日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

天鏡閣


「君子が天下を安定させると、不思議な力を持った鏡が現れ、天下が乱れれば鏡は失われる」


これは中国で後漢時代に広がった「讖緯(しんい)思想」の一説です。


中国では古来から「鏡」が政治権力の象徴とされ、「玉鏡」や「金鏡」、あるいは「天鏡」などと呼ばれてきました。


「天鏡」という名前には「天下国家を映し出す」という意味が込められています。


この「天鏡」という言葉を冠しているのが、福島県の猪苗代湖畔に建つ『天鏡閣』です。

 

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天鏡閣


天鏡閣の「天鏡」とは、眼下に広がる猪苗代湖を指すのは間違いないでしょう。


現在では周辺の樹木が茂っていてほとんど見ることはできませんが、当時は建物の窓から美しく輝く猪苗代湖を一望できたそうです。

 

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猪苗代湖


天鏡閣については、大正天皇と、大正天皇の皇太子時代の教育係であった有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王抜きには語れません。


まずは、有栖川宮威仁親王について、簡単にお話しておきましょう。

 

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有栖川宮威仁親王


威仁親王は、1862(文久2)年に京都において誕生し、「稠宮(さわのみや)」と命名されました。


稠宮の父・幟仁親王には、すでに熾仁親王という嫡子がいたため、稠宮は然るべき年齢に達した後に妙法院門主を相続することが内定していました。


しかし、明治維新による諸制度の変革で宮門跡の制度が廃されたことから、1871(明治4)年に稠宮の妙法院相続の内定は取り消されました。


そして、明治天皇によって幟仁親王が東京への転居を命じられたのに従い、稠宮も上京しました。

 

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明治天皇


1874(明治7)年7月、参内した稠宮は明治天皇から海軍軍人を志すよう命じられ、海軍兵学寮予科に入学しました。


1877(明治10)年には、鹿児島県逆徒征討総督として九州赴任中の熾仁親王からの呼び出しにより、船で鹿児島に赴き、熾仁親王と共に西南戦争の戦地跡を視察しています。


1878(明治11)年4月、40歳を過ぎて妃との間に継嗣のできない熾仁親王は、稠宮を事実上の養子として有栖川宮の後継者にしたい旨を明治天皇に願い出ます。


当時はまだ旧皇室典範制定前で、皇族の継承権問題が天皇の裁量で決められたため、同年5月に勅許が出されました。


これにより同年8月、稠宮は明治天皇の猶子となり、親王宣下を受けて「威仁」の名を賜ることになりました。


1879(明治12)年、威仁親王は太政官よりイギリス海軍シナ海艦隊旗艦・「アイアン・デューク」への乗組みを命ぜられ、約1年間にわたり艦上作業に従事しています。


帰国後の1880(明治13)年、少尉に任ぜられたのを皮切りに12月1日に英国留学を命じられ、日本海軍士官として歩み始めました。


そして10日後の12月11日、かねてから婚約していた前田慰子と結婚しています。

 

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前田慰子


新婚間もない1881(明治14)年1月、威仁親王は慰子を残してイギリスのグリニッジ海軍大学校に留学、3年半後にようやく帰国しました。


1891(明治24)年、ロシア帝国のニコライ皇太子(後のニコライ2世)来日の際、外国留学の経験を買われて明治天皇の名代として接待役を命じられました。


このニコライ皇太子訪日の日程中、滋賀県大津市において大津事件が発生しています。

 

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ニコライ2世

ニコライ2世―帝政ロシア崩壊の真実


大津事件は、外国の王皇族に日本の官憲が危害を加えるという、日本外交史始まって以来の大事件でした。


しかし、威仁親王の要請により明治天皇自らがニコライを見舞うなど、日本側が誠実な対応をしたことにより、ロシアとの関係悪化は回避されました。


1895(明治28)年1月、熾仁親王の薨去により、威仁親王は有栖川宮の第10代の当主となりました。


熾仁親王と同様に、威仁親王は明治天皇の信任が厚かったことで知られています。


1899(明治32)年から1903(明治36)年まで、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の教育係である東宮輔導に任命されました。

 

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大正天皇


大正天皇は、崩御がとても早く、大正時代はたった15年で終わってしまいました。


しかし、明治以降の皇室で初の一夫一妻制をとり、誕生から崩御まで生涯を通じて関東の地で過ごした最初の天皇です。


また、漢詩にとても造詣が深く、生涯で1367種もの漢詩を残しました。


1907(明治40)年、福島県猪苗代湖畔を訪れた威仁親王は、その景観に心を打たれ、別邸の建設を決めました。


別邸は1908(明治41)年には竣工し、皇太子・嘉仁親王を迎えます。


嘉仁親王は、中国の詩人李白の句の一説である「明湖落天鏡(めいこはてんきょうをおとして)」に由来して、この建物を『天鏡閣』と命名します。

 

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李白


昭和天皇も皇太子時代、結婚直後にここを訪れ、後年再訪した際には、新婚当時用いた馬車に皇后ともども見入ったそうです。

 

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昭和天皇


天鏡閣は、威仁親王が自ら図面を引き、竣工されたといわれています。

 

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正面玄関側


木造2階建てのルネサンス様式を基本とし、円形のドーマー窓やマンサード屋根、八角形の塔屋が自由に配置され、どの角度から見ても新鮮な表情を楽しむことができます。


グレーの外壁にスレート屋根という落ち着いた色彩に対比して、基礎部分に敷き詰められた赤煉瓦が全体を引き締める効果を出しています。

 

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外観下から


特徴的なのが、伝統的な洋館には見られない、2つ設けられた玄関です。


車寄せとポーチを持つ西側の正面玄関のほかに、庭園に面した南側にも玄関が設けられています。

 

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南側


コリント式の柱頭を持ったベランダ、ペディメントには漆喰で作られた有栖川家の家紋があしらわれるなど、本格的な造りとなっています。


窓の数が多いので、邸内は明るい雰囲気となっています。


正面玄関を入ると、階段ホールにもなっている外広間があり、その奥にはまっすぐな中央廊下があります。

 

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正面玄関


1階の中央廊下をはさんで、南側には客間などの表向きの部屋が、北側には厨房、宿直室などサービス関係の部屋が集められています。


1階南側には中央に客間、その両隣に食堂と、ビリヤードを楽しむ撞球室が配置されています。

 

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客間

 

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食堂


この撞球室のシャンデリアは、ゲーム中に玉の影ができないように、4つの電球で均一に照らされるようになっています。


このような部分に、威仁親王の繊細さが表れています。

 

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撞球室


2階は西側に客室、東側に書斎として使われていた御座所、その中央に御居間があります。


御居間からはベランダに出ることができ、現在は木々に遮られていますが、当時は猪苗代湖を望むことができたそうです。

 

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御居間


また、寒冷地であることを考慮して、各部屋はもちろんのこと、廊下や玄関ホールなど26か所に暖炉が設けられています。

 

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暖炉


暖炉には全てマジョリカタイルと呼ばれる花柄タイルが埋め込まれており、その上に取り付けられた大きな鏡と相まって、建物内部に華やかさと奥行きを与えています。

 

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鏡と暖炉


皇族に愛された猪苗代の豊かな自然に抱かれ、静かに佇む天鏡閣。


しかし猪苗代の地は、幕末には戊辰戦争が繰り広げられるなど、激しい歴史の波にさらされてきました。


明治に入ると、安積疎水建設という国家的な大事業が、オランダ人技師ファン・ドールンの指導の下で推し進められるようになります。


安積疎水は、琵琶湖疎水や那須疎水とともに、周辺地域の農業や工業を発展させてきた日本三大疎水の1つです。


これによって、猪苗代湖周辺の紡績・繊維産業の基礎が築かれました。

 

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安積疎水


1899(明治32)年にはその水を利用した沼上発電所が造られ、日本初の高圧送電が開始されました。


天鏡閣で竣工当時から電灯が灯されていたのも、発電所から直接電気の供給を受けることができたためです。


その功績を称えて、猪苗代の人々はファン・ドールンの銅像を建立しました。


しかしその後、日本は太平洋戦争に突入し、不足する金属を補うために各地の銅像が次々に供出される事態となりました。


敵国人となったファン・ドールンの銅像にも危機が訪れましたが、彼への恩義を忘れなかった猪苗代の人々は銅像を台座から取り外して地中に埋め、供出から守ったそうです。

 

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ファン・ドールンの銅像


周辺の街の発展を支えてきた猪苗代湖。


透明度が高く澄んだ水をたたえ、四季折々に姿を変えながら天の鏡のように磐梯山を映し出すその姿から、天鏡湖とも呼ばれています。


同じ「天の鏡」という名前を冠する天鏡湖と天鏡閣。


猪苗代湖畔の豊かな自然の中で、天鏡閣も激動する日本の姿を静かに映し出してきたのでしょう。


天鏡閣は、1952(昭和27)年に高松宮宣仁親王より福島県に下賜され、1979(昭和54)年には国の重要文化財にも指定されました。


その後修復工事が行われ、現在は有栖川宮家ゆかりの品々と共に一般公開されています。


皇室の方々の暮らしをうかがい知ることができる由緒ある建物に、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。