日本のすばらしい建築物

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仁風閣(鳥取藩の文明開化)

こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。

 

鳥取市中心部のほど近くに、白く美しい洋館が佇んでいるのをご存じでしょうか。


鳥取城の跡地に久松公園(きゅうしょうこうえん)があり、その緑が開けたところに仁風閣が建っています。

 

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この建物は、旧鳥取藩主の池田仲博侯爵の別邸として建てられました。


設計にあたったのは、宮廷建築家の片山東熊です。


彼については、旧洋館御休所をご紹介した際に、経歴を載せております。

 

ぜひご覧ください。

 

旧洋館御休所(新宿御苑内) - 日本のすばらしい建築物

 

片山東熊はフランスのルネッサンスやバロック様式を用いて、贅沢で華美なものが多くありますが、この地に建てた仁風閣もルネッサンス様式を基調とした木造瓦葺の本格的な西洋建築となっています。

 

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片山東熊

 

施主である、池田仲博は、1877年、徳川慶喜の5男として生まれ、初名は「博」と言います。

 

父である徳川慶喜は、徳川家最後の将軍として有名な人物です。


1867(慶応3)年10月14日、明治天皇(朝廷)に政権返上を願い出て、翌日に勅許されました。


これが、大政奉還です。

 

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大政奉還:二条城の黒書院にて

 

その後、鳥羽・伏見の戦いで敗れて、江戸を明け渡し、水戸や静岡にて謹慎をしています。


1869年には謹慎が解けますが、政治的野心をもつこともなく、徳川宗家(初代将軍家康を祖とする家)から潤沢な隠居手当をもらい、趣味に没頭していたようです。

 

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徳川慶喜

 

写真、狩猟、囲碁、謡曲、サイクリング、弓道、お菓子作りなど多趣味で、しかもすべてプロ級の腕前だったと言います。


男性がお菓子作りとは可笑しく感じますが、慶喜は側妻や召使いたちを集めて、手づくりのケーキを振る舞っていたと言いますから、女好きと言われた慶喜のイメージ通りで、なんと優雅なことでしょうか。


しかし、このように余生を送っていた慶喜を快く思っていなかった人物も多かったようです。


幕臣として箱根戦争に参加し、新政府軍に最後まで抵抗した老中・板倉や命を落とした家臣たちの気持ちを思うと、当然のここと言えるでしょう。


また、読書が好きで、新聞を毎日読み、さらに次第に幕末に関する書物が発売されると、それを積極的に読んでいたそうです。


それにより、当時の裏事情や大政奉還が坂本龍馬の発案であったことなどを知ったと言います。

 

書物には、「徳川幕府を守れきれなかった」という当初からの批判や、徐々に「大きな内戦とならずに明治維新を迎えることに貢献した」という評価まで様々あり、そんな世の中の動きをずっと見ていたのでしょう。

 

そんな書物や記事をどんな思いで見ていたのかは読み取れませんが、1913(大正2)年77歳で生涯を終えました。


そんな、慶喜には、正室の間に子供が生まれませんでしたが、複数の側室の間に、10男11女をもうけています。

 

慶喜40歳の頃に生まれたのが、池田仲博(博)でした。

 

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鳥取藩主14代当主 池田仲博

 

どうして、博が鳥取藩主となったのかというと、旧因幡国鳥取藩主の13代当主であった池田輝知が30歳という若さで死去したことがきっかけでした。


跡継ぎを残さずこの世を去ってしまったため、叔父にあたる徳川慶喜(15代将軍)の5男、つまり博を輝知の次女(亨子)の婿養子としてむかえることになったのです。


その際、初名の「博」から鳥取藩の初代藩主であった池田光仲の一字を加えて、池田仲博と改名しました。

 

仁風閣ですが、建設されたのは、1907(明治40)年です。

 

先に述べた通り、片山東熊に設計を依頼し、片山の後輩にあたる鳥取市出身の橋本平蔵が監督にあたりました。

 

それにしても美しい洋館です。

 

ここまでの建物を鳥取城跡に要望したのは、とある理由があったと言われています。

 

それは、当時の皇太子(後の大正天皇)が山陰にお越しになる際の宿泊所として、急遽、建てさせたというものです。


この美しい邸宅が、起工から完成まで要した期間は僅か8ヶ月という短さから、それがどれだけ急ピッチで行われていたのか想像が出来ます。


建築費用は当時4万4千円で鳥取藩の年間予算が5万円だったいうことなので、その建築費用は莫大なものでした。

 

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大正天皇

 

大正天皇は明治以降で初めての一夫一妻制を採り、側室そのものを事実上廃止して、家庭を大切にした天皇でした。


幼少の頃は歳の近い兄弟もおらず、教育の為に幼くして養子に出された大正天皇は家族と過ごす時間がほとんどなかったと言われています。


皇太子時代から気さくで、行啓先でも庶民に親しく話しかけていたそうです。


明治天皇は「姿を見られる機会が増えても神聖な存在であり続けなくてはいけない」、「言動にも細心の注意を」と考えていたそうですが、父とは真逆の考えを通していました。

 

皇太子が鳥取に行啓した際に、元帥海軍大将の東郷平八郎がお供として同行していましたが、彼が「仁風閣」の名付け親だと言います。

 

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東郷平八郎:1907(明治40)年頃 この頃はまだやさしい顔をしています。


明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人です。

 

それでは、山陰の地で真っ白に輝く仁風閣を見ていきましょう。


立地は、冒頭に述べました通り、城跡に建設されているため、堀の外側から見ると城の石垣に、真っ白い洋館がが浮き上がって見えます。

 

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建物西側

 

外観正面は、いかにも白亜の豪邸といった印象で、繊細で美しい姿です。

 

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外観:正面

 

門から外観正面を望むと、建物正面に松が植えられ、玄関付近をあえて眼隠している意匠です。


防犯のためや、家主や客人が気兼ねなく出入りできるようにとの心遣いを感じられます。


また、建物には車寄せが設けられ、馬車や車が通る道は白い砂利が敷き詰められ、丁寧に整備されています。

 

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車寄せ

 

セグメンタルペディメントと呼ばれる半円形に膨らませた櫛形破風の棟飾りを設えることで単調になりがちな外壁面に変化を与えています。


寄棟造りの屋根は瓦葺で、ルネッサンス様式にみられる王冠型の棟飾り、茶色の煙突が6つあり、白い円形の換気用窓が随所に設置されています。

 

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櫛形破風:中央の装飾は六芒星に揚蝶

 

建物の西側には、螺旋階段用の八角尖塔があり、こちらの屋根は緑青銅板葺きなのか少し趣が異なります。


ゴシック様式を代表させる尖塔があるだけで、西洋らしさを彷彿とさせ、とても可愛らしい印象を与えてくれます。

 

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八角尖塔

 

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八角尖塔:屋根部分 円形は換気窓

 

建物の裏側には、池を持つ宝隆院庭園があり、こちらから望む背面は正面よりも2階の窓の桟が繊細でより美しく感じます。


背面は左右対称となっていますが、真っ正面に立つと、西側の八角尖塔が少しのぞいて見えます。

 

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外観:背面

 

宝隆院庭園は回遊池泉式で、1863(文久3)年に、最後の鳥取藩主の池田慶徳が先代の未亡人(宝隆院)を慰めるために造営したというものです。

 

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宝隆院庭園

 

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宝隆院庭園:日本庭園と洋館の間に芝生があり、そこで和洋が切り替わるようです。

 

洋館と日本庭園の組み合わせは、以前ご紹介した盛美館を思い起こさせます。

 

盛美館(庭を愛でるための館) - 日本のすばらしい建築物

 

それでは、室内をご紹介しましょう。

 

1階は現在展示室となっており、鳥取藩池田家の所縁の品が展示してあります。


どの部屋の家具・調度品も、多くは当時の状態で残されており、どれも丁寧で手が込んだものです。


また壁紙や天井等の内装は後に張り替えているようですが、建設当初の状態を参考にしてあると言います。

 

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1階展示室:ソファと書斎机は、池田仲博が、東京の屋敷で使用していたものです。


しかし、仁風閣の見どころはなんといっても2階です。


2階に上がる階段はこの建物に2ヶ所あります。


家主や客人が使用する階段は、木製で重厚感があり、落ち着いた色彩の絨毯が敷いてあります。

 

また、手摺には細かな装飾が施され、手が込んだ造りです。

 

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階段:中央部分にのみ絨毯が敷かれ、色彩に落ち着きがあります。

 

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階段手摺の装飾

 

2階を上がるとすぐのホールには、東郷平八郎直筆の「仁風閣」の額があります。

 

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2階:東郷平八郎の直筆

 

2階の各部屋は皇太子(大正天皇)が宿泊された当時の名前で呼ばれていて、見どころとしては、謁見所・御座所・ご寝室の3か所です。


謁見所は皇太子と客人との謁見の場所として利用された部屋で、1階の展示室と同じ広さとなっていています。 

 

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謁見室:こちらの開いている2ヶ所から、サンルーフへ出ることが出来ます。

 

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謁見室:マントルピース イタリア産の大理石が使われています。

 

御座所は皇太子が居室として使用した部屋です。

 

こちらの部屋は細部にわたり装飾がなされ意匠に凝っています。

 

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御座所:家具は当時のもので、とれも美しく精巧です。

 

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御座所:椅子 椅子の背もたれには蒔絵のような装飾があります。

 

どちらの部屋にも、家具が少なく、スッキリしていますが、マントルピースや、またカーテンボックスは、まさに職人の技といえる繊細さで一見の価値があります。

 

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御座所:カーテンボックスとカーテン

 

天井もとても高く3メートルはありそうですが、それに見合うカーテンもたっぷりと襞がとってあり優雅な印象です。

 

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御座所:マントルピース イギリス製の飾りタイルが用いられています。

 

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御座所:マントルピース・タイル部分


御寝室は、皇太子の寝床であった場所で、華美ではなく上品な色彩です。

 

洋館にも関わらず、畳が敷かれているという和洋折衷となっています。


そこにマントルピースがあるのも、明治の建築物ならではの面白い部分でしょう。

 

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御寝室

 

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御寝室:マントルピース・タイル部分

 

次に2階のサンルームです。

 

外観から見た時に、とても繊細な印象を与えてくれますが、実は竣工当時は吹き放ちでした。

 

1階はテラスとなっていますが、2階も同じような状態だったと思われます。


この地は、冬になると雪が積もり、寒さもこたえます。


一冬を超えたあと、サンルーフへと改装を決めたそうです。


ガラス窓が設けられ、悪天候時や冬季にもサンルームとして快適に利用することが出来るようになりました。

 

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2階サンルーム:ガラス窓の下にも装飾が施されています。


仁風館で一番特徴的な場所といったら、八角尖塔でしょう。


こちらの内部は、たいへん美しい螺旋階段となっています。

 

もとは、使用人が上がり下がりする階段だったようですが、支柱が無くスッキリとしていて、滑らかな曲線美は芸術的な域にまで達しています。

 

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螺旋階段:1階から 

 

この階段の構造は、「ささら桁」と呼ばれ、硬いケヤキの厚板でのみで支える構造です。


ケヤキは決して柔らかく加工しやすい材木ではありません。


そのためこの複雑な立体的な三次元をどようのようにして生み出しているのか、卓越された職人技を感じます。


6枚が一組となっていながら、8角形の壁にそって上がっているのです。


さらに圧巻なのは、そこに窓が存在していることです。

 

窓の存在をなかったかのように横切っている姿には驚きを隠せません。


現代の職人をもってしても、再現出来る技術かどうかは、甚だ疑問なくらいです。

 

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螺旋階段:2階から


仁風館が完成した年に、山陰本線が鳥取まで延長され、県下初めての電気が開通したといいます。


それだけ、皇太子の行啓がこの地で一大事であったかが想像できます。


鳥取藩の文明開化のきっかけになったのは間違いないでしょう。

 

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御座所:シャンデリア 当時と同じ白熱灯が用いられ温かな光で満ちています


久松公園は桜の名所として知られ、「さくらの名所100選」にも選定されている場所です。


秋には紅葉の名所として全国各地からたくさんの人々が訪れます。

 

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JR鳥取駅から徒歩で30分、周遊バスや循環バスも走っています。

ぜひ、行楽シーズンに訪れてみてはいかがでしょうか?