日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

明治古都館(旧帝国京都博物館本館)

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京都府京都市の東山七条に本格的な西洋風古典主義の壮大な建築物があります。

 

それが、『明治古都館(旧帝国京都博物館本館)』です。 

 

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東山七条


明治期も半ばになると、日本では国立の博物館や美術館の設置が国家的な課題となりました。


1889(明治22)年には、東京上野にあった宮内省所管の博物館が帝国博物館に改称されています。


これが現・東京国立博物館ですが、合わせて東京以前の都であった京都・奈良にも帝国博物館が設置されることになりました。

 

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東京国立博物館


旧帝国奈良博物館の完成に遅れること1年、『明治古都館(旧帝国京都博物館本館)』は1895(明治28)年に竣工しています。

 

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旧帝国奈良博物館本館:2010(平成22)年に「なら仏像館」と名称変更されました。


1895(明治28)年と言えば、日清戦争が1894(明治27)年に勃発し日本国中が戦争期に入っていました。 


しかし、京都では平安遷都千百年紀年祭が挙行され、平安神宮が建立された年です。

 

そして同時に第4回内国勧業博覧会が開催された年でもあります。

 

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内国博当時の三条大橋


そのため、博物館は紀年祭と内国博が開催される1895(明治28)年に合わせて開館する予定でしたが、工事が遅れたために、1897(明治30)年になってようやく開館しました。


補足として、毎年正月三が日に多くの人が訪れる平安神宮は、実は明治期の建築で比較的新しい神社です。


京都市内で初もうでの参拝客が最も多いのは伏見稲荷大社で、その次が平安神宮です。

 

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平安神宮


伏見稲荷大社は分社を日本全国に約3万社持っており、総本山であるこの伏見稲荷は1000年以上前に建立されています。


そのため、筆者的には、もし京都で初もうでに行くのなら伏見稲荷をおすすめします。


なんせ商売繁盛の神様ですから。

 

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伏見稲荷大社


さて、博物館の話に戻ります。


東山七条に決定された明治古都館の敷地は、近世までは豊臣秀吉が建立した方広寺の境内の一部にありました。


また、少し時間をさかのぼり、1870(明治3)年~1876(明治9)年には、近世まで京都御所に安置されていた仏像や歴代天皇の位牌を安置していた施設「恭明宮(きょうめいぐう)」が建っていました。


そのため、大変由緒のある立地であることがわかります。


また同時に、明治以降に開発が進んだとされる東山の麓に位置しているということも、平安神宮や内国博の会場のあり方と共通しています。


(東山は明治以降、琵琶湖疎水の開発や、それに伴う建築物、また多くの資産家がいたことで多くの近代建築を残しています。)

 

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疎水


そんな東山に建てられることが決定した明治古都館ですが、設計者は当時、宮内省匠寮勤務であった片山東熊(かたやまとうくま)です。

 

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片山東熊


片山東熊は1854年1月18日(嘉永6年12月20日)に山口県萩で長州藩士の家に生まれ、明治期に活躍した建築家です。


工部大学校の建築学科第1期生であり、このころは辰野金吾、曽禰達蔵らと同期でした。


その後、 工手学校(現工学院大学)造家学科教務主理を務めました。

 

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辰野金吾


そして、宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わり、職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行っています。


また、日本人建築家の養成を行うべく来日した、ジョサイア・コンドルによる最初の学生の一人でもありました。


このようなことから、明治、大正期を代表する建築家の一人としても有名な人物です。

 

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ジョサイア・コンドル


片山の代表作である旧東宮御所(現・迎賓館)は、2009(平成21)年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定されました。

 

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赤坂離宮迎賓館


さらに、彼は元々長州藩士であったので、あの有名な「奇兵隊」に入隊しており、戊辰戦争にも参戦しています。

 

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奇兵隊 高杉晋作 

 

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戊辰戦争


大学卒業後の工部省営繕課勤務時代には、欧州、ドイツ、欧米などの視察を繰り返し、建築家としての知識、技術を磨き続けました。


そして日本の激動の時代に生きた彼は1917(大正6)年、ちょうど第一次世界大戦が勃発した年に亡くなっています。


彼が残した建築物は、多くが今でも有名な建築として残っています。


彼の残した作品は、ジャンルを問わず様々なものがあります。


上述した赤坂離宮の迎賓館(旧・東宮御所)のような、国賓や皇室関係者を招くような建築物。

 

明治古都館のような、芸術などの分野を扱う建物。

 

神宮農業館という、人々の生活という分野を扱う建築。

 

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神宮農業館

 

旧御所水道ポンプ室(現・九条山浄水場ポンプ室)といった機能的な建築。

 

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九条山浄水場ポンプ室

 

さらには、日本赤十字病院という国内最大の病院施設まで作り上げています。 

 

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日本赤十字病院 内部


これらのことから片山東熊は幅広いジャンルの知識を持ち、非常に器用な建築家であったことがわかります。


また、冒頭で述べたように、明治古都館を建築する前に「なら仏像館(旧帝国奈良博物館本館)」が建設されているのですが、これも片山の作品です。


この「なら仏像館」は、古都奈良の宝物を収集、展示するために作られました。


立地としては、奈良公園内で、県庁にほど近い位置にあります。


芝生の松竹に囲まれた博物館本館は、威厳に満ちていながらも、ルネサンス調の華やかな意匠を持っています。

 

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なら仏像館(旧帝国奈良博物館本館) 外観


構造は煉瓦造ですが、外部には化粧石を貼り付け、煉瓦は全く見えなくなっています。


コラム(柱材)やベース、アーキトレーブ(柱頭の上に置かれる水平材)は青灰色の石を使い、壁面には黄色の石を張っています。


多段の石目地が美しく、格調高い立面を創り出しています。


中央棟の正面には大きく櫛型のペディメントが設けられ、左右2本組の大コラムで支えているようです。


軒には四角いブロックを連続させたデンティル(櫛状の装飾)が巡っています。


正面玄関はその中に大きなアーチを設けて開口しています。


現在となっては比較的小ぶりな建築物であると言えますが、非常に威厳が感じられるのは、シンメトリックな外観と、開口部の少なさが要因であると言えます。

 

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正面玄関


中央棟の左右には屋根が1段低く落とされた翼廊がつながっていますが、壁面にはオーナメントがあり、窓がありません。


柱やアーチが、古代ギリシャの神殿やパリの凱旋門などを感じさせることから、西洋化を目指し、富国強兵に励んだ明治時代を強く感じさせる建築であることがわかります。

 

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凱旋門


しかし、この洋風建築の博物館は、当時の奈良県議会の記録に「疑似西洋風デ世人ニ嘲笑サレ」と残っており、奈良県人には受けなかったとも言われています。


その一年後、片山は明治古都館の建設に取り掛かりますが、外観からしても奈良のものとは全く違う意匠を持って作っていることがわかります。


奈良の博物館がとても威厳のある建物だったのに対し、京都のものは軽やかさを持った古典主義建築という感じがあります。

 

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明治古都館 外観


建物西側には門があり、そこには門番所を併設し、ドームを乗せた豪華な正門となっています。


このドームはどこかモスクを思わせるところもあり、明治古典主義らしいダイナミックなアプローチで作られた建築であることがわかります。

 

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正門


また、この京都の博物館も奈良のものと同じように煉瓦造ではありますが、その上に石を張るのではなく、煉瓦を前面に押し出しています。


本館前にある噴水の奥にはロダンの彫刻があり、西洋宮殿のような優雅な趣を与えています。


円形の植え込みの向こうには建物正面が見えてきます。

 

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噴水

 

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ロダンの彫刻


この建物は中央に中庭を持つ左右対称の平面形状をなしています。


また、中央に大ドーム屋根を備えているほか、6個の方形ドーム屋根を持っています。


正面入り口上部を大きなペディメントで飾り、中央部にはコリント式の付け柱とアーチが並びますが、翼屋部はトスカナ式の簡素な付け柱が壁面を分節しています。


玄関上部のペディメントには、芸術工芸の神である伎芸天(ぎげいてん)と毘首羯磨(びしゅかつま)が彫刻として刻まれています。

 

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正面斜め

 

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側面

 

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伎芸天と毘首羯磨


赤煉瓦の壁の中に白い御影石の列柱やアーチ、窓飾りが浮かび上がり、くっきりとした印象を与えているようです。


立面の意匠は凹凸が少なく、やや平板な印象ですが、それがかえって重厚さではなく、軽やかさを感じる印象となっています。


内装は外観からは想像もつかないほど華麗で、天井まで漆喰で白く塗りあげられています。


ルーブル宮が作られた17世紀のフランスを思わせる見事なバロック様式でありながらも、随所に日本人の繊細な感覚が表現されています。

 

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内装


展示室は展覧の際の回遊性や採光を考慮して3つの中庭を囲んだ凸型に配され、天井採光となっており、機能性にも優れた建築であることがわかります。


また、中央の広間は天皇行幸の際に、玉座を設けることを想定したため、明確な列柱を配したひときわ凝った意匠となっています。


従来の日本にはなかった、本格的な西洋風の古典主義建築といえるでしょう。


こうして、奈良の博物館と京都の博物館を比べると、全く違う人物が作った建物に見えるのですが、これも片山の知識量や技術、センスによって可能となったのだと思います。


その後時を経て、2001(平成13)年には、建築家の谷口吉生によって設計された南門と併設するミュージアムショップが竣工しています。

 

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谷口吉生


また、2014(平成26)年になって、構想から16年の歳月を経て、谷口によって新たな施設が出来上がりました。


それが南門から真っすぐ進んだところにある「平成知新館」です。

 

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平成知新館


石の壁の前に薄い庇、細い柱、そして障子のようなガラスの窓、モダンでありながら、日本の感性を表現しています。


雪見障子のような低い透明ガラスの窓。


水平線と垂直線。


その手前に自然石の石垣。


かつての方広寺の石積みの痕跡を再現したものだと言われています。


自然の石が、人工的な固い線といい対比を示しているのがわかります。

 

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石積み


前面には浅い池があり、映り込みが美しいです。

 

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もともと、方広寺の敷地であったこの場所では、工事中にその南門の柱の跡が出土したためその位置にリングが埋め込まれています。


全体的に上野法隆寺宝物館にとても似ています。


南門を出るとすぐ三十三間堂もあるので、このあたりは観光スポットとしても有名です。

 

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三十三間堂

 

 旧帝国京都博物館は、1900(明治33)年に「京都帝室博物館」と改称された後、1952(昭和27)年に現在の「京都国立博物館」という名称に改称されました。 

 

明治古都館は、免震改修他の基本計画を進めるため、2015(平成27)年から長期休館されていますが、平成知新館での展示は継続中ですし、正門や庭などたくさんの見どころがあります。


京都を訪れた際は、この博物館やミュージアムにも立ち寄ってみることをおすすめします。