神戸の観光スポットで最も有名な場所の1つ、異人館。
その中に、異人館にしては珍しく赤煉瓦造りの重厚な外観の館があります。
港を見下ろす高台に建ち、三角の尖塔、段々に連なる寄棟屋根にそれぞれ長さの違う煙突を配しています。
崇高な魅力をたたえている神戸異人館のシンボル的な洋館。
尖塔の屋根には、その館のトレードマークともいうべき、「風見鶏」が遠くまでよく目立ちます。
シンボルでもある、この風見鶏の塔屋は、煉瓦壁の層とハーフティンバー層の対比が美しい建物です。
それが、旧トーマス邸、通称「風見鶏の館」です。
風見鶏
異人館に訪れたことがある人なら、ほとんどの人が知っているほど、有名なこの館。
実は、NHK朝の連続テレビドラマ小説「風見鶏」(昭和52~53年)によって、
この館は神戸の洋館の代名詞となりました。
NHKより 風見鶏の1シーン
しかし、この館の外見や間取りを見ていくと、実は、神戸の洋館としては、かなり例外的な存在であることがわかります。
また面白いことに、ドラマの中には、この洋館のオーナーであるトーマスがモデルと思われる人物が登場するのですが、実際には、ドラマ設定の時代と、トーマスが日本にいた時代は異なっているため、実在したトーマスとはかけ離れた存在であることがわかります。
そして、現実はもっと残酷であったことがわかってきました。
トーマスのフルネームは、ゴットフリート・トーマス。
1871(明治3)年、ドイツに生まれ、若くして貿易商として活躍し、日本に来日しました。
ゴットフリート・トーマス
トーマスは元々、横浜に拠点を置いて貿易商をしていました。
自邸を建設するにあたり、東京に事務所を置いていた、ゲオルグ・デ・ラランデに設計を依頼します。
その自邸こそが、この場所(神戸)に存在する「風見鶏の館」というわけです。
つまり、その頃から、すでに横浜ではなく、神戸へ貿易商としての拠点を移すことを決めていたようです。
ゲオルグ・デ・ラランデ
ゲオルグ・デ・ラランデもドイツのヒルシュベルクという場所で生まれ、トーマスと同時期に日本にやってきています。
2人は当時、横浜と東京という、ほど近い場所にいたため軽く親交があったのでしょうか。
ラランデは、ベルリン工科大学を卒業後、一旦、中国に渡って建築活動を行った後に、日本へやってきました。
ベルリン工科大学
ちょうどその頃、ドイツ人建築家リヒャルド・ゼールという人物が帰国を控えていたため、彼の建築事務所を引き継ぐ形で日本での仕事を開始しました。
これが1903(明治36)年のことでした。
そして、1904(明治37)年には、トーマスから自邸の設計を依頼され、神戸で設計を行いました。
風見鶏の館が完成したのは、それから5年後の、1909(明治42)年のことでした。
他にも彼が手掛けた設計は、神戸のオリエンタルホテルや、三井銀行大阪支店などがあり、またソウルの朝鮮総督府庁舎などもあります。(どれも残念なことに、解体されたり現存していません。)
こういったことから、東京の事務所にはほとんどいなかったのではないかということが近年わかってきています。
オリエンタルホテル
朝鮮総督府庁舎
さて、トーマスは1909(明治42)年に、この館が完成したと同時に、貿易商としての拠点を神戸に移しました。
彼は日本に来日した時、すでに結婚しており、その後、日本で一人娘のエルゼが生まれています。
トーマス一家 家族写真
そして、1914(大正3)年、エルゼがドイツの上級学校に進学するため、一時的に一家でドイツに帰国したのですが、そこで悲劇に見舞われます。
同年、ドイツへの帰国中に、日独戦争(第一次世界大戦)が勃発するのです。
そして、トーマスはドイツで徴兵されてしまいます。
戦争中、死ぬことはなかったものの、日本と敵対関係になってしまった国の人間であったこともあり、その後、二度と日本の地を踏むことはなかったそうです。
つまり、彼が風見鶏の館に住んだのは、1909年~1914年というたった5年の間だけでした。
その後、館は敵性資産として日本に没収されたとありますが、登記上では、戦争中に売買した形にされており、もはやトーマスのものではなくなっていました。
風見鶏の館
このことから、実は、風見鶏の館が、こういった残酷な背景からできた観光スポットであるということがわかります。
それでは、この風見鶏の館を建築の視点からみていきましょう。
明治末期から、大正期にかけて建設された洋風住宅は、基本的に木造で、一階南側に吹き放ちのベランダ、中央ホールとその左右に諸室を配するというのが一般的でした。
しかし、この風見鶏の館は形式がかなり異なっています。
まず、第一に、煉瓦造りである点です。
この時代の洋風建築というのは、いわゆる「擬洋風」が多く、日本人の施主が多かったため、木造建築であることが主流でした。
しかし、この館は、施主も設計者もドイツ人であったため、煉瓦造りになったのだろうと言われています。
この館は半地下を持っており、この部分の外壁は野面石(のづらいし)積み、そして上を赤煉瓦のイギリス積み、窓台とまぐさ(窓・戸口の上部の横木)の白っぽい御影石がアクセントになっています。
野面石積みと階段
全体的には、このように煉瓦造り特有の重厚さを感じさせるのですが、1・2階それぞれの南西隅に置かれたベランダの外壁は、3連アーチの窓を持つ木製壁で覆われ、逆に軽やかな印象でもあります。
エンタシスのある石柱の立つポーチから、玄関を経てホールに入ると、ここを中心に応接間、居間、寝室、書斎が配されています。
1階:一階ホール
1階:応接間
1階:居間
1階:書斎
居間の南東隅では、床の高さ(レベル)をわざと上げ、さらに天井を低くして、こぢんまりとした空間を演出しています。
1階:居間 南東隅
逆に、居間からも食堂からも入ることができる南西側のベランダは窓が大きく開放的な印象となっています。
厨房などの付属機能に関しては、地階に置かれており、1階は外交的なハレの場として特化され、それだけに凝った意匠が見られます。
応接間は柔らかく優しい印象で、食堂は剛健、居間はその中間といった、部屋ごとに異なる印象や雰囲気が、天井や家具の意匠によって生み出されています。
1階:食堂
外交的な意匠に特化した一階とは逆に、2階はホールを中心として、朝食の間、子供部屋、寝室、客用寝室などが配されており、家族の日常空間としての場であったということがわかります。
2階に関しては、室内意匠も簡素で、日常生活が落ち着くような雰囲気です。
2階:子供部屋
ところで、外から見ると一番目につくのが、風見鶏を頂くゴシック風尖塔です。
ここにも、窓がついていて、部屋があることがうかがえるのですが、階段が見当たらないのです。
実はこの館は、地階から屋根裏までが食堂裏側に位置する裏階段で結ばれています。
裏階段からいったん屋根裏を経て、やっと風見鶏の部屋にたどり着くように設計してあります。
なぜこのような造りにしたのか、設計者もオーナーもいなくなってしまった今では、真相がわかりません。
裏階段
そして、残念ながら、この場所には一般人が入ることは出来ません。
さて、この建築には、ユーゲント・シュティールという様式がふんだんに使われています。
本邸では、ポーチ型の石柱飾りや、アーチ窓の格子、ベランダ外壁の木製の柱、書斎の間仕切りの柱やパネル絵、シャンデリアやドアノブの金属細工にこの特徴が見られます。
この様式は、言ってみればアール・ヌーヴォーのドイツ版と言われています。
1階:書斎 パネル絵
繊細なアイアンワークのシャンデリア
そしてこの、ドイツ圏の世紀末様式であったこのユーゲント・シュティールを日本にもたらすのに大きな役割を果たしたのが、ゲオルグ・デ・ラランデと、チェコ人建築家のヤン・レツルであると言われています。
このヤン・レツルという人物は、ラランデの設計事務所の元所員でした。
そしてこの人物は世界的にとても有名な日本の建築物を作った人物です。
ヤン・レツル
といっても、その建築物が有名になったのは、悲しみの象徴という理由からでした・・・・・・
彼が設計した建築物の名は、正式名称を「広島県物産陳列館」です。
後の、「原爆ドーム」です。
原爆ドーム
とはいえ、この2人は、日本に新たな建築様式をもたらした人物であったことがわかります。
さて、ゴットフリート・トーマスは1950(昭和25)年にドイツで亡くなるまで、日本の地を二度と踏むことはありませんでした。
ゲオルグ・デ・ラランデは神戸や大阪で精力的に仕事をしたのち、ソウルへ向かい、仕事を始めたのですが、1914(大正3)年にソウルで肺炎に倒れ、42歳でこの世を去りました。
第一次世界大戦の勃発と同じ年でした。
このように、風見鶏の館は、2人のドイツ人が造り上げ、日本に新たな様式をもたらした館なのですが、先に述べた通り、大戦中に国によって取り上げられてしまった館です。
ドイツに帰国し、二度と自宅へ戻れなくなってしまったトーマスの心境はどのようなものだったのでしょうか。
それは想像もつきませんが、少なくとも、彼がいなければ、神戸の異人館はここまで有名になることもなかったのではないでしょうか。
そういったことから、トーマスは日本の経済に大きな影響を与えた人物の一人だということが、この建築を深く調べていくにつれてわかってきました。
異人館地区の風景
神戸異人館に行くと、最も目立つこの館、訪れたことがある方も、訪れたことがない方も、次回訪れる際は、トーマスとその家族、ラランデの残した意匠を感じてみてはいかがでしょうか。