日本の近代音楽のゆりかごと言える素晴らしい学校の建物が上野公園にあります。
上野公園には、沢山のすばらしい建物がありますが、その中でも親しみやすい外観で、私達を楽しませてくれる建物の一つです。
外観
待望の校舎が出来たのは1890(明治23)年5月。
東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)の校舎施設として、旧東京音楽学校奏楽堂が建てられました。
奏楽堂とは、馴染みのない言葉ですが、音楽ホール(コンサートホール)のことです。
日本初の木造の奏楽堂(音楽ホール)は独立した建物ではなく講堂を兼ねた学舎でした。
ここで学んだ学生たちは、現代の私たちにも音楽の素晴らしさを伝えて続けてくれています。
滝廉太郎は1894(明治27)年、15歳の時に入学、1898年に本科を卒業し、研究科に進みます。
こうして滝は作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばしていくことになり、後に彼の代表作の「荒城の月」や「箱根八里」が文部省編纂の「中学唱歌」に掲載されることとなります。
23歳で結核で世を去ることになりますが、彼にとって学生時代は光輝いた大切な時間だったでしょう。
滝廉太郎
山田耕筰は日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した作曲家で指揮者です。
欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家です。
岡山の学校から、14歳のとき、関西学院中学部に転校。
同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校声楽科を卒業しています。
有名な童謡は私たちが子供のころに親しんだ、「赤とんぼ」「待ちぼうけ」「兎のダンス」「七夕」などがあります。
山田耕筰
三浦環は日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手です。
子供の頃から、長唄、琴、日本舞踊を学び、1900年に東京音楽学校に進み、ピアノを滝廉太郎に師事します。
1904年に卒業後、補助教員として東京音楽学校に勤務し、後に助教授になりこの間に山田耕筰らを指導しました。
日本でのオペラ公演の成功のあと、ヨーロッパに渡り、翌年、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」の蝶々夫人役としてデビューします。
これが大きな反響を呼び、以来、ヨーロッパ各地で2000回にもわたって公演を繰り返し、「蝶々夫人」の作曲家であるプッチーニからも絶讃されました。
こうした業績や美貌もあいまって、彼女はわが国における本格的なオペラ歌手のはじまりとされています。
三浦環・・・「たまき」はもともと男性の名前でした。それが女性の名前にも使われるようになったのは、三浦環人気によるところが大きいと言われています。
幾多の音楽家を世に送り出してきた東京音楽学校の奏楽堂は、文部技師の山口半六と久留正道が設計にあたりました。
山口半六
二人の設計となるのですが、山口半六のほうがより主導権を持っていたようです。
まずは、当時としては異端の建築家、山口半六からご紹介しましょう。
山口半六は、1858(安政5)年、島根県松江生まれです。
大蔵省主計官、台湾総督府財政部長、日本銀行理事などを歴任した山口宗義の弟になります。
10歳にして父を失い、以後母によって養育されます。
半六13歳の時、東京に出て、明治4年大学南校(明治6年に開成学校に名称変更。東京大学の前身)に入学します。
半六は勉学に励み、メキメキ頭角を現し秀才と呼ばれていました。
文部省派遣留学生としてフランスに渡り、1879(明治12)年にパリの中央工業専門学校(エコール・サントラール)を卒業しています。
1870年のパリの様子(建築中のオペラ座の屋上から撮影)
1892(明治25)年、建築家として2人目の工学博士号を授与されますが、翌年、肺結核のため文部省を休職します。
その後、大阪にて活躍し、独立もはたします。
明治30年に大阪市から都市計画を委嘱され、日本人の近代都市計画家の先駆者としても知られます。
1900(明治33)年42歳の若さで亡くなりましたが、早すぎる死でした。
なぜ彼は異端の建築家なのでしょうか。
それは、この時代における日本の最先端の西洋建築とは少し系統が違っていたからです。
日本で最初の西洋建築家たちといえば誰でしょうか。
建築学を学ばれている方は、ピンと思い浮かばれる方もいらっしゃるでかと思います。
そんな彼らと同世代、同時期に、海外では2人の素晴らしき大和魂を持った建築家が生まれていたのです。
日本で西洋的な意味での建築家第一号は、工部大学校造家学を第1期生とする卒業生たちです。
工部大学校校舎
工部大学校とは、明治時代初期に工部省が管轄した教育機関で、現在の東京大学工学部の前身の一つです。
かの有名なコンドルをはじめ、当時の西洋建築に多大な影響を与えた講師たちが直接指導にあたっていました。
辰野金吾が設計したのは、東京駅。
辰野金吾
東京駅:大正3年竣工
丸の内の三菱オフィス街の基礎を築いた曽禰達蔵。
曽禰達蔵
旧三菱銀行神戸支店:明治33年竣工
また、以前取り上げました、「旧小笠原長幹邸」も曽禰達蔵の設計です。
スパニッシュ様式の洋館「旧小笠原長幹邸」 - 日本のすばらしい建築物
片山東熊は宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わります。
片山東熊
旧東宮御所・迎賓館赤坂離宮
佐立七次郎は日本水準原点標庫や旧日本郵船小樽支店など。
佐立七次郎
日本水準原点標庫
旧日本郵船小樽支店
そして、この時代に単身海外に渡り、直接、異国の数々の建物に触れてきた建築家が下記の2人です。
小島 憲之。
小島 憲之[小島憲之像] 岡田三郎助 作
アメリカのコーネル大学建築学部を卒業、日本人で初めて建築の学士号を取得したとされます。
旧制第一高等学校などで図学、英語を教え、多くの後進を育てました。
東京芸術大学構内に残る赤レンガの建物(旧東京図書館書籍庫)を設計しています。
夏目漱石も英語の教え子の一人です。
東京図書館書籍庫・赤レンガ2号館
そして、山口半六です。
日本の建築教育はジョサイア・コンドルを基本としていたと言えます。
コンドルはイギリスのロンドン出身の建築家です。
ジョサイヤ コンドル:日本女性(花柳流の舞踊家)を妻とし、日本画を学び、日本舞踊、華道、落語といった日本文化にも大いに親しみ、趣味に生きた人でした。
お雇い外国人として来日し、政府関連の建物の設計を手がけました。
また、工部大学校の教授として創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いたのです。
そのため直接指導していた生徒たちである辰野金吾らは、必然的にイギリス系のデザインが主流となっていきます。
もちろん、コンドル自身も、活躍していた時代なだけに、新しく建てられる西洋館はほとんどがイギリス系です。
コンドルは以前取り上げた「清泉女子大学本館」等を設計しています。
清泉女子大学本館
そんな中フランス帰りの半六は、もちろんフランス流。
彼の設計は、近世フランスルネッサンス様式を取り入れ、自由でおしゃれな印象の建物です。
イギリス系の厳格で威厳のあるきっちりと石を組むような様式とは全くことなるものでした。
兵庫県庁舎:明治35年竣工 当時の建造物としては規模、優雅さともに日本一と言われました。
また、山口と共に文部省技師として活躍したのが、久留正道です。
1855(安政2)年、東京生まれ。
工部大学校造家学科第3期生でコンドルに学びました。
山口半六が文部省営繕を辞した後の2代目指導者となります。
東京工業学校(東京工大)および東京美術学校(東京芸大)専修科で嘱託として教鞭をとったこともあります。
明治後期の学校建築の基本型として利用された『学校建築図説明及設計大要』を著したのも久留と考えられています。
『学校建築図説明及設計大要』
当社がある岡山に比較的近い建物というと、瀬戸大橋を渡るとすぐの香川県に金刀比羅宮宝物館があります。
金刀比羅宮宝物館
同僚であった、山口半六と久留正道は、共に新学制により大量に必要となった学校建築の設計に努めました。
旧東京音楽学校奏楽堂は先にも述べた通り、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)の学校付属の音楽ホールです。
当時の東京音楽学校
1890(明治23)年に竣工しました。
1898(明治31)年から、定期演奏会が始まり、第1回は滝廉太郎がバッハの曲をピアノ独奏しています。
当初は2階建てで、桟瓦葺き、中央棟に左右両翼棟を有する大きな建物でした。
竣工当時の外観図
現在の外観(中央部分と向かって左半分)
現在では、左右の翼棟は失われてずいぶんと短くなっています。
奏楽堂は、中央棟の2階にある講堂兼音楽ホールの部分になります。
1972(昭和47)年に、大学は新ホールを建てるために取り壊しを検討されましたが、結局、建物の保存のため愛知県犬山市の明治村に移築することを決めました。
しかし、音楽関係者を初めとする多くの人々の保存に対する努力が実り、歴史と伝統をふまえ、広く一般に活用されるように、東京芸大敷地の隣に旧奏楽堂としてに移築復元され、昭和63年に、国の重要文化財に指定されました。
外観:正面中央部分
木造建てで、堅苦しい厳格さがなく、海外の音楽ホールのような華やかで煌びやかなものはありません。
校舎の一部であったことから、あくまでも学生が音楽を学ぶための学舎としての意味合いを感じます。
しかし、唯一、正面屋根に切妻状のレリーフ飾りがあり、それが、中央に火炎太鼓、それをはさんで、雅楽で使う笙と西洋の竪琴が並んいます。
そこに、この建物は音楽のための特別な場所だという思いが感じられます。
屋根飾り
左右がシンメトリーのため入口は建物の中央にあります。
玄関ポーチの屋根は、建物から張り出す形となっていて、それがまるでテラスのようです。
ただ、2階からの出入り口はないようなので、優美な印象をあたえるための飾りでしょう。
また玄関扉は、ガラスをはめた観音開き戸となっています。
玄関
玄関:正面より
室内には、導線に赤い絨毯が敷かれ、階段にもおよんでいます。
階段は、親柱も手すりも上げ下げ窓も飾り気がなく、いかにも学校建築らしい作りです。
階段
次は2階のホールです。
復元のため解体した時に面白い発見がいろいろとありました。
当時の移築風景
それは、ホールの床と壁の中に藁の束が、レッスン室の壁と床、天井からおがくずがそれぞれ大量に見つかったのです。
これは、外から入ってくる余計な音などを消す(吸音する)ためだと考えられます。
当時の復元された壁のようす
音の反射は3面にある窓ガラス、エコー防止として天井の四隅がアールになっているのも特徴です。
四隅:後ろ側の一角
また天井のホール中央部分がかまぼこ型に持ち上がっているのも珍しく、天井の空間が木造漆喰の壁面とあいまって「楽器のような音響」を生み出しています。
ホール:シャンデリアの辺りの天井部分が高くなっている
ここまで、音響に力を入れられた背景には、音響設計という、音楽に精通する人間が担っていたからです。
それは、旧東京音楽学校で音楽理論と音楽史を教えていた上原六四郎でした。
ホールの床は、階段状の傾斜になっていて、天井が高くなく中央にヴォールト部を持ちます。
また、舞台横まで窓が設置されており、側壁上部に化粧方杖があるなど、現在の一 般的なコンサートホールとは大きく異なる建築的特徴が見受けられます。
ホール:全体
化粧方杖:美しさに加え、音響効果を高める意匠だとも言われています。
また、こちらに訪れた際には必ず見て頂きたいものが、舞台中央のシックなパイプオルガンです。
アボット・スミス社製でパイプ総数1,379本。
今では世界でも珍しい吹いごしで風を送る空気式アクションの、わが国最古の貴重なコンサート用オルガンでやわらかな音色が魅力となっています。
このパイプオルガンは、音楽好きの旧紀州藩の徳川頼貞侯爵が1920(大正9)年に英国から購入し、震災後に寄贈したものです。
パイプオルガン
実は以前こちらのパイプオルガンの話に触れたことがあります。
「旧徳川頼倫邸」の時です。
こちらをご覧いただきますと、徳川頼倫の息子である頼貞が大変な熱意を持ってパイプオルガンをわざわざ作らせ、どのような経緯でこちらにやってきたのかわかりますので、是非ご覧ください。
お殿様の図書館 「旧徳川頼倫邸」 - 日本のすばらしい建築物
壁や天井には、シンプルですが印象に残る飾りが随所に施してあり、独特の雰囲気を創り上げています。
壁飾り
最近まで毎年コンクールや演奏会など、気軽に音楽を楽しむことができていましたが、今は保存修理工事のため休館しています。
リニューアルオープンは平成30年度とのこと。
コンクール会場は違う場所で行っています。
この修復により、いつまでも使われ続ける生きたホールとして、永久に愛され続けてほしいものです。
温かみのある木造の校舎からは、今でも当時の有名な学生たちの声が聞こえてきそうです。