日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧東京商船大学 旧第一観測所 旧第二観測所

世界に誇れる日本の三大海運会社は「日本郵船」「商船三井」「川崎汽船」です。


この大手の巨大な舟の数々を動かしているのは、もちろん航海士ですが、彼らを育てる専門の大学と言えば「商船大学」です。


特に、この三大海運会社の求人は、東京海洋大学海洋工学部と神戸大学海事科学部に集中すると言います。


現在、船乗りを目指すには、乗船実習(6カ月)、卒業後の帆船実習(6カ月)を行い、国家試験に合格すると晴れて海技免許が取得できます。

 

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明治丸:1873(明治6)年に日本政府がイギリスに依頼して作らせた船で、明治時代に活躍した船ですが、後に商船学校に譲渡され練習船として使用されていました。

 

優秀な航海士を育てている東京海洋大学ですが、実は2003(平成15)年に、2つの大学が統合して出来た新しい大学で、日本の国立大学では唯一の海洋に特化した大学です。


旧東京商船大学と旧東京資産大学の統合ですが、キャンパスは従来のまま使用しています。


今回ご紹介する建物は、関東大震災で校舎の大半が倒壊したにもかかわらず、生き残ったレンガ造りの建物「旧第一観測所」と「旧第二観測所」です。

 

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第一観測所

 

この観測所があるのは、旧東京商船大学の越中島キャンパスです。


越中島に校舎が建てられたのは、1899(明治32)年ですが、大学の歴史は長く1875(明治8)年に遡ります。


当時の内務卿(内務大臣)であった大久保利通が、三菱財閥総帥の岩崎弥太郎に命じて、郵船汽船三菱会社により前身である『私立三菱商船学校』を設立させたのが始まりです。


日本の近代郵政制度の創設者の1人「前島密(まえじまひそか)」が政府からの補助金を給付して創立させたとも言われています。

 

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前島密:日本の官僚・政治家で「郵政制度の父」であり、陸海元会社(現・日本通運(株))や郵便報知新聞(現・スポーツ報知)の設立にも関与しています。

 

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1円切手:現在でも1円切手の顔としても有名です。


島国の日本では鎖国が終わり、航空機が発達していない明治時代において、積極的に海外貿易をするには、外洋で大型商船を運行する人員の要請は急務な国家事業でした。


そのため、当時の財閥の経済力を利用し、商船学校の創立を急いだのです。


三菱財閥以外にも、川崎財閥の手により川崎商船学校を設立させたが後の国立神戸商船大学となります。


(現在の神戸大学海事科学部と、国立神戸商船大学は、国立大学の観点から別々の学校と分類されますが、学校の教育は受け継がれており、歴史的には前身とされています。)

 

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岩崎弥太郎

三菱財閥の創業者で初代総帥、明治時代に政商で巨利を得た人物です。


三菱商船学校は、隅田川河口の永代橋畔の霊岸島(中央区新川)に創立しました。


1期生は44名で外洋科と内航科の2科で発足し、その後、機関科が加わります。


外洋科と内航科では航海士や船長の育成、機関科は機関士(船のエンジンや機械、装置などの運転管理を行う)や機関長の育成を目指しました。


当初は、遠洋航路は5年、内航航路は3年の修行年月を費やしました。

 

最初の校長は中村六三郎で教師陣には外国人も含まれ、卒業後は三菱商船が就職先となりました。

 

1882(明治15)年には私学から官立へ移管され『東京高等商船学校』となります。


理由は、三菱商船の経済負担を軽くするためと、徴兵制を免除するため(私学だと免除されない)、校舎や授業の充実を図ることが目的だったそうです。

 

高等商船学校は学費が無償の上、募集人員が少なく、将来有望ということで難関校として知られ、全国から優秀な人材が集まりました。


しかも、当時の商船船員(高級船員とも呼ばれる)は、外交官の役割を担い、徴兵が対象外となるのも人気の一つでした。


しかし卒業後は海軍予備少尉の階級が与えられ、有事の際には軍務に服すると定めらえていました。

 

3年間の授業と、1年間の海軍による軍事実習、1年から1年6カ月程度の乗船実習から構成されていたそうです。

 

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1986(昭和61)年には商船教育110周年記念の記念切手が発売されています。

 

学校の授業の一つに、今回ご紹介する「観測所」が関わってきます。


この観測所とは天文観測所のことで、船舶の航行のために天体の精密な位置や距離を測るため天文学は必須だったのです。


学校では、航海用天体暦の研究に利用され、光度、日出没、月出没、日食、月食なども観測していました。

 

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廻船用心記:吉村海洲 著、1840(天保11)年(東京海洋大学百周年記念資料館所蔵)

航海用の道具である「星度器」(四分儀)と「方鍼器」(方位磁石)の使い方、北斗七星から時刻を知る方法、各地の潮汐、漂流したときの心得などが書かれた本で、天保11年から明治20年ごろまで残っていたそうです。

 

1957(昭和32)年に東京に移転し、東京商船大学に改称しました。

 

面白いのは政府の管轄が何度か変わっていることです。


私学から官立へ移官した際は逓信省(郵便や通信を管轄する中央官庁で交通や電気も幅広く管轄していました)で、その後文部省へ、そして1949(昭和24)年には運輸省管轄となります。

 

ご紹介する観測所は、逓信省が管轄していた頃の建物で、逓信省の技師であった三橋四朗の設計による貴重な建物です。

 

三橋は、1867(慶応2)年、幕臣・鈴木庸正の四男として、江戸に生まれました。


1893年に帝国大学工科大学建築学科を卒業し陸軍省の技師を経て、5年間逓信省に勤務しました。


この在籍期間に、数多くの逓信省の関連の施設を設計し赤間関郵便局や、中京郵便局などが現存しています。

 

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中京郵便局:1902(明治35)年竣工

 

1906年には東京の技師となりますが、2年で退職し、東京に自身の設計事務所を開設します。


そこからさらに三橋は精力的に大小さまざまな設計をこなし、その作品の多くはセセッションと呼ばれるウィーンで流行した作風をとっていくのです。

 

セセッションは、ウィーン分離派とも呼ばれ、1897(明治30)年にウィーンで画家・グスタフ・クリムトを中心に結成された芸術家グループのことです。

 

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グスタフ・クリムト

 

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『接吻』1907-1908(ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館)


彼らは保守的な芸術の在り方を批判し、不満を持つ芸術家たちが集まりました。


新たな芸術運動を目指したもので、ウィーンにあるセセッション館がシンボル的な存在となっています。


しかしながら、三橋がこのグループに直接属していたわけではありません。


日本でいうセセッションとは、大正期に直線を強調させ、デザインを簡素化しながら、
それまでとは異なる新しい西欧デザインに傾倒している作品全般に用いられている言葉となっているようです。


つまり、セセッションの作風とは、斬新で洗練されたデザインのことで、大正モダンを象徴するデザインという大きな枠組みと言っても良いのかもしれません。

  

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分離派美術館セセッション館:1898(明治31)年

ファザードには、金色の月桂樹の葉の集合体で「金色のキャベツ」という別名を持っています。その下には、「DER ZEIT IHRE KUNST・DER KUNST IHRE FREIHEIT(時代に芸術を、芸術に自由を)」の文字が掲げられています。

 

三橋は、平面性を強調した現代で言うグラフィカルデザインというべき作風で知られています。


三橋の事務所には、関根要太郎・菅原栄蔵・蔵田周忠といった世に名を遺す建築家が一時期在籍していました。

 

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蔵田周忠

 

また、三橋は設計の傍ら、川崎寛美(川崎鐵網工場・初代社長)とともに鉄筋コンクリートの開発を行い、それを応用した川崎鉄網コンクリートを普及させました。


川崎鉄網コンクリートとは、耐火工法の一つでコンクリートを壁に塗り付けるというものです。


また数々の著作を発表し、中でも『和洋改良 大建築学』は建築学の辞書的な役目を担うものでした。

 

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和洋改良 大建築学(全四巻):明治37-44年


残念なことに、三島は1915(大正4)年ロシアのウラジオストクにて48歳という短い生涯を終えました。

 

それでは、東京海洋大学の「旧第一観測所」と「旧第二観測所」を見ていきましょう。

 

三橋が逓信省にて技師として働いていた時期の建物で、1903(明治36)年に建設されました。

 

霊岸島から越中島の新校舎へ移転した際に、観測所の建設が計画されたもので、航海のための天文学と天体暦の研究のために使用されました。

 

旧第一観測所は2階建てになっており、1階が八角形で2階が円筒形となっており、屋根は円形ドームとなっています。

 

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第一観測所:正面


面白い特徴としては、外壁が1階は赤レンガで2階が漆喰塗りとなっているところです。

 

赤レンガは当時外国から輸入されたもので、現在では大変貴重なものとなっています。

 

入口やすべての窓は分厚い外壁の奥側(室内側)に凹んだ形で設けられています。

 

小さな割りに、どっしりとした重厚感が感じられるのは、そうしたデザインによるものでしょう。

 

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1階:窓

 

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2階:窓 窓は旧第一観測所も旧第二観測所も二重になっています。


入口には、これまたどっしりとした屋根を設け、扉には曲線を用いた文様がデザインされています。

 

扉上部の欄間に見える半円形部分も一体で開くため、背の高いもの(望遠鏡など)を持っていても簡単に出入りすることが出来ます。

 

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正面入口

 

また基礎にはコンクリートが分厚く用いられ、地盤をしっかりと安定させています。

 

建物の外壁の厚みと重量、そして地盤の安定により、関東大震災による大地震を持ちこたえることが出来たのです。

 

この天文台のドーム屋根は現存する日本最古のドームとしても知られています。

 

天文台にドーム屋根が必要なのは、360度開放することが出来るためです。

 

また、旧第一観測所は「赤道儀室」と呼ばれています。 

 

それは、2階に当時の最新鋭の7インチ天体望遠鏡(赤道儀)が設置され、設定しておけば手動により日周運動に合わせて同じ天体を追いかけて観察することができました。

 

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ドーム型屋根

 

旧第二観測所は平屋建てで、外壁が八角形となっており、旧第一観測所(1階部分)とほぼ同様のデザインとなっています。


建坪は8坪6号で、こちらは「子午儀室」と呼ばれています。

 

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旧第二観測所:正面

 

第一観測所と比べると、窓が設置されている凹みが少し浅く感じられ、観測用に1か所の窓は屋根まで到達するくらい高い場所に縦長の窓が設けられています。

 

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子午儀での観測用窓

 

当時内部には、子午儀(しごぎ)を備え、子午線方向にだけ動く望遠鏡が設置されていました。

 

子午線は経度ともいい、赤道と直角に交わる線で、これにより天体の方位角や時角を図る基準となります。

 

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二重窓:窓は旧第一観測所も旧第二観測所も二重になっています。


両観測所とも、昭和初期まで、授業や天体観測に利用されていましたが、1945(昭和20)年の終戦直後にアメリカ進駐軍により望遠鏡などの内部施設は撤去されています。

 

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明治丸にて六分儀で計測中

 

現代の航海士にとって、天文航法の知識がどのくらい必要なのでしょうか。


今では、衛星測位システム(GPS)により、船舶の位置・進路・方向・速度などを簡単に知ることができます。


実は、世界では教育のための時間と教育費がかかるために、天測をなくせないか?という思惑もあるために議論が繰り返されているのです。


一般法人日本船長協会のホームページには、天文航法についての有識者や船長へのアンケート結果が掲載されていました。(平成20年に実施されたもの)


「天文航法の規定を今後どのようにすべきか」というもので、結果は「現状のまま強制要件として残す」というものでした。


理由として、「GPSは精度は高いが機器が故障する可能性がある。」


「緯度・経度を自ら知る手段を知らない航海士が世界の海を航海するのは怖い。」


「天測の伝承を止めてしまえば、いざ必要になった時に教える人間もいなくなる。」


など、平成20年での日本の現場では必須の知識とされましたが、世界でも議論され続けているようです。

 

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明治時代の六分儀:1880年(明治20年頃)以前に制作されたイギリス製の六分儀(山口県立山口博物館所蔵品)


明治から続く商船学校の歴史と、卒業生たちが大海原で見上げてきた天空を想像しながら、ぜひ観測所へ足をお運び下さい。