山陽本線の柳井港駅で下車し、そこから連絡船で上関町の室津港を目指すと、その港の岸には、漆喰の白色が印象的な擬洋風建築があります。
この建物は『四階楼』と呼ばれています。
四階楼
室津港
連絡船の航路にはかつて、北前船が通っていました。
北前船とは、江戸から明治時代初期にかけて、大阪と北海道、東北を結んだ物流の大動脈です。
北前船
その航路上には「潮待ち」「風待ち」のための港が栄えました。
潮待ちとは、潮流を利用して航行する船が、潮流の向きが変わるのを待つことです。
風待ちとは、出向の際に順風を待つことです。
このころ、各地に潮待ちの港、風待ちの港が出来たそうです。
上関は、下関、中関と合わせた「防長三関」の一つで、多くの北前船が立ち寄った交通の要衝でした。
防長三関
さて、『四階楼』という建物の施主は、小方謙九郎(おがたけんくろう)という人物です。
この人物がどういう人かというと、幕末に「奇兵隊」に加わり、幕府と戦った人たちの一人です。
第二奇兵隊の参謀も務めたようです。
奇兵隊
奇兵隊と幕末の関係について、少しご紹介しておきましょう。
奇兵隊とは、1863(文久3)年の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作の発案によって、同年6月に組織された戦闘部隊です。
高杉晋作
「奇兵」とは、武士からなる「正規兵」の対義語で、奇襲攻撃を行うような兵という意味でした。
隊の編制や訓練には、高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があるとされています。
吉田松陰
当初は外国艦隊からの下関防衛が任務で、本拠地は廻船問屋の白石正一郎の邸宅に置かれました。
その後手狭になったため、本拠地は赤間神宮に移りました。
奇兵隊が結成されると、数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称されるようになりました。
奇兵隊の初代総督は高杉でした。
しかし、同年8月、奇兵隊士が長州藩正規軍である撰鋒隊と衝突する事件が発生し、その責任を取って高杉は総督の任を退きます。
その後奇兵隊は、河上弥市と滝弥太郎の両人が第2代総督となったあと、第3代総督に赤禰武人、軍監に山縣狂介が就任します。
さらに同年、京都で「八月十八日の政変」が起こり、長州藩の勢力が一掃されてしまいます。
翌1864(元治元)年、新選組に捕らえられ拷問されていた古高俊太郎を救済するため、京都の池田屋に各地の隊士たちが集まっていました。
しかし、新撰組によって突如襲撃され、長州藩では吉田稔麿・杉山松助ら11名が犠牲となりました。
これが世にいう「池田屋事件」です。
これにより、長州藩では卒兵上京してでも朝廷の誤解を解くべきという、来島又兵衛らの勢力を抑えられなくなりました。
池田屋事件
新選組 近藤勇
その後、来島又兵衛や久坂玄瑞らが率いる先方隊が、藩主父子の雪冤を嘆願のために出兵しました。
会津藩・桑名藩の軍勢に対しては優勢であったものの、援軍として加わった薩摩藩により形勢を逆転され、来島又兵衛は被弾して自決。
久坂玄瑞・寺島忠三郎は嘆願を果たせず、共に鷹司邸内で自害し、長州勢は総崩れとなって退却し、大阪湾・瀬戸内海経由で帰藩しました。
これが「禁門の変」と呼ばれる事件で、長州藩は禁裏を侵したとして「朝敵」とされました。
幕府は朝敵とした長州藩を更に征伐するため、第一次長州征伐を宣言します。
長州藩は、家老3人が切腹するなどして、第一次長州征伐の戦禍を未然に防ぎました。
しかし、幕府に恭順しようとする俗論派の武士たちが、改革を進めようとする正義派の志士たちを粛正し始める結果となってしまいました。
奇兵隊や諸隊にも解散命令が下されました。
それを知った高杉晋作は、亡命中であったにも拘わらず帰藩し、諸隊に決起を説き、伊藤博文ら約80名の兵と共に功山寺で挙兵します。
そして大田・絵堂の戦いなどで正義派が勝利して俗論派を一掃し、長州藩の主導権を握りました。
この結果、長州藩の方針は破約攘夷・倒幕に定まっていったのです。
翌1865(元治2)年、幕府によって再び第二次長州征伐が行われました。
しかし、高杉晋作や大村益次郎、木戸孝允らの指揮の下、奇兵隊ほか諸隊が幕府軍を圧倒し、江戸幕府に完全勝利しました。
木戸孝允
停戦交渉のため、第15代将軍徳川慶喜の名代として、後に明治政府で参議の一人となる勝麟太郎(勝海舟)が安芸(広島県)にやってきました。
幕府の威信は地に落ち、討幕運動が加速していくことになりました。
徳川慶喜
奇兵隊は、武士や農民や町人など身分に囚われずに入隊できましたが、袖印による階級区別はされていました。
隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居し、蘭学兵学者である大村益次郎の下で訓練に励んでいました。
このため、奇兵隊はいわゆる民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍であるともいえます。
奇兵隊では、総督を頂点に、銃隊や砲隊などが体系的に組織されていました。
西洋式の散兵戦術を用いるために、戦術や教養を学び、体力作りも行いました。
また、隊士らはミニエー銃や、当時最新の兵器・スナイドル銃を取り扱い、戦果を上げました。
ミニエー銃
スナイドル銃
このように幕末に非常に活躍したとされる奇兵隊。
その奇兵隊士の一人が、今回ご紹介する『四階楼』の施主である小方謙九郎です。
小方は、維新後に回漕業や汽船宿を営む実業家となったそうです。
奇兵隊の最初の本拠地の主、廻船問屋の白石正一郎と親交が深かったのかもしれません。
そして、小方が廻船問屋兼接待所として1879(明治12)年に建てたのが、『四階楼』です。
四階楼
その名が示す通り、木造4階建ての建物で、四隅の柱を4階まで通しただけという非常に簡素な構造です。
また、高さ11.4mと、通常の3階建て程の高さしかないコンパクトな建物です。
しかし簡素でコンパクトながらも、外壁や内装に傾けられた美意識は非常に洗練されたものです。
この建物の設計者は、吉崎治兵衛という人物です。
吉崎は地元の大工の棟梁で、特に有名な建築家というわけではありません。
当時は維新直後で、日本では西洋風建築がまだまだ少なかった時代でした。
そんな中、四階楼は、数少ない西洋館を手本にして試行錯誤しながら建てられました。
建築史的な時代背景を少しお話ししますと、コンドルが鹿鳴館を完成させたのは、四階楼完成の4年後です。
ジョサイア・コンドル
またその当時、辰野金吾は英国で修行中です。
辰野金吾
そんな時代において、瀬戸内海の港町の無名の大工が造り上げた擬洋風建築が、四階楼だったのです。
外観は、西洋建築に特徴的な縦長の窓や隅石が配される一方で、屋根は寄棟造りの桟瓦葺きを使用しています。
外観
また、4階には昇り竜、降り竜を施すなど、2階正面の垂れ壁にあしらった牡丹と合わせて中国風の雰囲気も感じさせます。
4階の竜
正面玄関
中に入ってみると、客のもてなしを前提としたことから、欄間はモダンな印象を与えるよう、半円を組み合わせ漆喰で仕上げられており、非常に凝ったデザインです。
1階 欄間
1階 菊水紋の鏝絵
1階奥の急な階段を上がった2階には、シンプルな和室が3部屋あります。
2階にも風呂と厠が設けられているのは、接客や宿泊客のためでしょう。
3階は大事な商談などに使われていたようで、趣のある小さな茶室が設けられています。
また、踊る唐獅子の鏝絵が印象的な部屋もあり、天井の四隅に飾られた椿の彫刻などと相まって、格調高い印象を与えています。
3階 唐獅子の鏝絵
最上階の4階は、天井に漆喰鏝細工の大きな鳳凰をあしらい、窓にはステンドグラスが配置されています。
一見アンバランスな組み合わせなのですが、他にはない、不思議でいて美しい空間を作り出しています。
4階
4階 鳳凰
また、4階建てなのに11.4mしかない高さの秘密は、室内に座ってみて初めてわかります。
この建物は「座る」ことを前提として建てられており、立った状態では室内空間が狭く感じられるのですが、座った瞬間に快適な空間になるよう設計されています。
激動の時代を生き抜いた人物が客をもてなすためにしたかったのは、「まず座って落ち着いて、話す」ということだったのかもしれません。
ちなみに、小方謙九郎の息子には長岡外史という人物がいます。
この人物は、日本で初めてスキーを軍隊に導入した人物です。
西洋技術の導入に邁進した行動力は、父の気性を受け継いでいたからかもしれません。
長岡外史
上関、中関、下関などの要衝には、坂本龍馬や木戸孝允、高杉晋作らもしばしば立ち寄ったようです。
しかし、船の近代化によって中継港は役割を失い、鉄道の発展で北前船も衰退しました。
上関の賑わいも次第に薄れていきました。
そんな中でも、四階楼は、船宿や旅館などに用途を変えながら、往時と変わらない姿を今も保ち続けています。
四階楼を訪れる際は、まず海上からその姿を眺めてください。
そして建物内に入ったら、室内でゆっくりと座り、窓から外を眺めたり、波の音を聞いたりしながら、激動の時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。