日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

1928ビル(旧毎日新聞京都支局ビル)

観光スポットの多い都道府県でもトップクラスの京都。


そんな京都の観光スポットランキング1120件中436位(2017年7月27日時点)にあたる建築物『1928ビル』をご紹介します。

 

京都に住んでいても知らない人が多いこの『1928ビル』。

 

一見普通のビルのようで、京都市のど真ん中、三条寺町商店街を一本西に入ったところに佇んでいます。

 

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元々、このビルは「毎日新聞」が「大阪毎日新聞(通称:大毎)」と呼ばれていた頃に、京都支社の社屋として建てられた建物です。

 

現在のビルの名称が示す通り、竣工は1928(昭和3)年。

 

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大阪毎日新聞・京都支社の頃


新聞社が移転した後しばらくは空きビルでしたが、1998(平成10)年に京都の建築家・若林広幸の手に渡り、建物は改修工事が施されたそうです。


しかし、ビルの内外装ともに、未だに当時のままの状態で残してある部分が多く、それが特徴的な建物として復活しました。

 

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若林広幸

 

実はこのビルは一見「廃墟」のような雰囲気が漂う内装なのですが、これこそが今現在、このビルの最も大きな魅力となっています。


その点については後述します。

 

京都市市登録文化財の鉄筋コンクリート造り地下1階、地上3階建。

 

設計者は、武田五一です。


さて、ここから少し、大阪毎日新聞のお話をしましょう。

 

まずは、当時の大阪毎日新聞社の社長である本山彦一(もとやま ひこいち)。

 

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本山彦一

 

彼は幕末の頃、熊本に生まれ、維新後は慶應義塾に学んで、東京の新聞社・時事新報に入社しました。


その後、大阪に移って実業界で活躍し、1889(明治22)年、大阪毎日新聞の相談役に就任し、ほどなくして社長になりました。


朝日新聞と並んで、関西の2大新聞の一翼 “大毎” 中興の祖と呼ばれています。

 

毎日新聞は、上述した通りかつては大阪毎日新聞と言い、略称は「大毎(だいまい)」でした。


ちなみに、朝日新聞は大阪朝日新聞で、通称は「大朝(だいちょう)」です。

 

毎日新聞の本社は大阪の堂島にありました。

 

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旧大阪毎日新聞本社

 

当時の家々は瓦屋根の町家で、いかに時代を先取りしていたかが分かります。


新聞は、文明の象徴という側面があり、紙面はもちろんのこと、社屋にしても時代の先取りをすることが肝心でした。


この本社の社屋ができたのは、1922年(大正11年)でした。

 
ちなみに本山は、大毎の百万部を達成した中興の祖だったのですが、単なる新聞人ではありませんでした。
 
彼は、若い頃、モースの大森貝塚発掘に刺激され、考古学に興味を抱きました。

 

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エドワード・S・モース

 

仕事の傍ら、遺物をコレクションし、大阪府堺市の浜寺に、本山考古室を開設しました。


また、自分で遺跡を発掘することもあったようです。


例えば、大正6年(1917)、大阪府の国府(こう)遺跡を発掘して、人骨を掘り出しました。


その中には、耳飾りを付けた(正確には頭蓋骨の横に耳飾りがあった)骨も見つかるなどの発見をしています。


当時ではとても貴重な発見であったそうで、京都帝大(現:京都大学)の考古学者・濱田耕作は、本山のことを「考古学界のパトロン」と呼ぶほど、公私ともに考古学を援助していたようです。


一方で彼は歴代の天皇陵をお参りする運動も行いました。


これを皇陵巡拝(こうりょうじゅんぱい)と呼びます。

 

このように、当時の大阪毎日新聞社の社長は公私ともに飛びぬけた偉業を達成した人物であることがわかります。

 

その毎日新聞の京都支局は、現在、河原町通丸太町上ルにありますが、1998年までは三条通御幸町の角にありました。(直線距離にして1.5kmといったところです。)

 

これが現在の1928ビルなのですが、京都支局が移転したあと、保存が危ぶまれました。

 

しかし、上述した通り、1998(平成10)年、建築家の若林広幸が買い取り、保存・活用の途を開かれました。


地階はカフェ、1階はギャラリーと雑貨屋、2階はレストラン、3階はホールを芸術家たちに貸し出しています。

 

ちなみに3階は現在、無言の演劇「ギア」を上演するスペースとしても知られています。


最近メディアに取沙汰されているので、もしかしたら、聞いたことがあるかもしれませんね。

 

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3階ホール:ギア使用時

 
この建物の竣工時、京都支局長を務めていたのが、岩井武俊です。


岩井は、世の “考古記者” のはしりとも言うべき存在で、考古学はもちろん、歴史や建築に造詣が深かった記者でした。

 

そのため、本社の社長である本山と非常に話が合っていたようです。


寺社建築の写真集『日本古建築菁華』をまとめたり、京都に関するエッセイ集『京ところどころ』を編集。


また『京郊民家譜』正続を刊行するなど、数多くの編著書があります。

 
大毎への入社は、1914(大正3)年です。


入社の面接は、本山が直々に行ったそうです。

 

岩井の考古学や歴史の知識が本物だと知って採用したのかどうかは定かではありませんが、入社後は本山と考古学について語り合ったり、発掘にも同行しているようです。

 

仕事としては京都支局に配属され、1915(大正4)年の大正天皇即位礼を取材しました。


その後、政治部、社会部などと異動し、京都支局に戻ったのは1927(昭和2)年のこと。

 

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大正天皇

 

翌年、京都御所で昭和天皇の即位礼が行われるからでした。


二度にわたる「御大典」の取材を行ったとても貴重な経験をしている人物です。

 

岩井は、本山が進めた皇陵巡拝でも案内役を務めるなど、その右腕として力を発揮しています。


社長と一記者とが、考古学を通じて付き合っていた時代です。


素敵な時代だとしみじみ思います。


あの映画「釣りバカ日誌」を彷彿とさせますね。


さて、そんな二人がいたこの大阪毎日新聞の京都支局のビルは、当時の京都帝大教授の武田五一が建築しました。

 

武田は1872(明治5)年11月15日、備後福山藩(現・広島県福山市)に生まれました。

 

彼は「関西建築界の父」とも言われる日本の建築家です。

 

ヨーロッパ留学で影響を受けたアール・ヌーボー、セセッションなどが特に有名ですね。

 

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アールヌーボー例 京都府立図書館

 

セセッションについては、過去にブログにて少し触れていますので、ぜひお立ち寄り下さい。

 

旧東京商船大学 旧第一観測所 旧第二観測所

 

建築以外にも工芸や図案・テキスタイルデザインなども手掛け、自身の作品だけではなく、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科や京都帝国大学(現・京都大学)に工学部建築学科を創立し、向井寛三郎など多くの後進を育成しています。


また、神戸高等工業学校(現・神戸大学工学部)の設立にも関与しています。

 

このように、後進にとてつもなく大きな影響を及ぼした、1人の偉大な教授でもありました。


さらにはフランク・ロイド・ライトとも親交があり、国会議事堂建設をはじめ多くのプロジェクトに関与しています。


法隆寺、平等院などの古建築修復にも関わりが深いようです。

 

フランク・ロイド・ライトの人生についても、以前、旧甲子園ホテルについて触れた際に書いております。

 

旧甲子園ホテル(武庫川女子大学甲子園会館)

 

ぜひ、面白い人生を呼んでみて下さい。

 

 

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フランク・ロイド・ライト

 

そんな武田が手掛けた京都の三条御幸町に佇むビルが1928ビルです。

 

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正面


地上三階と地階を入れたアールデコ風のこの建物ですが、まず目につくのは、星型の窓枠です。


これは、「大毎」の「大」の字をイメージして作られたようです。

 

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正面最上階の星形窓

 

そして、この建物の全体の正面の形は「大毎」の「毎」の字をイメージして作られているとのことです。

 

確かにじっと見つめ続けていると、そう見えてくるかもしれません。


さらに、バルコニーを見上げると他では見られない形をしているのですが、このバルコニーの形は、大阪毎日新聞の社章の形だそうです。

 

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3階:バルコニー

 

ドア付近の柱の形などは完全にアールデコ様式です。

 

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1階:ドア付近 2本の柱上部が印象的です。

 

外観に見られる窓は観音開きで、とても趣があります。

 

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2階:窓


そして、ドアをくぐり中に入ってみると、まず目を引くのは床に貼られたタイルです。


一階の廊下部分は全てタイル張りになっており、訪れた人に鮮やかな印象を与えます。

 

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一階廊下:繊細なタイル張り

 

さらに歩いて一階の部屋に入ってみると、そこは、木目の床になっています。


現在一階はギャラリー兼雑貨屋として利用されています。

 

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1階:ギャラリー

 

タイル張りの階段を上がって2階に行くと、そこはレストランになっています。

 

そしてさらに3階に上がると、大きなホールになっており、先程述べたとおり無言の演劇「ギア」が定期的に上演されたりしています。

 

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三階:ホール


さて、残すは地階のみなのですが、ここからがこのビルの本当の魅力です。


1階から3階は、基本的には改修が施されており、かなり綺麗な形を保っているのですが、地階は違います。

 

地階に続く階段は、一階の玄関を入ってすぐ左手にあります。


この時点ですでに「異国風の雰囲気」がひしひしと伝わってくるのですが、ここから階段を降りていきます。

 

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地階への階段

 

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階段踊り場:タイルの柄が独特な印象を与えてくれます

 

地階のカフェですが、設備などの改修は施されてはいるのですが、実際に写真を見れば「廃墟風」の意味がわかります。

 

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カフェアンデパンダン

 

もはや、日本ではありません。

 

昼からこの暗さです。


「廃墟風カフェ」という言葉がこれほど似合うカフェはそうないでしょう。


地階に続く階段のタイル、トイレ、ドア、地階のタイル、崩れかけた柱、地上から光が差し込む窓、これらが全て大毎が使っていた当時のまま残されているのです。

 

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地階に光が差し込む窓の外装

 

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カフェ内の朽ちた煉瓦

 

さらに、8人ぐらいが座れるような長いテーブルとイスも当時、大毎の社員が利用していたものを使用しています。


ですから、このカフェに2人ぐらいで行っても基本的に相席です。

 

入った入口とは違う出口から出てみると、植木が置いてあるのですが、これがいつ行っても「枯れている」のです。


おそらくこれも演出のうちの一つなのでしょう。


一見、ただの廃墟のようなこの地階を利用しているカフェの名前は「Indepandant(アンデパンダン)」。


この内装のユニークさから、このカフェは2000年代に入って京都の「カフェブーム」の火付け役とも呼ばれています。

 

建築物の魅力は、凝った外装、凝った内装だけでなく、このカフェのように、朽ちていきながらも人によりそう形を持っているという点もあるのではないかと、このカフェを見たときに率直に感じます。

 

実際、一度行ってみると、他では感じることのできない妙な居心地の良さに包まれます。


地階ですので、電波も入りづらく、コーヒーを飲んだり、食事をしたりもでき、バーも設置されており、昼からビールという遊びもできてしまうカフェです。


夜になると、カフェ内でもたまにイベントが開催されており、京都市民でにぎわっています。

 

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バーカウンター


元々は、流行の最先端を行くべき新聞社の支局ビルとして建てられたこのビルは、
その当時のままの姿をできるだけ残し、今もなお多くの人に流行の最先端を届けています。


あなたも、もし京都に行くことがあれば、一度、このビルを訪れてみるのも良いかもしれません。


一階のギャラリーも入場料は無料です。

 

カフェに行った際のおススメは「自家製ミルクレモネード」です。


スッキリとした素朴な味わいで、どこか懐かしい味がします。

 

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ミルクレモネード