HSBCホールディングスをご存じですか?
このHSBCホールディングスは、世界最大級の金融グループです。
原点は、1865年に香港で創設された「香港上海銀行」が始まり。
現在でも、HSBCの傘下という形で存続し、創設当初からの名前(商号)を変えないで存在している数少ない銀行としても有名です。
HSBC 香港本店
もしかしたら「HSBCに口座を持っているよ。」「口座を作りたいと思っていて、今度の休みに海外に行くんだよ。」「日本が危なくなる前にね・・・」など、耳にしたことがあるかもしれません。
外貨預金、海外保険の加入、海外ファンドでの運用など一般の方々も口座開設で注目を集めています。
今では口座開設ツアーと言ったものがあり、香港やマカオなど、わざわざ口座開設のためだけに銀行に訪れる人もいます。
※HSBC口座開設ツアーは詐欺が横行し、無駄な費用を払わされるケースがあるようなのでご注意下さい。
しかし「香港上海銀行」が日本にあること(あったこと)について詳しく知っている方は少ないかもしれません。
歴史の中での日本との関係を簡単に紐解きながら、長崎の歴史的な建造物「旧香港上海銀行長崎支店」をご紹介します。
そもそも、香港上海銀行ですが、名前とは裏腹にイギリス系の銀行です。
1865(慶応元)年、P&O汽船会社のトーマス・サザーランドやデント商会のコムリーなどの香港所在の有力イギリス系商社が中心となって設立されました。(後に、マセソン商会も資本参加します。)
デント商会やマセソン商会は中国にアヘンを密輸し暴利を得ていたイギリスの大商社です。
トーマス・サザーランド
この時代の香港は、アヘン戦争敗戦後にイギリスにより植民地とされており、すでにイギリス系の銀行は8行ほどが支店を出していました。
もともとは、アヘンでの売り上げを英国に送金するために設立されたと言われています。
実は、アヘンを大量に売りつけていたサッスーン財閥(ユダヤの富豪)の一族であるデヴィッド・サスーンが、香港上海銀行を作らせたとも言われ、その五男のアーサー・サッスーンが最大の株主となって設立されています。
デヴィッド・サスーン
アヘン戦争は、イギリスがインドで栽培し、精製したアヘンを大量に中国に輸出することがきっかけで起こりました。
清国政府(中国政府)は、このアヘン貿易を水際で阻止しようとしたために、勃発した戦争が「アヘン戦争」です。
しかし、中国はイギリスに敗戦し、清国に不利な条件で通商条約を締結せざるを得ませんでした。
このアヘンの密輸で暴利を得ていたと言われる中心2大会社がマセソン商会とデント商会なのです。
アヘン戦争:1840(天保11)年から2年にわたって行われました
香港本店と上海支店は1865(慶応元)年3月に同時に開業していますが、日本にもその翌年には横浜に支店、長崎に代理店(代理店はグラバー商会が務めています)が出来ました。
その後、1899(明治32)年には神戸、大阪など支店4店舗、代理店5店舗と、当時の外国銀行の中では最多の店舗数を誇りました。
日本の進出にはとても積極的でしたが、実は香港上海銀行が横浜支店を開設した頃は、未曾有の大恐慌と言われたオーバーレンド・ガーニー恐慌がイギリスを襲った時期だったのです。
アジアで活躍していたイギリス最大の信用機関オーバーレンド・ガーニー商会という金融業者が1866(慶応2)年に破綻したことが発端でした。
これが原因で、多数の銀行や商社が倒産し、日本で支店を開設していた外国銀行5銀のうち、3行が破綻したほどでした。
しかし、このタイミングだったからこそ、ラッキーだったとも言えます。
生き残ったのは、「マーカンタイル・バンク」と「オリエンタル・バンク」の2行。
そこへ、香港上海銀行が入ってきたことになり、ライバルが圧倒的に少なかったのです。
香港上海銀行は、まず日本で預金の確保に専念します。
定期預金の利子を7%と高くした上で、さらに利益配当(ボーナス配当)を行い、日本での預金獲得と信用を集めていきました。
また、横浜支店開設当初から洋銀券を発行していたのです。(神戸でも発行していました。)
洋銀券とは銀行券で、現在では日本銀行しか発行してはいけないお札を、銀行自体が独自に発行していたということです。
つまり、外国の洋銀券が日本の通貨のように使われ始めたのです。
少し過去にさかのぼります。
徳川幕府は、1858(安政5)年にアメリカとの間で、日米修好通商条約を締結しました。
そして、同様の条約を英・仏・蘭・露の間でも結びます。
これが「安政5か国条約」と呼ばれ、鎖国時代が終わりを告げたのです。
安政5か国条約:1858(安政5)年
ただ、これは1年だけとはいえ、日本にとって大変不利な条約でした。
そもそも、国際通貨1枚(洋銀・ドル)と日本通貨1枚(天保一分)では銀の含有量が違っていたために、日本通貨3枚で国際通貨1枚として扱われたのです。
これにより、小判(金貨)への交換も外国人にとって大変有利になりました。
本来は、国際通貨(ドル)4枚で小判(金貨)1枚の交換のはずでしたが、まず国際通貨(ドル)を日本通貨である天保銀12枚に交換し、それを小判に交換すると小判(金貨)4枚に両替できるのです。
これにより、外国人は日本から大量の小判=金を自国へ流出させていきました。
天保一分(銀)
そして、横浜が開港したのですが、主導権は外国商人たちが握り、続々と外国銀行が進出してきます。
これにより、外国為替取引の商権を独占し、日本には日本の通貨があるにもかかわらず、外国の銀貨が直接飛び交い、勝手に銀行が洋銀券を独自に発行する事態ですから、政府からするととんでもない話です。
それだけ、外国銀行が力を持ち、日本の商人にとっては不利益な取引を虐げられていたという事で、日本政府も頭を抱えていました。
そこで、横浜商人のために誕生したのが、1869(明治2)年設立の「横浜為替会社」で、その後に『日本の銀行』が現れます。
第一国立銀行(東京)・第二国立銀行(横浜)・第四国立銀行(新潟)・第五国立銀行(大阪)の計4行の銀行が次々に出来ました。
(その後はしばらくは新しい銀行は出来ませんでした)
※第三国立銀行も設立許可は下りていましたが、組織内でもめ事があり解散してしまいました。
そもそも、国立と言っても、国が運営するものではなく、1872(明治5)年に公布された国立銀行条例に基づいた銀行という意味で民間企業です。
第一国立銀行は、もともと「三井組」と「小野組」という二つの組織で両替屋という銀行に似たような業務を行っていました。
しかし、それでは力不足ということもあり大蔵省の指導で合併し「三井小野組銀行」が作られたのです。
そして、それを国に申請する際に、大蔵省をやめた渋沢栄一(銀行の神様)が初代頭取になる形で、認可されました。(現在・みずほ銀行)
第一国立銀行:1873(明治6)年開業
第二国立銀行ですが、その前身は先ほどの「横浜為替会社」です。
横浜の豪商が中心となって、横浜為替会社の組織を改め設立したもので、為替会社からの国立銀行はその後においても唯一となります。
そして、この第二国立銀行と外国銀行の間では洋銀券をめぐって戦いが始まるのです。
それは外国の洋銀券をなんとか廃止に持ち込もうとする政府の戦いでもありました。
第二国立銀行(横浜為替会社の前身):1874(明治7年)
政府は、外国銀行の洋銀券を市場から無くそうとし、横浜の第二国立銀行だけは特別に洋銀券の発行を認めていました。
日本の法律上では、外国銀行の洋銀券発行を禁じていましたが、直接発行停止を指導することが出来ませんでした。
そのため、「万が一不測の事態がおこり損害が出たとしても、外国銀行の洋銀券は補償を一切しない」と脅しをかけたのです。
まわりくどい方法ですが、国民の心情に精神的な揺さぶりをかけ、その結果第二国立銀行を支援して、洋銀券(外国銀行発行)の流通を阻止しようとしたのです。
これには、香港上海銀行をはじめ外国銀行が当然反発します。
オリエンタル・バンク以外の銀行が結託し、第二国立銀行の洋銀券のボイコットを決定しました。
それにより、政府の思惑は失敗に終わりましたが、銀行側に日本の強い意志を見せつけるステップとなったのです。
この争いは2度ほどありましたが、1884(明治17)年に「日本銀行のみが銀行券の発行権を持つ」法律ができ、洋銀券は双方ともに急速に市場から消えていきました。
日本銀行本店:梅堂国貞・画
最初の日本銀行券:大黒札拾円券 1885(明治18)年に発行され、銀貨と交換できる兌換銀券でした
そして、日清戦争終結後の勝利の好景気により多くの会社が起業したために、全国各地で銀行設立ブームが起こるのです。
それも、1900(明治33)年には金融恐慌のために、バタバタと小さな銀行は破綻していくのですが、これは政府に大きな衝撃を与えます。
今後、小銀行が過剰に乱立しないように設立の抑制を行うようなったのです。
これにより、全国の普通銀行の数は減少し安定していくことになりました。
香港上海銀行からすれば、日本に支店を設立して以来、大阪造幣局の金銀通貨の造幣に協力し、1880(明治13)年に開業した横浜正金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の体制作りにも協力・支援しています。
洋銀券発行の理由により、政府とは関係は良くありませんでしたが、民間レベルでは横浜の発展と国際化に一役かっていたともいえるのです。
旧横浜正金銀行本店(現・神奈川県立歴史博物館)
そして、香港上海銀行にとって思ってもないチャンスが訪れます。
政府が唯一依存していた外国銀行のオリエンタル・バンク(東洋銀行)が1884(明治17)年に破綻したのです。
待ってましたと、香港上海銀行は日本との関係を深めていきました。
1894(明治27)年の日清戦争後は、日本産業の発展を図るために外資導入政策を積極的に行い、香港上海銀行は日露戦争用の借款募集も何度も取り扱いました。
太平洋戦争の勃発により、香港上海銀行は日本の業務を一時停止しますが、終戦後は再開されています。
HSBC
現在、日本では一般向けの銀行業務は行っていません。
2012年までは、一般の富裕層向けの金融サービス「HSBCプレミア」(金融資産1,000万円以上の顧客が対象)という金融商品を扱っていました。
しかし、2012年3月に預金が集まらず完全撤退してしまいました。
理由は、金融資産をもつ高齢者にとって、外資系金融機関にお金を預けることに抵抗感が強いことでした。
そのため、現在は投資銀行業務や法人向け業務などが中心となっているようです。
撤退のニュースが飛び込んで来た際には、ついにHSBCも破綻か?!と大変話題になりましたが、もう日本に固執する必要がなく、中国やアジアにより力を注ぎたいという計算に基づくものであったようです。
それでは、今回ご紹介する香港上海銀行長崎支店はどうだったのでしょうか?
明治初めから長崎には代理店を置いていましたが、1892(明治25)年に支店が開設されました。
長崎支店は当時神戸より西に唯一できた外国銀行で、在留の外国人や海外との貿易のために作られたものでした。
そのため、外国為替やロンドン・上海・香港の外貨売買を主要義務とする特殊為替銀行の位置づけです。
しかし、長崎が貿易港として衰退してきたことにより、業務の必要性を失い、終わりを迎えました。
当時の香港上海銀行長崎支店
旧香港上海銀行長崎支店を設計したのは、下田菊太郎です。
下田は、相当クセのある人物だったようで、まさに建築界の異端児でした。
自身でも、「建築界の黒羊」と言い、1930年代(昭和10年前後)の日本の官庁建築に多く採用された帝冠様式を、日本で初めて提唱したと言われる人物でもあります。
下田菊太郎
下田秋田県角館町(現在の仙北市)出身で、佐竹藩士下田順忠の次男として生まれました。
中学生の時に上京して、三田英語学校で語学を学び、1883(明治16)年に工部大学校予科に入学しています。
そのまま、工部大学校(後の帝国大学工科大学校造家学科)に進学しており、同期には横河民輔がいました。
横河民輔
横河は、「設計図を描かない建築家」と言われています。
実業家でもあったため、そちらが忙しく、実際の設計は事務所の社員に任せていたとか。
しかし、大変な目利きであり、実業家としての才能にも恵まれていたため、横河グループとしての基礎を築きました。
大学での授業ですが、イギリス留学から帰国したばかりの辰野金吾が受け持っていましたが、下田にとっては退屈極まりないものだったようで、異端の建築家とも呼ばれたフランス派の山口半六の教えも受けていたと言います。
以前ブログにて山口半六『旧東京音楽学校奏楽堂』をご紹介させて頂きました。
是非、足をお運び下さい。
下田は学生生活を送っていたのも束の間、1886年(明治19)年に父親が急死します。
そのため経済的な後ろ盾を失い、仕方なく海軍貸費生となり、内職として英語学校の講師として稼ぎながら学校に通いました。
そのころから、取りつかれたように読書に熱中するようになります。
人類学、生物学、進化論に興味を示し、ますます辰野が教える講義がつまらなく思えたのです。
そして1889(明治22)年、ついに卒業までの1年を我慢できず大学を退学してしまいます。
原因は、卒業制作について担当教授の辰野と意見が合わず、亀裂が生じたためと言われていますが、二人の間で何があったのかは定かではありません。
その際、文部省営繕技師長となっていた講師の山口に事情を説明し、彼の好意によって文部省官房営繕課に雇われることになりました。
山口半六
給金と、「欧米の建築一般」を翻訳し出版した本の原稿料、錦城学校や他住宅2軒ほどの設計監理の収入、父親が残した不動産をすべて売り払い資金を集めました。
そして、1889(明治22)年アメリカのニューヨークに渡米することになります。
全財産を掛けての大変な覚悟の上での渡米と言えるでしょう。
留学早々に、アメリカ建築協会サンフランシスコ支部で、『人類と建築』と題した講演を行いましたが、それが高い評価を受けます。
そこで建築家ページ・ブラウンの建設事務所を紹介されて、製図工として就職することが出来たのです。
そして、そこで様々な経験と出会いが待っていました。
1893(明治26)年に開催されるシカゴ万博博覧会のカルフォルニア館のコンペに、ブラウンともども参加し、下田は落選でしたがブラウンが当選します。
その際、下田は現場の監理副主任としてシカゴで実績を上げていくチャンスに恵まれます。
シカゴ万博に日本が参加した際の日本観は、宇治平等院鳳凰堂を模したものでした。
万博により、当時の工事総監督であったダニエル・バーナムと出会うのです。
パーナムの鋼骨建築法に大変興味を持ち、パーナムに教えを受けられるように書簡を送ります。
下田の勤勉さと才能を感じ取っていたパーナムはそれを受け入れ、1893(明治26)年、パーナムの鋼骨建築法を本格的に学び研究するためパーナムの事務所へ移籍するのです。
ダニエル・パーナム:アメリカにおいて超高層建築を手掛ける建築設計事務所のさきがけで、シカゴの都市計画に力を注いだことで有名です。
この頃、アメリカ人の女性と結婚して、アメリカに帰化します。
日本の建築界に失望していたことも影響していたかもしれません。
そして、リライアンス・ビルの構造設計に参画し、成功を収めるのです。
リライアンス・ビル鉄骨を用いた高層ビルと、全面ガラス張り(シカゴ窓)が特徴的です
当時ではとても近代的で斬新なビルでした。
1895年(明治28)年には、厳格な審査があるとして有名なAIA(米国建築家協会)技師免許を日本人として初めて取得しています。
そして、パーナムの事務所を辞め、ついに独立することになります。
ちなみに、日本人初の英国公認建築士称号を取得したのは、以前ご紹介した「旧呉鎮守府司令長官官舎」を設計した『桜井小太郎』です。
旧呉鎮守府司令長官官舎(呉市入船山記念館) - 日本のすばらしい建築物
その後、1898(明治31)年、アメリカの戦争勃発により経済恐慌となり、不況で仕事が減ったことも理由で日本へ帰国します。
その際、鉄骨の低廉鋼鉄建築法を普及させるという目的を持って帰国しました。
そして、すぐに東京京橋に事務所を開設しますが、そんな下田に最強の敵が立ちはだかります。
それは、着実に日本で実力を認められ、大御所になっていたかつての師である「辰野金吾」です。
辰野金吾
辰野は、下田の鉄骨鋼筋構造法に対して「下田の如き小才子の言うことは皆出鱈目の大法螺である」と大反対しました。
辰野により嫌がらせを受け四面楚歌となり、近代建築において権力をもっていた彼に逆らって東京で仕事をすることは難しい状況でした。
そのため、横浜に会社を移転することとなります。
彼の才能により、在留外国人からの依頼も増え、事務所は着実に大きくなっていきました。
そして、1902年(明治35年)香港上海銀行長崎支店の設計を依頼されるのです。
残念ながら、下田の設計になるもので現在も保管されているのは、この建物のみです。
その後、スタンダード石油会社横浜支店社屋や神戸トア・ホテルを設計していますが、現存していません。
スタンダード石油会社横浜支店社屋
神戸トア・ホテル
辰野に大変嫌われていた下田ですが、もう一つのエピソードもすごいものです。
実は、アメリカ在中の際に、短期間ではありますが、フランク・ロイド・ライトの下で働いていた時期がありました。
ライトの自叙伝には唯一、悪い日本人として下田の名が記されていることでも、二人の間で何かがあったことは明白です。
その後も、この因縁は続きます。
フランク・ロイド・ライト
下田は、帝国ホテルの設計を当時の支配人から直接依頼されます。
トア・ホテルが日本でのホテル建築として大変評価され、実績を上げたことによるものでした。
もちろん快諾し、大変力を注いでいたのですが、後に設計者をライトに変更されてしまいます。
アメリカから来日したライトがホテル側に強力な働きかけをしたと言われています。
つまり、帝国ホテルを一番最初に設計したのが下田でした。
下田による帝国ホテル設計案:平等院鳳凰堂をモデルにした幻の建築
下田による帝国ホテル設計案:屋根がギリシャ風も存在しています
下田は、帝国ホテル側に、「自分の設計図をライトに見せた」と著作権を主張し、ホテル側も相当な賠償をしてこの問題が片付いたと言います。
これらのエピソードを読んでも、鬼才でありながら建築には頑固で純粋であり、その代わり人間関係は不得意で自分本位だったのではと想像できます。
旧帝国ホテル:旧帝国ホテル フランク・ロイド・ライト
1918(大正7)年には、帝国議会(現・国会議事堂)の新議事堂の設計が一般公募されることになりました。
応募作品118通中、最後は4図案の中から、宮内省内匠寮(有志)案が選ばれますが、入選案はすべてルネサンス様式でした。
これには、多くの新進気鋭の建築家たちは失望したと言います。
特に、下田は納得できず、意匠変更を訴えて嘆願書を議会に提出したり、下田が提唱した「帝冠併合式」の図案を提案して、議員にパンフレットを配るなど活動を行いましたが、当時の建築界には全く受け入れられませんでした。
しかし、実際には、随所に下田の提唱した「帝冠併合式」が取り入れられている部分もあり、その後の官庁建築に少なからず影響を及ぼしたのは言うまでもありません。
「帝冠併合式」は「帝冠様式」とも言われていますが、具体的には少し違います。
両者とも、和洋折衷で鉄筋コンクリートに和風屋根を用いたものですが、後に帝冠様式の代表者として名高い「伊東忠太」からは洋風建築の上に日本風屋根をのせただけでは奇形の捏造物にすぎないと酷評し「国辱」とまで述べています。
伊東忠太
しかし、その下田案の「帝冠併合式」から、洗練された「帝冠様式」へとつながっていくので、これは下田の功績と言えるのではないでしょうか。
伊東が言いたかったことは、屋根だけ和風にするだけでは奇形にすぎず、屋根に見合った外観のデザインがあってこそ、和洋折衷としての調和がとれるというものです。
下田のデザインは、「和服に洋風の帽子」「職人服に下駄」といったものだと言っています。
伊東忠太について以前ブログで触れています。
ぜひお立ち寄り下さい。
下田は、1928(昭和3)年に著書『思想と建築』を日本語と英語の二か国語で出版しました。
これは自伝であり、日本建築における貴重な資料となっています。
そして3年後の1931(昭和6)年に路上で倒れて65歳で亡くなりました。
それでは下田が設計し、現存する唯一の建物「旧香港上海銀行長崎支店」を見ていきましょう。
1904(明治37)年に竣工した、石造りの洋館で、長崎市内では最大級の大きさです。
建物の調査・保存修理が行われ、建物は4年をかけて1996(平成8)年に記念館として建設当初の姿として生まれ変わっています。
外観:正面
外観は煉瓦と石造りの3階建てで、左右対称のシンメトリー、下田の「帝冠併合式」の建物となっています。
海側に面した正面を重視した構造で、1階部分は連続したアーケードがあり玄関を設けています。
1階:アーケード部分
2階・3階部分の間を突き抜けるように、4本の大きなコリント式オーダー(円柱)が大変目を引きます。
この円柱が正面からほんの少しだけ前に飛び出ているので、目の錯覚のようにさらに立体的で、より重厚で力強さを感じる意匠となっています。
3階のバルコニーの手摺はアイアンワークで、植物の模様が白く華やかです。
また鎧戸が付いた窓は現在ほとんどしまっていますが、それもまた美しいです。
外観正面:バルコニーと円柱(3階2階部分)
屋根には、正面だけにシンプルなペディメント(三角破風)を設けており、正面を除いてグルリと王冠のように装飾が施されています。
幻の帝国ホテル設計図のギリシャ風屋根のようです。
三角破風
外観は細かな装飾が少しあるだけで、グレーの単色でとてもスッキリしています。
ガチャガチャしていないだけに、ギリシャ神殿を彷彿とさせながらも、なぜか和を感じずにはいられません。
この違和感が見る者(訪れる者)に、強い圧力とエキゾチックな感覚を与えているようです。
玄関は7連続アーチの真ん中奥に設けられおり、玄関や1階の正面窓はすべてアーチ型となっています。
正面玄関
玄関から室内に入ってみると、そこには当時の銀行の様子がわかるように再現されています。
手前にまずカウンターが現れますが、それ以外は特になく、天井も高く広々としています。
床は磨かれた板張りで、天井は白漆喰のシンプルな格天井となっていて、数か所には照明が釣り下がっています。
「一流の銀行はこういうもの」という華美ではない厳格な美しさがあります。
1階
広い空間を維持するために、ホール中央付近3本の太い柱が目を引きます。
この部屋の奥には階段、金庫、事務所がありました。
1階
1階の通路から階段、2階廊下・3階廊下にかけて赤い絨毯がしかれ豪華な印象を与えてくれます。
面白いのは、廊下の壁はグリーンで、天井は白、絨毯は赤と、個性的な配色です。
螺旋階段:手摺は一部職人の技を鑑みることが出来る部分があります
階段の装飾
現在、2階4部屋・3階4部屋がありますが、銀行としての役割を終えたあと、複数の手に渡り改装されているため、当時のままの間取りかどうかは不明だそうです。
長崎県が買収し警察庁舎として使用され、その後は長崎市が長崎市立歴史民俗資料館として使っていたために、住居とは程遠い、施設や資料展示のしやすい間取りへと改装されているのは言うまでもありません。
2階:廊下部分
2階の一室
当時を知る方々のお話しでは、おそらく居住空間だったのではないかということです。
具体的資料は、香港上海銀行に保管されているかも知れないということですが、銀行という特殊性から、社外秘となっているのは、当然と言えます。
もちろん、台所や浴室など生活感があるものはありません。
現在は、関係する歴史の展示を行っています。
また3階からはバルコニーに出ることも可能です。
端から端までつながりおり、幅も外観より広く感じます。
円柱にはコリント式の特徴であるアンカサスの葉の装飾が施されています。
バルコニー:海風が気持ちの良いです
場所は、長崎ちゃんぽん発祥のお店として有名な「四海楼」のすぐ近くにあります。
お腹いっぱいになったあとは、ぜひ世界的に有名な大銀行の日本での軌跡に足をお運び下さい。