

 

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竹鶴正孝とリタ夫人

 

竹鶴正孝は広島県の蔵元、「竹鶴酒造」に生まれ、青年期には単身でスコットランドに留学。


そこで、彼の人生を大きく変えることになる2つの出来事が起こりました。

 

1つ目は「スコッチウイスキー」との出会い。


この留学で、スコッチウイスキーに出会い、その後本場のスコッチに負けない国産ウイスキーを作ることに人生を賭けることになります。

 

そしてもう1つが、リタとの出会い。


当時ではとても珍しい、国際結婚を果たすことになります。

 

さて、竹鶴がスコットランドから帰国した際、竹鶴の妻のリタのこともあり、帝塚山にアメリカ風で様式トイレが備わる洋風高級賃貸物件を借りて住んでいました。(NHKのドラマとは少し異なります)

 

しかし、生活自体はかなり困窮していたようです。

 

その時の家の大家である「芝川又四郎」という人物の須磨にあった別荘が、偶然にも加賀正太郎の須磨の別荘の隣にあったことで知り合っており、芝川は、同じヨーロッパに渡航歴のある竹鶴正孝を加賀に紹介しました。


1924(大正13)年から、竹鶴は寿屋(現在のサントリー)の鳥井信治郎社長から頼まれ、山崎に国産ウイスキーの蒸留工場を作り、その初代工場長に就任しました。

 

これが現在のサントリー所有、日本のウイスキー史上、世界で最も多くの賞を受賞し続け、国産ウイスキーを造り出している「山崎蒸留所」です。

 

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現在のサントリー山崎蒸留所

 

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響:サントリーHPより

 

この頃から、工場のすぐ近くに住んでいた竹鶴は近くにあった「大山崎山荘」の加賀と親交を深めるようになりました。


加賀が最初にこの土地に別荘を持つことを決めたのも、鳥井社長と竹鶴がこの土地でウイスキーの蒸留をすることを決めたのも、大山崎、山崎が持つ、大自然と水に惹かれたからだと言われています。

 

山崎蒸留所のウイスキーに使われているこの土地の水は、日本の名水100選にも選ばれており、東の白州(山梨県)と並び、サントリーの2大蒸留所になくてはならない水なのです。(サントリーの蒸留所は3か所ですが、その中の「知多蒸留所(愛知県)」でできたウイスキーが全国的に、メジャーに売られ始めたのはたった2年ほど前のことです)

 

そのような大自然に囲まれた大山崎の地で、竹鶴の妻・リタは、加賀の妻である加賀千代子に出会い、英語を教えていたようです。


この2組の夫婦はとても仲が良かったと言い伝えられています。

 

また加賀と竹鶴も年齢は6歳しか離れておらず、加賀にとって竹鶴は弟のような存在だったのではないでしょうか。


ずっと竹鶴を陰で支え続けていたようです。

 

山荘のバルコニーでスコッチ片手に、大山崎の大自然を見下ろしながら、夜通し2人で語り合っている姿が目に浮かびます。

 

やがて、本物のウイスキー製造にこだわりたい竹鶴が、鳥井の下を離れ、北海道の余市に工場を作る計画を知った加賀は、資金面においてその工場の出資金の70%もの額を負担し、筆頭株主となりました。

 

そして「大日本果汁株式会社」が設立されました。

 

これがのちの「ニッカウヰスキー株式会社」です。


ちなみにニッカの社内で加賀は「ご主人様」と呼ばれていました。

 

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大日本果汁株式会社

 

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現在のニッカウヰスキー

 

さて、次に加賀が人生で最も没頭した洋蘭の栽培についてです。

 

一度26歳のころに蘭栽培に失敗し、本格的な温室を作り出した加賀は、洋蘭の神様と言われた「後藤兼吉」を大山崎山荘に招き、さらに洋蘭の研究に明け暮れていきました。

 

もちろんこの頃も証券事業や、その他の事業の社長を行い、ニッカウヰスキーの株主もしながらです。

 

そして、長年の研究努力の末に、洋蘭の栽培だけでなく、人工交配によって1140種もの新種の蘭を生み出しました。

 

その中でも、優良種だけを104枚の植物画にまとめた『蘭花譜』という蘭専門の植物図鑑のようなものを自費出版するほどでした。


『蘭花譜』の内容は、84枚が浮世絵の技法を受け継ぐ木版画で、20枚が油絵の印刷と、白黒写真で構成されています。

 

300部のみの刊行で、100部は海外の大学や植物園に寄贈、200部は国内の研究者やコレクターに販売しました。

 

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蘭花譜

この『蘭花譜』と、それまでの研究結果が蘭栽培の業界に与えた影響は、「蘭栽培」を語るなら、加賀のことなくしては語れないほどの莫大な貢献で、現在彼は、蘭栽培業界で世界的に超有名人になっています。


また、ゴルフの腕前も一流で、茨城カンツリークラブのコースチェアマンとして活躍したり、ユングフラウの日本人初登頂記録などの実績から、日本山岳会名誉会員にもなっています。

 

こういった功績から、加賀はとてもマルチな才能を持っており、しかも1つ1つのことに細やかに取り組む人物であったことがわかります。

 

この性格と才覚によって、彼がこだわり続けて造った、この山荘の見事な出来を生み出したのだろうと感じます。


しかし晩年は病を患います。

 

また太平洋戦争の影響から事業が衰退していきました。

 

そのような経緯から、知己であった山本為三郎という人物にニッカウヰスキーの株のほとんどすべてを譲り渡し、1954(昭和29)年8月8日にこの世を去りました。

 

喉頭がんで、享年66歳でした。

 

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山本為三郎

 

さて、ではこの山本為三郎という人物は一体どんな人物であったのでしょうか?


実は、この山本為三郎という人物こそが、朝日麦酒(現・アサヒビール株式会社)の初代社長です。

 

1893(明治26)年に生まれ、1917(大正6)年に日本製壜(にほんせいびん)を創立。

 

合併を経て1933(昭和8)年に大日本麦酒、常務に就任。

 

戦後、GHQの企業分割指令により、新発足した朝日麦酒の初代社長に就任。

 

山本は泰山製陶所の柳宗悦が提唱した、日々の雑器の中に美を見出す「民藝運動」への支援を篤く行っていました。

 

そんな折に、加賀と出会い、理解を深めていきました。

 

また、歳も近く、加賀は竹鶴とも親交していたこともあり、「お酒」を通じて話が合ったのだろうと言われています。

 

加賀も柳宗悦の影響を受け、大山崎山荘の内装のいたるところに素朴だが、美が存在する建築を作り出しました。

 

この2人の関係があったからこそ、ニッカウヰスキー株式会社が製造するウイスキーは現在も、「アサヒビール」の人気商品として売れ続けています。

 

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ニッカのウイスキー

 

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こういった背景から、まず、加賀正太郎という人物が存在しなければ、ニッカウヰスキー株式会社が存在することはなく、国産ウイスキー業界がここまで成長することはありませんでした。

 

また、アサヒビール株式会社も、ニッカウヰスキーがあったからこそ、ビールとウイスキーという2本の大きな柱を持ち、成長し、日本最大の種類販売会社となったのです。

 

このことを考えると、この2つの会社に加賀が与えた影響は甚大なもので、現在の私たちの生活や文化レベルにも多大な影響を与えている人物であることがわかります。

 

このように、加賀は証券業、不動産業、林業、ゴルフ場経営、洋蘭業、そしてニッカウヰスキーの筆頭株主など、様々な分野において極めて卓越した人物でした。

 

そして、その感性を最大に研ぎ澄ませたのはヨーロッパへの留学であり、この感性と知性、知識、教養の高さから創り出されたこの時代の折衷建築の結晶ともいえるのが、今回紹介している『旧加賀正太郎別邸(現在のアサヒビール大山崎山荘美術館本館)』なのです。

 

1954(昭和29)年に加賀が他界し、夫人が67年に亡くなると、ついにこの山荘は加賀家の手を離れることになりました。

 

その後、何度かこの山荘は転売され、老朽化が進んだこともあり、1989(平成元)年にはこの山荘を取り壊し、大型マンションを建設する計画も浮上していたのですが、地元有志の方を中心に保存運動が展開されました。

 

その運動の中で、京都府や大山崎町から要請を請けたのがアサヒビール株式会社です。

 

その後、アサヒビール株式会社は行政と連携を取りながら、山荘を復元し、美術館として公開することになりました。

 

旧加賀正太郎別邸(アサヒビール大山崎山荘美術館本館)とは・・・


教養、趣向、芸術性、経営能力、人間性、努力の全ての点において飛びぬけた才覚を持った一人の天才によって造られた、自然と歴史が織りなす風光明媚な土地に建つ、貴重な近代建築と当時の最先端を取り入れた芸術の遺産です。

 

その近代建築、芸術遺産、そして国際的に活躍する建築家・安藤忠雄が手掛けた現代建築の3つが融合し、1996(平成8)年に開館したのが、現在の、アサヒビール大山崎山荘美術館です。


2004(平成16)年には、大山崎山荘の6つの建築物、「霽景楼 せいけいろう (現・本館)」「彩月庵 さいげつあん (茶室)」「橡の木茶屋 とちのきちゃや」「栖霞楼 せいかろう (物見塔)(旧・白雲楼)」「旧車庫(現・レストハウス)」「琅玕洞 ろうかんどう (庭園入口トンネル)」がそれぞれ国の有形文化財として登録されました。

 

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霽景楼(本館別名)

 

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旧車庫(レストハウス)

 

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琅玕洞(庭園入口トンネル)

 

2005(平成17)年には、来館者が早くも100万人を超えています。

 

会館時間は10時~17時で、月曜休(月曜が祝日の場合、翌日休)、年末年始、臨時休ありとなっています。

 

入館料は一般700円、高・大学生500円、小・中学生は無料と家族連れにとても嬉しい価格帯となっています。

 

あなたも次の休みに家族を連れて、日本の近代を支えた一人の天才が技術と知識を結集して造り上げた洋館に足を運んでみてはどうでしょうか?

 

また、団体等の割引もあるので、団体での観光にもおススメです。

 

お土産として、加賀正太郎が残した『蘭花譜』の中にある版画を印刷した絵葉書が購入できます。(6セット300円、8枚セット400円)

 

誰かに葉書を出す際は、加賀正太郎というマルチな天才の残したきれいな蘭の絵葉書で、ワンステップ上の自分を表現してみてはいかがでしょうか?

(この絵葉書は大山崎町歴史資料館でも購入できます。)