日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧呉鎮守府司令長官官舎(呉市入船山記念館)

日本の伝統的な高級壁紙と言えば、金唐革紙と言われています。

 

これを実際に貼って仕上げられている建物は、残念ながら国内に数えるほどしか残っていないのです。

 

今回は、そのうちの一つ「旧呉鎮守府司令長官官舎」をご紹介します。

 

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この建物は、広島県呉市にある旧海軍施設の一部です。

 

明治期の海軍の基準は世界最強と謳われたイギリスで、日本は同盟を結んでいたこともあり、海軍はイギリス様式を取り入れるようになっていました。

 

そのため、この長官官舎もイギリス風住宅を意識した設計となっています。


そもそも、なぜ明治初期には名も知られない漁村であった場所に、日本海軍が置かれるようになったのでしょうか?

 

最初のきっかけとなった明治に遡ってみながら、「旧呉鎮守府司令長官官舎」を見ていきたいと思います。

 

江戸幕府を倒したあとの明治政府は、いち早く世界に通じる国を目指し、近代化に向けまっしぐらでした。

 

最もそれが顕著に現れているのが、明治政府が打ち出したスローガン「富国強兵」です。


国を豊かにして欧米諸国(先進資本主義諸国)に負けない様に兵を強くする事で、そのためには近代産業の技術を海外からどんどん取り入れ、急速な資本主義と近代的軍事力を推し進めました。


資本主義国家を「富国」としてとらえ、近代軍事力を「強兵」ととらえたのです。


そのためのお金を稼ぐために、殖産興業を合言葉にて建設されたものの一つが、富岡製糸場でした。

 

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富岡製糸場:2014(平成26)年に世界遺産に正式登録されました。

 

そして、1886(明治19)年に全国を5つの海軍区に分けて、鎮守府と軍港を設置する条例が出来ました。(海軍条例)


鎮守府とは、海軍の根拠地のことで、各海軍区の警備、部隊の監督などを行なった機関のことです。


その5つとは、横須賀(神奈川県)・呉(広島県)・佐世保(長崎県)・舞鶴(京都府)と、室蘭(北海道)に予定されていましたが室蘭は取りやめとなっています。

 

ちなみに、現在の海上自衛隊・地方隊は上記4か所と青森県むつ市大湊町の「大湊」の5か所となっています。


呉は横浜に次ぐ、西日本と四国を統括する第二海軍区として鎮守府が置かれましたが、呉が選定されたのは、横須賀・佐世保・舞鶴に共通して、湾の入口が狭いこと、陸地が山に囲まれていること、敵の攻撃を防ぎやすい地形であることが理由だと言われています。

 

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呉市・江田島の地図:2016Google,SKplanet,ZENRIN

 

やはり日本全体を考えると瀬戸内海は敵からの直接的な攻撃を受けにくく、水面の広さや海の深さも大型船の行き来や、造船に適していました。


呉は、直接的に他国へ攻め入るためではなく、造船・兵器製造・燃料補給所・兵士の派遣といったことが目的であったようです。


呉と三原が候補にあがり、最終的には呉に決まりました。

 

明治初期までは穏やかな漁村が、第二海軍区と指名された時から一変し、大変な変革を遂げることとなったのです。

 

1889(明治22)年に呉鎮守府は開庁します。


多額の費用をかけて湾の整備を行い続け、東洋一の大工場に成長していくのです。


開庁前の人口は1万5,000人でしたが、その15年後にあたる1902(明治35)年には6万人、その後も人口は増え続け1943(昭和18)年には、呉市人口が40万人を超えるまでになりました。

 

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旧呉鎮守府庁舎(現・海上自衛隊呉地方総監部庁舎)

 

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現在の様子

 

呉鎮守府は1903(明治36)年に、呉海軍工廠となり兵器開発、造船の最重要拠点となります。


日露戦争後は、職工が2万4000人ほどになり、東洋一の大工場を持つ軍港・工廠として知られていました。


造船技術は卓越しており、先端的な軍需鉄鋼研究を行い、有名な戦艦をいくつも生み出しました。


昭和に入ってからは、戦艦「大和」もその一つで、最終決戦を想定してつくられた戦艦であり、悲壮な最期をむかえたこともあり、映画や小説にも多く取り上げられています。

 

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戦艦大和:1941(昭和16)年10月30日 試運転中の大和

 

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呉海軍工廠にて建造中の「蒼龍」1937(昭和12)年初頭



呉湾は太平洋戦争終戦までの60年間を海軍とともに栄えました。

 

呉にあった最新の鉄鋼技術は、JFEや日新製鋼などの民間鉄鋼メーカに、造船技術はIHIへ引き継がれ、そのまま呉市の基幹産業として発展します。


現在は、海上自衛隊呉基地として軍が残っていますが、貿易港として栄え、海上自衛隊呉史料館や大和ミュージアムとして軍の関連施設が教育資料・観光資源として機能しています。

 

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海上自衛隊呉史料館・てつのくじら館

 

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てつのくじら館では、実物の潜水艦が野外展示されています

 

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大和ミュージアム:1/10スケールの大和の模型が展示されています


今回ご紹介する「旧呉鎮守府司令長官官舎」は、1905(明治38)年に竣工された建物です。


明治38年と言えば、日露戦争が終結し日露講和条約(ポーツマス条約)調印された年にあたります。


日露戦争の勝利に多くの日本人は酔いしれ、戦争による2度目のバブルが起こっていたころです。


以前、ブログで日清戦争・日露戦争の経緯と株について触れています。


ぜひ、お立ち寄り頂けたらと思います。

 

鎌倉市長谷子ども会館(旧諸戸邸) - 日本のすばらしい建築物

 

この官舎の設計は桜井小太郎によるもので、日本人初の英国公認建築士として知られています。


桜井は、1870(明治3)年に、維新政府の官僚である桜井能監の長男として東京で生まれました。

 

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桜井小太郎


東京帝国大学を卒業後、ジョサイア・コンドルの建築設計事務所で実務の経験を積んでいきます。

 

1889年(明治22)年に、イギリスのロンドン大学へ留学し、なんと主席で卒業。


その後、ロンドンのプロフェッサー・ロジャー・スミス建築事務所で2年間実務修習を行い、その際に名誉ある英国王立建築家協会賞を受賞しました。


英国王立建築家協会とは、世界最初の建築家協会で、その賞となると、当時でも大変名誉あるものです。

 

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英国王立建築家協会・本部

 

ちなみに、世界的に有名で、最も権威ある賞と言われているのが、この英国王立建築家協会が毎年表彰している、RIBAロイヤルゴールドメダルにあたります。

 

協会賞以上に名誉あるゴールド・メダルを受賞している日本人は現在までに4人で、そのうちの一人が建築家の安藤忠雄氏です。

 

最近では、国立競技場の建て替えのために、新国立競技場の最初のデザインを審査した審査委員だったために、話題になりました。

 

その際にデザインが選ばれたザハ・ハディドさんが、2016年の女性初のゴールド・メダルを受賞することが、決定しています。

 

とても皮肉なものです。

 

素晴らしい才能・実力・実績を兼ね備えた人物がそれに当たるようになっていても、現代(時代)に合うもの、設計者が求めるもの、政府が求めるもの、国民が求めるものと複雑な要素が絡みあいます。

 

だからこそ、宮邸・侯爵邸・官舎などを建築家にすべて委ね、自由な設計、費用はいとわないという時代に作られた建築物を見るのは面白いのです。

  

続いて世界的に権威がある賞と言えば、アメリカ建築家協会が主催するAIAゴールドメダル、続いてプリツカー賞です。


安藤忠雄氏はAIAゴールドメダルも受賞されており、この賞はたいへん厳しい審査があることでも知られ、これまでに日本人は3人のみが選ばれています。

  

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安藤忠雄

 


桜井ですが、協会賞を受賞した後、ついに1892(明治25)年、に日本人初の英国公認建築士称号を獲得します。


イギリスにおいて建築家という称号は、単なる建築資格ではなく、特別な意味を持っています。


登録に至るまでに、厳しい判定基準をすべてクリアしなくてはならず、一度取得したからといっても毎年の新規登録者と同じくらい登録抹消者もいるのです。


現代においても、たいへん難しい歴史ある資格です。


しかも明治時代は、日本人ということで海外では不利になることも多かったはずです。

 

そんな時代で世界をうならし、次々に世界の名だたる賞を獲得していく姿に驚かされ、日本人として誇りに思います。

 

1893(明治26)年に日本に帰国した桜井は、3年後に海軍技師となり、呉鎮守府に赴任することになります。


1903(明治36)年には呉鎮守府経理部建築科長に就任しますが、今回ご紹介する官舎はその頃に設計されたものです。


17年ほど海軍技師として働きますが、その後退官し曾禰達蔵の誘いもあり三菱合資会社(現・三菱地所)に在籍しますが、そこを経て、1923(大正12)年独立し事務所を開きます。


代表的な建物と言えば、丸の内ビルヂング旧館でしょう。


昭和戦前期では最大のビルで「東洋一のビル」と謳われ親しまれてきましたが、1999(平成11)年に取り壊わされ、2002(平成14年)に生まれ変わりました。


名称も「丸ノ内ビルヂング」から「丸の内ビルディング」に改名されています。


日本建築学会が1997(平成9)年に保存要望書を三菱地所に提出していたそうですが、聞き入れてもらえなかったと言います。


耐久性や利便性の問題があるのでしょうが、歴史的な建造物がまたひとつ、またひとつと消えていくのは、本当にもったいないものです。

 

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旧丸の内ビルヂング:1923(大正12)年竣工

 

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静嘉堂文庫 -:1924(大正13)年竣工

 

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旧横浜正金銀行神戸支店(神戸市立博物館):1935(昭和10)年竣工

 

明治、大正、昭和と精力的に駆け抜けた桜井でしたが旧横浜正金銀行神戸支店を最後に引退し、1953(昭和28)年83歳で亡くなりました。

 

 それでは、1905(明治38)年に竣工した旧呉鎮守府司令長官官舎を見ていきましょう。

 

この洋館は、イギリス風ハーフティンバー様式の建物です。


ハーフティンバー様式とは、北方ヨーロッパに多く用いられた技法で、半木骨造とも呼ばれていて、15世紀から17世紀のイギリスの住宅に多く採用されていました。


この様式の特徴は、柱・梁・筋交い・窓台といった軸組みの材木を隠さず、その間を漆喰・煉瓦・石などで仕上げたものです。


外観が特徴的なため、文章で読むより、写真を参考にして頂いたほうがわかりやすいかもしれません。

 

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雲仙観光ホテル

 

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軽井沢万平ホテル

 

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旧華頂宮邸

 

長官官舎ですが、屋根は左右の大きさが違う切妻屋根で、魚の鱗を見立てて葺いた魚鱗状の天然ストレート葺き。


ブルーグレーの色が美しさと落ち着きを与えてくれます。


この屋根は、正面玄関の庇を兼ねていて、ぐっと前に突き出ています。


これにより機能的なこともありますが、大変印象的で人の心を捉える力を生み出しています。

 

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正面

 

壁は漆喰塗りで白く、その間から黒く塗った柱や梁が装飾の一つとして浮き上がっています。

 

正面の中央右寄りに玄関が堂々と配置されており、玄関を挟んで左右には大き目の窓が見受けられます。

 
玄関に向かって、右が応接所、左が客室となり、それぞれの窓の上部の軸組みが模様として美しさと個性を感じさせてくれる意匠です。

 

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応接室側:曲線が美しい

 

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客室側:大きな出窓があります


また玄関上部の屋根にある「ドーマ」の位置がたいへん素晴らしく、細かく計算された様子が見受けられます。


もちろん玄関ホールへの採光の役割をしっかりとはたした上で、窓の形とサイズがバランスよく配置されています。

 

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ドーマ:ドーマとは屋根から突き出した小さな小窓のことです。

採光と通気性が良くなり、また外観を印象づけるアクセントとしてヨーロッパ建築によく見られます。

 

建築面積が527㎡もあり、建物は平屋で正面から見ると洋館の姿ですが、実は奥には和館が続いています。

 

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奥の和館部分

 

玄関には、海軍の官舎を連想させる、碇のマークと桜の模様が入った磨りガラスがはめられ、左右と上には、イギリス製のステンドグラスがはめられています。

 

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正面玄関


館内の見どころとしては、冒頭でも触れた金唐革紙が使われている部屋でしょう。

 

壁紙に金唐革紙を貼っている建築物は国内に10か所ほどしかないと言われています。

 

金唐革紙とは、15世紀にヨーロッパで生産されたギルトレザー(金唐革)を、日本独自に発展させ和紙に施したのが始まりです。

 

もともとは、欧州の皮革工芸品で、王侯貴族の宮殿や官舎に用いられ、壁や天井に高級壁紙として使用されていました。


江戸時代にはスペインから日本に輸入されていましたが、日本の鎖国によって入手が難しくなったことと、牛革では少ししか取れないことから大変貴重であったために、
代用できるものとして日本古来からある和紙に金唐技術を施した伝統工芸が生まれたのです。


そのため、実際には革は利用していないので、金唐紙とも呼ばれています。


金箔をはった手すき和紙を、細かな文様を彫り込んだ版木棒にのせて叩いて凹凸をつけ、模様が立体的に浮き出た部分に彩色を施す技法です。

 

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食堂壁面の版木棒:展示より

 

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食堂の金唐革紙:黄色く四角で囲った部分が上記の版木部分の模様にあたります。

 

江戸時代中期の金唐紙は、ヨーロッパで流行したアール・デコに通じる日本独自の高いデザイン性があり、世界でたいへん注目されました。


1873(明治6)年にはウィーン万国博覧会で高く評価され、明治から昭和初期にかけて盛んに輸出されます。


世界的にも、ジャポニズムとして美術界に大きな影響を与えた一つで、金唐革紙が多くの芸術家たちが触発され素晴らしい作品を生み出しています。


オランダのヘットロー宮殿には日本製金唐紙張りの部屋が現存しているそうです。

 

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ヘットロー宮殿

 

また日本では、鹿鳴館や貴族の洋館の内装に用いられ、室内を豪華絢爛に彩りました。

 

以前ご紹介した「旧岩崎邸」にも華やかな金唐革紙を施した部屋があります。

 

ぜひ、「岩崎邸」と比較してみて下さい。

  

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三菱第三代社長、久彌の豪邸「旧岩崎久彌邸」 - 日本のすばらしい建築物

 

そんな世界に誇れる工芸が、残念ながら昭和に入ると忘れ去られていき、ついには消滅してしまいます。


しかし、この素晴らしい技法を現代に残そうとする専門家の手によって、現在、建物の修復・復元がなされ、新しい作品も生み出されています。

 

金唐革紙ですが、旧呉鎮守府司令長官官舎では客室・食堂・応接所に用いられていました。

 

残念なことに、戦後、この建物は接収されていたため、その時にペンキを上から塗られてしまいます。

 

1991年の修復作業によって、金唐革紙が使用されていたことがわかり、現在は専門家によって1994年~1996年の約2年間をかけて復元され、今では当時の様子を映し出してくれています。


各部屋の明かりが、壁紙の立体感をさらに生み出し、豪華絢爛で格調高い部屋を作り出します。

 

客室は豪華さはありますが、華美ではなく、落ち着ける優雅な空間となっています。

 

外観からも印象的であった出窓には、重厚なカーテンがあり、天井は白い板を組み合わせた特徴的なものです。

 

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客室:壁・床・ソファーすべてに柄がありますが、色が落ち着いていることや調和がとれていることから、煩く感じず、濃い色のカーテンが空間を引き締めてくれます。

 

客室の奥が食堂となっており、壁の金唐革紙は植物がモチーフとなっています。

 

食堂の床は市松模様の寄木張りで、格天井は幾何学模様の金唐革紙が建築当初のまま残されていますが、とてもシックな印象を受けます。

 

食堂の壁面と天井の金唐革紙とは、全くデザインが異なるのも面白いものです。

 

照明は天井の金唐革紙に合わせてデザインされており、六角形の形をしたモダンなスタイルです。

 

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食堂

 

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食堂:壁紙 金唐革紙

 

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食堂:天井


客室・食堂・応接室には18世紀に活躍したデザイナーの家具が設置されており、当時の雰囲気をそのまま感じさせてくれます。

 

旧呉鎮守府司令長官官舎は、あまり知られていない金唐革紙の素晴らしさ、日本独自の美的感覚、伝統文化の奥深さを知ることが出来る貴重なものです。


金唐革紙についての展示や、見本に直接触れてみることも可能なので、とても勉強になります。

 

近代化するにつれて「手放してしまったもの」「これからも残していくもの」を考えさせてくれるのも、この建物の魅力と言えるのではないでしょうか。


また、敷地内には、もう一つ珍しいものがあります。


「旧呉海軍工廠時計塔」です。


高さ10m、本体部分は2.4mの立方体で、国内初の電動親子式衝動時計とされる大正期では画期的な時計です。


1921(大正10)年に旧海軍工廠造機設計部屋上に設置されており、終戦まで時を刻んでいましたが、1971(昭和46)年にこの敷地内に移設されました。

 

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旧呉海軍工廠時計塔

 

現在は、一般公募により選ばれた曲が時間を知らせしてくれます。


歴史の遺物ではなく、ちゃんと動き続けている生きた時計です。

 

ぜひ、一緒にお立ち寄り頂けたらと思います。