国内有数の超有名温泉地、別府。
名物の地獄めぐりなど毎日のように観光客でにぎわう観光地です。
別府の温泉街の様子
高速道路から街に近づくにつれ、だんだんと硫黄の香りが強くなっていくのも、この町の特徴の一つです。
別府八湯のなかで、別府駅を中心とするあたりが別府温泉群。
そして、この別府の町の中心地にある別府のシンボルが『竹瓦温泉』です。
竹瓦温泉
歴史の古さや泉質、重厚な建築が素晴らしく、夜になれば周辺はレトロな雰囲気と繁華街の雰囲気の両方を併せ持つ、どこか懐かしい色へと表情を変えます。
別府氏の温泉群は古代から「速見の湯」として知られていましたが、江戸時代までの別府村あたりは、自然湧出の湯に頼るだけで、多くの人々が集まる「温泉地」ではなく、ひなびた漁村だったそうです。
それを変えたのが、別府湾の「港」の建設です。
別府湾
1871(明治4)年に、流川の河口近くに、上方と結ぶ旧別府港が生まれました。
この港は、別府だけでなく、瀬戸内海を通じて、東九州全土の海の玄関口となりました。
ちょうどこの頃、海辺近くに湧き出た別府の湯を楽しもうと、地元の人たちが協力し、湯舟と小屋を造りました。
もちろん、素人が造ったものですから、本当に質素で飾り気もない「湯を楽しむだけの小屋」といった感じだったそうです。
屋根は山から切り出した竹を2つに割って瓦にしていました。
こんな質素な温泉小屋でしたが、泉質と効能が評判となり、人々はやがてこの小屋を「竹ん瓦ん湯」と呼ぶようになります。
こうして、1879(明治12)年、竹瓦温泉の歴史が始まりました。
その後、明治の末に鉄道が開通し、別府駅が開業。
そのころになると、竹瓦温泉の界隈はまずます賑わうようになり、遠方からも多くの人々が温泉に入るために来るようになりました。
そして、気づけば、村は町になり、市になっていきました。
別府駅
竹瓦温泉も、明治から大正、昭和にかけて改築を繰り返し、次第に大きくなり、1938(昭和13)年、現在の姿になりました。
ちなみに、大正から昭和初期の市営温泉は個性的な建築が多いです。
以前別記事で書いた「道後温泉」も大変個性的です。
そして、そういった個性的な温泉建築の中の1つがこの『竹瓦温泉』です。
入り母屋造り裳階付きの変化に富んだ母屋、唐破風屋根の玄関があり、重厚で格式高い外観です。
そして、内部には砂湯まで抱え、一階にホール、二階に大広間となっています。
外観:正面
地元の人たちの自由な発想と、建築家の想い、技術の両方が複雑に組み合わされているため、このような個性が出てくるのでしょう。
この竹瓦温泉は2004(平成16)年6月9日に登録有形文化財に登録され、2009(平成21)年2月6日に近代化産業遺産に認定されています。
ここからもう少し詳しく竹瓦温泉の歴史を振り返ってみましょう。
【明治時代】
なだらかな傾斜で海に向かって広がった町「別府」は、自然湧出の温泉が太古から豊かに湧き出るところとして地元の漁師たちに愛されていました。
地面を掘らなくても自然に湧き出すほどの湯量だったので、簡単に温泉を板で囲い、浴槽を石で作り、雨が降るときのために青竹で屋根を作り、粗末ながらも地元の人々の疲れを癒す憩いの場として、竹瓦温泉は誕生しました。
この頃誰が言い出したのか、竹の瓦の温泉だからと「竹ん瓦ん湯」→「竹瓦温泉」と言う名前で呼ばれるようになりました。
明治時代 竹瓦温泉付近
【明治35年~大正】
地元の人々の間で、竹瓦温泉が、リウマチや神経痛によく効くといわれるようになり、近所の漁師や農家の人が泥足のまま、男女の区別もなく入っていた温泉の建物を建て変えることになったのが1902(明治35)年でした。
小さいですが、屋根瓦の乗った、以前の竹の瓦の小屋よりもかなり立派な建物になりました。
しかし、相変わらず混浴が続いていました。
そしてこの頃、別府村は気が付けば「町」となり、その後「市」となっており、県の職員が 風紀上好ましくないからと「混浴禁止条例」を出しましたが、混浴になれた地元の人々は、平気で入っていたそうです。
1902(明治35)年頃
【大正時代】
明治の末には鉄道が開通し、別府駅ができたことにより、遠方から人々が多く来るようになります。
そしてそれと同時期の、1913(大正2)年二階建ての温泉となった竹瓦温泉は、神経痛やリウマチの患者が詰めかけ、周りには旅館が次々と建てられました。
入湯客のほとんどが、松葉杖をついた体の不自由な人だったので、温泉に少しでも近い旅館が喜ばれていました。
この頃の『竹瓦温泉』は、年中無休・終日開放・無料公開の温泉でした。
もともと、地元の漁師さんの公共浴場だったため、いつでも誰でも入れるということが前提だったためです。
また、室内の天然砂湯もあり、湯治客は、この砂湯の順番を並んで待っていました。
しかし、夏になると室内の砂湯は暑すぎ、海辺の天然砂湯に入る人が多くなりました。
地元の方々は室内の砂場に慣れていたようですが、遠方の人々が多かったため、この頃は夏場は海辺に行く人もかなり多かったようです。
二階は休憩室になっていて、入浴をした人が、二階でちょっと休んでいる風景が一日中見られました。
別府温泉は、湧出量が豊富なことでも有名なのですが、それ以上に特筆すべき特徴は、「日本中の泉質がほとんど別府温泉に集まっている」ということです。
別府温泉にないのは、ラジウム温泉だけです。
それ以外の泉質は全て別府温泉に集まっています。
つまり、別府の町中の全ての温泉に入れば、日本中の温泉に入ったのと同じことになるのだそうです。
さらに、実は、現在の竹瓦温泉の男湯と女湯で泉質が違います。
女湯は「食塩土類炭酸鉄泉」男湯は「食塩重そう泉」。
二つの効き目の違う温泉が一つの温泉の建物の中にあるのは竹瓦温泉だけではないでしょうか。
こういった、泉質の特徴こそが、別府温泉が日本有数の愛される温泉地たる一番の所以です。
大正時代の様子
【昭和13年~】
1938(昭和13)年竹瓦温泉は、現在の立派な御殿作りの建物に建て替えられました。
設計は当時別府市役所営繕課に勤めていた、池田三比古という人物です。
つまり、現在の竹瓦温泉はこの人物によって設計されたものなのですが、地元の人々の意見なども多く取り入れているため、街全体として設計した温泉施設とも言えます。
ちなみに、当時、遠方から来られる人々の中には、この美しい建築を見て、温泉と気がつかずに、神社と思って拝む人もいたそうです。
内部は、室内砂湯と男湯・女湯があり、二階は畳の休憩室になっていました。
現在は、1階にはホールがあり、二階の休憩室は公民館として利用されているようです。
また、温泉の横には、お薬師様があり、来る時は松葉杖をついてきた人が、「帰りは松葉杖がいらなくなった」という事態が続出し、お薬師様に奉納して帰ったため、お薬師様の前には松葉杖が山のように置いてあったそうです。
さて、次に、この竹瓦温泉を設計した、池田三比古という人物について解説します。
池田三比古は大分県竹田市の寺町通りに士族出の医師である父衛藤敦夫(東京帝国大学の医科卒)の6男2女の3男として生まれ育ちました。
生まれは1893(明治26)年です。
ちなみに父:敦夫は広瀬武夫中佐という人物の叔父にあたります。
この広瀬武夫という人物は、大分県で生まれ、日露戦争に従軍し、旅順口閉塞作戦で行方不明となった杉野孫七という人物を探しているときに戦死しています。
死後、階級が中佐となったこともあり、また戦争時の活躍ぶりから「軍神」と呼ばれていた人物です。
広瀬武夫
これらのことから、軍神:広瀬武夫は三比古の従兄ということになります。
当然、父は軍神の活躍を一家の誇りと考えており、三比古も軍人にしたいと願っていましたが、三比古が結核を患ったためにこの想いは断念されてしまいました。
また、三比古は後年「軍神広瀬中佐書簡集」もまとめています。
中学を卒業後、上京して苦学をしながら蔵前高等工業高校(現在の東京工業大学)の建築学科に入学。
その後、海軍省、逓信省、渡辺仁設計事務所と勤め先を変えていきました。
そして、渡辺仁設計の「山崎商店」の現場主任をしていた時に逓信省営繕課の技師吉田鉄郎と出会いました。
しかし、まもなく、養家の親の訃報に接し、別府に帰り、町役場の営繕係技師として勤めだしました。
1922(大正11)年のことでした。
彼の設計した作品は、市立別府中学や、西小学校などがあります。
時代背景と職業柄から、人々の生活にとって必要な建築物の設計にかかわることが多かったようですが、彼の設計はとても評価が高かったようです。
それでは、そんな彼が設計した『竹瓦温泉』を建築物としてみていきましょう。
まず、外観を正面から見ると、一目瞭然ですが、寺院づくりの建物です。
そして、正面玄関の大きく、豪華な唐破風と屋根が特徴的で、これに入母屋造や寄棟造の屋根や裳階が組み合わされ、複雑な表情を見せる壮麗で大規模な木造2階建ての建築となっています。
ジブリの「千と千尋の神隠し」の湯屋の玄関にちょっと似ている感じがしますね。
※ちなみにあの舞台のモデルは台湾とオーストラリアです。
外観:正面玄関付近
外観:横側
古き良き和風建築といった感じがあり、また、温泉地として、観光地として、両方のシンボルとしても存在感を放っています。
中に入ってみると、天井が高いロビーがあり、多くの観光客や地元の人々が「砂湯」の順番待ちをしています。
ロビーの照明は小さく質素ながらも、品の良いシンプルなシャンデリアです。
1階:ロビーの様子
天井の様子
西側に寄棟造平屋の砂湯、東側に平屋の男湯・女湯が配されています。
2階は格子天井の90畳の大広間で、かつては湯治客の休憩室として使用されていましたが、現在は公民館になっています。
また、玄関入って右側に、施設利用の受付があり、そこで温泉利用なのか、砂湯利用なのかを伝える仕組みになっています。
ただし、砂湯は30分で5名程度しか利用できないため、待ち時間が長くなることもしばしばあるようです。
地元の人々は砂湯ではなく、湯につかりに来るだけの方が多く、みんな回数チケットを使っているようです。
砂湯
さて、次にいよいよ「温泉」についてですが、脱衣所に入ると、温泉施設としては大変珍しい光景が目の前に広がります。
なぜなら、脱衣所と浴室を仕切るドアや壁がないのです。
棚に衣類を突っ込み、タオルだけを持って小さな階段を降りていくと、そこが浴場となっています。
そして、シャワーがありません。
ですので、みな温泉の湯を桶ですくって体を洗います。
本当に、地元の人たちのために作られた「大衆浴場」という感じです。
木造の建物で、窓も木でできており、開放されています。
湯から上がったあとは別府の涼しい海風に当たることができます。
浴室
また、別府温泉で絶対に行ってはいけない行為があります。
それは、湯舟の淵に座るという行為です。
別府温泉では、湯舟の淵は「枕」であり、頭を乗せる場所です。
ですので、そこに座ってはいけません。
このように、別府温泉の、竹瓦温泉は、もともと地元の漁師たちが自由に入るために作られた質素な小屋でしたが、時代と共に有名になり、別府のシンボルとなっていきました。
あなたも別府に訪れる際は、一度はこの場所を訪れてみてください。
外観だけで、圧倒的な存在感を放っているので、温泉に入らずとも、十分楽しめます。
ただし、脱衣所からダイレクトに浴室にむかうところは、本当に珍しいので、温泉に入れるなら入ったほうが良いでしょう。
温泉の利用料金はたったの100円ですので、おすすめです。
夜になると、周辺は小さな繁華街となり、昼とは全く違う表情を見せます。
小道が多く、ところどころに面白い建物が並び、様々なジャンルの飲食店があります。
竹瓦小路
あの有名な関アジ、関サバもほぼ一年中食べることができるので、このあたりにお越しの際は外せない料理です。
ちなみにですが、竹瓦温泉から5分ほど歩いたあたりに「みなみ丸 合歓(ねむ)」という地元の漁師さんの経営するお店があります。
みなみ丸 合歓(ねむ)
ここでは、生け簀に魚を置いており、注文してから捌いてくれるので、最高に新鮮な関アジ、関サバがいただけます。
普段、口にするサバとは、甘み、脂ののりが全然違います。
青魚特有の臭みもありません。
関サバのお刺身盛り合わせ
女将さんのような方と喋っていたら、全国的に珍しい食材、マテ貝を酒蒸しにして出してくれました。
マテ貝
今年に入って、最初に店に入ってきた日だったのだとか。
お酒が進みました。