『あなた方には、脱いだ履物を揃える自由があります』
自由学園の創設者・羽仁もと子が、生徒たちに「履物を揃える自由」という話をよくしていたと言います。
今回ご紹介するのは、日本で女性初のジャーナリスト「羽仁もと子」が、女子教育に力を注ぎ、創設した自由学園の「自由学園明日館」です。
「脱いだ靴は揃えなさい」と親がわが子によく言って聞かせますし、子どもたちも深く考えずに「そうするもの」だと思い育ってきたはずです。
「揃える自由」があるということは、「揃えないで脱ぎっぱなしにする自由」もあるということですよね。
例えば、「片づける自由」もあれば、「散らかしっぱなしにする自由」もある。
「しぶしぶ勉強する自由」もあれば、「楽しく勉強する自由」もある。
「傷ついた人を助ける自由」もあれば、「見て見ぬフリをする自由」も・・・ときりがないくらい「自由」はあります。
このように考えると、私たちの生活は常に「自由」です。
そして、常にどのような自由を選択するのかの連続。
羽仁もと子は何でも好き勝手に生きることを勧めているのではなく、「どちらを選ぶのか決める自由があるからこそ、人間としてより良いほうを選ぶ」ことが大切で、それが教育の根源であると考えたのではないでしょうか。
自由とは何でしょう?
これほど難しい言葉はありません。
よりよく生きる選択は、大人に限ったことではありません。
子供でも同じようにきちんと自分自身で選択が出来るために、知識、教養、やさしさ、思いやり、生きる力などを学ぶことが大切になのです。
この感性と独自の視点をもった明治生まれの女性が、なぜ学校を創設する一人となったのか。
そして、夫婦二人のジャーナリストとその活動に賛同した建築家「近藤新」、アメリカ建築界の巨匠「フランク・ロイド・ライト」に触れてみようと思います。
羽仁もと子(旧姓・松岡)は1873(明治6)年に青森県八戸で生まれました。
羽仁もと子
もと子は普通教育を8年受けた後、16歳の冬に彼女の念願叶って祖父につれられ上京しています。
1889(明治22)年に開校された東京府立第一高等女学校に編入しますが、その頃にキリスト教と出会い洗礼を受けました。
そして「女学雑誌」に熱中するようになります。
女学雑誌 創刊号:1885(明治18)年
「女学雑誌」は、1885(明治18)年7月に創刊された女学生(女性)向けの雑誌で、初めは近藤賢三、後に巌本善治(明治女学校・校長)が担当し、女性の権利、恋愛自由論、女性の文化的発展など、キリスト教に基づく女性啓蒙の雑誌でした。
1904(明治37)年2月526号で廃刊していますが、当時の女学生に影響を与えた雑誌として今でも研究されている雑誌です。
この時代の明治維新後の教育ですが、明治5年に「学制」が発布されて以降、教育に力が注がれ始め、女性の地位向上のための女子教育にも意識が向けられるようになりました。
そして、その頃は西欧では婦人解放運動が叫ばれ始めていた時代です。
日本の官立学校は、まず男子教育に重きをおいており、女子教育には実際のところ後ろ向きであったため、キリスト教主義の女学校が女子教育の中心となっていました。
そのために、女性たちの多くが、授業の根幹であるキリスト教へと惹かれていったのには理解できます。
もと子は女子高等師範学校を目指していたようですが、この「女学雑誌」により明治女学校を知ります。
「女学雑誌」の編集をしていた、巌本が校長であったことから、彼の計らいでもと子は入学し、ちゃっかり女学雑誌の仮名つけのバイトをもらうというのですから、大した女性です。
明治女学校には2年ほどしか在籍できませんでしたが、この雑誌での仮名つけの小さなアルバイトが彼女の人生に大きな影響を及ぼすとは知る由もありませんでした。
明治女学校
巌本善治
もと子は帰郷し、盛岡でカトリックの女学校教員となり、そして恋愛結婚するのです。
しかし、あっけなく半年で離婚してしまいます。
<この時代の離婚について>
江戸時代から明治時代にかけて、実は女性の離婚率は高いことが知られています。
それは、家督を継ぐ男子を作る必要性があったことで、男性からの一方的な離婚を言い渡されるケースや、女性側も実家が経済的に裕福で離婚しても困らなかったと言われ、比較的に自由に離婚が行われていました。
また実家が農家の女性は、離婚後に実家に戻ってきても、農作業を手伝いながら次の嫁ぎ先を探すことが可能であり、さほど離婚が深刻には考えられなかったようです。
しかし1898(明治31)年の民法が施行されてからは離婚件数が大幅に減少するようになります。
結婚が届け制となり、離婚も役所へ届け出をしないといけなくなったのです。
それは、後にも触れますが、女性の貞操観や良妻賢母が女性の理想とされるようになり、日本人の結婚観に大きな影響を与えたためです。
もと子は心機一転、再度上京し一度は教職に就くものの、1897(明治30)年に報知社(現・報知新聞社)の校正係に応募し、正確な校正が認められ校正係として採用されました。
そして、自主的に綴った小説原稿から、報知社の社主・三木善八に才能を賞賛され、日本最初の女性新聞記者となったのです。
この三木ですが、もともとは関西の新聞社の営業に携わっていました。
後に報知社に営業として入社し、大隈重信から経営を一任され社主となります。
直営販売の創設や、カラー輪転機の導入、夕刊の発行など次々に改良し成功をおさめ、東京屈指の有力紙に育てたことで「新聞経営の神様」と呼ばれました。
報知新聞社:明治30年代の写真
もと子の影に隠れたもう一人のジャーナリストを忘れてはいけません。
それが再婚した、もと子の夫「羽仁吉一」です。
羽仁吉一
吉一は1880(明治13)年、山口県三田尻(現・山口県防府)に長男として生まれました。
父親の鶴助は下級武士出身ながら、厳しい家風ではなかったことが、吉一の性格にも影響しているようです。
小学校を終えたあとで、漢学者・広瀬淡窓の孫弟子が学長をしていた「漢学塾」で学んだことが、彼の人生に後に大きく影響を及ぼします。
そして、上京し政治家・矢野龍渓の書生となったのちに、矢野からの導きがあり報知社に入社します。
矢野龍渓(本名・文雄):政治家、ジャーナリストで、のちに大阪毎日新聞社に入り随筆を発表しました。
実は、もともと報知社・社主の三木は、矢野の招きによって、報知社へ入社した経緯があったため、その縁で、矢野からの推薦により吉一を受け入れたと推測できます。
1900(明治33)年、もと子より3年遅れて、吉一は報知新聞社の政治記者となりました。
そして、驚くべきことに、翌年1月には若くして編集長となり、同年12月にもと子と結婚し退社してしまいます。
この二人の勢いと決断の速さに驚かされるばかりです。
背が高かく好青年であった吉一が、背丈がその半分にも満たず、7歳も年上で離婚経歴があるもと子と結婚を決意したのには、編集長という座を捨てても惜しくないほど、もと子の才能と優れた資質に惹かれたためでしょう。
吉一にとって劇的な出会いだったに違いありません。
退社したあと、新潟の高田新聞社支局長となりますが、単身赴任であったこともあり、わずか半年で辞職して戻ってきます。
そして、1903(明治36)年、羽仁夫妻は『家庭之友』を創刊するのです。
家庭之友:復刻版 家庭之友 1982(昭和57)年 講談社
この『家庭之友』は現在も続く「婦人之友」の前身にあたります。
明治という時代の中で、家事全般が不得意で年上の、離婚経験がある女性を妻としてむかえ、彼女の才能が存分に活かせるように環境作りをし、ずっとサポートし続ける吉一が一番の功労者なのかもしれません。
またまた驚かされるのは、『家庭之友』創刊の前日に長女が誕生したというのです。
身重の時から出版に力を注ぎ、創刊後の忙しさの中で、赤ちゃんの子育てを両立させていたというのですから、大変な労力であったと想像できます。
しかし、この経験は夫婦にとって大変感謝したいことだと二人は述べています。
つまり、羽仁夫妻の考え方の根本がそこにあるからです。
それは、後に独立して出版を始めた『婦人之友』にも大きく影響しています。
もと子が記事を書き、吉一が経営にあたるといった具合で1908(明治41)年に出版されました。
婦人之友:創刊号は家庭之友社からの引継ぎによるものでした。
婦人之友:1912(明治45・大正元)年5月号 婦人之友社
『婦人之友』が出版されてから大正末期にかけて様々な女性向けの雑誌(「婦人公論」や「婦人倶楽部」など)が創刊され、それが大変な人気をはくし10万部を超える発行部数を数えていました。
実は、明治末期から大正期にかけて、女性の高学歴化にともない、婦人雑誌が急速に発展していたのです。
従来の日本の女性(主婦)のように、家庭に縛られるのではなく、ひとりの人間として自立し、社会進出をめざす啓蒙書だったのです。
この当時流行っていた流行語が「新しい女」です。
大正の女流文学者・平塚らいてうや伊藤野枝が中心となって主張した言葉で、古い考え方や習慣をやめ、女性の地位を高めようとする女性たちのことを指しました。
彼女たち自身が「新しい女」だったのです。
平塚らいてう
青鞜:平塚らいてうらによる女性月刊誌。良妻賢母を推奨する日本において、女性解放をうたったもので、創刊号の「元始女性は太陽であった」という平塚らいてうの文章は、権利獲得運動のシンボルとしてその後も有名になりました。
そうした時代背景の中、『婦人之友』も女性のための啓蒙書ではありましたが、決定的に違ったのは、単なる社会進出には批判的であり、あくまでも、「家庭生活の延長」としてという考え方でした。
「因習や慣習には批判的でしたが、社会に出るから家庭をおろそかにしていいわけではない。家事や育児といった家庭生活の改善を図り、合理的で効率よく行うこと(行えるように改善していくこと)」を提案したのです。
そのためにも、理想的な家庭を求めて、男女が相互に協力する必要性あるとし、雑誌には具体的な生活に焦点をあて、実際にどのように実行していけば良いのかを掲載しました。
女性たち自身が受け身ではなく、自立した生き方を送りたいと自覚出来るように、激励していたのです。
他の婦人雑誌のように、文芸的ではなく、実生活に基づいた、具体的な内容は、強く女性読者の心を捉えました。
婦人公論:1916(大正5)年 創刊号 同時期に創刊された女性向け雑誌。
そして、もと子には次なる目的が出来たのです。
それが、子どもたちの教育についてでした。
もと子には3人の女の子に恵まれますが、次女たけは2歳に満たず肺炎のため亡くなりました。
これが夫婦二人にとって、より強い信仰心へと結びついていきます。
そして、娘たちが成長するにつれて、もと子には気がかりになことがありました。
それが、当時の教育制度です。
学校で授業を受けている娘たちを見て不満に思ったのです。
何が不満だったかというと、現代の学校教育でも大きな問題になっていることでもあります。
それは、ただ知識を詰め込むだけで、日々の生活とかけ離れており、その詰め込まれた知識が実際には役に立たず、もっとも大切な子どもたち自身が考える心(力)を育ててはいないことでした。
当時の日本の女子教育の基本が「良妻賢母」にあり、現実の女性たちが望む教育とは異なっていたことも、不満の一つであったに違いありません。
もと子は、一貫して『婦人之友』でも批判を行い続けていました。
そして、ついに『婦人之友』の読者を中心として賛同者を集め、もと子の娘たちの進学する時期に合わせて、理想的な学校を自分たちで創設したのです。
1921(大正10)年の開校時は、女子の5年生教育の本科と、高等科が設けられ、賛同読者の家庭の中から26人が選ばれて、最初の生徒となりました。
この女学校こそ、「自由学園」です。
設立当初の女子部の生徒たち (自由学園ホームページより)
そして、この校舎の設計を手掛けたのが、フランク・ロイド・ライトと言うから驚きです。
もともと、ライトは、1916(大正5)年に帝国ホテルの建設のために来日しました。
そして、1922(大正11)年にはアメリカへ帰国しています。
この短い期間に、いくつもの建物を設計していますが、現存しているものは、3つの住宅と、この自由学園明日館のみです。
なぜ、ライトが設計することになったのかですが、それにはもう一人の登場人物が現れます。
それが、遠藤新です。
遠藤 新
以前ブログにて遠藤設計の「旧近藤邸」を取り上げました。
ぜひ足をお運び下さい。
遠藤新は、ライトの一番弟子と言われ、帝国ホテル設計のために日本人スタッフとしてライトの建築事務所に勤務していました。
そこで、ライトに師事し、デザインや技術など多くを学び取り、自分のものにしたと言われています。
この遠藤と羽仁夫妻との出会いは、同じキリスト教を信仰していることがきっかけでした。
当時、お互い偶然にも、富士見教会に通っていたのです。
そこで、帝国ホテルの仕事をしていた遠藤を知り、夫妻は遠藤に設計の依頼をしたのでした。
すると、遠藤がなんとライトにこの話をもちかけます。
普通に考えれば、ライトに設計を依頼すれば、高額な設計費が必要です。
もちろん、建設費も相当なものでしょう。
しかし、ライトは、夫妻の教育理念に深く感動・共鳴し、ほとんど無償で設計を行ったと言います。
フランク・ロイド・ライト
ライトですが、帝国ホテルの建築費用がかかり過ぎることから、途中で解雇され帰国してしまいます。
なんとその費用ですが、当初150万円(当時の金額)の予算でしたが、最終的にその6倍の900万円へと膨れ上がったのです。
学園は、ライトの設計をもとに、図面を遠藤が仕上げていたこともあり、その後ライトを受け継ぎ学園を遠藤が完成させています。
ちなみに、帝国ホテルですが、同じく、遠藤らの弟子たちで無事に完成させています。
帝国ホテルの全貌
帝国ホテルの設計に関して、最初に幻の設計図を描いた建築家・下田菊太郎とライトのエピソードが残っています。
前回のブログでご紹介していますので、ぜひ足をお運び下さい。
ちなみに、学校が開校したのが4月15日です。
実は、ライトが設計のためのスケッチをまとめたのが、同年2月。
校舎は突貫工事が行われました。
なんとか1つだけ教室を完成させ、授業を行っている側で、工事は引き続き行われました。
遠藤が引き継いだあと、最終的に完成したのは1926(大正15)年でした。
自由学園という名称ですが、新約聖書『ヨハネによる福音書』8章32節の「真理は汝らに自由を得さすべし」(真理はあなたたちを自由にする)からきています。
真の自由人を育てる学校を目指して名づけらたのです。
新約聖書:イエスが救世主(メシア)であるという信仰を後の世代に継承するために、
キリスト教徒がイエスの語録や活動に関する伝承を編集し、まとめあげた文学書で、新約聖書には4つの福音書が収録されています。そのうちの一つがヨハネによる福音書です。
ちなみに、国会図書館の設立を定めた法律の前文にはこう書かれています。
「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される」
「真理がわれらを自由にする」とは、図書館が公平に資料を提供してゆくことで、国民に知る自由を保障し、健全な民主社会を育む礎となっていかねばならないとする、国立国会図書館の基本理念を明らかにしたものであると解釈されてます。
国会図書館:1961年(昭和36年)に開館した国立国会図書館東京本館には初代館長の揮毫による「真理がわれらを自由にする」の句が大きく刻まれています。
実は、羽仁もと子さんの娘婿である羽仁五郎が法案の起草に参画した際に、推薦したというのですから、納得が出来るというものです。
五郎は歴史学者であり参議院議員でした。
羽仁五郎
また、太平洋戦争の際、政府から厳しい統制を受け、政府から学園名から「自由」を排除するように宣告されました。
しかし、もと子は軍部から呼び出しを受け、陸軍参謀本部へ出かけていった時に
「わたしは自由のない所に、教育はないと信じています。学園の名を変えるなら、学校を止めなければなりません」
とはっきりと答え、その気迫と強い信念を感じ取り、もと子にかえって老体へのいたわりの言葉をかけたと言われています。
そこまで、守り続けた強い力があるからこそ、現代まで自由学園が存続している理由の一つでしょう。
もと子の考え方、生き方は多くの女性読者の心を打ち、1930年に『婦人之友』の読者がつくる「全国友の会」が設立しました。
吉一は、1955(昭和30)年75歳で、もと子は1957(昭和32)年83歳でこの世を去りました。
そして、現在でも婦人之友社は存続し、夫妻が作り上げたものを大切に出版し続けています。
子育てに関する母親向けの雑誌で、若い女性たちが婦人の友社を知るきっかけになる場合が多いようです。
家計簿:もと子が考案した家計簿は大変有名です。覚えるまでが面倒だけど、一度使うとこれ以外のものは使えないという女性も多いです。スーパー主婦としてテレビや雑誌に登場する女性の多くが愛用していると言われています。
こづかいちょう:子供向けのよくある「こづかいちょう」とは違い、毎月の予算を考えたり、貯金を考えたりするようになっており将来に結びつくものとなっています。
他にも、中・高・大学生向けや、一人暮らしの学生や社会人向けなど、結婚し家庭のお金を一度に扱う前の基礎的な経済力をつけることが出来るような家計簿となっているのが特徴です。
5年生からスタートした自由学園は、南沢キャンパスに移転し、初等部から大学に相当する最高学部(大学の認可はありません)を持つ一貫教育の学園になり、男子部も設立されています。
残された建物は、自由学園明日館と名付けられ、学園の活動の一部として現在も利用されて続けています。
それでは建物を見ていきましょう。
場所は池袋駅の近くですが、喧騒とは無縁のような閑静な住宅地に「自由学園明日館」があります。
建物は左右対称(シンメトリー)の平屋木造建てで、コの字型の校舎です。
外観:園庭からホール側を見た様子
この建物の最大の特徴と言えば、中央のスキップフロアを持つホールと、左右の教室を持つ平屋建ての部分で、ライト作品の初期に多く見られた「プレーリースタイル」となっています。
プレイリースタイルとは、草原住宅とも言い、建物の高さを出来るだけ抑えて地を這うように構成され、水平線を強調するような建物です。
屋根は緑色で、中央はゆるやかな勾配屋根となっており、若干軒先がそり上がっているような錯覚を覚えます。
また、軒先が低く、中央ホールから左右に伸びている回廊(教室群)はさらにいっそう、屋根が低くなっています。
近くによると、屋根の傾斜が少ないため、全く屋根が見えません。
中央ホールの大きな窓ですが、4本の太い柱でスリット上に開けられており、この太い柱は、左右の回廊にも等間隔て続いています。
独特の幾何学的なデザインとなっていますが、高価なステンドグラスや1枚の大きな窓ガラスを使うと工費がかかってしまうために、細かく桟で分割し、通常サイズの窓ガラスを効率よく利用できるように設計されています。
外観:中央棟のホール窓
そして、ホール左右には、幾何学的な桟をあしらった四角い窓からレースの白いカーテンが覗き見ることが出来き清潔感を生み出しています。
この建物から感じ取れる、簡素ではありながらも、美しさとのびやかさを感じるのは、縦と横のバランスによるものでしょう。
コの字型になっている、左右の回廊から、ホールにかけて、一定の間隔で太い柱がバランスよく配置され、柱の太さにも安心感を覚えます。
そして、水平線に広がるような横の屋根のラインが、芝生にどっしりした安定感を生み出しているのです。
当時の官立学校のような重厚感や厳格を思わせる装飾はありませんが、女性らしい清楚な美しさと母のように生徒たちを包み込む大きさ・寛大さが感じられるものです。
回廊の柱
回廊は一定間隔でグルリと中央棟の窓へと続きます。
プレイリー・スタイルは、当時ライトがシカゴ周辺で流行させたもので、ライトの生まれ故郷の草原をイメージしている様式です。
シカゴ郊外には、ライトが設計した25の建物が現存し、現在も人が暮らしています。
ハートレー邸:1902(明治35)年竣工
ウィンズロー邸:1893(明治26)年竣工
ロビー邸:1909(明治42)年竣工
玄関ですが、扉は木製というより、窓と同様にガラスの部分が多くなっています。
幾何学模様の左右対称のデザインが迎えてくれます。
外観:玄関
玄関から中にはいると、幾何学模様でいっぱいです。
間接照明や外光のバランスが素晴らしく、目を見張るものがあります。
室内:玄関
どの部屋も、白漆喰の壁の至るところに、水平状や四角い額縁状などの木のライン(木材の線)がデザインされています。
まるで、幾何学模様が描かれた絵画の中に迷い込んだようです。
室内:食堂へ続く階段廻り
この中央棟を一層迷路のようにしているのが、スキップ・フロアです。
庭から見たホールは吹き抜けですが、実は階段を介して、半地下に台所、その上に食堂あるのです。
外観は単純ながら、室内は複雑な部屋が組み合わさっています。
階段上が中二階で食堂、右には教室があり、左はホールとなっています。
シンプルな階段を上がり、中二階に到達すれば、そこには最大の見どころである「食堂」があります。
2階:食堂
プレイリースタイルは外観からは高さを抑えた低い建物のように見えますが、実は屋根裏を作らないために室内は大変天井が高く広々としています。
食堂の天井は、まさに外観中央の屋根の形のままの姿です。
この形と複雑にデザインされた姿から、教会の中のような印象を与えてくれます。
もと子と吉一にとって生きる中心は食事でした。
そのため、食堂はこの学園にとって大変意味を持つ空間として、建物中央に設計されているのです。
2階:食堂の照明 ライト自身の意匠
天井が理想より少し高かったために、急遽照明を新たにデザインしたと言います。
この学園の最大の特徴の一つが、生活を通しての教育です。
当時は、入学した生徒たちが6人ずつの家族として助け合い、食材の調達・献立・調理・後片付けまで生徒自身が担当します。
これにより、それぞれが役割と義務をもち、共存する意味と責任を学んでいたのです。
そのため、地下の台所で自分達が作った昼食をこの食堂まで運んでいました。
2階:食堂の椅子 家具とテーブルは遠藤新がデザインしたものです。
左側の小ぶりの椅子は創立当初の物で、右側は現代向けに作られた複製品。
2階:食堂のマントルピース 石で出来たシンプルな暖炉も備え付けてありました。
次はホールに足を運んでみます。
ホールは吹き抜けとなっていて、天井までのびる大きな窓から光が差し込み、より幾何学的な桟が美しく浮き上がります。
1階:ホール中央の窓
このホールで面白いのは、なんといっても背もたれが六角形にデザインされた椅子です。
座面は、青と赤のカラフルな色使いで女性が好みそうな可愛らしいもの。
食堂と同様に、テーブルと椅子は当時の女性の身長を意識したため小ぶりなものとなっています。
1階:ホールの六角形の椅子
ホールの壁には、フレスコ画がありますが、実は壁の中から保存修理工事の途中で発見されたものです。
これは当時の生徒たちが美術講師石井鶴三指導のもと描いたとのことです。
1階:フレスコ画
1階ホール:天井部分までの間に、ステップ・フロアの中二階の部分があります。
自由学園と言えば、実は学園オリジナルの「缶入りクッキー」が有名です。
雑誌にも多く取り上げられ、手土産や贈り物として女性に人気です。
そして、今ではこのホールで喫茶を楽しめるようになっています。
ライトが設計した現存する数少ない建物と、もと子と吉一の思いを甘くて可愛いクッキーと一緒にお持ち帰りしてみてはいかがでしょうか。