日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧水海道小学校本館

 こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。

 

茨城県水戸市に何とも面白く優雅で堅牢な擬洋風建築の小学校があります。


面白くと述べましたのは、日本の棟梁たちが見て感じた「西洋の建物」を、大工の美的センスがプラスされて出来た独特の個性美があるからです。


そして、後に保存のために移築されましたが、元の場所のままなら東日本豪雨によって壊滅的な被害を受けていたかもしれません。

 

それは、「旧水海道小学校本館」です。

 

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旧水海道小学校本館は、1973年以前、茨城県常総市水海道天満町にありました。


つまり、現在の水海道小学校の位置です。


まだ記憶に新しいですが、2015(平成15)年9月10日鬼怒川付近の堤防が決壊した東日本豪雨により、この地域一帯も被害にあいました。

 

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東日本豪雨 2015(平成15)年9月10日


学校は浸水しませんでしたが、避難所として多くの住民が集まり、不安な数日を過ごしました。


この東日本豪雨は、鬼怒川の堤防決壊で、市街地の広い範囲が浸水し、あふれた水は高さ約4メートルの堤防を20センチ越えたと推測されています。


浸水地域は約32平方キロで、約6500棟の住宅が被害にあい、複数が流されてしまいました。

 

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常総市立図書館:近くの市立図書館が浸水し、約3万点の書籍や郷土資料などが水没しました。 毎日新聞2015年10月15日

 

鬼怒川は、関東平野を北から南へと流れ利根川に合流する一級河川です。


鬼怒川は江戸時代初期まで本流の河川で、その最下流部は太平洋ににつながる香取海へ直接注いでいました。


そして、上流部で大雨が降るとその下流部では氾濫がおき、たびたび洪水を引き起こしていたことから、江戸の排水性を高めることと、水害から町を守り、関東平野の新田開発や、船による運搬の流通を促進するため、江戸初期に治水工事が徳川家康によって指示されました。

 

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普段の鬼怒川の様子

 

今回ご紹介する旧水海道小学校が建設されたのは、1881(明治14)年ですので、江戸時代の治水工事よりも後に建設されていますが、それでも台風の影響で洪水は何度か起こり、水海道市も被害を受けています。


しかし、治水工事により、もちろん良いこともありました。


鬼怒川を利用した船運が発達し、商業都市や交通の要所として、古くから大変栄えたのです。

 

ちなみに鬼怒川という名前の由来は複数あります。


・平安時代には「衣川」や「絹川」と呼ばれ、養蚕業が盛んに行われていたことから、その響きで鬼怒川になった説。


・毛野国(けぬのくに)に流れていた毛野川(けぬのがわ)がなまって鬼怒川となった説。


・いつもは穏やかに流れている川が、一旦荒れると字のごとく、鬼が怒ったように荒々しくなることから、鬼の怒る川と名付けられたという説。


9月10日の災害の様子を映像で見てしまうと、つい3番目が正しく感じてしまいます。


ちなみに水海道市が現在の常総市という名前になったのは約10年ほど前で、常総市を南北に分けて北が「石下地区(旧石下町)」、南が「水海道地区(旧水海道市)」になります。

 

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小鵜飼船:鬼怒川で活躍した船で浅瀬や急流に適していた船で、平底の木船です。

 

この地は洪水などもありましたが、町が栄えたことで、江戸の文化人が集まり、移住も多く、新しい文化や教育に大変熱心な土地柄でした。


江戸が終わり、明治維新にと共に西洋から全く新しい文化が湯水のごとく浸透していったに違いありません。


しかし、当時は学校を建てるための資金が行政にはありませんでした。


そのため地元の人々の寄付に頼らざるを得ません。


地元有志による寄付金は当時のお金で5000円にも上り、当時流行の最先端であった洋風建築の校舎が誕生したのです。


このハイカラな洋風の小学校の噂はあっという間に広がり、近隣の村々では子どもを水海道の親戚に預けてでもこの学校に通学させようとした者も現れたと言います。

 

またこの地域では近い時代に建てられた擬洋風建築が現在でも残っており、地元の人々が新しい文化をいち早く取り入れようとしていたことを感じることができます。

 

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五木宗レンガ蔵:1882(明治15)年竣工

 

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旧報徳銀行水海道支店:1912(大正元)年竣工

 

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旧水海道町役場:1913(大正2)年竣工

 

この学校を設計・施工したのは、地元の宮大工・羽田甚蔵です。


女優・羽田美智子さんの高祖父にあたることでも有名な人物です。


羽田は水海道の一言主神社、天満宮などの造営にも尽力したと言われています。

 

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羽田甚蔵

 

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 一言主神社

 

この頃、地元の宮大工であった羽田が実際に西洋建築を見ることは難しかった時代です。


町民たちが自らの手で新しい時代にふさわしい洋風の小学校を建てようと寄付金を集めた学校なだけに、羽田が西洋建築について特別な知識がなかったと考えると、洋風の学校を建てるには相当の度胸が必要であったかもしれません。


当時30代だった羽田は、わざわざ横浜の外国人居留地まで出向いて、西洋建築の見学・技術を学びに出かけたと言います。

 

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横浜・外国人居留地の様子

 

横浜山手の外国人居留地について以前触れています。


ぜひお読み頂ければと思います。

 

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山手234番館(外国人向け復興住宅) - 日本のすばらしい建築物

 

校舎は、真ん中の塔の部分を入れると3階建てになります。


町民たちには「さんがい」と呼ばれ、子供たちのみならず人々の羨望の的となりました。

 

建物は90年もの長きに渡り学校として使用されていましたが、茨城県立歴史館に移築・復元され1974(昭和49)年に資料展示室として一般公開されました。


1921(大正10)年に移築された際に大改造されましたが、幸いにも1881(明治14)年の竣工当時の写真と見取り図、各室の寸法書があったために、それをもとに復元することができ、当時の姿を今に再現することができました。

 

この移築により、当初の水海道市から離れ、水戸市へと移り鬼怒川から離れることとなったのです。

 

旧水海道小学校本館は、小学校とは思えないほど堂々とした気品を感じる姿です。


外壁は下見板張り、瓦葺屋根で、左右がシンメトリーになっています。

 

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正面外観

 

建物中央には、特徴的な八角形の鼓楼が天を指し、窓は西洋の特徴である上げ下げ窓となっていて、3階建てです。


この鼓楼の高欄(手摺)には松の透かし彫りが施され、消防士の帽子のような屋根が特徴的で、これはイスラム風の意匠といえるでしょう。


創設当時には、鼓楼の天井に太鼓をつるし、現代のチャイムのように授業開始の合図や時刻を告げていました。


この建物が擬洋風といいながら、何となく東洋をイメージしてしまう部分があるのは、この鼓楼のせいでしょうか。

 

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鼓楼:日本では、寺院、神社などの宗教施設内に見られ、時計が普及していなかった時代に太鼓や鐘などによって人々に時が告げられてきたものです。


鼓楼がある建物で、旧水海道小学校に似ている建築物には旧開智学校等があります。

 

旧水海道小学校よりもさらに、東洋・西洋・日本が混ざり合い独特の雰囲気を醸し出しています。 

 

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旧開智学校:1876年(明治9)年竣工

 

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旧開智学校:正面

 

旧水海道小学校本館は、中央正面に5.5メートルの玄関が張り出し車寄があり、その上部はベランダとなっています。


一見すると、前回ご紹介した「泉布観」の正面に少し似ている印象を持ちますが、そちらとは形の違う円柱が1階4本、2階4本見受けられます。

 

泉布観(旧大阪造幣寮応接所) - 日本のすばらしい建築物


この2階中央の軒下には、雲の形をした和風の彫刻があり、真っ白な西洋風の柱とのなんとも不思議なコラボレーションですが、まさに擬洋風建築の醍醐味に感じるのです。


羽田が横浜に見学に行った時には、写真が簡単に取れない時代だったはずです。

 

目に建物の形を焼き付け、おそらく筆で模写したと推測されます。


羽田が捉えた西洋異文化への対峙と、もっと新しいデザインを生み出そうと苦心したことが想像できます。

 

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車止めとベランダの様子・横から

 

また、正面ベランダの上部の破風には、ピナクルという飾り塔が建っています。

 

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ピナクル

 

次に、建物の裏側ですが、中央正面の車寄せやベランダなどの施設を丸ごと取っ払った簡素な姿です。


これほどまでに、印象が変わってしまうのかと驚かされます。


それだけに、正面の意匠には強く人々を圧倒させる力があります。

 

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裏側

 

室内ですが、写真を撮ることが出来ませんので簡単にご説明させて頂きます。

 

開校当時の学校の様子がわかる展示や、幕末・明治維新期のピアノ、昔の教室や給食を再現した部屋もあります。

 

特に、ピアノはスタインウェイ&サンズ社製のピアノで大変貴重なものです。

 

現在は、年3回ほど演奏会が開かれ、実際に当時から変わらぬ音色を楽しむことが出来ます。

 

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スタインウェイ&サンズ社製のピアノ

 

こちらは、1865(慶応元)年に、アメリカ・ニューヨーク市で生産され、1871(明治4)年にハーパー夫人が購入し、横浜へ送り届けられます。


日本に洋楽が導入された明治維新の初期のピアノの1台で、文明開化を象徴する楽器の1台と言われています。


そのピアノがなぜここにあるのかというと、1937(昭和7)年に、現在の水海道小学校の講堂が完成したことを記念して、東京の楽器店から購入したそうです。

 

室内全体の内装ですが、とてもシンプルで簡素なもので、決して華美ではありません。

 

階段も踊場のない鉄砲階段で手摺も簡素なものです。

 

外見は優雅で目を引きますが、あくまで学校として正しく機能するように考えられたのでしょう。

 

しかし、正面玄関や窓、2階のベランダ側の窓などに、半円アーチの欄間があり、そこには色ガラスがはめ込まれています。

 

この色ガラスの欄間は、2階玄関ホールと職員室をつなぐドアの上部にも施されており、外部からの光を受けて大変鮮やかで、シンプルな部屋のアクセントとなっています。

 

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半円アーチ・色ガラス:建物裏側の中央裏口と窓

 

ステンドグラスと色ガラスの違いですが、ステンドグラスとは、着色された (stained:ステンド)、グラス(glass:ガラス)の意味です。


つまり、透明なガラスに色素を塗れば、カラーのガラスを作ることができ、それをステンドグラスと呼びます。


色ガラスは、ガラスの原料の中に色々な金属を混ぜて、ガラスそのものに色を付けているものです。


主な金属酸化物と作られる色は、銅→緑、コバルト→青、マンガン→紫、鉄→黄土色、金→赤といった具合です。


さらに複数の金属を合わせると、他の色を生み出すこともできます。

 

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鳩山会館(旧鳩山一郎邸):1924(大正13)年竣工 サンルームと応接間の欄間部分のステンドグラス

鳩山会館(旧鳩山一郎邸) - 日本のすばらしい建築物

 

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旧小西荘三郎邸:1897(明治30)年 竣工色ガラスのある座敷として有名 

 

130年前に小学校に行けるというのは、名家やお金持ちの商家の子どもだけだったかもしれません。


その中でも、この立派で堅牢な建物を見ると、わざわざ水海道に学びに来させたいと願う親の気持ちも納得できます。


このハイカラな小学校は、町の人々が、新たな時代を担う子供たちの成長と未来を託した小学校なのです。

 

東日本豪雨により被害を受けた町の復興を願いながら、激動の明治で人々が一丸となって築いた小学校をご紹介させて頂きました。


ぜひ、一度足をお運び頂けたらと思います。