<旧遷喬尋常小学校>
2005(平成17)年に公開された映画『ALWAYS 三丁目の夕日』。
日本アカデミー賞など多くの映画賞に輝いた作品なので、観たことがある方も多いでしょう。
この映画の舞台となったのは、昭和30年代の東京です。
撮影は、当時の街並みを再現した巨大なセットを中心に行われました。
そしてこの映画には、西洋風の立派な小学校が登場します。
この小学校、映画のセットだと思っている方も多いかと思いますが、実は違います。
岡山県真庭市に実際に存在する校舎を使用しているのです。
それが、今では廃校となり、一般公開されている「旧遷喬尋常小学校(きゅうせんきょうじんじょうしょうがっこう)」です。
またこの小学校は、NHKの連続テレビ小説「カーネーション」でも利用されました。
<カーネーションより>
このように、デザイン性の高さや保存状態の高さが評価され、ドラマや映画などでも利用されることの多い「旧遷喬尋常小学校」について、今回はお話します。
旧久世町(現・真庭市)は、かつては岡山城下へ通じる旭川の上流にある高瀬舟の川港であり、出雲街道(至る島根)と大山道(至る鳥取)の両方が通る交通の要所でした。
<真庭市と旧久世町の位置>
戦国時代から牛市が立ち、江戸時代には幕府直轄領となり、美作地方の中心地の1つとして栄えました。
<高瀬舟>
明治初期になると、蔵や民家や寺院などを仮の校舎として、久世村内に小学校が設置されるようになりました。
旧遷喬尋常小学校も、年貢保管用の郷蔵を転用して、1874(明治7)年に創設されました。
ただし本校舎の新築は、1903(明治36)年に町会議で決議された後、日露戦争によって一度延期され、1907(明治40)年にようやく竣工しました。
この建物の設計は、江川三郎八によるものです。
<江川三郎八>
江川三郎八は福島県会津若松の出身で、会津藩士江川宗之進廣伴の三男として生まれました。
宮大工の修行をし、1887(明治20)年に福島県の建築技師となり、橋梁工事を担当するようになりました。
その後、山口半六、妻木頼黄といった建築家の指導を受けています。
<山口半六>
<妻木頼黄>
1901(明治34)年には、久留正道から学校建築の指導も受けています。
<久留正道>
江川は、福島県で15年勤務した後に、1902(明治35)年より岡山県に転任しました。
当時の岡山県庁内では唯一の建築技師であったため、県議会議事堂や都窪郡役所(旧倉敷町)、総社警察署(現・総社市まちかど郷土館)など、数多くの公共施設の設計や工事監督を担ったそうです。
さらに、岡山県内の多くの教育施設や病院、神社などの建築にも携わりました。
64歳で県職員を依願退職後は、金光教団本部の嘱託技師となり、火災で消失した本部の再建に尽力しています。
天満屋旧本館などの商業施設や個人住宅の設計も行ったとされています。
岡山県内で1902(明治35)年~昭和初期に建設された洋風木造建築物には、際立った共通性が見られます。
外観デザインはアメリカ風スティックススタイルで、正面から見ると左右対称のルネッサンス形式になっています。
江川はこのような建築に関与したとされています。
また、これらの特徴を備えた建築物は『江川式建築』と呼ばれています。
江川は、西洋風建築の特徴を生かした学校や公的施設を次々と設計し、高く評価されていました。
江川が手がけた建物は他にも残っているとみられますが、残念ながら戦災などで資料が失われ、不明な点も多いとされています。
では旧遷喬尋常小学校の建物を、外観から見ていきましょう。
この建物は、木造二階建て、延べ床面積601平方メートルという大規模な造りとなっています。
二重勾配を特徴とするマンサード屋根や正面の飾り窓など、ルネサンス様式を真似た擬洋風建築となっています。
<外観>
厳格な左右対称のデザインで、白いペンキの板張りが威厳と清潔感を醸し出しています。
校舎前面に校庭が広がるので、建物全体の姿をとらえやすくなっています。
正面屋根のドーマー窓型の飾りには、高瀬舟を図案化した校章が掲げられています。
鉄道が開通していなかった当時、川を使用した運搬方法として用いられた高瀬舟に、町名の「久世」を合わせてデザイン化したものだといわれています。
このデザインもまた、設計者である江川三郎八の手によるものです。
<校章>
中央棟の両脇に取りつく切妻屋根の翼棟が、左右対称の校舎を印象付けます。
当初の屋根は、中央棟だけでなく全体がスレート葺きでした。
アーチ型の入り口から中に入ると、左右に延びる廊下の両側に教室や事務室、校長室などが規則正しく並んでいます。
<玄関>
<玄関内部>
<廊下>
校舎のガラス窓は古くなっているため、中から外を眺めると景色が歪んで見えます。
<窓>
<教室>
玄関ホールには、往時の壁時計や鋳鉄製の鐘がそのまま残されており、すり減った階段に目をやると、生徒たちが何十年も日々昇り降りした様子が目に浮かぶようです。
<時計と鐘>
木造の螺旋階段を上がると、二階中央部には二重折り上げの洋風格天井を持つ講堂があります。
<螺旋階段>
<二階廊下>
<講堂>
折り上げ格天井とは、日本建築のさまざまな形式において、建物に雰囲気を与えるだけでなく、各部屋の格を視覚的に伝えるために用いられます。
講堂に張られている鏡板はすべて節のない柾目板が使われていて、小学校の講堂とは思えない風格を備えています。
<講堂天井>
天井板と竿縁や格子の組み合わせに加え、天井の高さも格式を表します。
尋常小学校の講堂では、この天井自体の格式の高さに加え、格天井の周囲を曲線状の亀の尾と呼ばれる部材を用いて折り上げることによって中心を一段高くし、さらに重要な部屋であることを強調しています。
この小学校の工事費は、当時の町の予算の1.9倍という巨額なものでした。
これをまかなうために、久世町は岡山県からの融資を仰ぎました。
久世町長から岡山県に提出された「御貸付申請書」には、現在の規模では増え続ける児童を収容しきれないと、新校舎の必要性を強調する一方で、「本町ノ資力到底該新築費総額ヲ一時に負担スルニ絶ヘザル」と、県の融資の不可欠さを訴えています。
岡山県はこの要請を受諾し、新校舎建設の道が開けたそうです。
でもなぜ、林業が中心であった小さな町に、これほどまで大きな校舎が建設されたのでしょうか。
その要因として挙げられるのは、学制発布前に私塾の数が全国第1位、1887(明治20)年の就学率が67.5%と全国平均の45%を大きく上回るなど、岡山県が教育熱心な地域だったことも挙げられます。
しかし何よりも大きな理由は、産業の少ない久世町にとって、立派な人材を排出することこそが重要な事業であり、教養を身につけて世の中に羽ばたいてほしいという、人々の思いがあったからでしょう。
校名の「遷喬」は、鴬が深い谷から高い木に飛び移るという中国の詩経の一説で、立身出世の意味が込められています。
久世町が破格の費用をはたいて校舎建設に踏み切った背景には、学校教育に対する強い期待があったためといえます。
着工から二年の歳月を経て完成した校舎の開校式の写真には、大きな日の丸と提灯などで飾り付けられた校舎を一目見ようと集まった多くの人々の姿があったそうです。
多くの人々の想いを受けながら、旧遷喬尋常小学校は1990(平成2)年まで現役で小学校として利用され、1万人を超える卒業生を送り出しました。
この小学校の完成時と変わらないその姿は、久世の街に暮らしてきた人々の、教育に託した想いの結晶といえるでしょう。
現在は、小学校跡地全体が「久世エスパスランド」という文化施設となり、情報と文化と交流がいつでも体感できる場となりました。
<久世エスパスランド>
敷地内には「久世エスパスセンター」という名の施設が建てられ、旧校舎はその付属施設として活用されています。
講堂ではコンサートなどの催しが行われ、各教室は図書室や会議などに利用され、地域の人々が集まる場となっています。
1999(平成11)年には、明治後期を代表する貴重な木造学校建築の1つとして、国の重要文化財に指定されました。
今では月に数回、なつかしの給食を食べたり、学生服を着たり、音楽の授業を受けたりといったイベントも行われています。
岡山にお越しの際は、一度立ち寄ってみるといいかもしれないですね。