山手の丘にひときわ映える大豪邸があります。
それは、旧べリック邸で、ベーリック・ホールと呼ばれているスパニッシュの洋館です。
建主は、バートラム・ロバート・ベリックで、1878(明治11)年イギリス・ロンドンの生まれです。
幼少期を英国やフランスで過ごしました。
バートラム・ロバート・ベリック
ベリックは、1898(明治31)年、25歳で来日しました。
ベリックの父親は、すでに横浜でベリックブラザー商会を展開し、日本から和紙や絹を欧州に輸出し、欧州からは化粧品や香水、文房具を輸入して成功していました。
そのため、べリックは、この事業を継承するために来日し、事業の拡大を図りました。
このベリックブラザー商会は、1919(大正8)年に社名をベリック商会と変更しています。
谷戸坂の辺り 明治30年代頃 横浜開港資料館所蔵
この商会は、神戸・大阪に支店を持ち、ロンドン・パリ・ブリュッセル・ウィーンにも支店を持っていました。
来日して32年を過ぎた52歳の時、アメリカ人建築家ジェイ・ハーバード・モーガンに設計を依頼し建てたのが、このベリック邸です。
現存する山手外国人住宅の中では、最大規模の横浜市認定歴史的建造物(平成13年8月認定)になります。
ジェイ・ハーバード・モーガン
モーガンは横浜を日本文化をこよなく愛した建築家でした。
在留外国人建築家として活躍し、全国に30以上手がけた建物のうち、半分は横浜に建てられています。
その作風は穏健華麗な欧米風の建築様式ですが、スパニッシュも好んで設計しています。
建築材料等はつとめて国産品を用いたそうです。
モーガン自身については、山手111番館(旧ラフィン邸) で詳しく触れさせて頂きました。
山手111番館(旧ラフィン邸)
そちらを、ご覧頂けたらと思います。
このべリック邸は大変な評判となりました。
そして、そんな評判を耳にしたある人物から、べリックは意外な依頼を受けます。
それは、東京のフィンランド大使館でした。
建物の評判がきっかけで、貿易商としてのベリックの経歴に着目し、「横浜のフィンランド領事になってほしい」というものでした。
べリックはそれを快諾し、フィンランドの領事館となり、日本とフィンランドの貿易や友好に尽力します。
フィンランド国旗・・・フィンランドの国旗の青は湖と青空を表し、白は雪を表しているそうです。
それでは、なぜ、フィンランド領事の話が、イギリス人のべリックにきたのでしょうか。
この時代の横浜は海外との貿易が大変盛んで、各国はこの地に名誉領事館を設置していました。
フィンランドとの貿易も盛んだったためフィンランド人の船乗りも珍しくありませんでした。
そのため、東京のフィンランド大使館は、横浜に領事館を設置したいという希望があり、アメリカ人か英国人のビジネスマンがもっとも適していると判断していたため、その候補を探していたのです。
そして、白羽の矢が立ったのが、ベリックでした。
ベリックは領事としての仕事をこの家のリビングで行っていました。
しかし、ここに住んで10年ほどが過ぎた頃、第二次世界大戦が勃発します。
東京日日新聞(現毎日新聞)夕刊 1941年12月9日付
日本は、英国と戦争状態に入ったことが発表されたため、ついに、1942年1月4日東京のフィンランド大使館はベリックの任を解きました。
ベリックは家族と共にカナダのバンクーバーに移住し、そこで10年ほどを過ごして永眠しました。
ベリックが亡くなったのちに、戦後、遺族により、建物は宗教法人カトリック・マリア会に寄贈され、同会の運営するセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されました。
ベリック邸が「ベーリック・ホール」と呼ばれるようになったのもこの頃です。
セント・ジョセフ・インターナショナル・スクール 本校
日本で二番目に古い国際学校で、100年の歴史がある日本語禁止の多国籍な学校でした。
山手の外人墓地の斜め前にあった学校です。
卒業生には、ノーベル化学賞を受賞したチャールズ・ペダーセン(22年卒)やラジオ講座の英語講師を長く務めたジェームズ・ハリスさん(33年卒)がいました。
しかし、その後、2000(平成12)年学校は閉鎖されます。
理由は、日本の学校卒業資格が得られないとして日本人の入学者が減り、外国人子弟も減って、在校生は半数に落ち込んだためです。
学校の校舎は解体され、今ではマンションになってしまいましたが、ベーリック・ホールは2001(平成13)年に横浜市所有となり復元工事を経て現在は一般公開されています。
外観
この建物の特徴は、スパニッシュスタイルというところです。
先に述べましたが、横浜に残る洋館の中でも、個人住宅としては最大級の規模なので、その姿はとても目を引きます。
地下1階は鉄筋コンクリート造り、地上は木造2階建てで、正面の外観は、中央やや左よりに、3連アーチの玄関ポーチを設けています。
屋根はオレンジ色のスパニッシュ瓦葺き。
外壁は薄いクリーム色のスタッコ壁で、アーチ型の開口が複数あり、スパニッシュの特徴がふんだんに散りばめられています。
正面:アーチ型の開口が特徴 外壁はスタッコ壁
石造りのような印象ですが、実際は木造建築で、外壁はモルタルとレンガで仕上げられています。
その他の外観のポイントは、ポーチ右手のテラスです。
テラスの中央に暖炉の煙突があり、その一部をアーチ状に切り抜いていて、そこに獅子をかたどった吐水口の噴水が設置されています。
煙突下部分の外壁に施された獅子頭のついた壁泉
また、建物の2階には、クワットレフォイルという、四葉のクローバーを彷彿とさせるかわいい不思議な形の小窓もあり、これら噴水やクワットレフォイルは、スパニッシュの典型的な意匠となっています。
クワットレフォイル:イスラム様式の流れを汲む飾り窓により、エキゾチックな風情を持ちます
玄関には、美しいアイアンワークが施されている装飾扉が印象的です。
床は白黒の市松模様のタイル張りになっています。
玄関:外から アイアンワ-クが特徴的
玄関:室内に、光が差し込み繊細な美しさ
玄関の右手には、大きな居間となっています。
この居間で、ベリックがフィンランド領事の仕事をしていた時や、セント・ジョセフの寄宿舎だった頃にはダンスパーティも行われていたそうです。
玄関ホールから階段を3段降りて入るようになっていて、天井も他の部屋よりも高く取っているため、空間に奥行と広がりを感じられます。
居間
部屋の中央には庭に面した壁際に暖炉があります。
暖炉:外から見た時に正面に見えた煙突と繋がっています
居間の北側にはパームルームと呼ばれるサンルームが付属しており、そこは玄関と同じ白黒の市松模様のフロアで、大きなアーチ窓がぐるりと配され、壁には獅子頭の壁泉があります。
パームルールに続くアーチ窓
パームルーム:3連アーチ・窓ガラスの桟がすべて細いスチールになっています
この部屋は開口だらけのガラス張りの部屋です。
通常は、サンルームと呼ぶ場所をパームルームと呼んでいます。
おそらく、パーム=ヤシの木のイメージから、温室を意味し、様々な観葉植物を育て、自然の中にいるような雰囲気を満喫していたと容易に想像が出来ます。
また、ヤシの木は宗教的にも大切な意味をもつ植物のようです。
ベーリックにとって、このパームルームは特別な場所だったのでしょう。
1階には、他に食堂や台所があります。
食堂は暖炉やアルコーブ(部屋や廊下、ホールなどの壁面の一部を後退させてつくった空間)を設け、格調高くなっています。
食堂
台所自体は、新しく現代風になっています。
ぼってりとした曲線のシンクがあり、これは当時の物で、陶器製のようです。
台所:シンク
地下は、ボイラー室になっていて、石炭等が保管されていたようです。
今は、改修工事の際の資材サンプルや金具類などが展示してあります。
地下
2階へ続く階段ですが、大理石に赤いカーペットが引いてあり、手すりも繊細な鋳鉄製の装飾が施されています。
階段
階段手摺:とてもお洒落で繊細なアイアンワークで、とても手の込んだものです
2階は寝室や子供部屋などのプライベートな部屋が並びます。
婦人寝室は、サーモンピンク色を基調としたインテリアで統一され、ウォークインクローゼットも完備しています。
隣接するサンポーチで楽しむティータイムは、優雅で素敵なものでしょう。
婦人寝室
クワトレフォイルがあり、とても可愛らしい印象です。
ウォークインクローゼット:中には、引き出しの沢山付いた作り付けのタンスが設置されています
ベーリック氏の寝室は、現在、書斎のような展示になっています。
装飾は、電灯も含め比較的シンプルで、控えめな装飾が施されています。
主人寝室
客用寝室として使われていた部屋は、現在は応接間風に復元されてます。
客室寝室
各寝室には専用のバス・トイレなどがそれぞれ設置され、各人のプライバシーがしっかりと守られ大切にされていたことがうかがえます。
客用寝室付属の浴槽
こちらの壁は透き通るようなブルーのタイルです。
クワトレフォイルから光があふれ、とても美しい印象です。
子供部屋ですが、山手の西洋館で唯一、子供用に設計された部屋です。
小さな男の子の部屋として作られ、壁も窓格子もブルーで統一感のある印象です。
子供部屋
フレスコ技法を用いて復元した壁は、青がとても美しく一見の価値があります。
クワトレフォイルとフレスコ技法により復元された青い壁
芝や植栽が美しく整備された600坪の敷地内に建つその建物は、さまざまな色彩にあふれ、室内はたくさんの窓からは光が降りそそぐ空間でした。
旧ベリック邸は規模も質とも素晴らしもので、建築学的にも価値のあるものです。
横浜山手を訪れた際には、必ず足を運んで頂けたらと思います。