日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

和光荘(旧野口喜一郎邸)

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和光荘

明治から大正にかけて、「商都」と呼ばれる地がいくつかありました。

西には大阪や神戸、東には横浜や東京があります。

そして商都と呼ばれた街には必ず商業で財をなした富豪がいて、眺めの良い高台に豪邸を建てているのが一般的となっていました。

北の商都である「小樽」にも多くの豪邸が建てられました。

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小樽

中でも、今回ご紹介する『和光荘』は別格です。

外観だけを見ると、小樽のどこか落ち着いた雰囲気に溶け込んでおり、大人な雰囲気を醸し出しています。

しかしそれだけではなく、内観も非常に凝った造りとなっており、施主と設計者のセンスが相当なものだということが測れます。

この建物の施主は野口喜一郎という人物です。

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野口喜一郎

野口喜一郎は、1887(明治20)年9月18日、小樽に生まれ、小樽中学校卒業後には旭川市の第七師団に入隊しました。

第七師団は大日本帝国陸軍の師団の一つで、北海道に置かれた常備師団として北辺の守りを担う重要師団であり、道民は畏敬の念を多分に含め、「北鎮部隊」と呼ばれていました。

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第七師団

除隊後の1908(明治41)年に、父の経営する野口吉次郎商店(後の北の誉酒造)を継ぎ、社長として酒造部門を拡張させました。

北の誉酒造は、日本酒好きであれば耳にしたことがない人はいないほど有名なお酒を造っていた酒蔵です。

2016(平成28)年1月に、合同酒精株式会社に吸収合併されました。

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北の誉酒造

喜一郎は、1924(大正13)年にアルコール4社合併の合同酒精に相談役で迎えられ、1929(昭和4)年から1958(昭和33)年まで同社社長、1964(昭和39)年まで会長を務めました。

1935(昭和10)年には小樽酒造の組合長も務めたほか、焼酎酒造組合中央会、合成酒組合などの役員としても活躍しています。

ちなみにですが、酒造関連の実業家でありながら、自身は酒が飲めず、宴会の席では銚子に白湯を入れて飲んでいたといいます。

酒造以外の実業として、1916(大正5)年には北海道で最初のホテルである北海ホテルの建設に参加し、1920(大正9)年には北樺太での北洋商行の設立や、北海ホテル旭川支店の建設にも携わりました。

1931(昭和6)年の札樽自動車道の改修と平磯岬のトンネル開通にあたっては、東小樽地区の40万坪もの大規模な都市開発に取り組みました。

小樽の観光名所の一つである銀鱗荘は、当初は余市町に建設されましたが、この開発に伴い喜一郎が買い取り、眺望の良い平磯岬に移築されて現在に至っています。

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銀鱗荘

小樽市内のスキージャンプ台「樽中シャンツェ」「小樽シャンツェ」建造の敷金を援助し、自身の敷地内に建造した「小樽記念シャンツェ」を市に寄贈するなど、地元還元にも尽くしました。

後に地域社会への貢献に対し、小樽市功労者の称号が贈られています。

また、芸術を愛する一面もあり、若い画家たちには惜しみない援助を与え、作品を購入して自邸に飾っていました。

その中には、日本水彩画会研修所小樽支部の設立に参加した平沢貞通の初期の代表作もあったそうです。

平沢貞通は国家が関与した冤罪事件の被害者としても有名です。

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平沢貞通

喜一郎は、1972(昭和47)年に満84歳で亡くなりました。

没後は、息子の野口誠一郎が3代目、孫(誠一郎の子)の野口禮二が4代目を継いでいます。

以上のことをかいつまんで説明すると、野口喜一郎という人物は、小樽という都市の発展を語る上で絶対に無視できない超大物の実業家であったということです。

そんな彼が施主として建てた和光荘は、やはり小樽を代表する建築物の1つとして高い評価を受けています。

では、和光荘の設計者はというと、実はこの野口喜一郎自身なのです。

正確に言うと、佐立忠雄という人物の助言をもとに自ら設計した建築物となります。

佐立忠雄は、明治時代に活躍した佐立七次郎という建築家の長男に当たる人物で、彼もまた建築家として様々な建築を設計しています。

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佐立七次郎

父・七次郎の建てた建築物で現存しているのは、「日本水準原点標庫」と「旧日本郵船小樽支店」があります。

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日本水準原点標庫

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旧日本郵船小樽支店

子の忠雄は1914(大正3)年7月、早稲田大学理工科建築学科を卒業したのち、曾禰達蔵(そねたつぞう)、伊東忠太より建築の実地指導を受けました。

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曾禰達蔵

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伊東忠太

片山東熊の紹介で1915(大正4)年8月に日本土木(旧大倉土木、現・大成建設)に入社し、1920(大正9)年1月に退社しました。

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片山東熊

この間で携わった建築には、「大倉喜八郎小田原別邸」「帝国ホテル取締役・喜谷市郎右衛門邸」「台湾製糖会社社長山本悌次郎の目黒自邸」などがあります。

退社後、1922(大正11)年に野口喜一郎の和光荘設計に関して助言をし、その後1924(大正13)年には北海道を離れ東京に戻りました。

その後はほとんど建築の仕事にはつかず、建築の世界から離れた晩年を過ごしたそうです。

さて、そんな二人の設計者によって建てられたこの『和光荘という建物はどのような建物なのか、見ていきましょう。

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和光壮 外観

まず、この白亜の洋館は一見すると4階建てですが、石積みのアーケード部分は鉄筋コンクリート造の地下階で、その上に木造2階屋があり、最上階は屋根裏階となっています。

1階のロッジや表面のシングル葺きの壁仕上げ、軒先の持ち送りからは、落ち着いたバンガロー風のイメージが伝わります。

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玄関へつづく階段

しかし、中に入るとそのイメージは一変します。

床のモザイクタイル、階段装飾、ステンドグラスなど、幾何学的な装飾が各所に施されています。

佐立忠雄は数寄屋造り好きで有名なのですが、曾禰や伊東にもまれたデザインセンスで、野口の要求に見事に応えることができたのでしょう。

玄関を入ってすぐ左に、第一応接間があります。

骨太の木材をあらわにした重厚な空間が広がります。

白漆喰の天井に下がるシャンデリア装飾の美しさには、大正文化の古き良き雰囲気が漂います。

この応接間の奥には、加賀風の数寄屋座敷がつながっています。

数寄屋好みと言われる佐立が一番力を入れたのがこの部屋なのかもしれません。

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応接間

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数寄屋造りの和室

地階の食堂(後年仕上げられたと推測されています)と、1930(昭和5)年に増築された円形のサンルーム、そして住宅部は、アール・デコで統一されています。

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食堂

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浴室のステンドグラス

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サンルーム

家具調度類は当時のままといわれていますが、なんとなく昭和30年代の雰囲気が見え隠れします。

その理由は、仕上げに使われているアルミニウムとベニヤ版とビニールクロスです。

要は、戦後、巷にあふれた廉価品の象徴ともいえるこれらの素材が、当時は珍奇な高級品だったために多く使われているということです。

和光荘の見どころは、これでは終わりません。

後背の庭園の中に、1931(昭和6)年建設の仏間があります。

総檜造で、仏壇には金箔、螺鈿の装飾がふんだんに施されています。

渡り廊下の数寄屋風の造作も非常に素敵です。

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仏間

日本有数の有名酒造を育て上げ、小樽市に貢献し続けた野口喜一郎の設計した建物からは、彼のセンスと落ち着いた雰囲気が伝わってくるようです。

和光荘は、2015(平成27)年からようやく一般公開され始めました。

ただし、冬季の間は旧館となっています。

また予約が必要な場合もあるので、事前に和光荘のホームページを確認されることをお勧めします。

約百年に渡り、小樽の発展を見守ってきた和光荘。

小樽を訪れる際は、こちらに立ち寄ってみるのもよいかもしれません。