本州最南端である、紀伊半島の南端に位置する和歌山県新宮市に、アメリカの近代住宅を模範としながらも、地元民家の伝統も取り入れた住宅があります。
西村伊作という人物が住んでいた建物です。
彼自身、生涯を通じて100棟あまりを設計した、建築家です。
ですから、この邸宅は施主、建築ともに、西村伊作自身によるものです。
西村伊作
この住宅は、西村が自ら理想とする生活を実現するために設計された家だと言われています。
今では、この住宅は西村伊作の記念館として、伊作自筆の住宅設計図や油絵、自作の陶器、家具や愛用品のほか、様々な資料などを多数展示し、伊作の生涯と思想を紹介しています。
自作の椅子
一見すると、普通の民家に少しアメリカの近代住宅の意匠を取り入れただけで、質素にも見えるこの住宅ですが、内外部に目を凝らしてみると、とても「実用的」で、建築家の「落ち着き」を伺えます。
特に内部空間は、明るく落ち着いており、ここに建築家の理想が宿っているとも思えてくるのです。
紀伊半島はかなり山深く、新宮市にたどり着くまでは延々と海岸伝いに行きます。
新宮は熊野三山の一つ、熊野速玉(くまのはやたま)大社の鎮座する熊野詣での地であり、熊野川河口に位置したことで、紀伊山地の山々から切り出した木材の集散地としても栄えました。
熊野速玉大社
このように伝え聞くと、どうしても閑散とした、ひなびた感じを想像してしまいますが、街には、ひなびた感はなく、活気と明るさが漂っています。
新宮市お灯まつり
黒潮の潮風が漂うこの街で、西村伊作という人物は生まれ育ち、自ら理想とする生活を実現すべく自邸を建てました。
西村伊作は1884(明治17)年9月6日、豪商の父・大石余平、母・ふゆのあいだに長男として誕生しました。
さらに伊作には弟に大石眞子(次男)、大石七分(三男)がいます。
少し風変りなこの三兄弟の名前は、敬虔なクリスチャンであった父親が、聖書に登場するイサク(伊作)、マルコ(眞子)、スティーブン(七分)にちなんで名付けたそうです。
伊作自身は生涯無宗教であったそうです。
母方の西村家は、奈良県下北山村一帯の山林王で本家に跡継ぎが途絶えたため、祖母「もん」によって1887(明治20)年に4歳の伊作が西村家の当主に、父親の余平がその後見人に指名されました。
下北山村
余平一家は下北山村の西村家で暮らし始めましたが、クリスチャンである余平の西洋かぶれの暮らしなどから祖母と全く合わず、後見人を取り消されたため、再び新宮に戻っていきました。
父親は新宮教会を作って布教活動を行い、子供たちのために幼稚園も創設し、暮らしの洋風化も精力的に推し進めました。
1889(明治22)年に新宮が洪水に見舞われ、教会も幼稚園も被害を受けたため、一家は愛知県熱田町に拠点を移しました。
このように、伊作は幼いころから各地を転々としていたようです。
西村家は熱田神宮近くに「キリスト教講義所」の看板を掲げて伝道活動を続けながら、亜炭採掘を生業としていました。
熱田神宮
伊作は、当時ではかなり珍しく、洋服姿で尋常小学校へ通わされ、目立つ格好からよく苛められていたそうです。
その後、一家は名古屋市に引っ越し、伊作も転校しました。
1891(明治24)年10月28日早朝、南武平町に新設されたばかりの名古屋英和学校(現・名古屋学院)のチャペルに家族で礼拝に訪れていた際、濃尾地震が発生し、両親が崩れた教会の煉瓦の煙突の下敷きになって即死しました。
当時7歳の伊作は重傷を負うも、生還しましたが、若干7歳にして、両親を亡くしてしまうという悲劇に見舞われることになってしまいます。
この地震で、村の犠牲者は伊作の両親二人だけだったそうです。
名古屋学院
伊作たち三兄弟は祖母の、もんに引き取られ、もんを親権者に伊作は西村家の戸主となり、莫大な財産を相続しました。
その後、1895(明治28)年ごろ、父の弟で、伊作の叔父に当たる大石誠之助がアメリカから帰国し、新宮で医院を開業したのを機に、叔父の元に身を寄せ、新宮町高等小学校へ通うようになりました。
この叔父の影響もあり、アメリカへの憧れや理解が強くなっていったようです。
1898(明治31)年、伊作は広島市の明道中学に入学しました。
広島には父の妹・井出睦世が牧師の夫ともに住んでいたので、そこから中学に通っていました。
幼いころに両親を亡くした影響からか、西村伊作は戦争に対して強い反抗心を持っていました。
そういったことから、積極的に日露戦争に対して非戦論を唱え、社会主義思想を持ち、ビラ配りをしていました。
日露戦争
1903(明治36)年に中学を卒業したあとは、実家に戻り、家業である山林管理と材木商を完全に継ぎました。
ちなみに伊作の外見は、少年のころから洋風で端正な出で立ちだったため、よく「異人さんのよう」と言われていたようです。
現在でいうところの「イケメン」ということです。
また、芸術が好きで、青年期からは独学で絵を描き、陶器を作ったりしていました。
アメリカ留学から帰国した医師である叔父・大石誠之助と本格的に生活の欧米化を推進していました。
大石誠之助の影響を受けて社会主義思想に共鳴し、幸徳秋水や堺利彦ら平民社に拠る社会主義者と交流もあったようです。
幸徳秋水
このように、幼いころから西洋の文化が身近にあり、叔父や洋雑誌などからアメリカの生活スタイルを学んでいった伊作は「実用的でありながらデザインされた建築、家具、衣服、食器に囲まれた『美しい生活』」を営むことを目指しました。
というのも、当時は大正デモクラシー真っ只中。
人々は伝統的社会の古い習慣や考え方から脱し、自由な生活を望んでいましたが、それを具現化する住まい像は未だに模索中でした。
それまでの伝統的な造りの家では、床の間を備えた接客座敷が中心で、日常的な生活空間が貧弱でした。
さらに言えば、その生活空間も家長を頂点とした封建的な使い方が基軸となっていました。
しかし、西村は、アメリカ近代住宅の影響から、「家族が団らんし、子どもと絵を描いたり、遊んだりして想像力を伸ばすことのできる家」を理想としたのです。
現代社会にも通じる考え方を持っていたようでした。
そして、欧米で主流であった、居間と食堂が大きな役割を果たすことを重視していくようになります。
今でいうところの「リビングダイニング」に当たります。
西村は、まず1906(明治39)年には新宮に自邸としてバンガローを建築しました。
これが彼の初めての建築です。
(※下記のバンガローは西村記念館ではありません。)
バンガロー参考図
バンガローとは、ヒンディー語の「住宅」が語源で、インド木造住宅がもとになった、アメリカで一般化した木造住宅のことです。
部屋数が数室程度の平屋建てで、ベランダのついた開放的な造りが特徴です。
バンガローは、当時アメリカで流行した建築で、西村の建てたこの住宅は日本では最初の例となっています。
そして1914(大正3)年には、さらに新しく自邸を設計して建築しました。
これが今に残る、『西村記念館』です。
外観
新宮駅のほど近くに建つ西村記念館界隈は、洋館の並ぶお屋敷街らしい景観です。
西村邸の筋向いにあるチャップマン邸も西村が設計したものですが、それに比べると、
西村邸はどちらかというと簡素な外観となっています。
白壁に切妻屋根で和風ではありませんが、かといって「洋館」と呼ぶほど異国めいてはいません。
とはいっても、外観的には赤く塗られた破風の幕板が印象的です。
1階ドアの前に半円形の基壇がありますが、実は以前は二階バルコニーには半円ポーチがその基壇に沿って張り出されていて対比が美しかったそうです。
そしてこの邸宅の「間取り」や「内部意匠」は見事な洋風建築そのものです。
正面中央の玄関を入ると、玄関ホールが背面まで続き、右手に食堂とパーラー(居間・接客間)が配置され、両部屋は折り畳み式のガラスドアで仕切られています。
1階:間取り図
1階:折り畳み式ガラスドア
居間は、直線を活かしたモダンな空間です。
椅子やテーブルも西村伊作のデザインであり、イングルナック(暖炉コーナー)もあります。
1階:居間
左手にはサービス部分でもある台所や家事室があります。
玄関ホールから階段を上がると、2階には多くの家族のため、洋室、和室の寝室が個別に設けられています。
2階
2階:和室
全体的に木柄が細く、装飾はできるだけ排除し、木部と壁の対比が鮮やかです。
また、外観の軒先からおろした赤く塗られた壁板は、和歌山県山間部の民家で「ガンギ」と呼ばれる幕板を模したものです。
外観:軒下の雁木(ガンギ)
単なる洋風化した住まいの実践だけでなく、アメリカ近代住宅の影響を受けつつも、伝統的な民家のデザインも取り入れている西村の懐の深さが伝わってきます。
西村はその後、娘の教育のため東京の駿河台に、与謝野晶子ら文化人に声をかけ、文化学院を設立しました。
これが1921(大正10)年のことでした。
この学院は「国の教育方針」に縛られない自由な教育を是とした教育方針でした。
与謝野晶子:歌人で思想家 雑誌「明星」に短歌を発表し、ロマン主義文学の中心人物でした。「みだれ髪」「君死にたまふことなかれ」が有名です。
文化学院
大正時代に見られた、日露戦争と太平洋戦争の狭間で起こった民権回復運動である「自由主義的」「民主主義的」な動きである大正デモクラシーの影響もかなり大きかったのではないでしょうか。
明治時代の富国強兵を経て、庶民の間には国家主義、資本主義一辺倒への懐疑が生まれ、人間性の回復が模索されました。
建築においても、西欧のバウハウスや表現主義の影響を受けつつも、自由なデザイン表現、伝統に縛られない生活空間が模索されていたのです。
大正デモクラシー
バウハウス例
そんな時代であったこと、そして幼いころからクリスチャンである両親や、アメリカ留学をしていた叔父の影響などから、西村伊作の芸術的感性、建築家としての表現力は
「伝統に縛られず、伝統も継承する」という形になったのではないでしょうか。
国の重要文化財に指定されていますが、一般開放もされており、入館料はたったの100円です。
紀伊半島のほうに訪れた際には、ぜひ足をお運び下さい。