花や木を育てることが好きな人なら、一度は本格的な温室が自宅に欲しいと思ったことがあるかも知れません。
温室は、植物を寒さから守り、季節や気候に左右されないで栽培することが出来る大変便利なものです。
日本では育ちにくい熱帯植物も、温室できちんと温度・湿度管理をすれば育てることが出来るのです。
歴史を振り返ると、紀元前30年頃には、ローマ皇帝ティベリウスが冬にキュウリを育てたり、15世紀末にはフランスのルイ12世が温室でオレンジの木を育てたと言います。
ローマ皇帝 ティベリウス・ユリウス・カエサル
とにかくキュウリが大好きで、食卓に上らない日はなかったそうです。
そのため、車輪のついたプランターにキュウリを育てさせて、冬には暖のある場所に移動して日に当てて育てていたとされていて、これが温室栽培であったとされています。
それでは、日本で温室が初めて作られたのはいつでしょうか?
おそらく1870(明治3)年に東京府青山に作られた「東京官園」と言われています。
官園とは、明治維新以降に北海道開拓のため1869(明治2)年から1882(明治15)年までおかれていた官庁です。
北海道は本州とは環境が異なるため、北海道の農業技術や開拓技術、アメリカやヨーロッパなどの海外の技術を導入するための試験場として作られました。
そして、この試験場が北海道だけでなく東京府に出来たのが「東京官園」なのです。
今回は、日本に現存している最古の温室「東山植物園・温室」をご紹介したいと思います。
残念ですが、明治や大正時代の温室は実在していません。
最古の温室「東山植物園・温室」は、1936(昭和11)年に竣工した建物で、愛知県名古屋市にあります。
イギリス風の正統派の形である「パーム・ハウス」型をしているのが特徴ですが、実は、この温室にはモデルがあると言われています。
それは、現存する世界最古の温室「英国王立植物園キューガーデン(キュー植物園)」のパーム・ハウスです。
ロンドンの中心部から南西に位置するリッチモンドにあります。
このキューガーデンは、1759(宝暦9)年にディークスベリーのケープル卿が熱帯植物を集めた庭に始まります。
その後は、英国の宮殿併設の庭園として整備されます。
建築物が何棟も増築され、面積と植物コレクションは拡大し続けていきました。
現在の面積は40万坪と言われる広大な敷地です。
そして、2003(平成15)年には世界遺産に登録されました。
キューガーデン(パーム・ハウス)
この植物園は、大英国時代に世界各地から手に入れた植物を集め、品種改良を行う実験場としての意味を持っていました。
現在も、公園というよりは、大規模な研究施設として維持され、さらに「種子銀行」として世界各地の種子を収集・貯蔵し世界最先端の植物研究を行っています。
また、キューガーデンは、1787(天明7)年から発行された植物画雑誌「ボタニカル・マガジン」を出版し続けていることでも有名です。
第1刊は、キューガーデンで働いていた薬剤師のウィリアム・カーディスが園芸及び植物学の雑誌として創刊したのが始まりです。
この世界最古の植物学雑誌は、異国の珍しく美しい植物が掲載され、植物の断面図や、植物の性質、歴史、育成の特徴などが解説されたもので、当時より人気を博しました。
最初の30刊までは、銅版画に手彩色を加えていましたが、発行部数が限られたこととコストがかかる事もあり、それ以後は機械的な彩色となりました。
そのため、当初のボタニカル・マガジンは、銅版画で趣きがあり、手仕事の彩色の美しさで、現在ではアンティークプリントとして高価な値段がついています。
カーディスの死後は、友人、キューガーデン園長、植物画家などの手により引き継がれ、現在はキューガーデン(王立植物園)が出版しています。
ボタニカル・マガジン:創刊号に掲載されたクリスマスローズ
現在はアンティークとして人気があります。
キューガーデンを象徴するのは、もちろんパーム・ハウスと呼ばれる大温室です。
建築家・デシマスバートンと、リチャードターナーの設計で1848(嘉永元)年に竣工されました。
パームというのは、ヤシの木のことで、背の高いヤシを植えるために中心部が高く設計されています。
この温室は何で出来ているか想像できますか?
もちろん、ガラスと鉄ですよね。
大量の鋳鉄(鉄骨)と、大量の板ガラスの生産が当時可能だったイギリスだからこそ、温室は「作ること」「発展すること」が出来たのです。
つまり、私たちが良く知る温室は、イギリスの『産業革命』によって生み出された産物であるとも言えます。
製鉄の様子:石炭が生成する高温により鉄を鍛えました。
産業革命とは、18世紀後半のイギリスに始まったもので、19世紀初頭まで続きます。
すべて手作業で行っていた綿工業は、機械の発明により大工場が次々とでき、石炭の利用により蒸気機関車が生み出されました。
また、この技術革新は、機械工業・石炭業といった重工業や、鉄道・蒸気船の交通改革を生み出していきます。
これは、19世紀前半にはヨーロッパ各地に広がり、近代資本主義経済が確立したとされ、社会・経済の大改革となりました。
そして、イギリスをはじめ、西欧諸国の資本が次第に巨大化し、さらに大規模な市場を求めて植民地獲得への矛先を変えていきました。
産業革命
初期の鉄道
また、「イギリス人はガーデニングが好き」と言われています。
これにも理由があって、18世紀に大英帝国がその圧倒的な力で、世界へと植民地を広げていきました。
もともと、イギリスに固有の植物は大変少なく、温暖な気候の豊かな植物やコーヒー、茶、砂糖などの嗜好品、黒コショウやナツメグなどのスパイスに大変憧れ続けてきました。
香辛料:金と同じ価値を持つと言われ、高い値段で取引されていました。
そのため、植民地として、その国ごと手に入れたいと思ったのです。
また、寒冷なイギリスの土地で、温室を持ち、領地内に豊かな熱帯の植物を育てることが、上流階級のステイタスになっていきました。
キューガーデンの大温室は、イギリスの植民地化による植物の移動と、大量の鉄とガラスの生産が可能にした集大成と言えるのです。
また、現存していませんが、キューガーデンと並ぶ「産業革命が影響を及ぼした最も大切な建物」と言われるのが、1851(嘉永3)年ロンドンで開催された第1回万博博覧会のパビリオンだった『クリスタル・パレス(水晶宮)』です。
長さは560m、幅120m、高さ30mに及ぶ、鉄柱とガラスによる建築物でした。
工場で製造された部品を現地で組み立てるプレハブ工法を用いたとされ、10か月ほどの短さで建設されました。
まさに、温室の原型と言えるでしょう。
多くの設計者に影響を与えた建物の一つです。
クリスタル・パレス:外観
クリスタル・パレス:内観
そして、日本にも明治時代には鉄とガラスの技術が入ってきました。
先に触れた通り、「東山植物園・温室」は1936(昭和11)年に作られたもので、それまでの温室がいかなる形ものであったか想像することが出来ません。
しかし、今回ご紹介する温室はたいへん力の入ったものなのは確かです。
東山植物園の区域は、1926(大正15)年に第16号森林公園として都市計画があり、地主から80ヘクタールの寄付を受けていました。
しかし、そのまま忘れ去れらていたかのようでしたが、1932(昭和7)年に東洋瓦斯(ガス)社長の岡本桜から、名古屋市に多額の寄付を受けたことがきっかけで、市が重い腰をあげ、ついに東山公園の開発が進展し、寄付金は東山植物園建設のために利用されました。
この岡本桜ですが、東京帝国大学を卒業後、1904(明治37)年に大阪瓦斯で技師として働いていましたが、後に名古屋瓦斯の社長となります。
1922(大正11)年に合併を受けて東洋瓦斯の初代社長となり、長きに渡り技術者・経営者としてガス事業の礎を築きました。
当時の金額で25万円もの多額の寄付しています。
東洋瓦斯会社:大正時代の様子
少し脱線しますが、ガスをなぜ『瓦斯』と漢字で書くのか?
気になったので、調べてみました。
もとは、ベルギーの医師がギリシャ語のカオス(混沌)から付けたそうです。
明治から日本でもガス灯が普及し、漢字表記が必要になりました。
カオスからガスになり、それを当て字にしたのが「瓦斯」です。
実は漢字には特に意味はないものでした。
やっと名古屋市は重い腰をあげて動き始めるのですが、1937(昭和12)年という年が一つの大きな鍵となりました。
この年は、名古屋港開港30周年を記念した「名古屋汎太平洋平和博覧会」の開催。
当時「東洋一の規模」を誇る新しい名古屋駅の完成。
これらの予定に合わせて、同年に東山動植物園の開園を合わせようとしたのです。
完成間近の名古屋駅
これらの事業を実施したのは、何でも日本一、東洋一が好きだったと言われる、当時の名古屋市長・大岩勇夫です。
1927(昭和2)年から1938(昭和13)年までの任期の間に、上記以外にも、名古屋市庁舎や市民病院、市営バスなどを竣工し、名古屋の発展に大きな影響を及ぼした名市長の一人です。
大岩勇夫
特に、名古屋汎太平洋平和博覧会は、1937(昭和12)年3月15日から5月31日まで行われた博覧会で、日本では第二次世界大戦前で最後の大博覧会になります。
この博覧会に、市長は当時の金額で300万円もの大金をつぎ込み、海外から29か国が参加し、36万点の展示数を誇りました。
なんと期間中に480万人もの入場者数を動員したというのですから、まさに大成功を収めたと言えます。
名古屋汎太平洋平和博覧会
博覧会:パンフレット
そんな博覧会の計画の真っ只中に、今回ご紹介する東山動植物園の開園計画が進行していったのです。
そして、動物園は「東洋一の動物園」、植物園には目玉になる「東洋一の温室」案が生まれたのです。
東洋瓦斯の岡本桜により25万円の寄付を受けていましたが、もちろん予算は足りません。
そこでやり手の市長は、多くの地主を説得し、土地を寄贈してもらい、区画整理などで土地売却の資金などから、すべての工事費用を賄うことが出来ました。
工事を請け負った(株)北川組のホームページによると、東山動物園工事(約34万円)・東山植物園温室工事(約6万2千円)・東山古代動物模型工事(約3千円)だったとのことです。
東山動物園についてですが、第二次世界大戦前には、700種1200点という動物数を誇り、1984(昭和59)年には日本で初めてコアラが来日しています。
「東洋一の温室」(後に重要文化財の指定を受ける)の設計は、名古屋市役所職員の若き青年、一圓俊郎に委ねられました。
一圓俊郎
一圓は、1935(昭和10)年に名古屋市の土木部建築課に入庁したばかりでしたが、東京帝国大学建築学科を卒業したことと、当時の最新技術である電気溶接技術(アーク溶接)の知識があったことで選ばれたのではないかとのことです。
今ではアーク溶接は、自動車、列車、船舶、建築物などのあらゆる分野で一般的に使われている方法ですが、当時一般的であった溶接方法はボルトやリベットで止めるというものでした。
アーク溶接で柱や梁などの鉄骨を溶接で組み合わせて巨大な構造物を作るという発想は挑戦でもありました。
そして、このアイデアの手本となったのが、キューガーデンと言うわけです。
ただ、東洋一という壮大な計画の割には、大変工期が短く無理をしたようです。
植物園の開館に温室も間に合わせるために、1936(昭和11)年に着工し、翌年に完成させているのですから、一圓と技術者たちの苦労が目に見えるようです。
開園当時の正門
それでは、東山植物園・温室前館を見ていきましょう。
現存する温室前館は、最高高さ12.4m、全長66mの全面ガラス張りです。
屋根組がトラス構造の三角の鉄骨造です。
中央の大きく盛り上がった部分は、キューガーデンと同じくパーム・ハウスと呼ばれる部分になっています。
(以前は後方に木造の温室がありましたが、戦火で焼失しています。)
外観
当時の温室平面図
中央はヤシ室となり、東翼がシダ室、西翼は多肉植物室です。
実はキューガーデンよりも、細いアングル材が使用されています。
アングル材とは、ガラスとガラスをつなげる鋼材(鉄骨)のことです。
断面が「L」字型になっているのが特徴で、アングルは両辺のサイズが等しいものです。
一般的なアングル材
細いアングル材を採用した理由ですが、枠組みが細くなることで、ガラスの面積が広くなり、植物にとっての命である日光がたくさん温室に届くようにと、配慮されたものです。
どうしても直線の鋼材を用いているので、外観の曲線部分はよく見ると3か所ほど角ばっています。
パームハウス:側面
入口には丸い照明が一つついています。
外観からは、ゆるい曲線のように見受けられますが、内側のしっかりとした三角の梁のおかげで、出入口はあまり曲線を感じられません。
外観:出入口
室内の梁に目を向けると、先に解説したように、アーク溶接で、ボルトなどがないため継ぎ目が目立たず、丁寧で繊細な作りとなっています。
実際の接合面:綺麗な曲線の梁に、継ぎ目が目立たない溶接でスッキリとして美しいです。
パーム・ハウス:中央ヤシ室
中央が箱型ではなく、丸いドーム型となっていますが、こちらの方が熱が逃げにくく、蓄熱効果があり、四季がある日本でも、熱帯の植物を育て易い形となっています。
また、開園当初は、石炭ボイラーで摂氏80度のお湯を沸かして床下に流し、夜間でも安定した高い室内温度を維持するように設計されていました。
室内の骨組みの様子
開園に間に合った温室ですが、この大温室だけ有料で、観覧料は大人10銭、小人5銭でした。
遅れること21日後に、動物園が開園しており、こちらは観覧料が大人15銭、小人5銭でしたが、植物園と対称的にライオンやシロクマを見ようと連日大盛況。
温室の建物自体に興味があった人が当時どのくらい居たでしょう。
今では、日本の温室建築の貴重な建物で、初期の本格的な全溶接建築物として価値を認められ、重要文化財となっているのですが。
東山動物園のコアラ
鉄骨の老朽化や耐震工事のために2019(平成31)年まで保存修理工事が行われる予定で、温室の前館部分のみ現在は閉鎖中です。
次に公開されるのは2020(平成31)年度の予定ですが、1960(昭和35)年以降に開設された後館は見学が出来ます。
公開までにそれだけの時間を要するほど、規模が大きく繊細な作りということでしょう。
今しばらくは、東洋一の水晶宮と呼ばれた当時の美しさの復活に期待しましょう。