「今日も疲れたな・・・」
「たまにはどこかに旅行に行きたいな・・・」
そう考えたとき、日本人である私たちの多くは「温泉で疲れをとって、美味しい料理を食べて、リラックスしたい」とよく考えますよね?
ご存じのとおり「温泉」というのは、日本人が誇る、最高の文化の一つです。
日本人が世界的に見ても「長寿の国」である1つの理由は、「湯につかる」という習慣です。
温泉
もともと、日本人は昔から「お湯につかる」ということを好む人種ですが、その後、普通のお湯ではなく、火山地帯で湧いて出たお湯につかるという「湯治」という文化を作り出しました。
さて、世界で最も古い温泉というのは、古代ローマ時代のイタリアに遡りますが(古代ローマの温泉に関しては、テルマエ・ロマエという漫画か映画を参考にしていただければ、とてもわかりやすいです)、日本で最も古い温泉がいったいどれほど前にできたかあなたはご存じでしょうか?
古代ローマ遺跡の温泉跡
その温泉は、日本で最も有名な温泉の1つ、愛媛県松山市道後にある「道後温泉」です。
道後温泉
この温泉が発見され、人が湯につかったのは、なんと3000年も前の話です。
道後温泉は紀元前1000年ごろには、すでに温泉として利用されていたのです。
弥生時代初期ごろのお話です。
このこと、あなたはご存じだったでしょうか?
今日のお話は、洋風建築の話ではなく、和風建築のお話です。
そして、実はこの「道後温泉」があったからこそ、現代人は今「旅行」=「温泉」というイメージが圧倒的に強いのです。
では、この道後温泉の歴史を少し遡りながら、建築物としての道後温泉を紐解いていくことにしましょう。
道後温泉は、「日本書紀」にも登場する日本最古の温泉です。
道後温泉のシンボル「道後温泉本館」は、建築に興味がある人なら、思わず見上げてしまうことでしょう。
複雑な屋根が様々な形で無数にかかっており、本当に「見事」と言わざるをえない美しい建築なのです。
どっしりとした構えの本館上部の振鷺閣(しんろかく)には伝説の白鷺を据え、また毎朝6時に太鼓の音で開館を告げるなど、歴史ある温泉情緒をかもしだしています。
正面:屋根
屋根の白鷺
ちなみに、「道後」という名称の理由は、大化改新(645年)によって各国に国府が置かれ、この国府を中心として、道前・道中・道後の名称が生まれました。
道中は、国府のある地域を称し、京に向かって国府の前部にあたるところを道前、
後部にあたるところを道後と呼んだわけです。
ですので、中世の道後は、現在の今治市より南を総称していたのですが、近世に入ってからは、温泉の湧く今の道後に限定するようになったそうです。
つまり、この温泉は、場所の名称までもを改変させる力を持っていたということです。
それほどまでに人々に3000年前から親しまれ、愛された温泉です。
この建築物のシンボルである、白鷺についてなのですが、これには伝説があります。
足に傷を負い苦しんでいた一羽の白鷺が、岩間から噴出する温泉を見つけ、毎日飛んできてその中に足を浸していたところ、傷は完全に癒えてしまい、元気に飛び去りました。
これを見た人たちは大変不思議に思い、入浴してみると、爽快で疲労を回復することもでき、また、病人もいつのまにか全快したことから、盛んに利用されるようになりました。
白鷺の伝説
あくまでも伝説ですが、実はかなり信ぴょう性のある伝説です。
実際に、「湯治」を行う理由は、病気やケガの回復のためなのですが、それを日本人が初めて知ったのは、ケガを負った白鷺からだったということです。
鷺も動物ですから、温泉の効能で治ったという説はけっこう有力です。
それが3000年ほど前の話で、その頃から人々は温泉につかっていました。
しかも、この伝説のある鷺谷という場所は、今の道後温泉にほど近い地であったといわれ、後世の人たちがこの伝説を記念するために、鷺石という石をここに置きました。
現在は道後温泉駅前の放生園に移され、保存されています。
鷺石
この石のおかげで、この伝説の信ぴょう性が少し上がっています。
さて、この道後温泉を訪れた「有名人」として最も古い人物はいったい誰でしょうか?
おそらくあなたも、かの文豪「夏目漱石」がその地にたびたび訪れていたことはご存じでしょう。
夏目漱石
今では、坊ちゃん列車や、坊ちゃん団子などの名称で親しまれる道後の交通や郷土品。
これは、夏目漱石が「坊ちゃん」の中で、道後温泉を頻出させていたためです。
坊ちゃん列車
坊ちゃん団子
小説の中で、教師である主人公は毎日道後温泉に通い、その様子が子供たちの間で話題になっています。
さらに、この温泉での、湯のつかり方やお茶菓子の出る休憩室の描写までもあります。
そもそも、なぜ夏目漱石が道後温泉のことをここまで知っているかというと、松山中学に英語教師として赴任する前年に、道後温泉の本館である「神の湯」棟は完成していたのです。
道後温泉の見取り図:赤い丸の部分が1階神の湯で、この辺りが完成していたようです
そのため、夏目漱石の坊ちゃんという小説は、一種の自伝的な側面も持っており、その描写が今現在私たちが目の当たりにしている道後温泉のことをありありと描写しているのです。
以前、ブログにて『萬翠荘』をご紹介した際に、正岡子規や夏目漱石に触れたことがございます。
ぜひ一度、お読みいただければ幸いです。
萬翠荘(歴史ロマンあふれる森の中のお城) - 日本のすばらしい建築物
しかし、実は最も古い有名人は夏目漱石ではありません。
それよりも、さらに1300年ほどさかのぼります。
飛鳥時代、西暦596年、なんとあの「聖徳太子」がこの地を訪れ、温泉に入っているのです。
伊予の温泉を訪れた聖徳太子は霊妙な温泉に感動を覚え碑文一首をつくりました。
当時の温泉郷は椿が豊かに生い茂り、あたかも天寿国にある思いがするとたたえられています。
聖徳太子
聖徳太子の碑文
では、現在の施設としての道後温泉はいったい誰の手によって造られたのかというお話をしましょう。
1890(明治23)年、道後初代町長・伊佐庭如矢(いさにわゆきや)は当時、老朽化していた道後温泉本館改築に取り組みました。
伊佐庭如矢
実は当時、内外の多くの人々にこの改築工事に関して反対と批判をされました。
さらには命の危険に晒されたこともあったようです。
しかし伊佐庭は自ら給与を無給とし、100年たっても真似の出来ない物を造ってこそ意味がある、人が集まれば町が潤い、百姓や職人の暮らしもよくなると誠心誠意をもって町民を説得してこの偉業を成し遂げました。
棟梁には、元城大工の坂本又八郎を起用し、当時でも珍しいとされる木造三層楼の作りになっています。
また、伊佐庭は道後への鉄道引き込みを計画し、道後鉄道株式会社を設立、一番町~道後、道後~三津口間に軽便鉄道を走らせたり関西からの航路が開かれるなど、道後温泉が発展していった時節といえるでしょう。
道後鉄道:この写真の向かって左側には、道後温泉本館屋根の一部が映っています
伊佐庭如矢のお墓は、道後温泉街を見下ろす鷺谷の墓地に葬られています。
この伊佐庭の努力がなければ、今も道後温泉は現存していたかもわからないですし、「温泉」という文化がここまで日本人に親しまれることもなかったということがのちにわかります。
道後温泉を建築物として見たときに、最も目を引くのは、上述したとおり、「屋根」です。
複雑な屋根がさまざまな形で無数にかかっており、数えきれないほど折り重なる入母屋屋根に白鷺の舞う方形、屋根の太鼓櫓、反りもあれば、むくりもあって、屋根葺き材料も桟瓦、銅板と、表情を変えます。
道後温泉を上からみた様子
しかし、屋根だけではなく、破風板の下に取り付く懸魚や高欄の腰板、軒の持ち送りには、温泉が勢いよく湧き出るさまを掘ったいろいろな彫り物があります。
正面玄関上部の唐破風
神の湯北側の唐破風
そして、この建築をぐるりと囲む道路を一周して眺めていると、湯上りに休憩室から見下ろす人々、入り込む唐破風、視線を遮る塀、さながら武家屋敷のような門構え。
見る方向一つで、全く違う雰囲気を醸し出しています。
素晴らしいのは、違う雰囲気を出しながらも、全体的には温泉建築として成り立っているという点です。
実はこの温泉建築は、建築年代の異なる4つの建物を合わせて、現在「道後温泉本館」と呼ばれています。
道後温泉手前の商店街を抜けて、正面に見える立派な唐破風のある建物が玄関棟で、ここでは一番新しい大正13年(1924年)の建築です。
正面:玄関棟
その左手にある白鷺の舞う方形屋根の櫓がのる3層の建物が、1894(明治27)年完成の神の湯棟で、最も古い建物です。
元々は、こちらが本館の入口だったようです。
正面左側:神の湯棟
玄関右手奥にある2階を休憩室とする建物は、大正13年に完成した南棟。
南棟
東側、裏手にある、御成門のある銅板葺きの複雑な屋根が重なってかかるのが又新殿(ゆうしんでん)・霊の湯(玉の湯)棟で、明治32年に完成しています。
又新殿
又新殿:御成門アップ
この又新殿は、皇族専用の浴室として造られたのですが、実際には使われたことはほとんどないようです。
ですが、ここから当時の「天皇家の来訪を道後の地方で待ち構える」という近代日本の各地で生まれた「自意識」を垣間見ることができます。
日本には温泉が数多く存在しますが、皇族専用の浴室がある温泉はほとんどありません。
このような思いを込めて明治中期から大正時代にかけて、伊佐庭が命をかけて作り上げた、この道後温泉の4つの建築物は、複雑に絡み合い、多様な表情を現在に残しています。
ちなみに、又新殿の東側の御成門を玄関とする又新殿は現在は一般公開されて見学コースにもなっています。
この又新殿の名前の由来は、「また新しくできた殿(御殿)」という意味です。
内部は、書院造を模した造りで、金箔を張った襖絵などで飾られています。
玄関の間、御次の間、玉座の間、さらには、武者隠しの間までありました。
又新殿:内部
各室とも、銘木や障壁画を使い、天井、欄間も趣向を凝らしています。
階段を降りると、付書院のある八畳の湯殿休憩の間があり、庵治石を使った浴槽があります。
浴槽の周囲には、鷺や鳥が彫られ、そこから庭を眺めることができます。
神の湯棟の北側の軒先には3つの唐破風がついています。
現在は西側の玄関棟が玄関になっています。
おそらくこの玄関棟が最も多くの人に知られている姿です。
しかし、実はもともと江戸時代には、神の湯北側の北側には、一の口、二の口、三の口と分かれた玄関がありました。
その名残がこの唐破風です。
神の湯棟:唐破風
二階は畳を敷いて吹き放された広々とした休憩室となっており、三階は個室を8つ構える個室休憩室で、それぞれに高欄を回して、周囲に対し開放的な造りとなっています。
ここで外を眺めながら涼むのが、道後温泉の一番の贅沢でしょう。
道後ビールを片手に涼みたいものですね。
2階:休憩室
道後ビール:愛媛県松山市の水口酒造が製造・販売する地ビール
大正期に増築された南棟も、そうした休憩室を上階に設けています。
ちなみに夏目漱石はここに何度も通ったといわれ、湯上りに休憩室で茶をすすりながら道後の町を見下ろしていたことでしょう。
こうした「視点としての場」を一般の温泉客に与えたということが、近代的な空間体験の提供になっており、この視点の提供と、夏目漱石の坊ちゃんという小説によって、
道後温泉が有名になり、今現在では「温泉」=「休暇の代名詞」になるまで発展したのです。
神の湯
霊の湯
では、どうして、道後温泉はこのような造りになったのでしょうか?
日本最古の歴史を持つ道後温泉の老朽化した建物の改築は、明治期に入って大きな課題になっていました。
そこで、上述したとおり、1890(明治23)年に道後湯之町町長に就任した伊佐庭如矢が神の湯の改築に着手しました。
もともと求められていたのは、「改修工事」だったのですが、伊佐庭は、温泉を建て直すだけでなく、同時に松山市内や大阪航路の就航した松山港から温泉客を呼ぶために1893(明治26)年に道後鉄道株式会社を設立します。
この人物は、1つの町の単なる町長でありながら、天才的なマーケッターであったともいわれています。
彼は、伝統的な湯治客として人々を集めるためだけにこの改修を進めたのではなく、
鉄道で来客する人々、すなわち、余暇を得た「近代人」に向けた観光地開発、道後への集客を意図してこのプロジェクトを遂行したのです。
しかし、ぱっと見た感じでは、鉄道と温泉建築との一体開発や、皇室来訪を想定するなど、計画面では非常に近代化を図る反面、建築のほうは伝統的な技法と表現を引きずっているように見えます。
しかし、詳細に見ていくと、小屋組みに洋風トラス構造を採用するなど、見事に時代の流れを反映しているのです。
トラス構造例
こうして、道後温泉の近代化は完成しました。
この道後温泉の近代化、「余暇レジャー施設」としての立ち位置を作り上げたことから、日本で爆発的に「温泉」というレジャーが流行していきました。
今現在では、各地に様々な温泉街があり、人々がリラックスできる空間が提供されています。
外国人にもかなり人気の日本文化にもなっており、日本の誇る最高の文化の一つです。
その流行を作り出したトップランナーこそが、この道後温泉であり、それに命を懸けた伊佐庭如矢という人物がいたからこそ、この文化に私たちは身近に触れられるのだということを忘れてはならないと思います。
あなたも次の休暇には、道後温泉まで足をのばしてみてはいかがでしょうか?
郷土料理の鯛めしを食べながら、道後ビールを飲む。
最高ですよ。
鯛めし
ちなみにですが、周辺のホテルや旅館では、道後温泉と同じ湯が流されています。
ですので、ホテルに泊まっても、普通に温泉に入れます。
本当にすごいところですのでおススメです。
また、「みかんジュース」の専門店などもあり、本当に濃厚でおいしいですよ。
みかんジュース
驚くことに、みかんジュースが出てくる蛇口もあります。
しかも、みかんの品種ごとに蛇口が分かれています。
本当にすごいところです。